カレー屋(EXA)

エキプロ5で遊ぶブログでした。もはやその名残りはほぼない。

“感想を書くこと”についての感想文

2021-08-18 00:00:00 | 雑記
カレーです。

緊急事態宣言の宣言域が拡大になったりする今日このごろ、
皆様いかがお過ごしでしょうか。

私は先月連休中働いてるときに、
お世話になってるお医者様から「1月ほどの切迫感は(まだ)ない」と
お伺いしたその翌々日くらいから感染状況が超悪化して、
改めてこの感染症の脅威を強く感じつつ、
今週末の出張予定がつい昨日キャンセルになり、
このご時世この判断の遅さはちょっとアレだなあとか思いつつも、
行けない予定だった日曜の富士通スタジアム大会が
ワンチャン希望の芽が出てきたのでは…

という、
まあ、
変わらぬ思考回路で日々なんとかギリギリ過ごしてます。



そんなロクに変わらない思考のまま、
私は明日(今日?)、35歳になります。

例年通りお誕生日まわりは徒然なるままに、
なんとなくフワッと書きたいことを適当に自由に綴るようにしています。

今年のテーマは「感想を書くこと」について。



何度か申し上げたことがあるような気がしますが、
私は子どもの頃から、感想文が得意…というか、
…厳密に言えば、“苦手に感じたことがない”が
正解かもしれない。

自分が考えていること、思っていることを言葉にするときに、
個人的には“書く”という行為のほうが信頼性が高いです。

そしてあまり思考や動作の瞬発力にまるで自信がないので、
“行動する”ことや“話すこと”については、
自分で自分自身に全く信頼をおいてません。

ともすれば自分の喋り言葉も行動も、
“配慮に欠けるor慎重になりすぎて何もできない”
とすら感じるので、間違いや嘘が多いし、
出てくる単語も比喩表現も、喋り言葉にするには難解すぎる。

つまるところ、人類としてのコミュニケーションに著しく難がある。

歳を重ねようともあまり成長しないので、
もうちょっと反省したいところです。

その点、“書く”ということについては幾ばくか、
その点の自由が効くこともあってなのかなんなのか。
比較的、思っていること考えていることに近いこと、
“嘘”の混じりが少ない(その分、オブラートはより多い)ように感じます。



感想文を書く目的は…なんだろう。

第一には自己満足。

第二には記憶の記録として。

ほんのりとした可能性としては…広報になればとも思いますが、
まあそこまで期待するのはちょっと欲張りすぎか。

あとで振り返ったときに、
より鮮明に出来事思い返しやすいのは、
とりわけ記憶力がやや怪しくなってきたこの数年においては
特によく機能している気がしてます。

感想はより近い日付のほうが今と考えていることのギャップが少なくて、
今読み返してもあんまり違和感がない。

逆に古くなれば古くなるほど、
サクッと削除したい気持ちに溢れることもしばしば。
まあ、日記とかツイートとかもそうですよね。



最近はプロレスばっかり見てるので、
感想文を書くにあたってはもっぱらプロレスの話ばかり書いてます。

しかしまあその感想なんですが、
私は個人的に、ですが。

基本的には、試合の“前”の感想を、
好んで書いてます。

これには、
意図している“書かない”理由と、
どちらかと言えば能力として“書けない”理由、
その2つの葛藤がなんとなくフンワリとあります。



試合の“後”の感想を
“書かない”主な理由といたしましては…
誰かの感想を、決めてしまうのがイヤだから。

…正直あんまり深く考えてはいないんですが…

自分が感想を綴ることで、
もしかしたら“正しい見方”みたいなものを誰かに押し付けて、
それぞれがそれぞれに目にしたものに対して思ったものことを、
ギュッとコンパクトに押し込んでしまうんじゃなかろうか、
もっと面白く見れていた面白いものに、
“誰か”の尺度を当てはめさせてしまうのではなかろうか…
という、些末な懸念。

もちろん自分の言葉にそんな遡及力があるとは思いませんし、
“他の誰かを傷つけない”という限りにおいて、
感想を語ることはそもそも自由です。

自由ではありますが、その“自由度”の高さが逆に、
感想を綴ることを難しくしているというかなんというか。
“他人の自由”を妨げず、かつ、“他人の気持ちを傷つけない”という塩梅が、
個人的には、とても難しいものであると感じています。



もう少しだけ踏み込もう。

プロレスに限らず、世の中にはたくさんの“勝敗”に溢れてます。

そしてそこには、勝者を思う気持ち、敗者を思う気持ち、
あるいは、その関係を思う気持ちやなんやらかんやら、
とにかくたくさんの歴史や物語で成り立っているものだと思います。

必ずしも誰かの気持ちを傷つけることがなくても、
何かのきっかけでどちらかの物語が強まってしまえば、
相対的に、どちらかの物語は薄まってしまう。

…私は個人的に、嗜好なのか習性なのか。

どうしてもその“薄まる”物語の、味方をしてしまう。
見えないものにしてしまいたくない。

でもその時点で様々なバランスを欠いてしまっていて、
ともすれば誰かを傷つける配慮を欠くようなリスクを負うことになってしまう。

それは、やっぱり自分の本意ではない。



…とか、
なんとか面倒なことを考えたり考えなかったり、
むしろ今考えて整理するとこんな感じだろうかとか
思いつきで思いながら、世の中のアレコレを見ていたり見ていなかったり。

まあそれでも、試合中の場面場面で思ったこと考えたこと驚いたことなどなど、
「アレすげえ」とか
「コレどういう動き!?」とか
「コレはソレのオマージュだwww」とか、
やっぱり試合を見ていると際限がなく感想は出てくるので、
どうしてもなんか触れておきたかったり残しておきたいことは、
写真を添えながら「このときこのように思いました」というのを
綴らずにはいられないあたりが、
私のエゴの限界だったりします。

Twitterで呟く内容は概ね、
“I think ※※, aren't you ?”
の心情ではいるつもりではありますので、
リスク云々御託を並べましたが、
結局のところ聞いてみたいんですよね。

あなたは、どう思いましたか?



