甲子園に行って、優勝したいのだと告げたら、その人は黒縁めがねの奥、つぶらな目をぱちくりさせた。
高校で野球に取り組むつもりであれば、至極ありがちな目標設定だし、第一、聞いている本人の肩書きが肩書きなのだから、そこで驚くのはどうなのか。
そんなことをぼんやりと考えていると、目の前の女性は、おそるおそる、あの、ここは新田高校じゃよ、と念を押すようにつぶやいた。
「知ってます」
知ってるも何も、わざわざ足を運んでいるのだ。どこをどう間違えというのか。
けれど、そう答えたら、ますます眼前の人物は不審げな顔になって首をかしげた。
「選り取りみどりだったじゃろう、原田くん」
「推薦は推薦です。関係ありません」
すると、大きく息をついてぼさぼさのおかっぱ頭を大きく揺らした眼前の彼女は、頭を抱えてしみじみと嘆じた。
「ああああー、なんっっっって勿体ないー。よりにもよって何でウチ来るんー」
その後に、カントクー、許してくださいー、などと寝言をほざいているが、そこらの裏事情は、あらかじめ豪から聞いていたので、巧は平静な表情で相手の苦悶を見据えていた。
しかし、いちいちにぎやかな人だ。さぞかし吉貞あたりとはウマが合うに違いない。
巧の冷ややかな視線に、ようやく気づいたのか、バツの悪そうに咳払いなどして、それからおもむろに「新田高校野球部監督」の肩書きをもつ人物、端から見れば青波の同級生にしか見えない童顔の三十路「沢村監督」は真っ直ぐに巧を見据えてきた。
「ワタシは『カントク』なので、選手たちがしたい、言うならそれを全力で援けるのが仕事だと思う。だから、原田くんや永倉くんが甲子園行って優勝したい、言うなら全力でその手助けはする。けどな」
その表情に、巧は少しだけ目元を緩める。真率な面は、豪を交えて初めて対面したときと同じものだ。
「今、うちの野球部が目指してるとこと、きみたち来年度の新入部員たちの目指してるとこは、大きく違う。永倉くんと来たときも、言うたよね。だから、たぶんきみたちの目指すとこにつながる、勝つための野球ができるのは、早くても今年の秋以降になる。それでもいいん?」
「はい」
逡巡はなかった。練習内容を盗み見て、練習している海音寺たちの表情を見て、大丈夫だと確信した。
確かに、勝つためにはもっともっと徹底した練習が必要だろう。けれど、能力向上、体力保持、そして何より彼らの野球に対する真摯な姿勢を、巧は評価した。
中学で味わった「集団部活動」という枠組みの中での苛立ちは、まるきり無駄だったとは言わないが、それでも大きな足枷だと感じた。
強豪校に入れば、確かに理想的な練習はできるだろうが、体制に組み込まれ、否応なくまた足枷に苛立つことになるだろう。それが嫌だった。
豪は、そうした巧の気持ちを見抜いていたのだろう。状況的には決して整っているとは言えないこの野球部を、敢えて選んできた。
今では巧自身も、この野球部とこの目の前の異色の女性監督を是としていた。
打ち崩す。伝統も定説もすべてを覆して、自分たちの力だけで勝利をもぎ取るのに、この新田ほど理想的なところはない。
「……永倉くんはまだしも、原田くんはそれほど甲子園にこだわるタイプには見えんかったけどねぇ」
ぼやきに、口元を吊り上げる。少なくとも部員一人ひとりをきちんと個人として認識する力は備わっているわけだ。それだけでも戸村よりは上等だろう。この際性別はどうでもいい。
「とりあえずの目標として。去年の夏、悔しい思いをしたので」
ああ、と合点がいったようにちいさく相手はうなずく。
決勝戦は近場だったので、見に行っていたのかもしれない。
「なら、歓迎しようね。こっちからの事情は話した。それでもいいと言うんなら、ようこそ『新田高校野球部』へ。3月の試験受かって、ぜひ入部してほしいです」
当たり前のように左手を差し出した相手に、よろしく、とおざなりに頭を下げて巧は応じる。
「……知っとったけど、ほんっとカワイくないね。原田くんは」
ちっちゃいときは、あんなに愛くるしかったのに、と続けられて、盛大に巧は顔をしかめる。どこぞの親戚のオバちゃんか。
「センセイは変わってないと祖父は言ってましたけど」
高校時代、井岡率いる野球部のマネージャーとして所属していた沢村は、祖父の引退後に家を訪れたこともあるそうだ。新田校で監督をしている話を豪が切り出したとき、ちょうど帰省していた真紀子に小学生と間違えられてお嬢ちゃん呼ばわりをされたことがあるという逸話を洋三は愉快そうに話してくれた。
すると痛いとこをついたらしい。口をへの字に曲げて子どもじみた表情で沢村は沈黙した。
見るからに表情豊かで単純ニンゲンそのものな沢村だが、果たして祖父をして「わしを超える」と言わしめた野球采配のセンスは本物なのだろうか。
まあ、いい。
そこでようやく巧は視線を窓の外に移した。
非公式に沢村の教官室で、こうして話をする時間を設けてもらった(設けさせられた)わけだが、すべては3月の試験が済んでからだ。無論、落ちる気などない。5人そろって合格してみせる。
すると、巧の視線を追って、沢村も窓外を見やったらしい。同じくまあ春になったらね、とのんびりぼやきながら、茶をすすった。
2月のはじめ、春のおとずれをまだかすかに聞くだけの、ある日の夕方のことだった。
ということで、少し前後しますが、高校での捏造お目見え。見苦しいの承知で言い分けさせてもらうと、女性にしたのは、大振りのモモカンではなく、甲子園の空に笑えの広岡さんから。イメージはフスマランドのカチコさん。って、知らないひとには何が何なのかですな。はははは。……すいません。
で、だ。
「いやー、まあ当然の結果ちゅーか、受験なんざ天才ヨシさまにかかれば朝飯前てことじゃね」
掲示板の前で高笑いをしているのは、誰あろう吉貞だ。合格発表当日。五人の番号はそろって掲示板に載っていた。
見事、全員が新田高校普通科に合格したのだ。
ヨシはなあっ、と呆れ声で、それでも頬を紅潮させて、喜びにはちきれんばかりの笑顔でラリアットをくらわせている沢口と、わざを食らって押しつぶされたカエルのように無様な悲鳴を上げてひっくり返った吉貞とを眺めながら、他の三人はこっそり視線を交わしてちいさくうなずく。
終わりよければすべてよし、とはうまくいったものだ。ならあの場で目にした事柄は、ずっと語られることなく、各々の内にしまわれるのがいい。誰もがそう思っているに違いなかった。
ただ。誰しもがもっている弱さと強さを、巧は今回ほど感じたことはなかった。樹上で泣いた沢口の、あの潔いまでの強さ、普段の強気な物言いに、ともすれば見落としてしまいそうな、吉貞の脆さ。それは今まで共にいて、けれど見えていなかったものだった。
人というのは、面倒くさいものだが、おもしろいものだ。つくづく、三年ごときで図れるようなものではないことを痛感する。そして、だからこそまた続けていけるのだろう。
とりあえずはあともう三年、こいつらとつきあう時間は確保した。
「あーあよかったよかった。これで心置きなく野球に専念できるってもんじゃ。よし、早速現場視察と行こうかの。豪、おまえのことじゃ、下調べはばっちりじゃろ」
内心怒りやら心配やらで気が気ではなかったであろう、元野球部キャプテンは、しかしそんな動揺などおくびにも出さず、いかにも当然のような顔をして要の捕手を振り返る。
「実はみんなに、そのことで話がある」
一人真面目な面持ちで、輪の一番外にいた豪が切り出す。知らず巧は息をつめた。
話の内容について、実は巧だけは知っていた。受験前、かなり早い段階で豪に打ち明けられ、実際自分の目でも確かめていた。
おそらく皆驚くだろう。もしかしたら、どうしてそんな高校を受けさせたと非難の声すら出るかもしれない。
けれど、巧も豪の言うとおり、ここだと感じた。自分たちが、高校の頂点を狙うなら、ここの野球部しかありえない。
豪は、周囲の怪訝な顔をゆっくりと見回し、それから、巧に確認を取るような一瞥をくれてから、ようやく口を開いた。
「新田高野球部の、現在の部員数は9人じゃ。内訳は3年生が7人、2年生が2人。つまり、この春おれたちの他にあと最低2人は入らないと、秋の大会すら、おれたちは出場できんことになる」
重々しく豪が現実を告げた。
あははー。ありがとうございました。これにてちうがくせい編終了にございます。お目汚しいたしました。あはー。
いや、あはー、じゃないとこで切っててすいません。ですが、一応ここで一区切りなので、ちょっとだけ語らせてください。
つーか、今後のことについて少しご了承いただくことが。
えーと、ご都合主義と言われるのは百も承知ですが、そういうことでミナサマそろって新田高生です。完全無欠の大団円に懐疑的なくせに、言ってることとやってることが矛盾しているのは紙の頃から変わらないワタクシのあほなとこです。
当初はヨシくんここで退場を予定していたのですが、どうにもそうすると豪ちゃんの尻を叩いてくれる存在が苦しくなるので止めました。
サワ? だってうちの巧さんサワ大好きらしいのだもの。引き離せませんわ。そういうことで二人を子守する東谷くんももれなくセットでついてきて結局五人で進学です。えへ。(えへじゃねえ)
そして、高校編ですが。必然的に捏造ニンゲンが急増します。監督と呼べる方と、チームメイトと、先輩方、ナニそれ状態の方々がたくさんの予定です。
特に、これからのお話の都合上、監督となるヒトは、まるっきりの捏造ニンゲンのくせに、かなりお話の柱に食い込んでくるので、目障りに感じられることと思います。
