絶對に就いてとConscienceに就いて
「松原正全集 第二卷 文學と政治主義」(圭書房)には「福田恆存の思ひ出」と云ふ文章がある。その中に、以下のやうな話がある。
扨、云ふ迄もない事だが、その「激論」の内容が、如何なるものであつたのか、私には分らない。私の知力は、福田松原兩先生のそれには遠く及ばないから、私の考へる事など、兩先生は、當然の如く、考へてゐたに相違ない。それでも、淺學菲才の身ながら、その事を踏まへ、敢て、云ふと、である。「絶對といふものは無い」と云ふのは、結局、「絶對は『絶對に』ない」と云ふ事ではないか。ならば、絶對と云ふ概念自體、存在すると云ふ事にならないか。「無い」と云ふ事が絶對であると云ふ事を、どう捉へるか。「無」に關しては、絶對と云ふ事であれば、絶對は存在する事にならないか。
固より、善惡を司るのが、絶對だとして、それは有限の形ある存在ではあるまい。Conscience(良心)とは、人間が共有してゐる無限の無の存在であらう。人によつて、或は本人によつても時として、その精神が、善に傾くか、惡に傾くかと云ふ相違はあるものゝ。「御天道樣に顏向け出來ない」と、昔から、日本人は云つて來たけれども、結局、それは我が心に照し合はせてと云ふ事ではなかつたか。絶對と云ふ事に就いて、「絶對者」と云へば、それは日本に存在しないと云ふ事にもなりさうだが、「超自然」と云へば、どうだらうか。物質的な事物である自然に就いて、超自然と云ふのは、正に精神の事である。
「Conscience」とは、手元の英英辭典(※1)には、以下のやうに定義されてゐる。「the part of your mind that tells you whether what you are doing is morally right or wrong」と。本來、道徳上の善惡とは、goodとevilであり、政治的法律的な正不正をrightとwrongとする。Conscienceの定義には、道徳的な正不正とある。因みに、wrongとはrightではないと云ふ事である。
尤も「絶對者」を「超自然」と言ひ換へた處で、吾々は、「『超自然への信仰』を有たぬ」と、T.S.エリオットを論じて、臼井善隆は書いてゐる(※2)。
政治的領域に於ける法に纏はる正不正とは、可變である。法は(無論、憲法も含め)、不完全な人間が拵へるもので、改正されたり、改惡されたりするものだからである。きのふ、正だつた事が、けふ、不正になつたり、亦、その逆もあり得る。それゆゑ、事後法の禁止が定められてゐる。この可變である法の正不正と事後法の禁止に就いては、譬へば、ポルノの販賣や所持と云つた法的問題に就いて考へて見ると、より話が具體的にならう。一方で、道徳に纏はる善惡とは、不變である。松原も云ふやうに、どのやうな時代、どのやうな政治體制の國にあつても、譬へば、親殺しは、道徳的惡なのである。そして、道徳の領域とは、エリオットが云ふやうに、「政治に先行する領域」なのである。
(※1)「LONGMAN Active Study Dictionary 5thEDITION」
(※2)T.S.エリオット著、臼井善隆譯「教育の目的とは何か」(早稻田大學出版部)
「松原正全集 第二卷 文學と政治主義」(圭書房)には「福田恆存の思ひ出」と云ふ文章がある。その中に、以下のやうな話がある。
そこで、ニューヨーク滯在中に激論を戰はせました。
「日本人はよく『絶對に』といふ言葉を氣易く使ふけれども、私たちに絶對といふものは無いんですよ」(※松原)。「そんなことは無いよ。日本には天がある」(※福田)。「天知る、地知る、子知る、我知る」の天です。「しかしそれは絶對者ではないでせう、相對的なものでせう」と私が食ひ下がつて、そこから激論になつた。
扨、云ふ迄もない事だが、その「激論」の内容が、如何なるものであつたのか、私には分らない。私の知力は、福田松原兩先生のそれには遠く及ばないから、私の考へる事など、兩先生は、當然の如く、考へてゐたに相違ない。それでも、淺學菲才の身ながら、その事を踏まへ、敢て、云ふと、である。「絶對といふものは無い」と云ふのは、結局、「絶對は『絶對に』ない」と云ふ事ではないか。ならば、絶對と云ふ概念自體、存在すると云ふ事にならないか。「無い」と云ふ事が絶對であると云ふ事を、どう捉へるか。「無」に關しては、絶對と云ふ事であれば、絶對は存在する事にならないか。
固より、善惡を司るのが、絶對だとして、それは有限の形ある存在ではあるまい。Conscience(良心)とは、人間が共有してゐる無限の無の存在であらう。人によつて、或は本人によつても時として、その精神が、善に傾くか、惡に傾くかと云ふ相違はあるものゝ。「御天道樣に顏向け出來ない」と、昔から、日本人は云つて來たけれども、結局、それは我が心に照し合はせてと云ふ事ではなかつたか。絶對と云ふ事に就いて、「絶對者」と云へば、それは日本に存在しないと云ふ事にもなりさうだが、「超自然」と云へば、どうだらうか。物質的な事物である自然に就いて、超自然と云ふのは、正に精神の事である。
「Conscience」とは、手元の英英辭典(※1)には、以下のやうに定義されてゐる。「the part of your mind that tells you whether what you are doing is morally right or wrong」と。本來、道徳上の善惡とは、goodとevilであり、政治的法律的な正不正をrightとwrongとする。Conscienceの定義には、道徳的な正不正とある。因みに、wrongとはrightではないと云ふ事である。
尤も「絶對者」を「超自然」と言ひ換へた處で、吾々は、「『超自然への信仰』を有たぬ」と、T.S.エリオットを論じて、臼井善隆は書いてゐる(※2)。
政治的領域に於ける法に纏はる正不正とは、可變である。法は(無論、憲法も含め)、不完全な人間が拵へるもので、改正されたり、改惡されたりするものだからである。きのふ、正だつた事が、けふ、不正になつたり、亦、その逆もあり得る。それゆゑ、事後法の禁止が定められてゐる。この可變である法の正不正と事後法の禁止に就いては、譬へば、ポルノの販賣や所持と云つた法的問題に就いて考へて見ると、より話が具體的にならう。一方で、道徳に纏はる善惡とは、不變である。松原も云ふやうに、どのやうな時代、どのやうな政治體制の國にあつても、譬へば、親殺しは、道徳的惡なのである。そして、道徳の領域とは、エリオットが云ふやうに、「政治に先行する領域」なのである。
(※1)「LONGMAN Active Study Dictionary 5thEDITION」
(※2)T.S.エリオット著、臼井善隆譯「教育の目的とは何か」(早稻田大學出版部)