あともう一つの理由は…

…先日Twitterでなんとなく似たようなことを考えてるのを見かけて、
“いいね”ボタンを連打したんですが…

プロレスの試合を見たあとの感想って、
基本的には“良かった”しか
結局のところ、語彙がないんですよね。

プロレスや、プロレスに限らず世に提供されている
会場リング上舞台上のあれやこれやの様々なパフォーマンスについて、
様々な研鑽の上に成り立っていることには違いないと思っていて。

それが例えキャリアが浅かろうがなんだろうが、
(もちろん例外はありますし、滅多にないけど“好き嫌い”や、
背景にある事情や物事の考え方の違いで拒否したくなるものもありますが)
よっぽどのことがない限り、
その研鑽に払えない敬意の持ち合わせは、
少なくとも今現在の私にはあまりなく。

…想像力の乏しかった時分は、それはもう酷かったけれども…

なので試合で得る感想は、例えるならば枕草子。
無数の“をかし”と“あはれ”に、
リングの上は溢れています。

結局なので、受け取ったものを受け取ったまま、
“をかし”“あはれ”と、ただただ感じ入るばかりになりがちです。



…あと、これは個人的には、
その“をかし”“あはれ”的な感情を、
上手い語彙に置き換えができない、
という、単純に個人としての能力の問題でもあると思っていてですね。

何故かといいますと、
プロレス会場で度々体験するんです。

“この感受性には、勝てない”

と思うような感想を、耳にすることを。



具体例を挙げましょう。

以前、私こんな感想文を書きました。



文中、私は九州プロレスという空間の特徴の一つとして、
“声”というものを挙げました。

でもこの“声”は、厳密に言えば、発話のことを指すものではなくて。

この空間に満ち溢れている…
言うなれば、瑞々しい感受性、とでもいいますか。
あるいは、“感情(感動)の量”とでも言えばいいでしょうか。

九州プロレスキッズたちの数多あるその感受の中から、
漏れ聞こえたもの、発露の欠片として、“声”を例示し、
お伝えした…というのが、本来思うところであったかと
今更振り返っています。



7月5日、九州プロレス西鉄ホール大会メインイベント。

玄海vs真霜拳號vsGAINAという、
もはやどこの団体でも実現不可能な気さえする、
九州プロレスだからこその3WAYでの王座戦が行われました。

で、
ノコノコ足を運んだ3WAY大好きおじさんこと私、
開始からいきなりフルギアなぶつかり合いに、
顎まで覆ったマスクのしたで終始笑いながら
「すげえ…すげえ…」
と、傍から見たらとても気持ち悪い感じで呟いて嬉々として
観戦していました。

しかしまあ、ここは九州プロレス。

平日夜という難しい日程ではあっても、
やはり子どもの割合が高いのが一つ特徴でして。
私の真後ろの席も、九プロキッズが観戦していらっしゃいました。

3人の猛者というべきか、もはや怪物と呼ぶべきなのかという攻防を
息を呑むように見つめながら、
おそらくはお隣にお座りでいた親御さんに向かって、
こう言うんです。

「戦争よりヤバい…」

私にこの語彙は、
この感受性は、
ない。

感想にもちろん勝ち負けなんてある訳はないんです。
ないんですが、それでも、
この感性にはハッキリと、
“勝てない”
という気持ちが湧きました。


[7.5 西鉄ホール:“戦争よりヤバい”3WAY]


…そしてまたこういう瑞々しい感性に(図らずとも)触れることができるのが、
会場でみるプロレス(に限らず様々なライブイベント)の魅力であり、
また、九州プロレスならではの魅力だなぁと、
改めて、思います。



話は逸れてるでしょうか、逸れてないでしょうか、
若干自信がなくなってきました。

でも、この九プロキッズたちのように、
誰かのフィルターを通すことで、これだけ瑞々しく感じられ、
より一層そのプロレスを、素晴らしいものに感じさせてくれる、
という体験からは、自分自身もう一つ、学ばなきゃいけないことも
あるように思っておりましてですね。

一方にはやっぱり、感想を、体験を綴るということの可能性を、
この体験は示してくれているようにも感じます。

惜しむらくは、このあまりにも瑞々しい感想は、
発話であるが故に、形に残らない。

…私みたいな耳聡いプロレス好きの面倒くさいオジサンが
近くに座っていない限り…



…私も“語彙がないからできない”なんて言ってしまうには
少しばかり怠慢でしたね。

例え同じような語彙を、体験を持ち合わせなくても、
自分の持っている語彙で、
自分のフィルターで、自分の体験を発し、
また、こうして形に残すことは、
もしかしたらどこかの誰かには巡り巡って届くかもしれない。
もしかしたら後々誰かに、あるいは自分に届くかもしれない。

その可能性を信じることくらいは、
あってもいいような気がする。

もちろん、“他の誰かをできる限り傷つけない”という前提は変わらない。

誰かがその前提を踏み越えてしまい、その自由すら無くなる世が
もしかしたら来るかもしれません。

そしてこれはあまり想像したくないし、
絶対にそうならないようにはしたいと思いますが…
それでも“自分がその前提を踏み越えないとは限らない”ということは、
常に頭のどこかにおいて過ごさなければいけないようにも思います。

そうした前提と、自身の想像力をとにかく損なわないよう十分頭に入れた上で。

世の中が許してくれる限りは、しばし、
感想を残すということを続けていきたいなと思います。


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