アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
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第三の波の政治 第8章 第三の波の基本原理

2011年11月18日 18時34分10秒 | 第三の波の政治
本著で、主張する核心部分がこの第8章です。
第二の波のシステムを延命するための思考と第三の波に以降するための思考を区別できるよう、見極め方を5点に分けて述べています。しっかり読みましょう。

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第三の波の政治 中央公論社刊 1995.7.7発行
第8章 第三の波の基本原理 p.141~p.153

激しく渦巻く変化の波に取り巻かれ、よりいっそう迅速に反応することを求められているわれわれ現代人は、あたかも、止めることのできない巨大な波に向かって抜き手を速めようとしているかのような感覚をいく度となく味わう。だが、これは錯覚ではない。現に、そのような事態が頻繁に生じているのである。したがってわれわれは、この波を乗り越えるために、サーファーのように波の力を利用しながら前進する術を、いまこそ体得すべきだと思われる。
これまで述べてきた第三の波が、アメリカを、より市民的で、より民主的な、よりよい未来へと運んでくれる可能性は十分にある。しかしそのためには、国民自身が、第二の波の経済・政治・社会政策と第三の波のそれを峻別することが必要だ。これほどまでに多くの改革が、よかれと思って実施されながら、事態の悪化を印象づけるだけで終わってしまうのは、この見きわめがきちんとなされていないからにほかならない。
われわれがいま経験しているのは、新文明(その制度は、いまだ確立されていない)を創出するにあたっての産みの苦しみなのである。それゆえ、今日、政策立案者と政治家、それに政治活動を行なう市民が現在の自分たちの動きの何たるかを真に理解しようと思うなら、崩れゆく第二の波のシステムの延命を目的とした計画案と、第三の波の文明への移行を円滑に進めていくための案とを区別できるようになることが、まずもって必要なのだ。
したがって、ここでは、両者の見分け方をいくつか取り上げてみることにしょう。

1 工場運営との類似性
 工場は、産業社会を象徴する主要な存在だった。事実、第二の波の制度の大半が工場運営をモデルにして作られた。だが、われわれの知っている、そうした工場も、いまや過去のものとなりつつある。工場が運営上の原則としていたのは、規格化、集権化、最大化、集中化、官僚化などだったが、第三の波の生産は、新たな原則に基づく脱工場生産となる。しかも、この生産は、工場とはほとんど類似性をもたない場所で行なわれる。現時点でもすでに、自宅や会社、あるいは車や飛行機のなかなどで行なわれる生産活動が増加している。
 議会においても、企業においても、第二の波の提案を見抜くためのもっとも簡便な方法は、その提案が(意識するとしないとにかかわらず)依然として工場運営をモデルにしているかどうかを見きわめることだ。
 例えば、アメリカの学校運営はいまだ工場型である。そこでは、原材料(すなわち子供)が、規格化された指示とお定まりの検査のもとで処理されている。したがって、いかなるものであれ、教育を刷新するための案が提示されたときには、それが、単に学校工場の効率を高めるためのものなのか、それとも学校から工場方式を完全に払拭し、個々の生徒を対象にした特別注文型の教育を実現しようとするものなのか、という違いが重要なポイントになる。保健法や福祉法についても、また、連邦制に基づく官僚制の再編をもくろむ、ありとあらゆる提案についても同じことがいえる。いかなる場合にも、アメリカが必要とする新制度は、官僚制を脱した脱工場方式に基づくものであることを忘れてはならない。 
 工場型運営の改善や工場そのものの新設だけを求める提案にも、それなりにいろいろな意味があるかもしれない。だが、それは、断じて第三の波の提案ではないのである。

