河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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俄――転換期

2022年09月18日 | 祭と河内にわか

 〈座敷俄〉は座敷でするので、「人に見せる」ことより、「自分たちで楽しむ」ことが中心で、夏祭り期間の素人の遊びには違いなかった。
 ところが、大勢でする芝居がかった〈座敷俄〉が大転換をもたらす。

 やがて、俄好き(数奇者たち)が「谷」と呼ばれる集団をつくり、神社や寺の境内に小屋を設けて興業をするようになったのだ。
 数日にわたる興業なので、決まった演目、しかもそれなりの長さを持ったものでなければならない。そこで歌舞伎、浄瑠璃の演目を縫い合わせて笑いにする〈縫い俄=俄芝居〉となる。
 俄は俄師によって興業化され、より華美になっていき、大阪俄が全国に広まるきっかけともなった。
 しかし、俄の本質が衰退していくことを嘆く者もあった。
 江戸時代末期の嘉永(1848~)に書かれた『古今二和歌集』で、作者の倉腕家淀川は次のように述べている。
 ――俄は一時即興(一回きりの即興芸)のものだ。新鮮さが良いのだ。再演などしてはならない。確かに、今の俄はウケているし上手である。しかし、昔は下手であったが、理屈に縛られず、愚かであるところに、なんとも言えない味わいがあることを美とした――。
 俄の興行化は、俄の本質である〈一回性〉だけでなく、神に奉る〈神事性〉、素人の楽しみである〈遊戯性〉を放棄することでもあった。

 『古今俄選』は、幕末に問題になっている歌舞伎・浄瑠璃の模倣=物真似について、すでに次のように述べていた。
 ――物真似、これもオチがなく、本芸のまねだけする。結果として、物真似自慢にすぎない。俄師は好まないものだ。風流はまったくない――。
 弘化五年(1850)の『風流俄選」の著者月亭正瀬は、
 ――私が考えるに、今昔の名人達の俄を見ていると、どんな役柄をしても、少し笑みを浮かべてセリフを言う。これでこそ俄の情深く、風流を離れず、実に滑稽である。にもかかわらず、俄が未熟な者は、侍は侍で通し、坊主は坊主らしき事ばかり言って、ボケルところがなく、四角四面ばかりだから、「はこや」と戒めたいものだ――。
 歌舞伎や狂言などの本芸を俄の中に持ち込み、衣装・かつら・仕草・セリフをそのまんま演じるのは、「箱屋」の写実芸でしかないというわけだ。
 大阪俄の中興の祖と呼ばれる村上杜陵(とりょう)は『風流俄天狗』でこう述べている。
 ――俄の姿は楽焼(手でこねて作った素朴な焼き物。千利休が愛用した)のごとくで、演じる役柄の気持ちをよく理解し、医者の役ならすべて医者らしいのがよいのだが、この医者が高師直(歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に出てくる吉良上野介にあたる役柄)となる趣向なら、歌舞伎言葉は迫真の師直となり、その合間合間にボケたことを言う。ボケとはとぼけるの略語で、これこそが俄の最も大事なことだ。よって、その役に医者の気持ち、師直の気持ち、俄を演じる者の気持ち、姿、言葉を、三つに分かつを極意とする――。

 俄の興行をする俄師とそれを批判する者との間に議論がなされるのだが、村上杜陵が中に入っておさまった。
 かくして、一般庶民の〈流し俄〉・旦那衆の〈座敷俄〉・プロ集団による〈縫い俄〉の三つが互いに影響を受けつつ演じられていくことになる。

※上図は『風流俄天狗』より (早稲田大学図書館古典籍総合データベース) 

※下図「大阪芝居絵」より (大阪市立図書館アーカイブ)

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