MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



おいらが名古屋に居たのは16歳の高校一年生が終わるまでのタイミングだった。


高校生だったので、そんな飲み食いをするような年齢ではなかったね。高校一年生の最後3-4ヶ月は、家族は既に東京に移住していたので、瀬戸にいる父方の叔母の家から高校に通っていた。チャリ、いや、当時の言い方で言えば『ケッタ』で5分、10分あれば絶対お釣りの来る距離に実家があったんだが、高校までの道のりがいきなり1時間以上電車やバスと言うことになった。名鉄瀬戸線の尾張瀬戸駅と言うところから栄に出て、東山線で本郷まで乗り、そのあとバス、と言うね。とてつもなく面倒くさいルートで通った訳だ。ただ、幸いなことに、叔母の家の目の前に住むお兄さんが、本郷駅近辺を車で通る出勤ルートだということで叔母が話を付けてくれて、行きは毎朝乗せてもらって本郷まで行っていた。いやぁ、これはとてつもないアドバンテージで、通勤電車に乗らなくて住んだので、その方には心の底から、今でも感謝している。


ただ、帰り道は、当然自力で帰らねばならず、サッカー部の練習のあと、お腹が空いて食べて帰るとかしていたのである。


実際には、毎日練習が終わったあと、地元にあった松谷塾と言う学習塾に行って勉強してから帰っていたので、練習後に直接帰宅することは稀だった。そしてその松谷塾の松谷先生兄弟の弟先生が瀬戸の先にある尾張旭市に住んでいたので、塾での勉強後に乗せてもらって帰ったりしていた。これは完全にイレギュラーであったが、結構頻度は高かった。


当然、塾に行かない日は、誰も助けてくれないのでw、名東高校のあった極楽の交差点から本郷までバスに乗り、東山線、名鉄瀬戸線と辿って帰宅をしていた。


その時だよね、たまに栄とかで食べて帰っていたのは。名古屋には山程ある某遊技場で稼いだりしていたので、お金にはそんなに困っていなかったが、そこは高校生レベルの食事しかしておらず。その点、ラーメンとなると真っ先に出てくるのは寿がきやだったんだな。なので、おいらにとっては帰り道の味。帰るの、大変だったんだよねぇ。でもね、たまにそうやって食べて帰るのはそれはそれで楽しかったんだ。他にも色々とラーメン屋はあったんだろうが、おいら的には寿がきやが第一候補で、そのままその候補を選択して食べて帰っていた。

寿がきやは、そんな懐かしい味。

そもそも論は、東山線の上社駅に寿がきやがあって、その上社にある上社スイミングスクールに通っていたんだが、なんでかは覚えていないが、スイミングスクールのあととかに食べさせてもらったりしたんだよね。基本的には親が送り迎えしてスイミングスクールに通っていたので、なんで食べて帰ったりしていたのか、そこまでは記憶にないんだが、確かに当時は上社駅に寿がきやがあったんだよね。駅の反対側にあった、メイトウホスピタルと言う病院で怪我の治療をしていた帰りだったかなぁ。。。もう40年弱前の話なんで思い起こせないな。

まぁ、そんなこんなで寿がきやの味を思い出せるかな、と思ったけど、やっぱりお店で食べるあのシャビシャビ感の強いとんこつラーメンは、勝るものなし。

自宅でね、袋入のラーメンを作ってみたけど、お店で食べたくなった。東京には寿がきやなんてないから、名古屋に行った時くらいしか食べないんだよなぁ。。。でも、今、あれを名古屋でラーメン食べるなら、と言われた時に選ぶかどうかは正直微妙な感じはする…。名古屋に住んでいたらたまに食べたりはするだろうけど、イオンの中に入っている安いラーメン屋のイメージが正直な感想かなぁw。

ま、いつかまた名古屋で食べる機会もあるでしょう。



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