アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
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第三の波の政治 第7章 支持勢力の衝突

2011年11月11日 12時00分57秒 | 第三の波の政治
第6章 社会主義と未来との衝突の復習の意味で、第二の波の政治を理解する上で、大阪市長選挙という事例を見ることができます。以下ダイヤモンドオンラインから引用
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ダイヤモンドオンライン 地方自治”腰砕け”通信記 第37回
 2011年11月9日 相川俊英

「反ハシズム統一戦線」に共産党まで相乗りする混沌
民意不在、投票率低迷の大阪市長選に何を問うべきか

日本共産党推薦の前市議が出馬を取り止め反橋下戦線が形成される大阪市長選
 11月27日投開票の大阪ダブル選挙に、新たな動きがあった。大阪市長選に共産党推薦で立候補予定だった前市議が4日、出馬の取り止めを表明したのである。「橋下徹氏の当選を阻止するために出馬断念を決意した」と関係者は事情を明かした。
 告示(11月13日)直前での出馬断念は2人目で、現職の平松邦夫市長と橋下徹・前大阪府知事の一騎打ちとなりそうだ。共産党は平松氏と政策協定などは結ばないものの、党の支持者らに平松氏への投票を呼びかけるという。
 これまで、市長選に独自候補を擁立し続けてきた共産党が今回、党の旗を降ろすことになった。1963年以来なので、48年ぶりである。さらに、自前の候補を出さないだけではなく、自民や民主と事実上、共闘するというのである。思わぬ展開に驚きの声が広がったが、方針の大転換の理由として「橋下氏の独裁を阻止するため」「大阪市を守るため」「民主主義を守るため」といったことが、切迫感とともに語られた。こうして現職と前知事による異例の市長選は、地域政党「大阪維新の会」と既成政党の大連合による激突となる。維新への完全包囲網が形成されたといってもよい。それほどまでに橋下氏と「大阪維新の会」は既成政党に敵視されている。なかには大阪の自治を守るための「反ハシズム(橋下的政治手法)統一戦線」だと鼻息荒くする人もいる。今回の大阪市長選の特異性は他にもある。というとやや大仰かもしれないが、市の助役(副市長・
以下同)出身の候補者が誰1人いない点だ。現職市長と前知事はともに民間出身で、行政職員の経験はない。大阪市において助役出身の候補者ゼロの市長選は、何と1955年以来の歴史的な出来事となる。自主財源の乏しい地方自治体の悲哀を表す言葉に、「3割自治」というのがある。国から配分される地方交付税や各種補助金に依存せざるを得ず、自治とは名ばかりの実態を揶揄するものだ。もちろん、固定資産税や法人市民税などに恵まれた有数の富裕自治体である大阪市は、これにはあてはまらない。だが、大阪市は別な意味で「3割台自治」といえる。何かというと、住民自治の土台となる市長選や市議選における投票率である。大阪市での選挙は低投票率に終わるのが恒例化している。たとえば、今回の市長選だ。戦後(1947年から)これまで18回実施されたが、このうち投票率が5割を超えたのはわずかに6回。それも昭和30年代が多く、最後に5割の壁を超えたのは、1971年の市長選挙である。大阪万博の翌年のことで、それ以来、40年間に11回の市長選が行なわれたが、このうち8回が3割台以下の投票率に終わっている。ワーストの投票率は28.45%(95年)だ。つまり、6割以上の市民が市
長選びに関与していないのである。市政に無関心だったり、そっぽを向いてしまったり、さらには参加そのものを諦めてしまっているのである。

投票率が上向くはずもない?選択肢が提示されない「中之島体制」
 ではなぜ、大阪市長選挙の投票率がかくも低迷し続けてしまったのか。選挙戦において、選択肢がきちんと提示されてこなかったことが挙げられる。助役出身者が候補者に担がれ、それを各党が相乗りで支援するパターンが定着したのである。端緒となったのが、1963年の市長選だ。このときは助役出身者同士の保革一騎打ちとなった。市の職員組合と社会党(当時)などが支援する候補と、市の管理職と自民党などが応援する候補が激突し、市役所を二分する激しい選挙戦が展開された。投票率は68%台にまで達し、革新系候補が勝利した。革新系市長はその後、2回の選挙を戦ったが、共産党から対立候補が出るだけの無風選挙となった。この市長が3期目の途中の71年に急死し、急きょ選挙となったが、このときも保革が相乗りで助役を擁立。共産党系の候補を大差で破り、助役出身候補・政党相乗り(自民・公明・社会など)・無風選挙が定着していった。選択肢が提示されない選挙で投票率が上がるはずもなく、3割台選挙が続くことになった。助役出身の市長が5代連続し、在任期間は計44年に及んだ。いわゆる中之島(大阪市役所)体制の確立である。ではなぜ、中之島体制が継続したのか。ポイントは、大阪市の潤沢な税の使い道。税収が右肩上がりする時代の話である。中之島体制の一員となれば、その配分に関与できる。そう考えるのが、人情だ。そして、いったん仲間入りしたら、自ら離脱するのもありえない。逆にメンバーの増加は取り分の減少につながることにもなる。市民の市政への関心が低下することは、むしろ、好都合の面もあった。特定の組織や団体、市民を対象とした税の大盤振る舞いが展開された。