ご了承ください、というのは、ほんとは申し訳ないのですがご了承ください。ほんとすんません。うがー。やりきれん。
ではでは青くない春も到来です。ミナサマ今年の桜はいかがですか。花粉症の方はお気をつけて。
しかし急いだにも関わらず、途中で自主練習に励んでいた後輩たちにつかまったり、同じく他校の受験を終えてきた菊野たちと鉢合わせたりして、結局3人が吉貞たちに追いつくことはできなかった。
「おいっ」
新田東の校舎目指して、前を歩いていた東谷が、素早く身を翻す。そして巧と豪を引っ張りざま、すぐ脇のドウダンツツジの茂みに飛び込んだ。
「出てきた」
文句を言おうと口を開きかけた巧をさえぎって、口に人差し指をあてた東谷は、ひそめた声で前方を促した。見ると、足音荒く生徒玄関から沢口がずかずかと出てくるところだった。
「沢口! 待て」
そのすぐ後をくつを履ききらぬまま吉貞が追いかけてくる。手には二人分の荷物を携えていた。
「待てって! 少し落ち着けおまえ」
「落ち着いとるわ! 頭にきとるだけじゃ」
腕をつかまれてようやく沢口は歩みを止めた。巧たちから5メートルほど離れたところだ。
「だからアタマを冷やせっちゅーとるんじゃ。よう考えてみい。ここあたりがおれらには妥当な二次じゃろうが」
「うるさいわぼけ! ヨシの大馬鹿モン。おまえとなんかもう絶交じゃ。何が二次じゃ。まだ合否も分からんうちからオトムライと何の相談かと思えば」
吐き捨てるように沢口は言い切る。よほど腹に据えかねたのだろう。あの勢いでは、戸村の前でキレたに違いない。
二人の会話を漏れ聞くうちに、だんだん三人にも事の次第が見えてきた。おそらく、自分たちの合格に懐疑的な吉貞は、前もって二次受験先を、戸村と見繕っていたに違いない。それを沢口に相談した結果、沢口が激昂したのだろう。
しかし吉貞は粘り強く沢口の説得を試みる。
「よう考えてみい。そりゃおれだって受かりたいわ。何のためにオトムライに数学教えてもらってまでがんばったと思うんじゃ。けどな、おれたちの実力で新田は正直言って厳しいんじゃ」
「……」
「現実は、そんな簡単なもんじゃないんじゃ。だったら沢口、あいつらに心配かける前に、ちゃんとどこ行くか決めとかんと」
沢口はぎゅっと唇をかみしめてうつむいている。納得していないのは明らかだったが、けれど、言い返す言葉もないのだろう。まるめた背中が頼りなく震えた。
「だめじゃ、巧」
咄嗟にその場に出ようとした巧を、豪が力ずくで制止する。
そんなことは分かっていた。けれど、立ち尽くす沢口を放っておけるわけがない。
約束したのだ。ともに甲子園に行くと。
「ぅぐあっ」
だから、ふりほどこうと豪の手をつかんでいて、次の瞬間あがった奇声が、何のためだったのか巧は見落とした。
振り向けばそこには豪快に地面にひっくり返っている吉貞がいた。
そして目の前には震える拳を前に突き出し、荒い息をつく沢口。
沢口が、吉貞をぶん殴ったらしい。
「ヨシのあほう! そんなん承知の上じゃ!」
拳をかためたまま、沢口が大きな声で怒鳴った。
「あほうあほうあほう! どあほうじゃヨシは! そんなん分かっとる。おまえなんかに言われんでも承知しとるわ。母ちゃんにも担任にもどんだけ言われたと思っとるんじゃ!」
そこまで怒鳴ると、きっと顔をあげて沢口はひっくり返ったままの吉貞の胸倉をつかんだ。
「けどな。それでも、そんなでも、おれは新田に行くんじゃ。新田にしか行かんのじゃ。二次だろうと三次だろうと、新田しかおれは受けん。それでだめなら中学浪人じゃ。母ちゃんに泣かれた。父ちゃんに呆れられた。けど、それでもヨシ」
胸倉をつかんだまま、沢口もその場にしゃがみこむ。
「おれは……原田と一緒に野球がしたいんじゃ」
まるで祈るように、胸倉をつかんだ手に、額づく。どれほどの覚悟で、沢口がこの受験に臨んでいたのかを、それは明確に伝えてきた。
中学生で、自らの進路にそれほどの決意を持てる者が、一体どれだけいるだろう。それでも沢口は決めたのだ。夜の樹の上で、泣きながらも、必死に。
巧は唇を噛み締めた。沢口の必死の思いを知っている自分ですらが、その覚悟の深さに言葉もなかった。
ぽん、と温かなてのひらが頭上に置かれたのは、そのときだった。
見上げると、豪がやわらかな笑みを浮かべて、巧を見下ろしている。見透かしているかのようなその表情が腹立たしかったが、何のためらいも無く肯定がもらえたので黙ってしまった。本当に豪は腹の中を見せなくなった。
けれど、豪が同じことを決意しているのは、心強い。
春になったら。
必ず。
「沢口は、強いなぁ」
ややあって、しみじみとした吉貞の嘆息まじりの声が届いた。吉貞は、座り込んだまま、苦笑を浮かべている。らしくない、気弱な笑みだった。
「おれには、そこまでの覚悟はできん。……わかった。二次は、ここだけの話にしとこうや。ただ、おれは受ける。おれはな、沢口。野球がしたいんじゃ。もちろん、新田でできりゃもっけのサイワイとかいうやつじゃが、そのために1年棒にふることはできん。港北、行こうと思っとる」
「港北て、あれか。門脇さんの行っとるとこか」
「そうじゃ。そして去年のベスト8校じゃ。当然今年は甲子園狙ってくるじゃろな。なら、おまえらとは、敵ちゅう形で野球ができる」
普段のふてぶてしい面構えに転じて、吉貞は強気に言い放つ。
「それも面白そうじゃんか。そしてこのヨシさまが華麗に原田の球をかっとばしたるわ。門脇さん目当てに駆けつけたスカウト陣にばっちりアピールじゃな」
「……ヨシらしいな」
沢口の怒りもおさまったらしい。口調がやわらぐ。そして大きな息をついた。
「まあ、ええよ。おれはおれ、ヨシはヨシじゃもんな。けどな、それもこれも合格発表が終わってからじゃぞ。ええか、それまではおまえもおれも新田に受かることだけ考えようや。もしかしたら執念が通じて間違って受かっとるかもしれん」
「執念で何とかなるもんか」
「ナントカなる場合もあるじゃろ。石立と近藤見てみい」
二人の元野球仲間は、念願叶って某名門野球校推薦に見事すべりこんだ。ほぼ絶望的、まあ受けるだけ受けてみろと周りの期待は薄かったのだが、執念でもぎとった。
「まあ、じゃあ念じるだけは念じてみようかの」
やや投げやりに言い放ち、吉貞はほこりを叩いて立ち上がる。あわてて茂みの三人は姿勢を低くした。
「さ、そろそろマック行こうや、沢口。ヘタするとあいつらメニュー食い尽くして待ちくたびれとるぞ」
「何、もうそんな時間か。やばい。ヨシ、走るぞ」
すっくと立ち上がって、吉貞から荷物を受け取ると、脱兎の勢いで沢口は走り出す。吉貞もそれに続いて走り出し、じきに二人は三人の視界から消えた。
「……」
ごそごそとドウダンツツジの低木から這い出し、三人は顔を見合わせる。
「……とりあえず、あいつらに先回りせんとな」
現実的な問題を東谷が打ち出し、巧と豪はそろってそれに頷いて駆け出す。今すべきことは、何事もなかったかのようにマックでハンバーガーにかぶりついて二人を待つことだった。
青い春でほんとゴメン。アタシは一体何目指してんだろう。……自分でも最近不明です。
ちうがくせいにっきの続きです。さすがにこのトシになってもこのテは恥ずかしい。
「何を気にかけてんだよ豪」
追いつくなり、直裁的に巧は豪に尋ねてみた。先ほど見せた横顔が気になった。
懐かしい顔だ。夏にはよく見た。捕手として、試合を見渡し、何事かを思い巡らせる厳しい面。
すると、ふっと表情を緩めて豪が隣に並んだ巧を見やった。
「巧も人の表情気にするようになったか」
「むっかつく。おれを何だと思ってんだ」
蹴るマネをすると、ひょいとそれをかわして豪は笑った。
「いや、ヒガシじゃなくて巧がきいてくるとは思わんかっただけじゃ」
つるりと失礼なことを口にしておいて、しかしなおも巧が言い返すのを封じるように、再び豪は面を引き締めた。
「おれはキャッチャーじゃ」
「そんなの知ってる」
「キャッチャーはな、たぶん悲観的なヤツに一番むいとるポジションじゃ」
豪の言わんとしていることが分からず、巧は眉をひそめる。前を向いていて見えているわけはないのに、豪は苦笑をひらめかせた。
「別に卑下しとるわけじゃない。ただ、適材適所、というだけじゃ。そしてな、吉貞もキャッチャーなんじゃ」
「……」
正捕手としての豪が健在で、しかも自身が本来三塁手でもあるために、公式試合経験数は圧倒的に少ないが、それでも下級生の捕手たちよりは、吉貞の方が巧の球を受けた回数は多い。無論、きっかけは戸村たちの苦肉の策だったとしても、適性がなければ選ばれなかっただろう。
「ヨシは、端から見えるほどばかでもなければ、考えなしでもない。知っとるじゃろう」
ここでうなずくのも業腹なので、巧は黙っていた。が、冷徹に物事を俯瞰する目、情に流されず判断する胆力、どれをとっても非凡であることは、認めざるを得ない。たとえ学力面で絶望的な落ち込みがあろうとも、人間的な資質から言えば吉貞は怜悧な賢者だった。
「あいつとサワは、確かにものすごく勉強した。成績もぐんと上がった。けどな、それで安心してしまうには、あいつは物が見えすぎるんじゃ」
「……」
本来楽天家の沢口ですらが、混迷した。あれほどに精神的に追い詰められていた。そして一人きりで樹に登って待った。自らを引き出す力を。
なら、吉貞はどうなのか。
「おれがあいつなら、最悪の状況を想定して手を打っておく。つまりは、新田に受からんかったときのことを考えておく」
「な――」
「実はこの間ヨシが二次の願書らしき封筒もってオトムライの部屋から出てくるのを見かけた」
