思い出のメモ

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沖島の城跡

2014-03-03 | 
島内の厳島神社側から見た、頭山(頭山城跡)

沖島の城跡(頭山城跡・沖島尾山城跡・坊谷城跡)
近江八幡市沖島町
沖島歴史紹介によると
沖島は和銅年間(708年~715)近江の国守であった「藤原不比等」が奥津島神社を建立、その後恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に一時住んだと伝えられており、本格的に人がすむようになったのは保元・平治の乱(1156~1159)の後、平家に敗れた源氏の落ち武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、現在の島民の祖先とされています。琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にありました。南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ、室町時代には、堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります
また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍しました。

島全体が戦略的にも重要な位置で頭山城跡・沖島尾山城跡・坊谷城跡があり曲輪・土塁・堀切・土橋・石積みと思われる遺構が残る。

(頭山城跡)
頭山、山頂部に郭があるようです。


奥津島神社上が登城口のようです!



(尾山城跡)
尾山に向かう登山道(土橋?)


ホオジロ広場(お城広場?)も郭だったのか?


(坊谷城跡)
湖上より、尾山城跡、坊谷城跡(厳島神社の上部辺りか?)を望む!

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