ばら撒く米が尽き市民の目は厳しく熾烈な選挙戦の「本当の課題」とは?
 だが、こうしたバラ色(?)の時代がいつまでも続くはずもない。税収が右肩下がりとなり、大阪市も財政難に見舞われることになった。ばら撒く米が尽きたのである。税の使い方への市民の視線も厳しくなり、市職員への厚遇問題などが噴出した。大阪市役所に非難が殺到し、市政改革の断行を余儀なくされた。その改革の途上の07年に、前回の市長選が行なわれた。自民・民主・公明の相乗り体制はすでに崩壊し、民主党の推薦で現職を破ったのが、平松市長である。しかし、このときの選挙も投票率は低く、43.61%に止まった。市民の半数が市政に背を向けたままだった。さて、今回の市長選挙である。新たに共産党を加えた相乗りが復活し、激しい選挙戦が事実上、始まっている。一方が「反独裁」を叫べば、一方は「大政翼賛会だ」と批判する。互いに激しく
相手陣営を攻撃し合っているが、投票率を上げて民主主義の空洞化の進行に「待った」をかけることこそが、お互いの最重要課題なのではないか。

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自民だ民主だと言われて投票してきたけれども、どっちもどっちじゃないの?
と第二の波の利権政党は、皆飽き飽きしているのではないでしょうか?これは
アメリカも同じことで、来るべき第三の波の政党が現れることを皆期待しています。
では、本文を。

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第7章 支持勢力の衝突 

現代社会が直面する問題は数限りなくある。われわれは、滅びようとしている産業主義文明の退廃の匂いを嗅ぎ、その諸制度が効力を失い、腐敗して、次々に崩壊していくさまを目のあたりにしている。その結果、苦渋に満ちた空気のなかから根本的な変革を求める声がわき起こり、それに応じて、幾多の提案がなされている。いずれも根本的、抜本的な提案であると自称し、なかには革命的な解決策であると公言するものさえある。だが、問題の解決をうたいながら、どれほど新しい規則や法律を作り、計画と実践を繰り返しても、いっこうに成果は上がらない。いたずらに事態の悪化を招き、効果的な対策などないという無力感を煽るばかりだ。この無力感は、かの有名な「白馬の騎士」に対する憧れをかき立てるだけで、民主主義にとっては、きわめて危険なものである。したがって、勇気と想像力を奮って問題に立ち向かわなければ、私たちもまた「歴史のごみ捨場」で朽ち果てることになりかねない。
マスメディアは、アメリカの政治を、二大政党が延々と口論乙駁する舌戦のごとくに描き出す。だが、アメリカ国民は、メディアと政治家の両方に、冷やか、うんざりした、怒りのこもった目を向けており、その傾向は年々強まっていく。大方の国民からみれば、党利党略で動く政治は、金ばかりかかる、腐敗した、誠意のない影絵芝居のようなものであり、誰が勝とうと同じではないかという疑念は深まる一方だ。
確かに、誰が勝っても同じである。が、普通一般にいわれている理由によってそうなのではない。
1980年に発表した『第三の波』に、私たち筆者はこう書いている。
「今日の政治のもっとも重要な展開は、第二の波の文明を守る者と第三の波の文明へ進む者という二大陣営が、われわれの真ん中に生まれたことである。一方は、核家族、公共教育制度、大企業、大労働組合、集権的民族国家、似非代議制政体といった産業主義大衆社会の中核をなす諸制度の維持に、執拗に取り組んでいる。他方は、現制度の能力的限界に気づき、エネルギー、戦争、貧困からの環境破壊や家族関係の崩壊など、もはや産業主義の文明の枠内では解決できない緊急な問題を認識している。
両陣営のあいだには、まだ、はっきりした線は引かれていない。個人としては、われわれの大部分は、両陣営に片足ずつ突っ込んでいる。問題点はまだぼやけていて、相互の関係も明確ではない。そのうえ両陣営とも、長期の見通しを持たずに狭い意識から私利の追求に汲々とするグループがいる。どちらの陣営も、まだ倫理の独占を果たしていない。どちらにも、尊敬に値する人がいる。にもかかわらず、両陣営の深層にある政治構造には、非常に大きな違いがある」(中公文庫『第三の波』より)。