「それを先に言わんかい!」
いきなり、背後からがすっという鈍い音が響き、豪が前につんのめった。振り返ると、豪を足蹴にしたと思しき東谷が、鼻息も荒く仁王立ちで佇んでいる。
「いっくらおれがクールな海音寺センパイ目指しててもな、そうなら話は別じゃ豪のあほう。来い。原田、豪。引きずってでもヨシを新田に引き入れちゃる」
決然と言い切って東谷は先に立って歩き出す。早足で追いかけながら、巧は自然と口元を引き上げた。
豪が試合の要としてあらゆる可能性を想定し、最善の策を模索するなら、それらすべての責を負い、チームを率いてきたのは紛れもなくこの前を行く男だった。派手なリーダーシップを発揮することはなかったが、個性的な面々をまとめ、チームに組み入れて機能させてきたのはこの新田東の元主将だ。進路決定のときもそうだった。すくんで、進み出せなかった自分たちの中で、真っ先に去就を明らかにして、皆に行く先を示したのは東谷だった。
「適材適所、ておまえさっき言ったけどさ」
少し後ろをやはり早足でついてくる豪を振り返り、巧はにやりと不敵に笑う。
「例えおまえや吉貞が後ろ向いても、あいつが前を向いててくれる。しかも必要となれば力わざも卑怯な手も何でもござれの策士だ。心強いだろう」
嫌味か、と珍しくすねたような口調で返す豪に、たまらず巧は笑い声を立てた。
豪とだけでなく、この仲間と野球を続けていくことを、自分は望んだ。
今になってようやく、祖父洋三の言葉が実感となって胸に響く。
『野球はみんなでするもんじゃ』
確かにその通りだった。
誰ひとりかけても、自分が、漠然と目指しているこの先へとたどり着けない気がする。中学では、投げることの怖さと楽しさを知った。では、高校の野球で、自分は何を見つけることができるだろう。
大局を見極め、背後に気を配るのが豪と吉貞なら、前を目指し、揺るぎなく決意を示すのが東谷と沢口だ。ならば、自分は。
そんなのは決まっている。誰よりも速い球を投げ、圧倒的な力で理屈も常識もすべてを覆し、前へ進む原動力となる。
そのために。
「何をいちゃついとんじゃそこのばかバッテリー! さっさと来んか」
怒髪天を突いているらしく、珍しく吉貞みたいな暴言を吐く東谷に、呆れて肩をすくめつつ、巧は豪を促して歩調を速めることにした。
いよいよ受験です。だからちうがくせい日記じゃないっての。ちなみに、ワタクシが受けたのはすでに昔日といっていい過去なので、イマドキの受験風景と違っているところはご容赦ください。
「はい、そこまで。えんぴつをおいてください」
試験官の声に、一斉にため息のような静かなどよめきが教室内を支配した。
「ぐあーっ、終わったぁーっ」
同じ試験会場だった沢口が、教室を出るなり天を仰いで、嘆きとも歓声ともつかない声をもらした。そしてくるりと振り向く。
「何とか全部書けた。原田は?」
「分かるところは書いた」
「ははっ。そういうトコ原田じゃよな。おれなんか分からんでもとりあえず全部書くのに」
二人はそのまま生徒玄関へと人の流れにそって向かう。
出口となっている玄関付近は、待ち合わせの面々でごった返していた。知った顔は見当たらない。しかし二人は迷うことなく玄関を通過し、屋外へと出た。
新田東から新田高校への受験者数は、そう多くはないが、豪たちとは試験会場が分かれてしまっている。周到な新田東の元正捕手は、前もって戸外を待ち合わせ場所に指定していた。
春浅いこの季節、一歩外に出ればまだまだ肌寒い。しかし日差しは確実に春のそれで、もうあといくらも経たないうちに新田には桜の花が溢れかえる爛漫の春が訪れるだろう。薄い雲の隙間から、淡い色をした春の空が見え隠れしている。
つかの間それを見上げて、巧は知らず安堵の息を吐いた。やはり、多少は緊張していたらしい。重苦しい石造りの校舎から解放されて、ようやくひと心地ついた気がした。
「銅像んとこじゃったよな。帰りにマック寄っていこうて、ヒガシが」「何、あいつほんとに試験終わるまでマック絶ちしてたの」
「願掛けじゃ言うてたよ。もはや残すは神頼みばかりなり、とかなんとか」
豪におごらせちゃろー、あいつ楽勝じゃろうからなー、とのんきに傍らで鼻歌を歌い始めた沢口を連れに、巧が待ち合わせ指定だった創立者と思しき銅像の前まで赴く。と、そこにはすでに東谷と豪が巧たちを待って佇んでいる。
「よ、どうじゃった」
「何とか全部書いたー。はー、しんどかった」
東谷の言葉に、胸を押さえて沢口が長い息をついた。そして空を見上げて両手を突き出す。バンザイのように格好になった。
「終わったー。とにかく終わったんじゃー。はー、もうおれは一生分のアタマを使い果たした」
「高校入ったって試験はあるんじゃぞ。サワ」呆れたように告げる豪に、いーっと沢口は歯をむいた。
「楽勝苦労知らずの豪になんか分からん苦労じゃ。いいんじゃ。おれは。原田が分かってくれれば」
つーん、とそっぽを向いて、沢口は傍らの巧に懐く。もはや受験勉強中のリラクゼーションが習慣になってしまったらしく、条件反射で巧が沢口の頭を撫でると、沢口は機嫌よさげにいよいよ巧にくっついた。
「くぉら! また沢口は原田べったりで。おまえほんとそのうち永倉に刺されるぞ」
いきなり背後から、文字通り、二人の間に割って入ったのは、いつものとおりにぎやかな吉貞だった。東谷や豪と同じ会場だったはずだが。トイレにでも行っていたのか。
吉貞は巧と沢口の間に挟まったまま、腕を組むと、したり顔でとくとくと説教をしだした。
「大体原田も悪い。沢口甘やかしすぎなんじゃ。ニョウボウ蔑ろにしてると、アタシと仕事とどっちが大事なの、て奥さんが包丁持ち出すのはお約束じゃぞ」
刺しはせんけどな、とこちらはおっとりと言い返すわりに、目が笑っていない豪の方に、吉貞は巧を押し出す。そして沢口の腕をひっつかんでぐいぐいと引っ張り出した。
「沢口は今日おれにつきあえ。これからオトムライのとこに行くんじゃ」
「は? ヨシおまえ何でまた」
東谷のもっともな疑問に、くっと悔しげに顔を背け、涙をぬぐうまねをして吉貞は重くつぶやいた。
「特訓受けた成果を報告しに来いと言われとる」
その言葉で沢口も思い至ったのだろう、あっと短く声を上げると、先ほどとは打って変わって、まるでこの世の終わりのような悲壮な顔つきになってすごすごと吉貞に続いた。さながら市場に引かれていく子牛だ。
「おれら先にマック行っとるからなー」
手を振って東谷が無情にも別れを告げると、ヒガシのオニー、アクマー、と半ば本気の罵倒が返ってくる。徐々にちいさくなり、家屋の連なりの中に消えていく二人の影を見送りながら、ふと豪が目を細めるのを、巧は見た。
「豪?」
「話は後じゃ。行くぞ、巧、ヒガシ」
「っておい、マックはそっちじゃないぞ」
あわてて東谷が制止をかけるが、豪はさっさと沢口たちの消えたほうへと歩を進めてしまう。
巧は何を言うでもなく、躊躇する東谷をあごで促して豪に続いた。
週明けの、最後の模試を巧は欠席した。
「で、何時間も木の上におったサワがぴんぴんしとって、迎えに行ったおまえがカゼひくいうのは、どういうことなんじゃろうな」
「……うるさい」
見舞いと称して安眠を邪魔にしにきたとしか思えない自分の捕手に、巧は険のこもった眼差しをベッドの中から向けた。しかし39度を超える高熱で朦朧としている頭はろくにまわらず、豪に皮肉の一つでも言ってやりたいのだが生憎思い浮かばない。
「巧て鍛えとるわりにカゼひくと高い熱出すよなぁ。コドモ体質ちゅーか」
「……帰れおまえ」
無論覇気のない巧の拒絶なぞ、普段ですら適当にあしらっている豪にとってはちっとも脅威にならないのだろう。マスクもせずにのんきに自分の枕元に腰を落ち着けてしまった病院の息子に、巧は全身全霊でカゼがうつってしまえばいいと念じた。
こっちは身体が重いやら暑いやら寒いやらタイヘンなのに、本当に腹が立つ。
と、ふいに豪の大きなてのひらが伸びて、巧の額に触れた。かわいて幾分ひんやりとした大きなてのひらは、巧の額をおおうだけでなく、視界までうばってしまう。
「おつかれさん、巧」
「……なんなんだよ」
ふんわりと豪が笑った気がした。以前と違って、滅多に見せなくなった、温かい、やさしい笑顔。慈しむような。なんとなく、そう思った。
そのまま前髪を梳かれて、目を閉じたままその感触に身を任せる。緩慢な、やわらかいその仕種に、簡単に眠気が降りてくる。
『ちゃんと、みんなで行こうな。巧が望むんならきっとかなう。大丈夫じゃおれたちは』
とろりとした暖かな闇に意識が落ちていく中で、豪のそんなつぶやきが聞こえた気がした。
わけもなく、とても幸せな気分になった。
えー、オツカレサマでした。誰が? 巧さんが。いえ、こんなしょーもない妄想話につきあってくだすったアナタサマに。
なんでですかねー、ウチの巧さんたらサワに甘すぎです。もうベタ甘。(5/5)書いてるときなんて、うっかり抱き寄せてちゅーしそうな勢いで、ワタクシ自身がアワアワしてしまいましたよ。でも原作文庫3巻128ページ紅白試合のくだりを見返しつつ(ちょうどその辺りを読み返してた)作業をすると、こんなんなってしまいます。だって、甘いよね。原作の巧さんも。両頬をはさんで、ですよ。肩を抱きしめたくなる、ですよ。豪ちゃんよりよっぽど……!
いかんイカン正気に戻れと自分を叱咤しつつ、なんでか豪ちゃんに申し訳ない気分になって付け足したのが今回のおまけです。……いやほんとごめんよおまけで。つかしっかりしろ永倉! もってかれるぞコラ!