2 大量化社会との関連
 ハード中心の第二の波の経済のなかで工場運営に携わった人たちは好んで、アセンブリー・ラインに適する、交換可能で従順な労働者を数多く求めた。その結果、大量生産、大量販売、大衆教育、マスメディア、そして大衆娯楽などが社会の全域にひろがり、それに伴い、第二の波そのものも「巨大な塊」を形成するにいたったのだった。
 第三の波の経済が必要とし、将来多くの報酬を出すことになるであろう労働者は、第二の波の労働者とは本質的にタイプを異にする。彼らは思考し、疑問を抱き、古きを刷新し、企業のリスクを積極的に担う。つまり、彼らは、簡単には交換のきかない労働者なのである。したがって、第三の波の経済が好むのは、個人ベースの動き(必ずしも個人主義と同じではない)だともいえる。
 新たな頭脳経済は、必然的に社会を多様化する。例えば、コンピュータ化された特別注文生産は、きわめて多様なライフスタイルを生み出す可能性がある。11万の異なる製品を取り扱っている、各地のウォルマートや、種々のコーヒーを用意しているスターバックスを見ただけでも、ほんの数年前のアメリカとは隔世の感がある。だが、ことは物品の変化にとどまらない。それにも増して重要なのは、第三の波が文化、価値観、さらには道徳さえをも多様化していくことなのだ。非マス化したメディアは、しばしば衝突し合う多種多様なメッセージを文化のなかに送り込む。仕事だけではなく、余暇の過ごし方や芸術様式も多様化するし、政治活動も多様化する。また、宗教・信仰集団の数もふえていく。しかも、アメリカという多民族国家では、民族、言語、社会文化の各面において、集団の細分化も進むことが予想される。そうした流れのなかで、第二の波派は、大量化社会の維持か、ないしは復活を望む。それに対して、第三の波派は、非マス化を己のために活用する手立てを模索するのである。

3 籠のなかの卵の数
 第三の波の社会の多様性と複雑さは、極度に中央集権化した機構の回路を打ち砕く。問題を解決するにあたり、権力をトップに集中するのが、第二の波の常套手段だった。しかし、時に集権化が必要な場合があるにしても、現在みられるような、バランスを欠いた過度の集権化は、あまりにも多くの決定事項という卵を一つの籠のなかに詰め込むため、「過負荷」による決定機能の麻痺を引き起こしてしまう。かくして今日、ワシントンでは、議会と政治が、急速に変化する複雑な問題、しかも彼らだけで理解するのがますます困難になっていく諸問題を手に余るほど抱え込んだ結果、決定を下しきれなくなり、焦りに焦っているのである。
 一方、第三の波の機構は、トップによる決定を可能なかぎり避け、それを周辺に委ねる。企業は、いま急いで社員の権限を強めようとしているが、これは愛他主義に基づくものではなく、下部の人間のほうが、おおむね、よりよい情報をもち、危機に対応するにも、好機に処するにも、上部の有力者より機敏に動くことができるからなのだ。
 卵をすべて一つの籠に入れるのをやめ、それらを多くの籠に分散すべきだという発想はべつに新しいわけではないが、第二の波派はこの考えをひどく嫌うのである。

4 垂直統合型企業組織か、それとも仮想企業組織か 
 第二の波の機能は、長年にわたり職務をふやしつづけた挙げ句、贅肉だらけになっている。第三の波の機構は、職務をふやさずに、削るか、ないしは下請けに出し、スリムな体を保つ。だからこそ、氷河期が近づき恐竜が絶滅しても、それらは生き延びていけるのである。
 第二の波の企業組織は、「垂直統合」(例えば、自動車を製造するには、鉄鉱石を掘り出し、それを製鉄所に送ってはがねにし、しかるのち自動車工場に発送するまでの全過程を統合しなければならないという考え方)を強く志向する傾きがあり、その衝動を自ら抑制することがなかなかできない。それにひきかえ、第三の波の企業は、できるだけ多くの仕事を外注する。下請け先の多くは、より小規模で、より専門化されたハイテク企業か、場合によっては個人となる。そのほうが仕事の質がよくなるうえに、時間がかからず、しかも低コストですむからだ。第三の波の企業は、極限に向かって意図的に空洞化されていく。人員はぎりぎりまで削減され、生産活動が行なわれる場所は分散する。そして、組織そのものが、バークリーのオリバー・ウィリアムソンのいう「契約の絆」へと変貌していく。
ロンドン・ビジネス・スクールのチャールズ・ハンディが論じているように、こうした「目につかないが、最小限の規模で最大の効果を生み出そうとしている企業」が、いまや「現代世界の要」になっているのである。
 ハンディは、さらに、われわれの多くは、直接雇われていなくても、それらの企業にサービスを売るかたちになる、と指摘したうえで、「それゆえ、社会の富は、そのような企業を主体にして築かれるであろう」と結論している。第三の波の情報と通信技術によりはじめて可能になる、この本質的に新しい形態の「仮想」企業組織について言及しているのは、ハンディとウィリアムソンだけではない。
 ところで、本書の著者の一人であるハイジ・トフラーは、かつて「和合」という重要な概念を導入した。彼女は、公共部門と民間部門のそれぞれの組織形態のあいだには何らかの和合性が設けられなければならず、さもないと互いに首を締め合うことになってしまう、と考えたのだった。なにしろ、民間部門が超音速ジェット機に乗って飛び出しているのに、公共部門は、飛行場の入口で、まだ荷物さえ下ろしていないというのが今日の状況なのである。
 政策ないしは計画の評価をするさいには、それを実施するのが、組織の垂直統合を志向する人たちか、それとも仮想企業組織を追求する人たちか、を問わなければならない。この問いに対する答が得られれば、その政策あるいは計画が、機能不全に陥った過去の延命を図ろうとしているのか、それとも未来との出会いへと人びとを導こうとしているのかが容易に判別できるようになるだろう。