過去を擁護するロビー活動
 国民がこの分裂のもつ重大な意味にいまなお気づいていないのは、じつに、古い体制の利権をめぐってさまざまな第二の波の集団が日常繰り広げる政治的な衝突のみが、過大に報道されているからにほかならない。それぞれちがいはあっても、これら第二の波の集団は、第三の波の勢力に主導権を奪われまいとするときも、すぐさま結束する。
 だからこそ、1984年、民主党の大統領指名選挙に立候補したゲーリー・ハートが、「新思考」を求めてニューハンプシャーの予備選挙で勝利したさい、古い第二の波に属する民主党の大物連が一致団結してハートに反対し、代わりに、生粋の第二の波の思考の持ち主で、いかにも無難なウォルター・モンデールを指名したのである。
 第二の波のネーダー主義者と、やはり第二の波のブキャナン派がNAFTAに反対する共通の理由を見出したのも、同じ理由からであった。
 議会が1991年にインフラ法案を可決した理由もそこにある。この法案により、1500億ドルが道路や橋の建設補修に配分され、第二の波の企業や職場や労組を大いに潤したが、盛んに喧伝されていた電子スーパーハイウェーの建設助成にはわずか10億ドルしか回されなかった。いかに必要なものであれ、道路や橋は第二のインフラの一部にすぎない。それに対して、デジタル・ネットワークは第三の波のインフラストラクチャーの衷心となるものである。ここで問題なのは、政府がデジタル・ネットワークを助成すべきかどうかということではなく、政府部内での、第二の波と第三の波の勢力バランスがとれていないということなのだ。
 片足の爪先を第三の波に濡らしたゴア副大統領が、どれほど努力しても、第三の波の方向へと政府を「改造」できないでいるのも、このアンバランスのためだ。中央集権的な官僚機構は、典型的な第二の波の社会組織形態である。競争原理で動く先進的な企業が、非効率的な機構を解体し、新しい第三の波の経営形態を創始しようと必死に努力をつづけているときでさえ、第二の波の公務員組合に守られた政府機関は、大部分が改革も強化も改造もせずに済ませてきた。つまり、旧来の第二の波の構造を保持してきたのである。
 第二の波の原理を使って富と権力を得てきたがために、この波のエリートたちは、保持できるはずのない過去を、保持したり、取り戻したりしようと躍起になっている。だが、新しい生活様式への転換にさいして俎上に載せられるのは、じつはそうした富や権力なのだ。ことはエリートの問題だけではない。中流、貧困層を問わず、無数のアメリカ人が、時代に取り残されるのではないか、失業し、経済的・社会的斜面をさらに滑り落ちてしまうのではないかという、もっともと思われがちな不安から、第三の波への移行に抵抗しているのである。
 しかし、アメリカの第二の波の勢力がもつ巨大な慣性力を理解するには、筋肉労働に依存する旧式の産業や、その労働者と労働組合に目を向けるだけでは十分ではない。第二の波の部門は、この部門のニーズを満たすウォール街の勢力に加え、やはりこの部門のために存在する財団、業界団体、ロビー団体等の助成金にたかる知識人、学者にも支えられている。彼らの多くは終身雇用を保証されており、その任務は、第二の波の勢力を側面から支えるデータを集め、この勢力のイデオロギーやスローガンをひねり出すことにある。<情報集約型のサービス産業は「非生産的」である><サービス労働者はしょせん「安食堂の給仕」となる運命にある><経済は製造業を中心に回転しなければならない>などといった言葉は、彼らの役割の何たるかを端的に物語っている。
そうした批判を絶えず浴びている二つの政党が、第二の波の思考法から抜け出せないでいるとしても、さして驚くには当たらない。医療制度の改革をはじめとする諸問題で、民主党は反射的に官僚と中央集権主義者の解決策にすがったが、このような姿勢を生み出しているのは、まさに第二の波の効率優先理論なのだ。ハイテクの重要性を認め、かつて「未来に関する議会情報センター」の共同議長を務めたゴア副大統領のような政治家が稀にいるとしても、民主党は、相変わらず第二の波を支持する産業界や官民の労働組合に大きく依存しており、二十一世紀を目前にしたいまも、党としてほとんど機能麻痺の状態に陥っている。
80年代のハートと90年代のゴアの例に見られるとおり、民主党は、中枢となる支持者の妨害で、党内きっての進歩派をリーダーに据えることができないでいる。この党は、依然として、ブルーカラーが描く現実のイメージにとらわれているのだ。
民主党は、自ら未来の党(かつては確かにそうだった)に脱皮できなかったがために、反対党に道を開かざるをえなくなった。一方、共和党は、民主党と違って古い北東部の工業地帯にさほど深く根を下していない分、第三の波の党になる機会に恵まれている。ただし、近年の共和党大統領は明らかにこのチャンスを逃してきたし、党自体も第二の波の論理に寄りかかり、お茶を濁しているのである。
共和党の大幅な規制撤廃政策は、基本的に正しい。いまやありとあらゆる柔軟な政策を打ち出さなければ、ビジネスが世界規模での競争に生き残ることはできないからだ。共和党が掲げる政府事業の民営化政策も、基本的に正しい。政府機関が概してうまく機能していないのは、競争がないからだ。市場経済から生まれる経済のダイナミズムと創造性を最大限生かそうとする政策も、基本的に正しい。だが、この党も、依然として第二の波の経済にとらわれていることに変わりはない。例えば、同党のブレーンである自由市場経済論者たちでさえ、いまのところ、知識の新しい役割や知識が無尽蔵の資源であることを認めるには至っていない。