冬のアレがあって、おヨソのBTをたくさん拝見しました。高校生な原田さんや成人した永倉さんに会えてときめきます。ウチのはまだ受験生。しかも高校の。
いいんだい。いつかきっと。(妄想でどうしても書きたい場面はここから2年とちょっと。…遠いのう)
さてまたそろそろ花の方々が恋しくなってまいりました。……しっかりするのはダレなんだ。ハイ、わたくしです。
続きです。最後です。どぞ。
誰かが登ってくる気配は感じたものの、どうすることも考えつかなかったのだろう、ぽかんと、いっそ間が抜けているくらい素直に驚いている沢口に、巧はほっとちいさく息をつく。制服にダウンを羽織っている。脇にはカバンと思しきもの。帰り道、おそらくそのままここまで来たのだろう。
心配した、とかみんな探しているとか、ありきたりな言葉は出てこなかった。
風のあるこんな場所で、長時間過ごすほど追い詰められている沢口をまず責めるのは、間違っていると思った。
「寒くないか?」
「……ああ、いや、うん。そんなでもないよ」
巧の言葉が最初理解できなかったのか、ぽかんと巧を見つめていた沢口だったが、ややあってきまり悪げにもごもごとした口調で否定した。巧は沢口の様子にかまうことなく、慣れ親しんだ板の間、沢口の隣に腰を下ろす。枝でさえぎられるせいか、樹上は思ったよりも風がこない。
「ごめんな、原田。心配かけて」
ちいさな声でつぶやかれた謝罪に、見やると、抱え込んだ膝に半ば顔を埋めるようにして、沢口は深くうつむいていた。
「……とりあえず電話かけまくってるおふくろさんと、学校まで捜しに行った豪には謝っとけ」
「うん……あのな、それで、来てくれて、ありがとう」
礼を言われて言葉に詰まる。沢口は相変わらず巧から目を逸らしたまま、ちいさな声で続ける。
「賭け、しとったんじゃ。原田が来てくれたら、おれは新田に行ける、て」
「何だよ、それ」
「なんかもう、いっぱいイッパイになってしもうて」
そこで沢口は細く長く息を吐き出して目を閉じた。
「がんばっても、がんばっても、ゴールが遠いんじゃ。自分だけじゃないて、分かってても、ときどきもの凄く怖くなる。みんなに置いていかれてる気がする」
「おまえがそんなこと言ったら、吉貞どうすんだよ」
けれど巧の言葉を、予想外の強さで沢口は否定した。
「ヨシは勉強しとるよ。こっそり、すごく、勉強しとる。毎日、オトムライんとこに数学聞きに行っとるもん」
「……」
初耳だった。あれほど毛嫌いしていた数学に、敢えて戸村相手に挑んでいるなど。
絶句する巧に構わず、再び沢口は深い息をついた。きつく瞑目したまま、搾り出すように、低くつぶやく。
「でも、一番怖いのは、時々分からなくなることなんじゃ。おれ、本当に、みんなと一緒に新田に行っていいんじゃろうか」
「――沢口」
「思い上がってるんじゃなかろうか。ほんとは原田は、豪ともっとずっと野球強いトコ行ってやれた方がいいんじゃなかろうか、おれ、一緒に甲子園行きたいなんて言うたけど、もっとずっと上手いヤツがたくさんおるトコの方――」
「沢口!」
たまりかねて巧は、両手で思い切り強く沢口の顔を挟むと、強引にこちらを向かせた。
「おれは元々甲子園に行きたいなんて思ってないし、高校なんてどこでもよかった!」
「は、らだ……?」
「野球ができれば、名門校だろうが新設校だろうが、どこでもよかったんだ。けど」
『今度こそ本当に、原田と優勝したいんです。今年の夏、確かに勝ったけど、おれは、おれたちは原田と優勝の瞬間抱き合えんかった』
その言葉。すべてはそこから始まった。
「おまえが言ったんだろ。おれと、今度こそ優勝して抱き合うって。おまえが決めたんだろうが」
巧の剣幕におされ、顔を挟まれたまま何も言えずにひたすら見上げてくる沢口に、なおも言い募る。
「カン違いすんな、ばか! 言い出したのも決めたのもみんなおまえだろ。決めた本人がぐらついてどうするんだよ。おれに甲子園目指させといて自分だけ降りる気か」
「行くん、か? 甲子園。原田」
「行く気にさせたヤツが何寝言言ってんだ。ばか。ほんとばか! 沢口。勉強しすぎで頭おかしくなってんじゃねーよ」
言い放ってお今度は思い切り両頬を引っ張ってやる。
「は、原田痛い」
「こんなとこでぐるぐるしてんじゃねーよ。そんなヒマがあったらさっさとメシ食ってちゃんと寝て、そしてまた勉強しろ。すごくしろ。おれは待ってなんかやらない。置いていかれたくなかったら死に物狂いでついて来い」
途端――。
それまで巧に圧倒されてろくにものも言えずにいた沢口が、弾けるように笑い出した。
ケタケタと、少々度を越すほどの大爆笑に、いい加減不安になった巧が沢口の肩をつかんで引き寄せようとすると、沢口自身が巧を引き寄せて抱きしめた。
「……おい」
そのいささか熱烈すぎる抱擁に、巧が身じろぎすると、もうちょっとだけ我慢してな、と嬉しげな声でねだって、沢口は巧の肩に顔を埋めた。
「いやもう……さすが原田、つー言葉なんじゃもん。笑えた」
「何なんだよ」
「普通、夜にこんなとこ登るほど追い詰められてるヤツに、もっとがんばれなんて言わんじゃろ。けど、原田は言うんじゃよなぁ」
「悪いか」
「悪くなんてない。逆じゃ。甘いこと言うのなんか原田じゃない。そんでおれは、原田にそう言ってほしかったんじゃ」
ついてこい、と。
沢口の真意が分かって、巧は唇をかむ。自分だって不安だった。豪が、約束をくれるまでは。
沢口も、ほしかったのだ。求められていると、必要とされているという確信が。
以前の自分だったら、そんな弱さは唾棄すべきものだった。けれど今は知っている。誰かを必要とする心が、どれほど弱くてみっともなくても、それでも、それなしでは人は生きていけない。
こんなにもその弱さが愛しい。
次第に泣き笑いに移行しつつある沢口の後ろ頭を、幼い子にするようにぽんぽんと撫でてやりながら、巧は、来るべき春が、甘い香りを運んでくることを、らしくもなく願わずにはいられなかった。
続きです。どぞ。しかし……どこまで甘いんだ。すいませんすいません。
沢口がまだ帰っていない、と沢口の家から電話が入ったのは、夜の7時を過ぎた直後のことだった。
自室で数学の課題をやっつけていた巧は、青波経由で受け取った子機から、沢口母の狼狽した声に表情を引き締めた。
『巧くん、うちの子知らん?』
豪と共に学校で別れたことを告げると、今度は同じく残っていた東谷の家に訊いてみると言い、沢口母は短く詫びて電話をきった。
電話がきれるやいなや、巧は数学の課題を放り出し、黒いウィンドブレーカーを羽織ると階下に駆け下りた。
「兄ちゃん、どこ行くん?」
「散歩」
怪訝そうに居間から顔を出した青波に短く断り、巧はスニーカーに足を突っ込むと同時に家を飛び出した。真紀子が背後で何か言っていたが振り返らずに駆け出す。
日の落ちた外気は、しんしんと冷え込んでいる。春は着実に近づいているものの、まだ花の匂いも草木の息吹も感じられない。月の出ていない曇天の空は鈍く闇をくすませていて、雪や雨の気配はないものの重苦しく、覆いかぶさってきそうだった。
嫌な感じだった。
まだ7時だ。冷静に考えれば、マックで寄り道をしたり本屋に寄っていたりするのかもしれない時間だ。そう大騒ぎするほどのことでもないだろう。けれど、どうにも不快なざわつきが身の内をかき乱す。制御できない焦りが背中を駆け上がる。
「巧!」
前方から大きな声で名前を呼ばれて顔をあげる。案の定豪だった。巧の家に向かって走ってきたところらしい。
「サワの家から電話あったか?」
「だからこうして外出てきたんだろ」
にべもない返答をして、巧は豪を置いて再び走り出す。
「どこ行くつもりじゃ」
「学校。とりあえず行ってみる」
やりとりをしている時間すら惜しい。そんな巧の焦燥が伝わったのか、追いついた豪が軽く息をついて巧の左腕をつかんで引き止める。
「待てって。そんならおれが学校の方受け持つ。巧は他にサワが行きそうなとこ考えろや」
「逆だろ。おまえの方が見当つけやすい」
しかし豪は強く首を横に振った。
「前はそうじゃったけどな。でも、今は巧の方が適任じゃ。巧、考えろや。切羽詰ったサワが行きそうな所」
「……」
唇を噛み締める。見つけたら携帯に連絡寄越せな、と言いおいて豪は暗闇の中を遠ざかっていった。
見当なんてつくわけがない、と反論したかったが、できなかった。とにかく、行きそうな所に思いをめぐらす。公園、土手、神社――浮かびはするものの、これと思い定めるところがない。
沢口は素直で前向きで、思い悩む姿をあまり見せない。また、悩んでいてもそれをすんなり口に出してしまう性質なので、溜め込むということをしない。こんなことは初めてなのだ。
『そんなもんかのう』
不意に沢口の声が甦った。樹に登って風に吹かれたいと願う巧に、不思議そうに沢口はそうコメントした。沢口にとって木登りは遊びの一環で、景色を見たり物思いに耽ったりするために登るためのものではないのだ。
「樹……」
自然巧の足は沢口の家に向かった。もう真っ暗だ。とてもこんな時間に樹上にいられるとは思わない。けれど、そこしか思い当たらないのも事実で。
だめでもともと、恨むなら豪を恨めと内心で言い捨てて、巧は迷いを振り切って駆け出した。
通いなれた道に、間もなく見覚えのある家が夜闇にぽつんと浮かび上がる。沢口の不在はまだ大事になっていないらしく、大きな家は静まり返っていた。
そっと巧は門をくぐり、慣れた樹までの小道を通り抜ける。
「……」
夜の大樹は、夜空に黒々と影を広げ、巧を見下ろした。
いつもは日が出ているうちしか目にしないからか、馴染みのない、まったく異質な存在に見える。アスファルトの道路から差し込む街灯が、青白く枝々を照らし、余計よそよそしさを増長させていた。
しかし巧は首を大きく一回振ると、いつものように足場としているウロにとりかかった。
闇を恐ろしいとは思わない。巧の恐れるものはもっと別のところにある。
何度も登った樹だ。回数だけでいけば、おそらく豪や東谷にも負けないだろう。今では軍手をせずとも、どんなふうに手をかければ安全か、想像しながら登ることができる。
ガサリ、と頭上で枝が動いた。顔をあげる。無論見えはしなかったが、気配がある。上にいる。
巧は黙って登り続けた。あと少しで足場に着く。
ひやりと冷たい冬の風が首筋を撫ぜる。そういえば、冬に登ったことはなかったなと今更ながらに思い至って巧は唇の端をゆがめた。単に条件が悪かっただけなのだが、冷たい風は走り続けて火照った身体を心地よく冷やしてくれる。清冽な、甘さのないそれに、心地よさを覚えて冬の木登りも悪くないと思った。
