6月 4日の事件に付いて中国政府の発表した公式見解は『ごく少数の者が学生運動を利用して共産党の指導体制の転覆を図った反革命暴乱である』であった。登小平は天安門の学生の行動を彼個人の権威だけで無く、彼の政策、体制そして共産党の権威までを含めた全てに対する真っ向からの挑戦と受け止めていたのである。しかしそれは北京だけの問題ではなく、今や地方の党委員会が中央からの指示を無視したり、一般民衆が地方の党委員会まる一方となっていた。言い換えれば党の権威は全く失墜しつつあったのである。こうした中で、登小平と共産党の権威を回復するためには武力を使ってまでも力ずくで相手を押さえ込むしかないと、登小平は結論するに至ったのであろう。
この天安門事件以後中国では国を愛し、共産党を愛すると言う運動が、様々な形で始まっている。中でも『戒厳軍兵士慰問歌曲大会』では40年前の建国当時の歌が、数多く歌われている。共産党がなければ新中国はなかった、共産党が来たら苦しみが幸せに変わったと言う40年前の歌に託して共産党への信頼と愛国心の高揚を図ろうと言うのである。
一般の職場では何処でも登小平の講話を学習する姿が見られる。学習会はただ単に党と政府の見解を勉強するだけでは無く、6 月 4日ごろの個人の行動に付いても徹底的に調べたり、動乱に付いての考え方を一人一人言わせられている。ただし彼等の口から出る言葉は過去の忌まわしい個人盲従そのものであり哀れでさえある。これが全体主義と言うものであろうか?こんな国が何を言おうと信用できないし、他国非難に至っては茶番的にしか聞こえない。
登小平時代の大きな功績は毛沢東時代末期の矛盾や陰謀、衝突に終止符を打ったことである。1979年に登小平時代が始まったときに、人々が彼が毛沢東同様によろめきながら歩む事など有り得ないと考えて居た。新中国を40年間に亘って取材し続けて来たソールズベリーにとっても、天安門事件は思いもかけない打撃であった。中華人民共和国は我々と同時代の壮大な政治的社会的実験の一つであり、中国共産党の指導者たちが建国以前の長征の時代にはどれ程勇敢であったか?どれ程忍耐強く、どれ程進取の気性に富んでいたか?どれ程事実の中に真理を求める人々であったか?を知っているソールズベリーであっただけに尚更彼の衝撃は大きかったと思われる。
1978年、三度目の失脚から復活を果たした登小平は、その十年後に力の弾圧をした。中国はこれによって粉々に砕けた希望のかけらを拾い集めて、遠い目標への道程を初めからまた歩み直すと言う苦しい仕事に直面させられることになったのである。
世界最古の文明を持つ国にが、その膨大な国土と人民を現在の世界の水準まで引き上げようとしてきた努力と試みはこれからも続くのである。
このレポートが制作されたのは、今から十年前の天安門事件の直後である。世界中が中国の将来に危惧の念を抱いていた時期である。その後の中国は少なくても経済面で目覚ましい発展を遂げている。それを支えたのは登小平の政策路線である。市場経済化や資本主義的手法の導入が可能になったのも、稀に見る高度成長を達成できたのも登小平と言う指導者があったればこそである。彼自身は既に二年前に死亡しているけれども、現政権は登路線を今後も強力に推進して行こうと思っている。つい先日も本来社会主義社会には存在し得ないはずの民間企業に国有企業に同等の権限を与えると言う憲法の修正を行っている。中国経済発展の原動力となった登路線は同時に矛盾と歪みを生み出して事も事実である。その最たる物が中国共産党の変質である。経済発展の中で中国では国民の社会主義離れが急速に進んでいる。それに伴なって中国共産党は社会主義社会建設と言う理念の実現を目指す顔を失いつつある。かって韓国や東南アジア諸国で見られたような開発独裁体制と一体どこが違うのか?と言う厳しい指摘もある。それにも関わらず政治的権威を守ろうとする中国共産党の姿勢には、いささかの変化も見られない。先頃、中国初の野党たる中国民主党を結成しようとした活動家を厳罰に処した事もその一例である。共産党独裁体制を維持するためには力の行使も辞さないと言う方式を現政権は引き続き踏襲して行くつもりなのであろうか?21世紀の中国が避けて通れない事は政治面の民主化である事は誰の目にも明かである。しかしこれは容易な事ではない。登小平ですら口にはしたけれども遂には全く手を付けられなかった問題なのである。多分12億の民主化は12億の人を豊かにすることよりも難しい問題である。
