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未安心の部屋

「不安に立つ」ほかなし

compassion

2013年06月17日 | その他
すっかり忘れては、ふと思い出すこと。
婚約のとき、夫は結納返しとして懐中時計を所望しました。
名古屋の百貨店を何軒かまわって、品物を決めましたが、
その後で私はひそかに時計の蓋の裏に文字を彫ってもらうように注文しました。
文字はすでに決めてありました。
compassion

9.11のテロ事件のとき、私は1年間佛教大学の専攻科に在籍していました。
事件後の授業で、水谷幸正先生が黒板に書かれた「同悲」という言葉が
とても心にのこりました。
佛大では、私は仏教看護(ビハーラ)を学んでいて、そこでは仏教や哲学の授業もあれば、医学概論という名前の授業やカウンセリングやターミナルケア、病院実習の授業もありました。
(実習で棺桶の中に入ったこともあります。)

学んでいくうちに、
人は自分のこと(気持ち)がわかってもらえた、と感じられたときに(現実世界は変わらなくても)救われた気持ちになるんだな…
ということに気がつきました。
そして、もしかしたら法藏菩薩という人は、すべての人の苦しみや悲しみを知ろう、共にしようとする、という方法で救う人なのかもしれないな、と思いました。

でも、頭ではそのように理解しても
現実にはそのような行動が私にはできません。
できないけれど、忘れてはいけない。
そう思って、最も私が忘れやすいことを 文字として刻み込もうと思ったのでした。

            

しばらく前に、「話をしたい」とある人から訪問を受け、
何も返事ができないままになっていることが気になっています。
「わかるよ、わかるよ、そういうの。」
「本当につらかったね。」
そう言ってあげられるといい、と頭ではわかっていても
話を聞いて「ふうん。。。それで?」と思ってしまうと、そういう言葉が出てこないのです。
どうして、人の話を重く受け止められないのだろう…??
私の心のヒダは平たん過ぎて、言葉が滑っていってしまいます。

他にも、気になる人がいます。
知人のyasuさんが入院中だということはわかりましたが、様子がわかりません。
おそらく原因のよくわからない痛みに悩まされているのだと推測しています。
前者の人も倒れるほどの疲労があったそうです。
身体の痛み等、そして理解者のいない苦しみ…
辛さはさらに増してしまうのでしょう。

痛みという症状は不思議です。
現実にあるはずなのに、数値ではあらわせないし、人と比較もできません。

自己を形成していく“偶然”

2013年01月16日 | その他
昨年末頃だったか、夫が知り合いの女子高生から
facebook登録を知らせるメールをもらったのをきっかけに
夫も私もfacebookを始めるようになりました。

個人情報に関してうるさくなった現代社会に
こんな情報開示のサイトがあるのも不思議なのものです。
(震災の折には、この情報の共有が役に立ったそうですね。)
ずいぶん前に母校の同窓生名簿を購入しましたが
かなりの割合で住所も勤務先も書かれていなく
その後皆はどうしているかなぁ?という動機だっただけに
意味のない名簿でした。
まだ昔の知り合いはほとんど見つかりませんが、
facebookは新しい出会いを得るきっかけになりそうです。

           

今年度後期の大谷大学の聴講では、
鷲田清一先生の、所有に関する講義を受けていましたが、
昨日の内容は 自由の問題 でした。
「個人を閉ざす自由、他者から隔離する自由」ではなく、
「もう一度他者とつながる自由、個人を開く自由」があるのではないか、
ということで終わりました。
(題をつけるなら、「自分を変えてしまうような自由のススメ」でしょうか?)

遅刻ばかりのうえ、先週は休んだので
所有の問題と自由の問題との関係がイマイチわかりませんが、
推測するに「自分の意のままになる」という共通項があるのでしょう。
私たちは、
まず自分というものがいて、その自分が意思決定をして行動をしている、そしてそこに時々思いがけない邪魔が入ってうっとおしく思うような感覚を持っていると思います。
実際のところは、邪魔が入ったときこそ本来の自己が生ずるのでしょう。
偶然の蓄積・歴史が自己を形成してきたと考えれば
源左さんではありませんが、「ようこそ、ようこそ。」で
出会うものを迎えられたらいいものです。

Eテレ放送のお知らせ

2013年01月16日 | その他
NHK教育テレビで西田幾多郎と京都学派のドキュメンタリーがあるそうなので、ご案内します。
西田哲学の解説があるかどうかはわかりません。
以下は番組ホームページからの引用です。


日本人は何を考えてきたのか
 第11回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」

放送日:2013年1月20日(日) 午後10:00~午後11:30
番組内容:
「善の研究」で日本を代表する哲学者・西田幾多郎。戦争の時代に、西田とその弟子・三木清ら京都学派はどう向き合ったのか。生物学者の福岡伸一さんが最新史料を基に追う。