危なげない足取りで、最後の窪みに取り掛かる。反動で思い切り身体を持ち上げると、板を敷いた足場に上半身が出た。
「原田……」
夜目にも分かるびっくり眼で、まじまじとこちらを見つめる沢口と目が合った。
続きです。どぞ。
学校からの帰り道。まだまだ寒さは厳しいものの、日の入りは着実に延びている。
夕暮れ時の道を、巧は豪と二人で歩いていた。
「ふうん。ヨシもなんのかんの言いながら、ちゃんとやっとるんじゃなー」
傍らでのんきにコメントしたのは、5人のうちで唯一A判定常連の成績上位者である。学年トップレベルの豪が、城山もしくはそれに準じた超進学校に進路希望を出さず、進学校とはいえ公立の新田に進路希望を出したことで、巧たち中間にいる者たちには分からない悲喜こもごもがあったらしい。が、そんなところにも食わせ者の顔を遺憾なく発揮して、永倉家の跡取りは、ひょうひょうと己の意思を貫き通した。心配していた両親との齟齬は、豪の言うとおりほとんどなかったらしく、節子と巧の関係は、豪の妹が生まれた時点で改善されて以来、ずっと良好なままだ。
むしろどちらかというと件の妹との間のほうがよほど緊張感に満ちている。近頃早くもハイハイを始めた永倉家の長女は、巧が豪の家を訪れるやいなや、超スピードのハイハイで巧めがけて寄ってくる。あら相変わらず巧くんのことお気に入りじゃねぇなどと節子はおっとりと評するが、実の兄の嫉妬まじりの視線が非常にうざったいので迷惑この上ない。
が、散歩途中で遭遇した青波めがけてダイブしたという話を聞けば、にじり寄ってくるくらい甘受すべきなのだろう。
しかも聞いた沢口が、メリーさんか永倉んちの妹か、どっちにしろ原田モテるのうと珍しく余裕のある茶々をいれたので、それだけでもまあいいかと思えた。
沢口のことに思い至って、巧は深いため息をついた。
「なんじゃ巧。珍しい。ため息なんぞついて」
「……悪かったな珍しくて」
自分でも滅多に思い煩うなどということがないのは自覚している。しかも他者のことでだ。以前の自分だったらまず考えられない。他人事と切って捨てていた。しかし、3年間も同じクラスでいれば、やはり情がわく。うるさがる巧に飽かずめげず沢口はお節介を焼き続けた。そして豪とは別の範疇で、近しい位置を確保した。友達、という枠内に入れることのできる唯一の存在でもあった。
自ら定めた目標に向かって、突き進むのは、最終的には自分の判断だと巧は思っている。ただ、それが他者のそれに引きずられた場合は、果たしてがむしゃらに突き進むのが正解なのかどうか。
「サワのことか?」
お見通しらしい自分の捕手に、巧は皮肉ることもせずこく、と短くうなずいた。
沢口と東谷は、今日は一緒の帰りではなかった。東谷は卒業アルバムの委員になっているそうで、ここのところ多忙を極めている。沢口はまだ図書館に残って勉強するといっていた。
巧たち同級生より顕著に感じるだろう、沢口の憔悴の仕方に、しかし豪は何も言わなかった。巧としては頑として聞き入れない沢口に、豪の方から何か言って一緒に帰らせたかったのだが、豪はそうか、なら先帰るな、とあっさり別れを告げて帰ってきてしまった。
「おまえ、もうちょっと何とかならなかったのかよ。あんなの普通じゃないだろ。何で沢口一人残したんだよ」
それならと残るほうに転向しかけた巧を、豪は強引に引っ張って帰途につかせた。おえん、巧はソレ持って帰らなきゃならんのじゃろ、と箱一杯になった例の甘いものを示し、渋々豪に袋に四分した半分を持ってもらって、今に至る。
確かに甘いものは結構な重量で、これを巧と沢口の二人で持ち帰るのは至難だったろう。
しかし、だとしてもそれならなぜ。
「巧は意外に心配性じゃなぁ」
おもしろがるような口調に、むかっ腹を立てて傍らの巨躯を見上げる。巧の上を行く順調さで豪は縦も横も伸びており、一見すれば成人と間違われても仕方のない体つきをしている。そのむこうずねをかなり本気で蹴っ飛ばした。
「イタっ。巧、何すんじゃ!」
「うるさい薄情者!」
豪が心配していないとは思わない。けれど、もっと真剣になってほしかった。
普段の沢口は、ずっと何か思いつめたような表情をして、唇をかみしめて参考書や教科書や問題集を睨みすえている。どんなに巧が休息をうながしても、聞き入れてくれないときすらある。
そんなふうに危うい沢口を、ちいさい頃から知っている豪や東谷が、なぜ静観しているのか。巧としては苛立たしい限りだ。
「変わったなぁ、巧」
まだのんきにしている豪に、さらに回し蹴りをくらわそうと巧は再び足を振り上げたが、さすがに今回はかわされた。
やや離れた位置に後じさって、豪はどこかくすぐったそうな面持ちで続けた。
「前だったら、知ったことかで巧こそ放っといたろうに。何か、心配してハラハラしてる巧て新鮮。かわいい」
「――っテメ、埋める!」
わははと朗らかに笑い声をたてるデカイのに本気で腹を立て、巧は手元の袋から赤いラッピングをされた球形の贈物を手に取ると、思い切り豪めがけて投げつけた。
完全に不意をつかれた豪は、見事に眉間にそれを食らい、派手にすっ転んだ。
「何しよるんなら巧!」
「いい気味だばーかっ。おれの球ならどんなのでも捕れよキャッチャー」
しかししばし額を押さえたまま動かない自分の捕手に、やや心配になって巧は近寄る。と、豪の額は見事にこぶができていた。
「うわ、そんな固かったか、これ」
「つーか、自分の球の威力自覚せい。これがホンモノじゃったらおまえ傷害罪じゃぞ」
よいこらせ、と巧の差し出した手をとって豪は立ち上がる。そしてそのまま巧の手をつかまえて笑みを浮かべた。
「心配せんでも、大丈夫じゃ。サワは」
「ほんとかよ」
「こちとら何年のつきあいじゃと思うてる。やるときはやる男じゃ。そんでそれだけの底力があるんじゃサワは。勝負どころでのあいつのイッパツ、おまえだって知っとるじゃろ」
「……野球と勉強はベツモノだろ」
それでもじゃ、と変わらず豪は力強い笑みを浮かべて断言する。しかしまだ気がかりげな巧を見て、ぽつっとつぶやいた。
「まあ、今日のは半分イジワルも入っとったのは、認めるけどな」
「はあ? 何だよソレ」
おまえがあんまり沢口サワグチ言うてサワべったりじゃから邪魔したくなっただけじゃー、などと吉貞みたいなタワゴトをぬかして、これ以上的にされるのはゴメンとばかりにさっさと逃げしだした自分の捕手に、ほっときゃよかったと巧が盛大に舌打ちしたのは、言うまでもない。
相変わらず豪ちゃんは、ことお勉強に関しては余裕そうですね。……こういうヤツこそアルバム委員をやればいい。本来の豪ちゃんなら率先して買って出そうですが、ウチのは溺愛中の愛妹に会うためにさっさと帰っていることになっております。あしからず。こんなん豪ちゃんじゃない。ええ、ええ。そうなんです。正体食べ残しの魚の骨ですから。
何じゃコレ、と仰天した吉貞の声を、いい加減うんざりしていた巧はあっさり黙殺した。
無論吉貞は巧本人へと説明を求めているのだろうが、巧自身知ったことかという気分だ。
机の横に、ダンボール箱。中には色とりどりの包み紙でラッピングされた小さめの箱がみっしりと詰まっている。
知らぬふりでせっせと社会日本史の問題に取り組んでいる巧に、吉貞も慣れたものでとっとと巧の隣の席を陣取ると、がさごそと箱の中を物色し出した。昼休みで隣席の級友がいないことを巧はちょっと恨んだ。
「ふーん。なんじゃ、他校からの届け物か。時期的に見て、ちょっと早めのバレンタインチョコとかそんなとこじゃな。気が早いのう。まだ先じゃというのに」
あ、でも義理はさっさと果たして本命に全力投球するわけか、いやあ、おれそんなに食べられーん、と気楽に妄想にふけっている同じ高校志望者に、根負けして巧は冷ややかな視線を向けた。
自他共に認めるマイペースの巧ですら、そろそろ本腰を入れているというのに、何なのかこの能天気っぷりは。
「吉貞。おまえちゃんと勉強してるのか」
「してるともさー。だからこその息抜き。リフレッシュは必要じゃよ。何事も」
「……おまえ沢口の前でだけは必死に勉強してるフリしとけよ」
年明けどころか秋口から臨戦態勢の沢口は、文字通りクリスマスも正月も返上で受験勉強に励んでいた。それはもう、沢口の家の者が心配するほどに鬼気迫る様相で、食事中だろうが入浴中だろうが片時も参考書を手放さないほどの入れ込みようだ。
最近では人相すら変わってきているように見える。
「あー、沢口はのー、要領が悪いんじゃ。集中ばっかで能率上がるかい。ベンキョはピッチングと同じよたくちゃん。緩急つけなきゃ緩急」
「カンキュウ……ゆるやかなことと急なこと。漢字はいとへんのと急ぐ。なあ、原田これであっとるよな。ん……なんじゃ、ヨシか」
いきなり背後からぬっと現れたのは、沢口だった。
巧と同じクラスなのでいておかしいことはないのだが、会話の入って来方が唐突だったので、不意を食らったらしい。
吉貞は大きくのけぞった拍子でそのまま床にイスごとひっくり返った。
「吉貞うるさい」
「うるさいって、原田あのな! おれのハートは繊細なんじゃ。後ろからおばけみたいにぬーっと出てくる奴がいたら驚くに決まっとるじゃろ」
「あー、おれがおばけみたいじゃとー。何言うとるんならーヨシ。おばけいうのはもっとな……あれ、おばけなんて出題範囲あんのか?」
「……休め。沢口。吉貞の寝言だ。気にするな。10分だけ寝ろ」
巧は強引に斜め脇の沢口の席に本人を座らせ、頭を机に押し付ける。するとはじめは、いやおれフレミングの左手の法則が、とごにゃごにゃ言っていた沢口だが、じきに健やかな寝息が聞こえてきた。
「うーん。追い詰められとるのー」
「週明けに最後の模試だ。焦りもするだろ」
実際、沢口の目の下には濃い隈ができていた。寝る間も惜しんで勉強しているのは、沢口の母親から聞き及んでいる。だれもが沢口の健康を案じ、あまり受験勉強に根を詰めるなと言っているのだが、沢口は耳も貸さない。いったん決めると頑固な性格は、こんなところでも遺憾なく発揮されていた。
年末直前の前回の模試では、それでもC判定だった。ぎりぎり、といったところだ。あれほどに以前から打ち込んでいても、依然沢口にとって受験状況は厳しい。もともと、新田高校は県下の公立ではなかなかの進学校と定評がある。巧だとて決して楽して入れるところではないのだ。
それを分かっていても、敢えて新田を豪が選んだのは――。
「そういえば先週、おまえと永倉、二人して勉強会さぼったじゃろ。どこ行ってたんじゃ」
「……別に。おれは家の用事って言っただろ。豪のことは知らない」
本当にこんなとき、吉貞の妙にカンの鋭いところは厄介だ。
