2020年4月26日(日)「凝縮された祈り」
竹前 治 牧師
聖 書 マタイによる福音書6章5-15節
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
主イエスは私たちに何を祈るべきかを教えてくださいました。それが「主の祈り」なのです。
祈るときまず、祈るべきお方の名を呼ぶことが求められます。祈りは神様との対話であります。
私たちが何かを伝えたいと思う時、その相手が必ずいます。誰に対して、誰に向かって言っているのか分からないと変になります。祈ることも同じです。必ず祈るべき相手がいるのです。その相手とは人間ではなく主なる神なのです。
そこで、主イエスは「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ、祈りを始めます。次に神様の名を正しく私たちが知ることができるようにして欲しいと願います。なぜ、神様の名なのでしょうか。神様の名は人間が勝手に考えて造り出すものではありません。それは人間が造る神、偶像になります。旧約の時代より神様はご自身を現されるとき必ずご自身の名を明らかにされているのです。それは神様が私たちと人格的交わりを持とうとされるからです。「私はある。あると言う者だ」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主なる神である」など神様はご自身の名を私たちに明らかにされ、その名を正しく呼ぶことを求められたのです。だからこそ、私たちは主イエスを通して神様の名を正しく知ることが求められるのです。
主イエスは私たちに神様を「父」と呼ぶことをお赦しになられました。
続いて御国(神の国)の到来を祈ります。神の国、人間が支配するのではく神様の支配、すなわち神様の愛が私たちを包む時を待ち望むのです。
そして神様の御心が私たちのところで実現して欲しい、神様の救いの出来事がこの地上で明らかになるようにと祈るのです。ここまでは神様への祈りであります。
次に必要な糧を求めます。糧とは食べ物を意味しますが、私たちが生きて行く上で必要なものすべては神様がお与えくださいます。宗教改革者ルターは主の祈りの糧について「それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。食べ物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産……平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人なのです。」といいます。
隣人への罪の赦し。人を赦すことは大変なことです。憎しみからは憎しみしか生まれません。キリストは私たちの負い目を一切背負い十字架でお赦しになられたのです。キリストの赦しを誰しもが受けているのです。それゆえにキリストの赦しを受け、自分に負い目を与える人を赦せますようにと祈ります。キリストは、その人のためにも十字架にかかってくださっているのですから。
誘惑から助けていただく祈り。キリストから引き離す力は働きます。これに打ち勝つ力をくださいと祈るのです。すべての祈りは神様との関係が第一にあって成り立つのです。
私たちが常に祈るべきことが、この「主の祈り」の中に凝縮されているのです。主イエスは「主の祈り」を祈ることを通して、私たちが何を祈るべきかを、また祈りの必要性を教えているのです。
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