(完)
この天安門事件以後中国では国を愛し、共産党を愛すると言う運動が、様々な形で始まっている。中でも『戒厳軍兵士慰問歌曲大会』では40年前の建国当時の歌が、数多く歌われている。共産党がなければ新中国はなかった、共産党が来たら苦しみが幸せに変わったと言う40年前の歌に託して共産党への信頼と愛国心の高揚を図ろうと言うのである。
一般の職場では何処でも登小平の講話を学習する姿が見られる。学習会はただ単に党と政府の見解を勉強するだけでは無く、6 月 4日ごろの個人の行動に付いても徹底的に調べたり、動乱に付いての考え方を一人一人言わせられている。ただし彼等の口から出る言葉は過去の忌まわしい個人盲従そのものであり哀れでさえある。これが全体主義と言うものであろうか?こんな国が何を言おうと信用できないし、他国非難に至っては茶番的にしか聞こえない。
登小平時代の大きな功績は毛沢東時代末期の矛盾や陰謀、衝突に終止符を打ったことである。1979年に登小平時代が始まったときに、人々が彼が毛沢東同様によろめきながら歩む事など有り得ないと考えて居た。新中国を40年間に亘って取材し続けて来たソールズベリーにとっても、天安門事件は思いもかけない打撃であった。中華人民共和国は我々と同時代の壮大な政治的社会的実験の一つであり、中国共産党の指導者たちが建国以前の長征の時代にはどれ程勇敢であったか?どれ程忍耐強く、どれ程進取の気性に富んでいたか?どれ程事実の中に真理を求める人々であったか?を知っているソールズベリーであっただけに尚更彼の衝撃は大きかったと思われる。
1978年、三度目の失脚から復活を果たした登小平は、その十年後に力の弾圧をした。中国はこれによって粉々に砕けた希望のかけらを拾い集めて、遠い目標への道程を初めからまた歩み直すと言う苦しい仕事に直面させられることになったのである。
世界最古の文明を持つ国にが、その膨大な国土と人民を現在の世界の水準まで引き上げようとしてきた努力と試みはこれからも続くのである。
このレポートが制作されたのは、今から十年前の天安門事件の直後である。世界中が中国の将来に危惧の念を抱いていた時期である。その後の中国は少なくても経済面で目覚ましい発展を遂げている。それを支えたのは登小平の政策路線である。市場経済化や資本主義的手法の導入が可能になったのも、稀に見る高度成長を達成できたのも登小平と言う指導者があったればこそである。彼自身は既に二年前に死亡しているけれども、現政権は登路線を今後も強力に推進して行こうと思っている。つい先日も本来社会主義社会には存在し得ないはずの民間企業に国有企業に同等の権限を与えると言う憲法の修正を行っている。中国経済発展の原動力となった登路線は同時に矛盾と歪みを生み出して事も事実である。その最たる物が中国共産党の変質である。経済発展の中で中国では国民の社会主義離れが急速に進んでいる。それに伴なって中国共産党は社会主義社会建設と言う理念の実現を目指す顔を失いつつある。かって韓国や東南アジア諸国で見られたような開発独裁体制と一体どこが違うのか?と言う厳しい指摘もある。それにも関わらず政治的権威を守ろうとする中国共産党の姿勢には、いささかの変化も見られない。先頃、中国初の野党たる中国民主党を結成しようとした活動家を厳罰に処した事もその一例である。共産党独裁体制を維持するためには力の行使も辞さないと言う方式を現政権は引き続き踏襲して行くつもりなのであろうか?21世紀の中国が避けて通れない事は政治面の民主化である事は誰の目にも明かである。しかしこれは容易な事ではない。登小平ですら口にはしたけれども遂には全く手を付けられなかった問題なのである。多分12億の民主化は12億の人を豊かにすることよりも難しい問題である。
(完)
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