5 家庭の強化
 産業革命以前の家族は大家族で、生活は家庭を中心に展開された。家庭は、仕事の場であり、病人を看護する場であり、子供を教育する場であった。そこは、また、家族の憩いの場でもあり、老人を介護するための場でもあった。第一の波の社会では、大規模な拡大家族が社会の中核をなしていたのである。
 家族という強力な制度の衰退は、スポック博士やプレイボーイ誌などの出現とともにはじまったわけではない。それは、産業革命が家庭から、いま述べたような機能の大部分を奪った時点ではじまった。仕事は工場やオフィスで行なわれるようになり、病人を介護する場は病院へ、子供たちの教育の場は学校へ、そして夫婦の娯楽の場は映画館へと移された。また、老齢者は、養老施設に入るようになった。こうしたことがすべて表面化したあとに残ったのが「核家族」である。この家族形態を支えたのは、家族構成員が一つの単位として果たす仕事ではなく、いともたやすく切れてしまいがちな心理的絆だった。
 第三の波は、家族と家庭にふたたび力を与え、かつて家族を社会の中核にしていた機能の多くを蘇らせる。現在、コンピュータやファックスなど第三の波の技術を利用しながら、仕事の一部を家で行なっているアメリカ人の数は、推定で三千万人にも上がっている。子供を家庭で教育しようとしている親たちも多い。しかし、本当の変化がはじまるのは、コンピュータ付きテレビが家庭に入り込み、それが教育手段に組み込まれるようになってからだろう。病人はどうか。妊娠検査や血圧測定など、以前は病院と医院の医療業務だったものが、どんどん家庭で行なわれるようになってきた。こうした現象は、家庭、および家族の役割が強まりつつあることを示している。ただし、ここでいう家族には、核家族、多世代にまたがる拡大家族、再婚者同士からなる家族など、大小さまざまな形態の家族が含まれるうえに、小家族には子なし家族が、子なし家族には夫婦が高齢になってからの出産を計画しているものも含まれる。このように家族構造が多様化していく背後には、すでにみてきたように、第二の波の大量化社会の非マス化に伴う、経済・文化の多様化がある。
 皮肉なことに、現在「家族の価値」を説く人びとの多くは、より強い家族を生み出す方向に動かずに、核家族への回帰を促している。彼らは、第二の波の規範をとり戻そうとしているのだ。もし、私たちが真に家族の強化を望み、家庭をふたたび社会の中核となる機関にしたいと思うなら、顛末な問題を忘れ、多様性を認めたうえで、重要な仕事を家庭に引き戻すよう努めなければならない。それから、もう一つ。テレビのリモコンの管理は、ぜひ親にさせたいものだ。

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 アメリカは、新しいことが他の国に先駆けて起こりやすい国である。古い制度の崩壊に苦しんでいるのがアメリカなら、新しい制度を求めて道を切り開いているのもアメリカなのだ。いま私たちアメリカ人は、暗中模索の状態で暮らしている。バランスを崩し、ひっくり返る恐れもある。自分たちがどこへ向かっているのかということについて(また、どこへ向かうべきかということについてさえ)断定できる人はいないのである。
 そんななかでわれわれは、どのグループもとり残さないよう気を配りながら手探りで前進しつつ、われわれ自身のなかに未来を作り上げていく必要がある。以上述べてきた数少ない判断基準だけでも、第二の波の過去に根ざした政策と、第三の波の未来への歩みを後押しできる政策とを区別するのに役立つはずだ。ただし、どんな基準の場合でもそうなのだが、それらを一字一句そのまま機械的に適用したがる狂信的とさえ思える人が出てくる危険性がある。実際に求められているのは、それとは正反対な動きだということを忘れてはならない。
 新たな千年紀への素晴らしい旅に備えて荷造りをするにあたり、ぜひとも必要なのは、過ち、両義性、そしてとりわけ多様性を、ユーモア感覚と平衡感覚に支えられたひろい心をもって見ることである。これらは、私たちが生き延びていくのに欠かせないものなのだ。この旅は、おそらく、人類史上でもっともエキサイティングなものになるだろう。私たちは、いまこそ支度に取りかからねばならない。