楽しく遍路

四国遍路のアルバム

大洲見学 一条兼定仮寓の地 金山出石寺へ

2024-06-12 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年夏の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)7月11日 1日目

大洲駅
今治へ友人の法事に出かけ、その帰途、供養も兼ねて、大洲-松山間を歩くことにしました。
ただし51番石手寺に向けて歩きはじめるのは、明後日からです。今日は大洲城付近を見学して大洲に泊り、明日も、金山出石寺に登って、大洲に連泊します。


駅前大鳥居
駅前に、大鳥居が建っています。梁瀬山(大洲市菅田町大竹)に鎮座する、少彦名神社の鳥居です。 
少彦名命は、松山で大国主命と別れて単独で南下。大洲の開拓に働らいていましたが、ある日、肱川を渡ろうとして急流にのまれ、亡くなられてしまいました。民人は、少彦名命の亡骸を川から取りあげ、壺に収めて梁瀬山に埋葬。社を建てて、命の御霊を祀って来たと言います。それが少彦名神社です。


扁額
むろん少彦名命は神様ですから、「亡くなられた」とは言え、死んでしまったのではありません。この世から『常世の国』へ神去られた、と解すべきなのでしょう。「亡骸」は、命がこの世に残された「現し身」ということでしょうか。
とまれ、神様の亡骸を祀るなんて、珍しい神社ではあります。

 
宮ヶ瀬
なお大洲の菅田町には、もう一社、同名の少彦名神社があります。
こちらは、少彦名命の居館跡に建てられたとされる、少彦名神社です。隣接して『宮ヶ瀬公園』があるので、少彦名命がのまれたという肱川の急流・宮ヶ瀬は、この神社近くだったと思われます。


神南山 
また大洲には、少彦名命の神南備山(かんなび山)・・神が鎮座する山・・もあります。その山が神南山(かんなん山)と呼ばれているのは、おそらく「かんなび」の転訛なのでしょう。私たちは神南山を、大洲から内子に向かうとき、右手に望むことが出来ます。晴れていれば、710㍍と507㍍の、二つのピークが見えるはずです。その two peaks が神南山です。
少彦名命については、→(H28秋7)もご覧ください。


政権交代1年
駅前の、ここは民主党の選挙事務所なのでしょうか?
実はこの日は、参院選の投票日だったのです。1年前(平成21年/2009)の9月、民主党政権が誕生して以来、初の国政選挙でした。
結果は、民主党の大敗でした。改選議員の当選数では、民主党は第2党に落ちています。
ところで、ポスターの顔が小沢一郎さんなのは、どうしたわけだったのでしょうか。この時点では、小沢さんはもう代表ではありませんでした。


宿 
今夜の宿「ときわ旅館」です。荷物を預け、長く楽しみにしてきた(後述)、大洲城の見学に出かけました。


渡場
肱川橋の北詰一帯は、『渡し場』という地名で呼ばれているようです。かつて此所に、渡し舟の乗り場があったのです。
『えひめの記憶』は、この渡しが『油屋下渡し』と呼ばれる渡しで、・・大洲町と中村側を結んでいた、・・と記しています。他にも・・城下(しろした)渡し、桝形渡し、柚木下渡し・・などがあったのだそうです。


地図
・・大洲町と中村側・・については、地図をご覧ください。『大洲』と『中村』が大字名として、肱川の右岸(肱北)と左岸(肱南)に残っています。
『大洲』なる区域が肱川右岸(肱北)にまで広がるのは、大正2年(1913)に肱川橋が架かり、それを受けて愛媛鉄道(大洲-長浜間)の大洲駅が、肱北に出来てからのことでした。それかあらぬか、『四国遍路道指南』には、・・大ず城下、諸事調物よき所なり。町はづれに大川有、舟わたし。・・と記しています。油屋下渡しは「大洲の町はずれ」にあった、というのです。


肱川
『えひめの記憶』は、『油屋下渡し』のその後についても、記しています。
・・その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々は、明治6年(1873年)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋(うきき橋)と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。しかし、大正2年(1913年)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。
因みに、浮亀橋には通行料がかかり、1銭5厘を払ったようです。江戸期の渡し船は、1文だったとか。


4代目肱川橋
写真の橋は、大正期の肱川橋から数えて4代目の、肱川橋です。昭和42年(1967)に架けられました。
ただし、(リライト版なので書けることですが)この橋は令和の今日、もうその姿を見ることは出来ません。令和4年(2022)、5代目肱川橋に架け替わっているのです。


工事中の5代目肱川橋
写真は、平成28年(2016)に撮った、工事中の5代目肱川は市です。着工は平成21年(32009)と言いますから、ずいぶん時間をかけて工事しています。


「なげ」 
川に突き出ている石積みは、「なげ」と呼ばれるもので、上掲地図でも、矢印の箇所に示されています。
『えひめの記憶』は、「なげ」について、次の様な証言を採録しています。
・・もし渡場の「なげ」がなければ、臥龍の淵から大きく蛇行する水流が対岸(右岸)の河原を侵食し、その結果、城山直下の淵は大量の土砂によって埋め尽くされるだろうから、渡場の「芯なげ」は水防とともに、大洲城の下の淵を深くし(次掲写真参照)、肱川側からの攻撃に対して守りを固める、極めて重要な役割を果たした。