今回は青波にも口裏を合わせてもらっているので、漏洩はないとふんでいるのだが、野生のカンで核心に迫ってきそうで気が気ではない。
「なんかヒミツのにおいがするがのー」
なおも胡乱な視線を向けてくる吉貞に、知ったことかとにべもない返事をくれて、巧は再び日本史の問題に集中した。
いずれ豪自身が明かすだろう。なら自分は知らぬふりでとおすにこしたことはない。
「それより吉貞、おまえほんと少しは勉強しろよ。昼休み終わるぞ」
「いやーん。ノブ子、たくちゃんとのらんでぶーにすっかり時間忘れちゃったぁ。次オトムライの数学だったんだわぁ」
「おまえ、ある意味尊敬に値する肝の太さだな」
「だってー、オトムライのカミナリなんかもう慣れっこですものー」
言いつつ、ひょいと身軽に吉貞は席を立ち、熟睡しているらしい沢口を覗き込む。
「ほーんと、ばかじゃよなぁ。めいっぱい背伸びして」
「――」
口調に微妙なものを感じ取って巧はあえて黙って聞いた。
「それでも、どうしても欲しいものなら、摑まにゃならんよな」
そのまま沢口の傍らで、吉貞は勢いよく伸びをして、そのまま天頂で両手をぐっと握り締める。一瞬のち、だらりと腕を下げ、そのままポケットに手を突っ込んで、吉貞はひょうひょうと巧を振り返った。
そこにあったのは、すでに見慣れた、いつもどおりのいたずらめいた表情だった。
「ということでおれもシゴかれてくるか。ところで原田、問い4の答え東山文化じゃなくて北山文化だぞ」
去り際にさらりと間違いを指摘して、吉貞はさっさと自教室へ戻ってしまった。
巧は歴史の教科書を引っ張り出し、確認すると盛大に舌打ちした。あろうことか吉貞が正しい。
のんきなフリをして、実は吉貞もがむしゃらに励んでいるということか。
「負けられっか。あのやろー」
分厚い歴史の教科書を、投手ゆえの握力で見事に丸めてみせると、不穏な表情でぽんと片手の掌を叩いた。
なんですか、ちゅうがくせい日記みたくみんながジュケンジュケン言うてる話になってしまいました。うがー早く野球する彼らをモウソウしたい。……すればいい。そうですね。そうなんですけど受験勉強に奮戦する巧さんたちも夢見たいのですよ。オワってる自覚はあります。ふふ。
なんだか久しぶりの気がするBTです。今年もよろしくです。まだまだモウソウ尽きませぬ。
年が明け、年度の終わりを迎えようとしている新田東中は、慌しさの中にもぴんと張り詰めた緊張感が漂っていた。
「さすがにもう、来てくれないよなぁ」
関谷の隣でぼやいたのは、同じクラスで同じ野球部の高橋だ。今日はこれから部活だった。先週までは冷たい雨ばかりだったが、久しぶりによく晴れて、今日はグラウンドが使える。
二人はHRを終え、部室へと向かう途中だった。
晴れ上がった空の下、グラウンドにいるのは1・2年生ばかりだ。どの部も3年生は引退して久しい。それでも昨年末までは、息抜きにとわりと頻繁に顔を見せていた3年生もいたのだが、年が改まってからは誰一人来なくなった。
「本番まであと2ヶ月ないんじゃ。しょうがなかろ」
自分に言い聞かせるように関谷は高橋の言葉に答えた。
内野手の高橋は、実は密かに東谷のファンである。前キャプテンでもあった彼のフィールディングや、ボール処理、送球の的確さに憧れて野球部に入った。東谷の姿が見えないのが寂しいのだろう。
まあ、自分も人のことは言えないかと関谷は内心苦笑する。
打の沢口や走の吉貞、近藤。無論守備でも強肩の菊野など、粒ぞろいだった先代だが、それら逸材をすべて霞ませてしまうほどのバッテリーが存在した。
「彼ら」が、関谷が憧れてやまない彼の指標だった。
永倉と原田。一昨年と昨年夏、新田東中を全国まで導いた立役者だ。
永倉は、少年野球の先輩でもあり、入学する前から関谷は知っていた。捕球能力が高く、リードも堅実な、頼れるキャッチャーだった。彼に自分の球をとってもらうのを夢見て、関谷は新田東中の野球部に入部した。
だが、そこにはすでに、関谷が覚え慕っていた「永倉豪」は存在しなかった。
別人、だと思った。
大げさだと以前の豪を知る同学年の者たちは関谷を笑ったが、そんなのは彼に向かって投げていないから言える言葉だった。
もともと身体能力は高く、パスボールなどはしたことがなかったし、明晰な頭脳で守りの要として定評はあった。が。
中学の公式戦に臨む豪を見て、はじめて「投げる」ことが攻撃にもつながるのだと思い知った。
中学生離れした圧倒的な投球で相手をねじ伏せ、反撃する心を挫く。そんなことを可能にするバッテリーに初めて関谷はお目にかかった。
卓越した速球を投げる原田という投手に会って、豪は変わった。大きく成長した。おそらくそれまで眠っていた彼本来の能力を、一気に開花させたのだ。
そして彼の潜在する力を引き出し、自身の球も成長を続ける原田巧という投手。彼こそ。
豪を連れ去ってしまった張本人に、反発とまではいかなくても、とられた気分でそれほど近しく接することができなかった自分だが、今は何のわだかまりもなく、彼の天賦の才を認めることができる。
彼らは二人でどこまでいくのだろう。同じ投手として、運命的としか言いようのない出会いをした二人を、羨まずにはいられない。そして、憧れる。いつか自分もと。
「――先輩たちの時代は終わったんじゃもんな。いつまでも頼ってちゃおえんってことか」
やがてぽつりと高橋がつぶやいた。彼は彼なりに、自らの甘えた考えを内省していたらしい。
「そうそう。新田東は一代限りの強さじゃったなんて言わせないために、俺らががんばらんと」
関谷の言葉にそうじゃな、とまっすぐな気性の高橋は大きくうなずく。
「秋は惜しくも準決どまりじゃったが、本番は無論全国行きもぎとらねばな。去年全国デビューできたの、結局関谷だけじゃったし」
「原田先輩のリリーフで、5点も取られたアレを、俺の全国での成績になんぞ絶対させん」
「緊張しすぎなんじゃあ、関谷。見とってわかったもん。せっかく永倉先輩がリードしてくれとっても、一人で舞い上がってとっちらかっとるし。しかも最後には」
くすりといたずらっぽく高橋が横目で笑う。恥ずかしい記憶を思い出して頬が熱くなる。
「あれは! 感動して、そんで先輩と感動を分かちあおうとしてだなっ」
優勝が決まった瞬間、真っ白になった頭で、求めたのは絶対的な強さをもつエースの姿だった。
とにかく恐ろしくて、終わったことの安堵よりも、早く恐怖から逃れたくて夢中で巧にしがみついた。
関谷がよほど哀れに見えたのだろう。普段は冷淡なくらいの素っ気ない対応しか見せない巧が、珍しくじっと関谷を抱き寄せてくれていた。そしてあろうことかお疲れとねぎらってくれた。
吉貞情報によれば、巧がだれかをねぎらうなど、青天の霹靂だそうで、あの永倉でさえそんな言葉をかけてもらったことはないという。
クールな印象ばかりが先行しがちな原田だったが、懐に入ってみれば存外押しに弱く、決して情を解さない人物ではないことがわかった。
今ではむしろ永倉よりも、同じ投手ということで身近に慕わしく感じる先輩だった。
「それまでは何かにつけてナガクラセンパイナガクラセンパイだった関谷が、途端原田センパイ原田センパイじゃもんなぁ。いやでもほんと、まあ関谷の気持ち分かるって。カッコイイもん。原田センパイ」
関谷の目が険しくなったのを敏感に察知して、高橋はさらりと話題を転じる。
「覚えとるじゃろ、体育祭。あれでいっきに野球部内の原田センパイ熱は上がったね」
ケガを押して見事野球部をリレー優勝に導いた立役者に、ほとんどの下級生は熱狂した。1年生は特に初めて巧の走りを見た者が多く、バスケ部陸上部をさしおいてゴールテープをきった自分の部の先輩に、正直目がハートマークになっていた。
ハートマークというのは他の面々も同じで、もともと高かった原田人気だが、あれからいっきに女子の間で高まった。校内で石を投げれば原田ファンに当たるなぞというおかしな迷言まで飛び出す始末だ。
そしてその人気の人物と、誰よりも近しいとして羨望の的となったのが、意外沢口だったことに関谷は驚いた。普段の部活動を見ていれば、どう考えても巧と豪がセット感覚なのだが、部活動を離れると、二人の距離は存外離れているらしい。
あれほどに呼応している二人が、野球以外では疎遠なのを知って、関谷は軽く失望した。
特別視が過ぎる余り、どこかで二人を型にはめてしまっていたらしい。
「とにかく目立つ先輩たちだったよなぁ」
しみじみとした口調で高橋がつぶやく。その口調にはありありと寂しさが滲んでいて、もう来てくれないという先ほどの独白に思い至った。
高橋は部活動に顔を出さない先輩たちを恨めしく思っているのではなく、高校へと進学する先輩たちとの別れを惜しんでいるのだろう。
「そんな寂しがらんでも、来年おまえも新田高に行ったらええじゃろ」
先代のおもだった面々が、そろって新田高に願書を出したのは、下級生の間でも軽くニュースとなった。中には一念発起、勉学に突如励みだした下級生もいるらしい。
「ばーか。オレの頭でそうそう高いトコ行けるか。……けど、すごいよなぁ。なんつーか、諦めとかそういう言葉、絶対似合わない先輩たちじゃよな」
評する高橋の顔が誇らしげで、おそらく自分も同様の顔をしていると自覚しつつ、関谷もだよな、と力強くうなずいた。
もうすぐ春がめぐってくる。
自分たちには最後の年で、豪や巧たちにとってはスタートの春となる。
どんな春でも、皆が笑顔で迎えられる春であればいいと、まだ固い桜の蕾に目をやって、関谷は来る春に思いを馳せた。
年下っ子たちの視線から見た彼らでした。いつかは関谷くんを書いてみたいと思っていたので、念願かなって嬉しいです。すいませんその横のは完全に捏造人間です。気にしないで素通りしてくださると助かります。
最後です。どぞ。
放課後、いつものように巧は帰途についた。
吉貞と豪は委員会があるとかで残り、東谷と沢口とはつい先ほど分かれ道になっているところで別れた。
そこから巧は黙々と一人で歩き、すっかり葉を落とした梅の樹の前までやってきた。
「? 何だ」
いつもと同じ佇まいの巧の家ではあるが、何となく違和感かあった。すぐ前に母の車が止まっている。
出かけるのだろうか。
急を告げる事態は、玄関の戸を開けたところで判明した。
「どうしたんだよ」
唖然とする。見れば、玄関を入ったすぐのところで、家族がダンゴになっていた。
「……どうしたも、こうしたも」
あがりかまちのところまで出てきて、途方に暮れたような青波が説明した。
「じいちゃんが、ギックリ腰出して。それで、何とかここまでママと僕で抱えてきたとこなんじゃ」
