MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



二子玉川のRISEに車入れた時は13時過ぎでしたが、並びに並び、食べ始めた時には14時くらいで…。

もう、既にニコタマはコロナ禍の前の状況に完全に戻っている感じですかねぇ。別にそれで良いと思う。最早、やれることについてはサービスサイドも一般の人もやれることやり切っているだろうから。3回目のワクチン接種をしていてもオミクロンに罹患した人が発生したようで、いわゆるブレークスルー感染となった訳だけど、そういう確率論に怯え、全ての経済活動を停めると言うのであれば、ワクチン接種した意味が無くなってしまう訳で…。

2年前の今頃は、なんかヤバそうな伝染病が中国で発生したらしいから、水際対策するのかな、なんて安易なと言うか、楽観的なことを思っていただけで、実際、我々二年前の2月末にはGuamに行っていたくらいで。思えば、それが此処最近、直近の海外に行った最後になっているけど、反知性主義の政権下で、和歌山辺りや山口辺りの色々な政治屋の個人的な思惑なんかで中国に阿りすぎて、北海道とかのスキー場への中国人が大挙して訪問していたのを防がなかったから、一気に日本に蔓延したよね。まぁ、もう愚かな政治屋が跳梁跋扈して賢くない選択しかしないことにとやかく言っても仕方ない訳で。

結論やっぱりワクチンを射っているんだし、普通に経済活動する、で良いと思う。

アメリカのシティバンクのように、ワクチン接種をしていない人を解雇、と言うのは如何にもアメリカっぽくて、日本では中々そういうことに踏み切るのは無理だろうけど、ワクチン接種拒否、なんて言うことを公言して、人に迷惑を掛けることを厭わないような人には正直社会生活はご遠慮いただきたいと思うのが個人的な本音かな。社会契約説的な立ち位置で、一定程度の合理性を持ったある種の規範的なものを政府に委ねるしかないと思ってて。いや、そうじゃなければ、政府が国民のためにワクチンを用意すると言うことの合理性が全く無くなってしまう。こんなもの、個人の財力に委ねて、射つ、射たないなんてことを考えるのは有り得ない話で、ロックが唱えた思想ではなく、寧ろそれよりも前時代的なホッブス的な話の世界観若しくは倫理観依存社会になってしまう。そうなると、金持ちだけが助かって、、、と言うような話になりかねず、やはり社会契約説的な形でワクチン政策を進めてもらわねばならない。こと公衆衛生については、防疫の体制を含めて一定以上の権利は政府が持たねば自由は担保されることは絶対なくなるからね…。自分の権利を一層確実なものにするために、社会契約を行って権利の一部を政府に委ねる必要があると考えるのが自然と言うか、自由を謳歌したければ、痛くて嫌かも知れないとか討ちたくない理由はあったとしても、ワクチン接種、やれ、ってことになる訳で。


そんなことを道行く人々の多さにびっくりしながら考えて、みらんくんのバギーを押してました。



売りは自然薯らしいのだが、美味しかったし、なんなら免疫力向上になるのかなと思っていて、やっぱりこういう経済活動は重要だなぁと思いましたわ。



心の中の声としては、マジでコロナ、くそったれ!いい加減にしやがれ!!って常に思ってます。でも、抗う術としてはワクチン接種くらいしかないっていう虚しさも心の中で秘めながら生活していかないとね、と。

あぁあぁ、もうやだね、ホント。
飯くらい自由に食いたいけど、食べながらこんなこと考えたりするの、ホント不健全だよねぇ。。。



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