また、過去の遺物と化した第二の波の巨大企業のいくつかと、その系列の業界団体、ロビー団体、およびその政策立案を担当する「円卓会議」の恩恵を受けているという点では、共和党も民主党も同じだ。
加えて、この党は、将来起こるであろう社会の大混乱を軽視しがちだ。この大混乱は、第三の波の深みで生じる何らかの変動によりもたらされるものである。例えば、技術が一夜にして時代おくれになった場合、高度な技能をもつ専門家をはじめとする中産階級の多くは、おそらく失業することになるだろう。カリフォルニアの軍事産業に従事していた研究者や技術者のレイオフは、その可能性を端的に示す事例だといえる。
ドグマ化した自由市場主義とトリクルダウン(通貨浸透主義)主義では、第三の波に十分対応するわけにはいかない。未来に立ち向かう政党は、来るべき問題について警告し、大混乱を防止するための改革を提案しなければならない。例えば、今日のメディア革命は、姿を見せはじめた第三の波の経済に多大の恩恵をもたらすだろうが、その一方で、テレビショッピングをはじめとする電子サービスは、伝統的な小売部門の単純労働、つまり低学歴の若者の出発点となる職業分野に壊滅的な打撃を与えるだろう。
自由市場と民主主義が未来の騒然たる大変動を生き残るには、将来を見越し、混乱を予防できるような政治が必要になる。しかし、アメリカの政党に次の選挙以上のことを考えよというのは、困難かつ無駄な注文なのだ。
二大政党は共に、改革を提案するどころか、支持者にノスタルジアという麻薬を注ぎ込むのに忙しい。民主党は、最近まで、偉大な1950年代のアメリカ産業の「復興」ないしは「復活」(現実には、第二の波の大量生産型産業への復帰など不可能だ)を唱えていたし、かたや共和党は、文化や価値観に関する問題を取り上げては郷愁をそそる美辞麗句を振りまき、あたかも第二の波の大量生産産業社会に逆戻りすることなく1950年代の価値観や道徳観に回帰することが可能であるかのような幻想を人びとに植え付けているのだ。1950年代といえば、テレビが全家庭に普及する前の時代であり、避妊ピル、民間ジェット機、人工衛星、家庭用コンピュータ等もまだ登場していなかった時代である。要するに、一方はいまなお「リバールージュ」(訳注:ミシガン州の自動車・造船産業の中心都市)の時代を夢み、他方は「オジーとハリエット」(訳注:1952~66年のテレビ・ホームコメディー。古きよきアメリカ中流階級の代名詞的存在)の時代を夢見ているにすぎない。
「伝統的」な真理への回帰を求めている、共和党内の宗教派議員は、「道徳の崩壊」を招いた責任はリベラル派、人間中心主義者、および民主党にあると主張する。だが、彼らは、次の事実をつかみ損ねている。そのような価値体系の危機は、第二の波の文明全体に及ぶ、より全般的な危機の反映であり、大変動に見舞われているのはアメリカだけではないのである。宗教派のリーダーたちにしても、ほとんどが、良識と道徳を備えた、民主的な第三の波のアメリカをいかにして築きあげるのかを問題にするのではなく、理想化された過去への回帰を唱えることに終始している。脱大衆化社会を道徳的で公正な社会にするにはどうすればよいかを問わずに、アメリカ社会の再大衆化を望んでいるという印象を与える者が多いのである。
とはいえ、二つの政党の違いは、民主党の「懐旧派」が同党の中心的な支持層に集中しているのに対して、共和党の「懐旧派」は、おおむね、周辺のウルトラ分子にすぎないという点である。したがって、共和党が変化に対して開かれた、懐の深い党になるという条件付きであるが、同党の下院議長ニュート・ギングリッチが以前から党内でしきりに訴えてきたことである。ただし現時点では、彼の意見に共鳴する者はわずかしかいない。ギングリッチの主張が認められ、一方の民主党が相も変わらぬ前コンピュータ時代のイデオロギーに縛られたままでいた場合、民主党は、よかれあしかれ、政治の墓場に葬り去られることになるだろう。
リー・アトウォーターは、1980年にレーガン大統領の最高政治顧問となり、その後、ブッシュ大統領の時代には大統領のジョギングに伴走し、選挙部長も務めた。彼は、レーガンが当選してまもなく、私たちの『第三の波』をホワイトハウス内に配った人物でもある。そのアトウォーターからの申し出で、私たちは、不定期ながら数年間、彼と一連の会議を行った。1989年に、わたしたちはもう一度彼に会ったが、それは彼が死を迎える少し前のことだった。この最後のインタビューの折、夕食を共にしながら、私と妻は、第三の波のアメリカに関して民主党が明確な展望をもっていないのはアメリカにとって不幸なことだという私たち自身の見解を彼に伝えた。アトウォーターはこの見方に同意し、驚いたことに、すぐさまこう付け加えた。「しかし、共和党も似たようなものですよ。両党とも、はっきりした未来像をもっているわけではない。選挙運動に中身がないのは、そのせいです。」二大政党に先見の明がないために、アメリカのすべてが、ますます貧しくなっているのである。


