ビュールレ・コレクションで、一番気に入った作品はこれです。
まず、この絵の中心には、リンゴの木が描かれています。
これは日本画から取り入れたそうです。
例えば、狩野永徳の作品です。
構図は似ていますが、ゴッホは日本画のように木の描写にはこだわらなかったようです。
その辺の日本人の繊細さとゴッホの大胆さの対比が、面白いです。
この大きな太陽。
とても斬新です。
これだけ黄色い太陽が大きくても、不思議と受け入れちゃうのは、絵の構成のバランスがいいのだと思います。
この辺の空間的な認識は、江戸時代の日本人とは正反対だと感じます。
そう。
こちらは、まあまともな太陽。
そして、「種をまく人」
こちらが、元祖ミレーの「種をまく人」
農民を描くミレーはブルジョアジーには評価されなかったようでした。
それをあえて描くのは、画家としての援護になるのでしょうか。
それとも、単に真似てみたかったのでしょうか。
このあたり、パクリというよりも良いものは何でも吸収しようという貪欲さなのでしょうか。
ゴーギャンもこのような木の配置を試みています。
あえて日本画の常識とは、木の幹の流れを逆にしています。
そして、さらに進化させると、現生と神話の世界を木で隔てる絵を描いています。
パクリといえば、葛飾北斎の2枚の絵。
これを合体させると、こうなりました。
やるなゴーギャン。
しかし、わたしがどうしてこの絵を気に入ったかをご説明しますね。
この2枚の絵を見比べて下さい。
ほんの少しだけ視点をずらしただけなのに、まったく印象が異なります。
広い大地の奥行きを感じませんか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・
<<すみません。投稿した後で画像を確認したら、微妙な差異(つまり絵の味わい)が全く分かりませんでした。これから行く方は、会場で実物を見て堪能してください>>
ミレーは人物の躍動で、生き生きとした生命を表現しました。
でもゴッホは、大地の広がりと、恵みを与えてくれる太陽の存在によって、育まれる生命を表現しているように感じました。
見る者の視点を、右側からはるか彼方の左後方へと変えて、大地の豊かさを堪能できる絵だと思います。
まず、この絵の中心には、リンゴの木が描かれています。
これは日本画から取り入れたそうです。
例えば、狩野永徳の作品です。
構図は似ていますが、ゴッホは日本画のように木の描写にはこだわらなかったようです。
その辺の日本人の繊細さとゴッホの大胆さの対比が、面白いです。
この大きな太陽。
とても斬新です。
これだけ黄色い太陽が大きくても、不思議と受け入れちゃうのは、絵の構成のバランスがいいのだと思います。
この辺の空間的な認識は、江戸時代の日本人とは正反対だと感じます。
そう。
こちらは、まあまともな太陽。
そして、「種をまく人」
こちらが、元祖ミレーの「種をまく人」
農民を描くミレーはブルジョアジーには評価されなかったようでした。
それをあえて描くのは、画家としての援護になるのでしょうか。
それとも、単に真似てみたかったのでしょうか。
このあたり、パクリというよりも良いものは何でも吸収しようという貪欲さなのでしょうか。
ゴーギャンもこのような木の配置を試みています。
あえて日本画の常識とは、木の幹の流れを逆にしています。
そして、さらに進化させると、現生と神話の世界を木で隔てる絵を描いています。
パクリといえば、葛飾北斎の2枚の絵。
これを合体させると、こうなりました。
やるなゴーギャン。
しかし、わたしがどうしてこの絵を気に入ったかをご説明しますね。
この2枚の絵を見比べて下さい。
ほんの少しだけ視点をずらしただけなのに、まったく印象が異なります。
広い大地の奥行きを感じませんか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・
<<すみません。投稿した後で画像を確認したら、微妙な差異(つまり絵の味わい)が全く分かりませんでした。これから行く方は、会場で実物を見て堪能してください>>
ミレーは人物の躍動で、生き生きとした生命を表現しました。
でもゴッホは、大地の広がりと、恵みを与えてくれる太陽の存在によって、育まれる生命を表現しているように感じました。
見る者の視点を、右側からはるか彼方の左後方へと変えて、大地の豊かさを堪能できる絵だと思います。
次に構図の大胆さ、何となく日本画的な感じがしてなぜなのか考えたり…。
でも、ずっと見ていると絵から感じられるのは大地。
そうですね。
私が好きに思えた絵は、ポール・シニャックの
〝ジュデッカ運河、ヴェネツィア、朝〟と、題された絵と
ポール・セザンヌの未完の作品
〝庭師ヴァリェ(老庭師)〟でした。