宮澤賢治 さん。
カッコ良くて偉大なヒーローというよりも、あまりに真摯にあまりに真面目に一心不乱に必死に生きて、沢山の物語を紡ぎ
あっという間に彼岸に行ってしまった一人の青年。
「世界よ、かくあれかしっ」とヒリヒリする程に希求する願いが火焔のようにめらめらと燃えていたかもしれないのに、その早すぎる思い に十二分な理解を持って共進できる人は、、、いなかった、、故の絶望も彼の死を早めた所以かもしれない、、
彼の残した膨大な文章は今その真価をあらわしはじめている、やっと時代が追いついたような、、
彼の宇宙観を、今の時代に具体に活かす術が、正直わからない、、のだけれど、確実に賢治さんの思想は
今の時代に必要とされていると感じる。
賢治さんはすでに大正時代に昭和の初期に感受していたのだ。
賢治さんは父が農学校に入学したときの担任であられた、先生はよくフィールドワークをしておられたようだ。
年に一度の氏神様の祭りの前夜岩手登山に8名ほどの生徒を連れて行って下さった。その中に父も混じっていたそうだ。
父は昭和四十年四月二十八日58歳で亡くなった、私が高校に入学したばかりの年で賢治先生との話しをひとつも
聞かせてもらることもなく、逝ってしまった。
長く生きている間に父を通して、わたしの中に賢治先生のスピリットがながれている、、事を実感する。
父の生きて来た軌跡を辿ってみると、そこには賢治先生の教えが生きているとかんじるのだ。
いまだからそれがわかる。父自身意識していたかどうかわからないけれど、商人として父は父祖から引き継いだ納豆屋に
甘んじる事無く、様々な事業を起こそうとした。それらの中に透けてみえてくるのは、自然の摂理を十全に循環させようとする
意志だ。路傍の草や木や石くれも、空を飛ぶ鳥も虫も、森や林に潜むいきものも、川を行き来する魚にも自分と同じ価値としての
いのちを見いだし、会話し、活かされあえる関係を作ろうとする、ばかにされそうになるほどけなげにそれをとげようとする、、
そんな気がして仕方がない。
そんな思いが胸にいっぱいになると、私は人生の中で一番長くすごした上野の山へ行きたくなる。
私たちの文化のルーツとも言えるアフガニスタンの遺跡、メス・アイナク仏教遺跡、遺跡の下に大量の銅が埋蔵されていることが
判明した故の不幸、ご多分に漏れず、鉱山開発がはじまったのだ。始祖たちが残した遺跡を残そうとするひと、お金に変えたい人との
闘いがそこにも生じる、ますます治安は悪化し、十全な保全は全く保障の限りではない。
その中のほんのわずかの出土品が藝大で保存修復され、現場がどのように進行しているのかのビデオを流していた。
そこに流れる不条理に哀しみと怒りがつのった、、どうにもならない事があまりにもありすぎてせつなくなる、、
こうしてほんの数点でも、メス・アイナク遺跡から出土した物が保存修復された事を、ささやかな喜びとするしかないだろうか、、
こうして私は明日の父の命日を里のような上野の山で祈っている。