明日を支持する勢力
 第二の波の勢力が今日いかに強力にみえようとも、その未来は先細りしつつある。産業化時代がはじまった当時は、第一の波の勢力が社会経済生活を支配し、農村エリートが永遠にこの世を支配するかに思われていた。しかし、そうはならなかった。彼らの支配がつづいていたら、産業革命で世界が変わることはなかっただろう。
 今日、世界はふたたび変革期を迎えている。いまやアメリカでは、農民や工場労働者に代わり、何らかの知的労働に携わる労働者が国民の圧倒的多数を占めるにいたっている。また、現在この国でもっとも急速に成長しつつある最重要産業は、情報集約型の産業である。この第三の波の部門に属するのは、すでに高水準に達しているコンピュータ・電子産業と新興のバイオテクノロジー産業だけではない。そこには、あらゆる産業における先端的な、情報集約型の製造業も含まれるし、データの収集をさらに意欲的に進めているサービス産業-金融、ソフトウェア、娯楽、メディア、通信、医療、コンサルティング、技術訓練、教育などの分野に携わる産業-も含まれる。つまり、筋肉労働ではなく、頭脳労働を基準とする、ありとあらゆる産業が含まれるのである。この部門で働く人びとは、まもなく、アメリカの政治を左右する有権者になるだろう。

