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"跡" を 辿って。

王城寺原駅・加美一ノ関駅 跡 | 仙台鉄道

2015-06-20 15:00:49 | 鉄道跡・廃線

仙台鉄道 王城寺原 ( 宮城県加美郡色麻町大下新町北 )



新町駅 を出た 線路 は田圃を北東へと走り抜け、色麻町 北大村 地区の 王城寺原駅 に到着する。出羽街道・国道 457号線沿いには 農協の倉庫 や 鶏卵出荷施設など JA の施設が集積しているが、駅跡からは若干離れているのでいくばくかの不自然感を覚える。( 今の「 ローソン色麻上新町店 」周辺、宮城県加美郡色麻町色麻町大上新町147-1 )



しかし、この駅は 物流拠点 と言うよりは 人の輸送が主体であったと考えられる。 不確かではあるが、今の 積水ハウス(株)東北工場 のある場所に昔は 陸上自衛隊 の 宿舎 があって、出張や帰省に頻繁に使われたらしい。 人の往来の多い所に経済活動は集中する。 宿舎自体がひとつの街のようになっており、さらに宿舎で働くスタッフも地元から雇用され、かなりの人が往来していたと思われる。








仙台鉄道 加美一ノ関駅 ( 宮城県加美郡色麻町一の関台通 )



駅前の タバコ屋 は、出羽街道・国道 457号線 筋の、竹荒商店(宮城県加美郡色麻町一の関台通11)だろう、駅はここより西側にあった。 この集落は、河童伝説 で有名、駅東側の「 磯良神社 」には、河童のミイラ化した腕 と言われる物体が保存されている。 実際に河童が人馬に悪さをしていたと言い伝わる川に架かる橋の欄干には、河童の石像が飾られている。



ところで、王城寺原駅 と 加美一ノ関駅 の間はさもない田園風景が広がるだけだが実は、凄い遺跡跡なのである!





色麻柵

宮城県内で 奈良時代の遺跡 というと、多賀城(宮城郡多賀城市)、郡山遺跡(仙台市太白区郡山)、吉岡東官衙遺跡(黒川郡大和町吉岡東)の 3つが思い浮かぶが、色麻柵 もそのもうひとつに数えられるそうだ。

『柵』は「き」 と 読み 『城』も「き」と読んだ。 『柵戸』とも表現され「さくこ」・「きのと」・「キヘ」・「キノへ」などと呼ばれていたらしい。

色麻柵 は要は、中央政府の者だと名乗る大勢の余所者が勝手にやって来て、地元民の土地だったところに勝手にキャンプを張って居座り役所 みたいなものまで作って、挙げ句の果てに連れて来た兵士達の住居まで建てて要らんのに周囲を開拓し出し…。 次第には大昔から住んでいたかのように地元に馴染んでいってしまった、というもののようだ。

多賀城 は 政府の支店だが、色麻柵 は 支店の分店の出張所 みたいなものだったと思う。 ここで働いた 武装開拓移民(鎮兵)は、現代で言う 出稼 の 土方 とか、奈良時代版の 屯田兵、みたいな。 宮城と山形を結ぶ 出羽街道( 鍋越峠 ) の開発・整備がメインの仕事だったようだ。 大半が 土着 したのだろうと思う。( 昭和の戦後も、満州帰りの開拓民が入植している土地柄でもある。)

そんな当時の 色麻 は、リアルタイムに全国的に紹介されている。 記録が少なくつい最近のことですら分からない事が多い東北の歴史の中で、奈良時代 に編纂された 日本国の正式書物 続日本紀 』に 記載があるのだから物凄いことだ。 715年(霊亀元年)に 関東で起こった大地震による難民をここを含めた東北全域に移住させようとした話や、蝦夷対策に朝廷が 多賀城 を置くその前哨として 播磨飾磨 (兵庫県姫路市)の住民をここに移住させたので、飾磨繋がりで 色麻 と命名されたのだろう話などが読み解けるらしい。

色麻柵 は、この 加美一ノ関駅 の南側、愛宕山( 宮城県加美郡色麻町四竃東原1-40 )の 北斜面から駅東側の田圃までの広大敷地にあったらしいが、さすがに往時を彷彿とさせるような遺構などある訳はない。 ただ、色麻町 を含む加美郡民のルーツの一部が 関西 にあるなんて何だか不思議な気がする。


北側斜面頂上付近から南側を望む。グラウンドゴルフコースや人工芝サッカーグラウンドがある。北側は採石場。






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