2012年12月14日 | その他
思い通りに事が運ばない。
そんなときが、
自分中心に生きていることに気づかされる機会です。
温暖な三河で育った私に対して
〈雪〉がときどきそんな役目を果たします。
電車や高速バスが運行中止になって
足止めをくらう、ということのある季節がやってきました。

今年の相応学舎の報恩講の講師は
一楽典次先生の予定だったのですが、
朝より北陸線が動かず、来舎不能となりました。
不幸中の幸いというか
もともと会の後半を担当される予定だった虎頭祐正先生が、
「君・吾の願い」と題して
代わりにお話しをして下さいました。


画像は懇親会の終わる頃の様子です。
今年も美味しいおでんをいただくことができました。
このおでんも
手伝いが一人欠けたら、
悪天候だったら(いつも庭で七輪で煮炊きするので)
予定通りにつくれない可能性があります。

偶然が悪い方向になったときだけ
慌てふためき、文句を言う私であります。
それでも、ただでさえ「しらさぎ」と他の電車との接続がよくないのに
雪で電車が止まってしまったら、
私は親の死に目に会えないな…と思うと
自坊に落ち着くのが嫌になる私でした。

『安田理深 唯識論講義』

2012年07月20日 | その他
最近、春秋社から安田理深師最晩年の講義録が出版されました。
これは、師が昭和51年から昭和56年にかけて
「東海相応学舎」で毎夏話されたもので、
全集には入っておりません。

価格は、上下各巻6300円(税込)ですが、
売れゆき好調という噂を耳にしました。
画像は春秋社さんのものをコピーさせていただきました。
書名は『安田理深 唯識論講義 上』
『安田理深 唯識論講義 下』(編集 本多弘之)です。



あと、2年で33回忌なのでしょうか。
学舎関係の皆さん、校正作業を終えるまで
元気でいて下さいませね。


西田哲学会

2012年07月14日 | その他
なかなかパソコンに触れる機会がなくて更新が滞っておりました。
今年度の西田哲学会の案内がありましたので、
部分的にコピーさせていただいてご案内します。

◇西田哲学会 第10回年次プログラム◇

日時:平成24年7月21日(土)、22日(日)
場所:京都産業大学・神山ホール
非会員は、参加費500円が必要(当日会場にて徴収)


第1日(7月21日(土))
 午前の部 10:30~12:10
【外国語セッション】発表
  ブレット・デービス Bret Davis (アメリカ、ロヨラ・メリーランド大学)
  「西田と異文化間対話の場所」

    ゲレオン・コップフ Gereon Kopf (アメリカ、ルター大学)
  「表現としての哲学 ― 異文化間哲学の新形態へ向けて」

【講読部門 『善の研究』勉強会】
 担当者 米山優(名古屋大学)、杉本耕一(関西大学)

 午後の部
【講演会】 14:00~17:00
  1)田中裕(上智大学)
「西田哲学とキリスト教」

  2)木村敏(京都大学名誉教授)
「西田哲学と私の精神病理学」

 【懇親会】 17:30~19:30


第2日(7月22日(日))
 午前の部
【研究発表】 10:00~12:25

  1)松本直樹(京都府立医科大学)
「西田幾多郎『善の研究』における過去意識の問題」

  2)三宅浩史(金沢大学)
「『現代哲学辞典』に関する文献的比較考察
   ― 三木清を中心とする哲学辞典編集史の一端」
 
  3)上原麻有子 (明星大学)
「西田幾多郎の身体論から女性の顔についての考察へ」

 午後の部
【シンポジウム「無」】 14:00~17:00
 提題
   岡野利津子(学習院大学)
「プロティノスの一者と西田の絶対無」

   長町裕司(上智大学)
「〈無〉理解の系譜学へ向けての思索的試み
― マイスター・エックハルトにおける〈無〉を巡る問題脈絡からの、ハイデガーと西田の下での〈無の思索〉への照射」

   氣多雅子(京都大学)
「無のダイナミズム」

父の日

2012年06月17日 | その他
京都の住まいには、庭に菖蒲の鉢があります。
この菖蒲の花が咲くと、夫の実父のことをふと思い出します。

結婚して一年目の母の日と父の日には、
寺の両親、夫の両親にそれぞれ
ささやかなプレゼントをあげました。
夫の父には、(母に聞いて)運動靴をあげました。

数日後
「たまたま近くを通りかかったら、門が開いていた。」
と言って、父が私たちの住まいを訪ねてきました。
ちょうど庭の菖蒲が咲いていたので、一緒に写真を撮りました。
「お母ちゃんにはナイショだぞ。」と何回も父は言いました。