 産業化時代の「大衆」と違って、台頭しつつある第三の波の有権者は多種多様で、画一化されていない。この有権者層を構成するのは、他者との相違を重んじる個人であり、不均質であるがゆえに特定の政治意識をもたず、過去の大衆よりはるかに統一しにくい人びとである。
 ところで、第三の波の有権者は、まだ独自のシンクタンクや政治思想を形成しておらず、それゆえ学界からの組織的な支持も得ていない。そのような有権者からなる、さまざまな組織やワシントンのロビー活動団体もできてはいるものの、まだ比較的新しいせいもあって相互の連携が十分ではなく、第二の波派に勝利したNAFTAを唯一の例外として、立法の分野では、まだ重要な得点を上げるにいたっていない。
だが、この広範な、来るべき有権者層が意見を共にしうる重大な問題がいくつかある。その筆頭に挙げられるのが、解放の問題-すなわち、古い第二の波のルールや規制、税制、法律など、すでに過去のものとなった煙突型産業の大実業家や官僚を守るために設けられている、すべての制度からの解放-である。第二の波の産業がアメリカ経済の中枢をなしていた時代には確かに有効だった。そうした制度も、いまや第三の波の発展を妨げる障害でしかないのである。
例えば、古い製造工業の圧力で作られた減価償却方式は、機械や製品が長く使えることを前提にしているが、変化の目まぐるしいハイテク産業、とりわけコンピュータ産業では、機械類の耐用期間は数ヶ月ないしは数週間と考えられる。したがって、現行税制はハイテク産業にとって不利な結果を生み出す。また、調査開発に関わる控除も、第三の波の部門が依拠する新進企業よりも、第二の波の大企業に有利にはたらく。現行税制における無形資産の取扱では、時代おくれのミシンを数多く抱えている企業のほうが、物的資産をほとんどもたないソフトウェア会社より優遇されて当然なのだ。政府ではなく、財務会計基準審査会(FASB)の設定した会計基準においてさえ、第三の波の企業の死活にかかわる情報や人的資源などの無形資産に対する投資より、ハードウェアに対する投資が優遇されている。だが、こうしたルールを変えることで、そこから利益を上げている第二の波の企業との激しい政治闘争に打ち勝つ道が開けるのである。
第三の波の企業には特殊な性格がある。まず、企業年齢も従業員の平均年齢も若い会社が多い。次に、第二の波の企業と比べると、労働単位は小規模で、調査、開発、訓練、教育、人材に投資の重点をおく傾向が強い。第三に、競争が熾烈で、絶えず刷新を迫られているため、製品のライフスタイルが短くなるし、人事の異動、機械設備の回転、管理業務の転換も概して速い。このような企業では、社員の頭脳のなかにある記号が重要な資産となる。こうした企業に対して、まさに第三の波の性格のゆえに罰則を科せるようなルールを突きつけ、それに従うよう求めるのは不当である。これこそ、アメリカの手を後ろ手に縛るような行為といえよう。
第三の波の部門の多くはサービス産業に従事し、驚くほど多様多種なサービスを提供している。したがって、サービス部門の台頭を非難し、低生産性、低賃金、低業績の元凶だといつまでも攻撃するのではなく、明確にこの部門を支持し拡大させるべきだし、少なくとも、この部門を古い枷から開放してしかるべきだと思われる。アメリカ国民の生活の質を高めるには、サービス部門の雇用を減らすのではなく、さらにふやしていく必要がある。電子機器の修理やリサイクルの分野でも、健康管理、高齢者の介護、警察、消防の方面でも仕事をふやさなければならない。子守りや家政婦を例にとっても、働いてくれる人間がぜひほしいという共稼ぎ家庭は何百万に上がっている。第三の波の経済政策は、勝者と敗者を選別するためにとられるのではなく、サービスの職業化と開発を妨げる障害を取り除き、ストレスや不満を緩和して、アメリカ人の生活をより人間的なものにするためにとられるべきものなのだ。しかるに、このような考えをもちはじめたといえる政党さえ、いまだ見当たらない始末なのである。
こうした政治の停滞にもかかわらず、第三の波の有権者層の力は、日増しに伸びている。従来、二大政党のいずれにも無視されてきたこの層の人びとは、既成政党の枠外で自己主張する傾向を強めているのだ。例えば、アメリカ各地で数をふやし、影響力を強めつつある草の根組織を担っているのは、この第三の波の人びとだし、インターネットを中心に生まれつつある新しい電子共同体(エレクトロニック・コミュニティー)の中枢を占め、第二の波のメディアを非マス化することにより、それに代わる対話式のメディアを作り出そうとしているのも彼らなのである。それゆえ、この新しい現実を無視する既成政党の政治家たちは、農村地帯における「腐敗選挙区」の議席を永久に確保できると考えていた、19世紀の英国議会の議員さながらに、わきへわきへと押し流されていくことだろう。
アメリカの第三の波の勢力は、まだ声を発していない。したがって、彼らに発言力を与えうる政党が、アメリカの未来を支配することになるだろう。そのような政党が現れたときにはじめて、従来とはまったく異なる、新しいアメリカが20世紀末の荒廃のなかから生まれてくるのである。