見やれば、玄関すぐ奥の廊下に、洋三が苦悶の表情でうずくまっている。傍らで真紀子がなんとか一人で抱えられないかとがんばっているが、いくら老齢の洋三でも、真紀子一人で抱えるのは少しきついだろう。
「ちょっと代わって」
カバンを放り、真紀子を手伝って洋三をささえる。上背のある巧が加わったことで、ようやく洋三の身体がもちあがり、二人がかりでなんとか車の後部座席まで運ぶことができた。
「じゃ、あとお願いね。」
保険証やら何やらを手に、真紀子はとるものもとりあえず運転席に飛び乗る。
洋三が天を仰ぐようにして目を閉じたが、巧も青波も黙って二人を見送った。勢いよく走り出した、どこから見ても立派なペーパードライバーの車を見送り、ぽつりと傍らで青波がつぶやく。
「……ママの運転は、いくら僕でもよっぽどのことがない限り乗らんなぁ」
「ギックリ腰だ。よっぽどのことだったんだろ」
そうじゃね、と意外にドライな返事をして、青波は先に中へと入る。と、すぐさま出てきて勢いよく外を見回した。
「兄ちゃん、豪ちゃんは?」
「委員会で居残り」
それを聞いた途端、普段過ぎるくらいに落ち着いている弟は、ええと悲壮な顔をした。
「どうしたんだよ」
「いかん。大切なこと忘れとった。うちは今普通の状態じゃないんじゃった」
「……」
それで巧も思い出す。ちょうど件の賓客が、うみゃー、だかうきゃー、だか奥で奇声をあげたのが聞こえた。
「……」
青波と珍しく顔を見合わせながら、巧は先ほど学校でやった国語の課題を思い出す。
同乗するのと家に残るの。まさに前門のトラ、後門のオオカミというやつだ。
豪は巧の家への道をやや急ぎ足で歩いていた。
もうすっかり日は落ちている。自分より30分ほど前に帰った巧はギリギリ日が落ちるまでに着けたろうが、秋の日は落ちるのが早い。委員会の雑事をこなしただけなのに、すっかり遅くなってしまった気分だった。
「ただいま帰りましたぁ」
暫定自宅の巧の家の玄関をあけ、帰宅を告げる。玄関先まで美味しそうな匂いが漂ってきた。今夜は真紀子得意のフルーツカレーらしい。
おかえりー、と奥から青波の声がした。玄関すぐ近くの洗面所で手洗いうがいを済ませて、いそいそと豪は声のした居間と台所の方へと足を向ける。そしてそこで目にした光景に固まった。
「あ、おかえり豪ちゃん。今日はカレーなんで」
にこにこと青波がこちらを振り返る。それはいい。それは。しかし。
「何しとんじゃ、おまえら」
「何って、子守じゃよ」
カレー調理中とおぼしき巧の背におぶわれ、ご機嫌で青波にあやされているのは、紛れもなく自分の妹だった。
しかも最近は滅多に見せない至極ご満悦の様子である。豪が代わろうとすると、あからさまにイヤがられた。
「……なぁんで、そんな薄情なヤツのほうがいいんじゃあ羽海ぃ」
しっかり巧にへばりついて離れない実妹に、豪が悲嘆にくれたのは言うまでもない。
この後、誰よりも原田家の兄弟に構われているときがイチバンご機嫌という、あからさまな、豪の妹の言葉いらずの主張が始まる。それは母節子たちが帰宅するまで続き、原田家の他の面々、並びに実の兄までも大きく落胆させる事態となった。
そしてその傾向は、長じるにつれていよいよ顕著となり、後に鋼のごとき意志の強さで、永倉家長女は原田兄弟ラブを主張するようになる。
久しぶりにバテリを書けて嬉しかったです。ヒト山超えてしばらくお留守にしていたので、なんだか新鮮な気持ちです。いかんいかん。これからこれから。
トッショリなので、ほんとちみちみと続けていくことになりますが、トシヨリの世迷いごとと一笑に伏してくださいますとありがたいです。
今回は比較的短めなので、安心して続けられるのがよいところですな。続きです。どぞ。
「えー、じゃ、何。豪は昨日から原田ん家の子か」
昼休み、うんうん唸っていた理科の課題からふと顔を上げ、吉貞は眼前の出張家庭教師に尋ねる。
今日は吉貞と東谷のクラスに集まって勉強会が行われている。
進路決定後、時間さえあれば一所に寄り集まって勉強を教えあうのが5人の慣わしになっていた。
「子、っておまえなぁ。まあ居候、っちゅうかそういうもんじゃろ」
しかし豪の言葉に、わきで東谷とともに国語の試験対策問題に取り組んでいた巧から、すかさず訂正が入った。
「居候なんてカワイイもんじゃねえよ。賓客扱い。青波ですら後回しだぞ。赤ん坊の魅力ってすごいとおれは思ったね。まあ青波もおれも矛先がこっち向かないんで助かってるけど」
「今何ヶ月だっけ?」
5ヶ月、と東谷の問いに豪が即答する。
「かわいい盛りじゃ。いや、羽海はいつでもいつまでもカワイイ盛りじゃけどな」
「……確かに重症じゃな。原田の言うとおり」
「だろ」
自分でフっておいて思い切り心情的に後じさった東谷のコメントに、巧はぼそりと同意する。
しかしそんな周囲のやりとりに、一切加わらなかった沢口が、突然頭を抱えて机に突っ伏した。
「もうだめじゃあっ! 無理じゃムリじゃむりじゃあっっっ!! おれには新田なんて到底ムリなんじゃあっっ」
「沢口落ち着け」
半泣きになった沢口を宥めようと巧が手を伸ばす。と、沢口がふええんだかうえーんだか分からないうめき声をあげて巧にすがりついてきた。
「あー、また沢口が原田に甘えとるー」
すかさず入った吉貞のツッコミに、しかし沢口を抱きとめた巧は至極冷静に対処した。
「クラスメートの誼(よしみ)だ。おまえは東谷にくっつけば?」
わー、タクちゃんひいきー、と吉貞はなおもツッコンできたが、そんなことはおかまいなしに、半ば恐慌状態に陥った沢口は、巧を見上げて涙目で訴えた。
「なんで新田なんじゃ。よりにもよってあんな偏差値高いトコ……原田、なんで新田なんじゃ」
先日、5人はそろって県立新田高校に進学希望を出した。沢口と吉貞は担任から難しいとくどいほど言われたが、撤回しなかった。いや、できなかった。
「沢口、それはな、豪が悪魔に魂売ったせいだ」
「あくま?」
「元新田東野球部キャプテンの悪魔だ。あいつは海音寺センパイと一緒にプレイするの夢見て、豪をイモウトで釣ったんだ」
じとりと沢口と巧が胡乱な眼差しを向けると、悪魔と評された元野球部キャプテン、吉貞からは策士2号の異名を献じられている東谷は、独特の食わせ者の笑顔で応じた。
「釣ったなんて人聞きの悪い。ただ、高校野球に打ち込めば、必然的にかわいい妹と接する時間が少なくなる豪に、最寄の高校というと新田じゃなー、とアドバイスしただけじゃ」
「それが誘導でなくてなんじゃ!」
もうヒガシに柿やイチゴはやらん! と怒り心頭の沢口は、それでも爆発してすっきりしたのか、再び机にかじりついた。
おそらく、この5人の中で今もっとも勉強しているのは紛れもなく沢口だ。しかし今から受験ノイローゼでは先が思いやられる。その点、危うかろうと自分のペースを崩さない吉貞は、せっせと理科を消化しながらも、聞きたいところはしっかりきいてくる図太さがある。
「てーか、気になっとったんじゃが、なんで永倉は推薦受けんかったんじゃ。おまえなら学力でも生活面でも楽勝だったじゃろ」
「おれが受けさせなかった」
しかしそれに答えたのは巧だった。
「豪だけ先に受かって、後でやっぱり新田はやめとこうなんてことになったら困るだろ」
「……うーん、テイシュカンパク健在じゃなー」
――あれから、巧は再び豪にだけ投げるようになった。放課後はもっぱら図書館や沢口宅での学習会に当てられているので、時間は早朝。部活動がなくなっても、巧の朝のメニューは変わらない。それに豪がつきあっている。変わったことと言えば、巧と豪のグラブやミットが、硬球用のそれに変わったことくらいだ。
巧の球は着実に成長を遂げている。そして豪はそれにくいついていく努力を怠らない。
部活動がなくなっても、それは変わらなかった。部活という区切りは、二人にとって一つの通過点だったのだと、ようやく言えるようになった。
「ところで永倉、コケ類てのは何じゃ。エノキとかナメコのことか」
「……それは菌類。ゼニゴケとか、習ったじゃろ。ヨシ」
紛らわしいのー、と明るく豪語する吉貞の先行きを、その場の誰もが案じる気持ちになったのは言うまでもない。
ウチの巧さんは、サワに甘すぎですな。なんでだろう。でも原作でも沢口にだけ巧さん甘いと思います。
お久しぶりのバッテリーです。今回はほのぼの系。すいません捏造した豪の妹が話の中にいます。ご容赦。
秋も終盤、そろそろ風の冷たさが身に沁みるころだった。
豪の祖父が、長年の医療活動への従事と研究の功績を認められ、どこかのエライ大学の偉い人の名前のついたナントカ賞という賞を贈られたことが発端だった。
そしてコトは起きた。
本来であれば生後半年を数えない乳飲み子をおいて遠出など、もっての他のことなのだが、今回ばかりは夫人同伴が必要ということで、そのナントカ賞の授賞式に、共同研究者ということで名を連ねていた豪の父も、母を伴って出かけなくてはならなくなった。
しきりに恐縮する親友に、任せて頂戴と胸を叩き、真紀子は力強く永倉家の二人の兄妹の世話を請け負った。
なので昨日から豪とその妹は原田家に厄介になっている。
「ほーら、羽海(うみ)ちゃん、くまさんですよー」
朝から真紀子は豪のちいさな妹の世話に余念がない。自分が生んだのが男の子ばかりだからか、女の子の赤ん坊相手にでれでれのめろめろだ。
「羽海ちゃーん、今日は外に散歩に行こうなー」
「僕が帰ってきたら一緒にお風呂入ろうねぇ」
なぜか父の広と祖父の洋三まで同様だ。朝っぱらから繰り広げられる寸劇を、巧は朝食の席に着きながら冷ややかに見下ろしていた。
およそ15歳違いの豪の妹は、顔立ちはバランスよく両親の特長を受け継いだようで、黒目がちで、小造りの目鼻立ちがたいそう愛らしい乳児だった。巧は以前おまえに似なくてよかったなと豪をからかったことがあるが、ほんとじゃと大真面目に返されて、自分の捕手の兄ばかっぷりに絶句したことがある。
そうだった。ここにさらにもう一人加わるのだ。
「おばさん、羽海にはくまよりうさぎが似合うと思います」
大真面目に断言する秋の中間テスト学年トップを見たら、上位陣は確実に何人か涙にくれるに違いない。
朝食をいち早く終えた豪は、用意されていた着替えの中から、うさぎを模したらしいベビー服を選んできた。
「そうねぇ。くまさんのまる耳もかわいいけど、うさちゃんの長いお耳も羽海ちゃんは似合うのよねー」
ですよねーと本気の大真面目でにこやかに同意している豪が怖い。
巧は早々にその異空間から目を外して朝食に専念した。
「相変わらずじゃねぇ」
傍らの席に着きながら、いやに悟った口調で評するのは実弟である。ある意味この弟が今この家で一番オトナかもしれない。
