毎夏、お盆過ぎになると
西田幾多郎記念哲学館では夏期講座が開かれます。
ここで親しくなった人が、私の自坊での滞在日を尋ねてきたので
ひょっとしたら立ち寄ってくれるのかもしれないと思ってから、
ふと思い出して2冊の本を取り出しました。
著者は磯貝暁開という、碧南の大浜出身の人(故人)です。
もう5年は過ぎているはずなのですが
西田記念館の元館長さん(I氏)から、戦時中刈谷(愛知県)の軍事工場で磯貝氏と一緒だったけれど、宗教や哲学に関心があるとは当時互いに知らず、後に金沢でばったりと再会した、という話を聞き、I氏に(同じ青春時代を生きた)磯貝氏の本を差し上げたいと思ったのでした。
磯貝暁開氏に私は会ったことがありません。
私の人間関係は、清沢満之あるいは西田幾多郎に何らかの形で関わる人に多く影響を受けていまして、碧南に縁をもつようになったのは、山崎正広という、元学校教員の人の話を暁天講座で聴いたのがきっかけでした。
初めて西方寺さんの勉強会に顔を出したときにたまたまみえていた西村見暁氏も、山崎氏も、故人になられて もう随分と経ちます。
清沢満之記念館ができたのは、磯貝暁開氏が「自分が死んだら蔵書を寄付したい」と言われたのがきっかけの一つと聞いています。
(その蔵書は、貸し出し可能かまでは知りませんが、閲覧可能な状態に保管されていると聞いたことがあります。)
以前その蔵書を目にしたとき、西田哲学周辺の本も何冊かあるな、と思ったのですが、氏の本をかいつまんで見ると、小学校の6年間しか学校教育を受けておられません。
中日文化センターの講師をしておられたと聞いていますが、難しい哲学書や仏教専門書を読みこなすようになられるまでの軌跡に、ようやく私も目が向くようになりました。
人生の謎に対する問い、求道心…といったものが、磯貝氏の支えであったであろうと推測されます。
I氏に差し上げよう、と思いながらも、「一通り読み終わってからにしよう」とまた思ってしまうのでした。
前もそう思って、渡さずじまいになってはずです…。
本にある「名古屋崇信学舎」という表記には、金沢の崇信学舎とのご縁も思わされます。
お子さんがおられなかったので、きっと思い出す人も僅かになられたでしょうね。
明達寺に入られた清沢哲夫氏から「命にかえてでもこれを西方寺に届けるように。」と託されて、風呂敷包みを腰に巻いて届けたのが「臘扇記」であったとは、もうどうでもよい逸話かもしれません。
私にとって、「会ったことのない知らない人」から「ご縁の深い人」に変わるのはいつでしょうか。
それとも、また忘れ去ってしまうでしょうか。。。
同じように、会ったことのない故人の著書で、気になる本がほかにもあります。
柿本謙誠という人のものです。
以前、お世話になった人から3冊ほど本をいただきました。
私がお寺に嫁ぐことが決まったことを報告したとき、
「お寺に仏法はない。
自分が出会ったなかで、本当に仏法を求めた人間は柿本しかいない。」
とピシャリと言われたことが心に残っています。
人は必ず死んでいくもので、忘れ去られていくのはやむをえないことです。
残すべきは、名前ではなく その人の求道心、歩み…。
そして、それはそのまま「生きた証」となるのでしょう。
西田幾多郎記念哲学館では夏期講座が開かれます。
ここで親しくなった人が、私の自坊での滞在日を尋ねてきたので
ひょっとしたら立ち寄ってくれるのかもしれないと思ってから、
ふと思い出して2冊の本を取り出しました。
著者は磯貝暁開という、碧南の大浜出身の人(故人)です。
もう5年は過ぎているはずなのですが
西田記念館の元館長さん(I氏)から、戦時中刈谷(愛知県)の軍事工場で磯貝氏と一緒だったけれど、宗教や哲学に関心があるとは当時互いに知らず、後に金沢でばったりと再会した、という話を聞き、I氏に(同じ青春時代を生きた)磯貝氏の本を差し上げたいと思ったのでした。
磯貝暁開氏に私は会ったことがありません。
私の人間関係は、清沢満之あるいは西田幾多郎に何らかの形で関わる人に多く影響を受けていまして、碧南に縁をもつようになったのは、山崎正広という、元学校教員の人の話を暁天講座で聴いたのがきっかけでした。
初めて西方寺さんの勉強会に顔を出したときにたまたまみえていた西村見暁氏も、山崎氏も、故人になられて もう随分と経ちます。
清沢満之記念館ができたのは、磯貝暁開氏が「自分が死んだら蔵書を寄付したい」と言われたのがきっかけの一つと聞いています。
(その蔵書は、貸し出し可能かまでは知りませんが、閲覧可能な状態に保管されていると聞いたことがあります。)
以前その蔵書を目にしたとき、西田哲学周辺の本も何冊かあるな、と思ったのですが、氏の本をかいつまんで見ると、小学校の6年間しか学校教育を受けておられません。
中日文化センターの講師をしておられたと聞いていますが、難しい哲学書や仏教専門書を読みこなすようになられるまでの軌跡に、ようやく私も目が向くようになりました。
人生の謎に対する問い、求道心…といったものが、磯貝氏の支えであったであろうと推測されます。
I氏に差し上げよう、と思いながらも、「一通り読み終わってからにしよう」とまた思ってしまうのでした。
前もそう思って、渡さずじまいになってはずです…。
本にある「名古屋崇信学舎」という表記には、金沢の崇信学舎とのご縁も思わされます。
お子さんがおられなかったので、きっと思い出す人も僅かになられたでしょうね。
明達寺に入られた清沢哲夫氏から「命にかえてでもこれを西方寺に届けるように。」と託されて、風呂敷包みを腰に巻いて届けたのが「臘扇記」であったとは、もうどうでもよい逸話かもしれません。
私にとって、「会ったことのない知らない人」から「ご縁の深い人」に変わるのはいつでしょうか。
それとも、また忘れ去ってしまうでしょうか。。。
同じように、会ったことのない故人の著書で、気になる本がほかにもあります。
柿本謙誠という人のものです。
以前、お世話になった人から3冊ほど本をいただきました。
私がお寺に嫁ぐことが決まったことを報告したとき、
「お寺に仏法はない。
自分が出会ったなかで、本当に仏法を求めた人間は柿本しかいない。」
とピシャリと言われたことが心に残っています。
人は必ず死んでいくもので、忘れ去られていくのはやむをえないことです。
残すべきは、名前ではなく その人の求道心、歩み…。
そして、それはそのまま「生きた証」となるのでしょう。