「よっぽど、嬉しかったんだな。」と夫が言いました。
この3ヵ月後に父は亡くなりました。

              

昔から「父の日」は、何をあげるか困る日です。
私の父は、酒もタバコものまない、お洒落やスポーツ、グルメも縁がない人なので
あげる物がなくて困りました。
私が働くようになって、百貨店でパジャマを買っても
一度も着てくれなかったので、もうあげませんでした。

本当は、母の日も父の日も
日頃の感謝をする日のはずなのですが…。

              

私は外に勤めに出てないくせに家事もおろそかで、
育児に至っても夫の支援を受けてばかりの毎日です。
「あっ。これ、やっておいてくれたんだ。」と気づくことがあっても
それが頻繁なあまり、毎回言葉で表現することができません。
真宗関係では、「無財の七施」という言葉を耳にすることはありませんが、
あまりにもそこから遠い日常の行ないであることを自覚する日として
今日は父の日を過ごさせていただきます。
(正確には、父や夫にありがたみを感じていない自分を反省する日、か。)

ちなみに、「無財の七施」とは
 1.眼施(げんせ)…やさしい眼差しで人に接する
 2.和顔悦色施(わげんえつじきせ)…にこやかな顔で接する
 3.言辞施(ごんじせ)…やさしい言葉で接する
 4.身施(しんせ)…自分の身体でできることを奉仕する
 5.心施(しんせ)…他のために心をくばる
 6.床座施(しょうざせ)…席や場所を譲る
 7.房舎施(ぼうじゃせ)…自分の家を提供する
です。
〔天台宗一隅を照らす運動ホームページより引用〕

この1冊

2012年06月08日 | その他
先日、南御堂新聞を広げたときに本の紹介が目に入りました。
『清沢満之集』(岩波文庫)です。

あれ? 昔の復刻版かな?と思ったら
「安冨信哉編 山本伸裕校注」とあります。



よく知られている文章も
清沢満之本人の原文はどうなっているか、
弟子がどのように加筆修正をおこなったか、
といった研究成果が記されているようです。

輪読会のテキストにもいいかもしれませんね。
私のバイブルになったらいいなぁ…。

映画

2012年06月08日 | その他
名古屋別院にいる知人から、映画の紹介をいただきました。
題名は「死刑弁護人」。
東海テレビで放送されたものだそうです。
麻原彰晃や林真須美、光市母子殺害事件の元少年等の弁護人を引き受けてきた、安田好弘弁護士のドキュメンタリーとのこと。

名古屋では名古屋シネマテークにて公開(6月30日~7月20日)です。

             

名古屋シネマテークという名前を見て、懐しくなりました。
私はそこでイラン映画などを見たことがあります。

大学生のとき、同級生から「今までで一番良かった映画は?」と聞かれ、
「赤毛のアン」と答えた覚えがあります。
それからも映画は何本も観ているはずですが、
どの作品が一番心にのこっているか、と訊かれたら 思い出せません。
ただ、出産後は「武士の家計簿」くらいしか観ていませんので
ほのぼのと この作品が心に残っています。





西田哲学を学ぶ

2012年06月01日 | その他
「これ1冊で西田哲学の本質がわかるというものはないか」というコメントをいただきましたので、先生にご紹介いただきました。

【思想そのものに関心がある人向け】
 ・上田閑照著『西田幾多郎を読む』 岩波セミナーブックス

【人物にも関心がある人向け】
 ・上田閑照著『西田幾多郎とは誰か』 岩波現代文庫

ただし、どちらも書店ではもう手に入らないようなので、図書館等でお探し下さいとのことです。
また、西田幾多郎の命日(6月7日)が近づいたこと、京都大学で西田・田辺記念講演会が6月2日にあることもご紹介いただきました。


(この猫はニャンだろう?)
         
             

最近は、私はあまり輪読会に参加できないのですが
西田の次の文章に出遇って、救われた思いがしました。

「人間が徹底的に自由とならうとすればする程、絶対の鉄壁に打当る。人間が真に人間であらうとすればする程、人間は危機の上に立つのである。そこまでに至らない人間は、厳格には酔生夢死の動物の域を脱したものでない。」

自坊に帰ると、私は自分の意志も自由も放棄しがちになります。
生きているのに生きていない、そんな人間になってしまいます。
まあ、何事も3年は(上司に)言われる通りに行動するものという文化もありますが、
「坊守という十字架(あるいは線路)が待っている」気分にしばられ、
自分が自分である前に「お寺の人らしくならないといけない」思考が先立ち、
でも、それも出来そうにない自分に「ただダメな人間」としか思えなくなってくるという、
二重否定感情にとらわれてしまいます。
苦しむ方向が違っていましたね。