「羽海ちゃんまた愛想ヨシだしね。にこにこと。人見知りせんの、大事じゃものねぇ」
「おまえはいかないのか」
「んー、確かにかわいいけど、あれだけの人数詰め寄られたら、僕ならひくもん。そっとしといてあげたほうがええよ」
オトナだ。ものすごくオトナな発言だ。
傍らで普段どおりのペースで朝食をとる青波を見ながら、つくづく自分の弟の非凡さを巧は実感する。
「それにな。僕もっとかわいい赤ちゃん知っとるけん」
「……マサくんとかの兄弟か」
「ううん。写真で。でもナイショ」
にこっとこちらも人好きのする笑顔を浮かべて、青波は兄の追及をかわし、朝食に戻る。
やがて朝食を終えた原田家の二人は、異空間を素通りして、さっさと登校の準備を始めた。異空間ではようやくうさぎの着替えで落ち着いたらしいが、今度は履かせる靴下の色をみんなで検討している。ピンクでも黄色でもどちらでもいいだろう。というか父親、出勤しろ。
「豪、おれ行くけど」
「うわっ、もうそんな時間か。おばさん、じゃ後よろしくお願いします」
我に返ったらしい豪が、実際の時刻を見て現実に戻ってくる。声をかけなかったらおそらくあのまま異空間に何時間でも居続けるに違いない。
家を出る頃には、普段の豪に戻っていた。
「おれはおまえを誤解してたよ」
「何じゃソレ」
小春日和を期待させる鮮やかな日差しの下、並んで学校へと向かいながら、つくづくと言った風情で巧は傍らの大男を見上げながら嘆息した。
「いや。根っこは変わんねーなぁと思っただけ」
喜怒哀楽のはっきりした、表情のくるくる変わるこの男の、そうした顔を見なくなって久しいと思っていたのだが。それはどうも自分の勘違いだったらしい。簡単に他者を踏み込ませない、どこか曲者の顔しか見ていなかったので、そちらが印象強かっただけらしい。情の深さは健在のようである。
「おれ、おまえんちのおふくろさんの言葉の意味やっと分かった。確かに心配だ。もし妹がカレシ連れてきたりしたら、おまえどうすんの」
「まだ一歳にもなっとらんのじゃぞ。……でも15年後くらいにはそうなるのか。そうか……うわっ、考えただけで腹が立つ」
「……確かに花嫁の父二人の感覚だよなこれは」
節子は父親と兄のこの異様な執着ぶりを早くも危惧している。いくら愛娘といっても限度があるだろう。巧も節子に賛成だ。
巧自身、豪のすさまじい兄ばかぶりをここまで目にしてきて、節子ほどではないにしても少々危うく感じるものがある。携帯の待ちうけが愛する妹なのはまだしも、生徒手帳に写真を挟んでいつも持ち歩く感覚が計り知れない。
先日所持品検査でひっかかったらしいが、生活委員の前で妹がいかに可愛いかを延々語り出してどん引きされたというのは、クラスメイトの生活委員から伝え聞いていた。
しかし巧が呆れていることなど、まったく意に介さず、豪は深々とため息をついた。
「花嫁の父いう心境じゃないけどな。近頃羽海も好き嫌いがしっかりしてきて、たまに抱っこを嫌がられるときがあるんじゃ。それはこたえる。羽海は好みがうるさくてのー」
「あー、はいはいはい」
確かに、件の乳児の心境も分からないではなかった。あれだけ周りであれこれされたら、赤ん坊だって煩わしくなることもあるだろう。
今も母と祖父のおもちゃにされているだろう、豪の妹に、珍しく心からの憐憫を抱きながら、巧は学校を目指して歩を速めた。
夏の大会は、近場で行われたので、節子さんたちは日帰りできたのでした。今更こんなとこで書いてすいません。そして半年に満たない赤ん坊についての記述は、ものすごくあやしいですので実態に即していなくてもご容赦ください。
私事ながら。
今日は運動会に行ってまいりました。久しぶりのオンリー参加でどきどきしました。
でもめあてが達成できたのでよかったです。
残念ながら最後まで参加することはできなかったのですが、その足で中野に立ち寄り、がつがつとそちらも旺盛に活動することができ、充実した秋の一日となりました。懐豊かでシアワセです。GTバンザイ!
東谷と巧がそろって呼び出しをくらったのは、翌日の月曜日だった。
「おれが学年主任と思って、おまえら舐めてんのか」
渋い顔をした3年学年主任が、数学科の指導室で、二人を待ち構えていた。
眼前にはひらりと1枚の紙片。進路決定報告書とある。A4の半分の大きさであるその紙には、進学を希望する高校を第3希望まで書く欄と、最後に保護者の署名捺印の欄がある。
今机に投げ出されているのは東谷の名前が書いてあった。しかも保護者の欄はきっちり埋められている。どこも問題はないようだった。
「何か問題ありますか、カントク」
「今はセンセイと呼べ」
おまえたちの学年主任として話をしている、といかめしい顔で断っておいて、戸村は紙片をはじいた。
「大アリじゃ、あほう。何じゃこれは東谷。『第1志望校原田巧と同じ高校。以下同文』というのは。担任激怒しとったぞ」
「おれは至極真面目に書きました」
「おまえな。せっかく推薦だって降るように来とるのに、血迷うな。原田バカはどっかの捕手だけで十分じゃ。というか原田おまえ何か関与しとらんだろうな」
胡乱な眼差しを向けてくる戸村に、しかし巧が何か言う前に東谷が速攻で否定した。
「原田は関係ありません。おれの一存で書きました」
「東谷」
「先生、おれは甲子園行きたいんです」
戸村の言葉をさえぎって、東谷はきっぱり言い切った。
「甲子園行くから、一番確率高い投手と一緒の高校行きたいいうの、おかしいですか。おれは、高校を出たら親父の後を継いで寿司屋になるための修行をします。だから、高校は好きなことしたいんです。親も賛成してくれました」
「……おまえもほんま、クセ者めいてきよって」
苦虫を噛み潰したような顔で戸村がうなる。
「とにかく、これじゃ抽象的過ぎる。原田、せめて高校名くらい教えてやれ。これじゃあ斉藤先生が了承しない。おれは柔道部顧問にぶん投げられるのイヤじゃぞ」
巧が口を開こうとしたところで、廊下から物音がした。続いて話し声。室内の3人は動きを止め、互いを見やる。やがて戸村がおもむろに動いて、指導室のドアを思い切り引いた。
「うわあっ」
間抜けな声を上げて倒れこんできたのは、いつもの面々である。
「……沢口と吉貞は何か、そんなにおれに数学を教えてほしいのか」
こめかみをひきつらせる戸村に、豪を下敷きにしておいて、素早く起き上がった二人は精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「いやだなぁセンセ。まさか。友人の安否を気遣っただけですよう。遭難してないかなーと。あは」
吉貞の苦しい言い訳に、しかし戸村の温度は下がる一方だ。
「ほーう、ここは雪山か。永倉、おまえまでこのばか共のまねをするな」
「誤解です。先生。というか、いつからこのドア内開きになったんですか」
「去年からな。どっかの数学嫌いどもがバリケード作りやがっておれの抜き打ちテスト邪魔しやがったんでな。傷んでたことだし、丁度良かった」
眼前で薄笑いを浮かべている戸村に、しかし反撃したものがいた。沢口である。
「ヒガシと原田が心配じゃったんです。友達心配しちゃいけませんか先生」
「……」
直球勝負の沢口の物言いに、さすがの戸村も押し黙る。巧は横目で東谷と目配せしてこっそり笑った。
「そんなことより、おまえらはどうなんじゃ。まだ出しとらんようだが、東谷みたいなばかなまねしとらんだろうな」
「あ、ソレソレ!」
突然思いついたように吉貞が床に座ったまま拳で手を打った。
「いや、さすが策士2号じゃ東谷。そーかそーか、そういう手があったか。おれもマネしよう」
「だから今マネしとらんだろうなと言うたろうが!」
「けど先生、おれも原田と一緒の学校に行きたいんです」
必死の形相で沢口が食い下がった。
「おれも、高校でも原田と野球がしたいんです。おれ、おれ……ほんとにこのチームが大好きで、ずっとこいつらと野球したいて、1年のときから思ってて……それに」
ぎゅっと唇をかみしめ、沢口が巧を見る。
「今度こそ本当に、原田と優勝したいんです。今年の夏、確かに勝ったけど、おれは、おれたちは原田と優勝の瞬間抱き合えんかった」
巧は軽く息をのむ。沢口が、そんなことを考えていたなんて、知らなかった。見れば、東谷も、吉貞ですら、同意見らしく、同様の顔をしている。
「……まったく。ほんっとにおまえら問題児どもはそろいもそろって」
ため息をつきつつも、戸村の口元が歪む。
「というわけだ、原田。そろそろおまえも結論を出せ。勧誘に来る学校に、いちいち断りを入れるのも、結構な手間なんじゃ」
「そういうことなら先生」
おもむろに立ち上がって巧はまだ吉貞に乗られたままの自分の捕手を助け起こす。
「豪に聞いてください。おれの進路希望も『永倉豪と同じ高校以下同文』で出しますから」
「……責任重大じゃな、永倉」
まあ何とかしますよと豪が笑い、立ち上がる。
「新田東中ここにあり、て高校球界に殴りこみかけてみますか」
「……おまえのその生意気が、原田より心配になる日がくるとはの」
戸村は嘆息しつつも、苦笑を刻む。
「まあやってみろ。采配はとっくに預けた。お手並み拝見といこうじゃないか。ただし、それぞれ保護者との話し合いはきっちりつけとけ。持ち込むな」
はあい、と吉貞が良い子の返事をして敬礼する。いたずらっ気を起こした東谷が号令をかけた。
「気をつけ!」
「「「「あ(りがとうございま)したっ!」」」」
ばかモン、という小言が背後から届いたが、一目散に駆け出した5人にはなぜかエールに聞こえた。
「豪ー、ほんとどこにするんじゃあ」
「これから吟味じゃ。そこそこの偏差値で野球が強くて近いところ。任せとけ」
「あと美人が多いも条件にしとけや!」
却下じゃ! 大声が飛び交う。でもどの声も弾んでいる。
豪とだけではない。
行けるところまで行こう。望むこととそれに向かって進むことはできる。不可能などと諦めるのはまだ早い。これからだ。
巧は大きく一歩踏み出す。
「おっ、今日も秋晴れじゃあ」
校舎を抜け出て秋晴れの空の広がる屋上、沢口が気持ちよさそうに伸びをする。
「さあメシ食うか」
いつもと変わりない、だからこそかけがえのない大切な日常が続くことを、巧はこのとき心から嬉しいと感じた。
えー、オツカレサマです。すいやせん長くて。
これで山を一つ越えることができました。なだらかながら、なかなかにしんどい道程で。いやはやトシはとりたくないものです。若さに任せて突き進めん。くぅ。
この妄想は、あるシーンを書きたくて捏造につぐ捏造をやらかしておるわけですが、たどり着ければもっけの幸い、とりあえず山一つ越えて人心地というところです。
ありがとうございました。