大洲城
私と大洲城との出会いは、平成15年(2003)春のことでした。北さんを含む友人たち四人との観光旅行中、メンバーの一人の伝手で、工事中の天守内部を見学することが出来たのです。
・・遍路で大洲に来たときには、もう完成しているだろうな。
・・あいつらに写真を送ってやろう。悔しがることだろうぜ。
北さんと、こんな会話を交わしていたのでしたが、・・


工事幕のなかの天守
その一年後、大洲にやって来た北さんと私は、たった4日の違いで、大洲城天守の「幕落とし」・・天守が姿を現す、その瞬間・・を見はぐってしまったのでした。
その悔しさは一入だっただけに、完工なった大洲城天守の姿には、感慨深いものがありました。写真を撮って、北さんはじめ、あの時の仲間たちに送ってあげたのは、むろんのことです。


工事中の天守 
戦後復元された木造天守としては、4重4階は日本初。高さ19.15㍍は、日本一を誇る、とのことです。
古い史料を研究し、最大限、昔通りの復元をめざしたと言います。


水門
肱川橋を渡り、水門を潜って、川沿いの道に出ました。
肱川は、洪水が起こりやすい川とされていますが、なるほどと思わせる、大きな水門です。


新伝流発祥の地
新伝流は、元和3年( 1617)頃、大洲藩士加藤主馬光尚が、・・水辺の柳が流れにそって動いているのを観て、深く悟り創案した・・という、古式泳法の一流派です。大洲藩の武術として受け継がれ、やがて松山藩にも伝えられ、全国に広まったといいます。
因みに、私が子供の頃に泳いでいたのは、抜き手、横泳ぎ、背泳ぎ(泳ぎ疲れると、この姿勢で浮かんでいた)、立ち泳ぎ、もぐり(お尻をピョコンとあげて、深く潜ってゆく)・・などでした。バタ足は、ほとんどした覚えがありません。


冨士山
ふり返ると、冨士山が見えます。富士山(ふじさん)ではありません。冨士山(とみす山・319㍍)です。
また、この山が如法寺山とも呼ばれるのは、大洲藩加藤家の菩提寺・如法寺があるからです。山頂には巨石文化の痕跡がみられるなど、興味深い山です。→(H24秋7)


宿
昔懐かしい宿屋がありました。映画・寅さんシリーズ「寅次郎と殿様」のロケ地になったとのことです。殿様役は、なんと嵐寛寿郎(アラカン)。マドンナは 真野響子でした。
この宿、そのレトロ感が若者やガイジンサンにも人気で、盛況しているのだと言います。


東洋城旧宅
『東洋城』とは物々しい俳号ですが、実は、本名「豊次郎」のモジリでしかありません。『鷹羽狩行』が何のことはない、「高橋行雄」のモジリであるのと同じです。流行りだったのでしょう。
東洋城は、宇和島藩城代家老の血筋の人で、若い頃、夏目金之助に英語を習い、その縁で子規に師事したといいます。子規の没後、虚子と対立することになりますが、この頃開いた東洋城の句会には、飯田蛇笏や久保田万太郎らが参加していたそうです。
追記:鷹羽狩行さんの訃報に接したのは、今号更新の前日でした。記事を書き直すか、少し迷いましたが、鷹羽さんの愛すべきお人柄を表すエピソードとして、そのまま残すことにしました。ご冥福をお祈りいたします。


大洲城
大洲城は、鎌倉末期、伊予国司・宇都宮豊房の築城に始まるといいます。蛇行する肱川に久米川が流れ込む地形を上手く使った平山城です。その基礎となった山の名から、地蔵ヶ岳城とも呼ばれています。 
近世に入り、小早川隆景(秀吉の「四国攻め」で伊予を制圧した) 、戸田勝隆 (秀吉子飼い)、藤堂高虎 (築城の名手 )、 脇坂安治(賤ヶ岳 七本槍)ら、錚々たる連中が相次いで入城。慌ただしく城主が替わりましたが、元和3年(1617)、大坂夏の陣の功により、加藤貞泰が米子から転封。この加藤氏が、明治まで大洲を支配することとなります。
→(H28秋2)


大洲城
『大洲』は、元は「大津」だったと言います。「津」は「湊」を意味しますから、この場合は、肱川の「川湊」を意味したのでしょう。肱川が物流の導線であったことをうかがわる名前です。
『大津』が『大洲』と改められたのは、一説には、脇坂氏が淡路国「洲本」から入封したことに由来する、とも言いますが、これは、疑問視する向きが多いようです。大方の見方は、加藤氏の時代に、「大」きな「州」の上にできた街なので『大洲』となった、というものです。


大洲城のつばめ
つばめが人の家に巣をつくるのは、カラスなどの天敵から子供を守るためだといいます。むろん、その前提として、人間は自分たちに害を加えないという、人への信頼があります。
しかし人は、つばめの信頼に応えているでしょうか。
 ♫柳青める日 ツバメが銀座を飛ぶ日
かつては、あの銀座でさえ、つばめが飛び交っていたのですが。


中江藤樹像
中江藤樹の像がありました。大洲は、近江聖人と称えられる中江藤樹が、少年時代から青年時代にかけてを過ごした土地なのです。藤樹はまた、大洲藩の飛び地であった北条で暮らした時期もあり、北条の柳原には、「中江藤樹先生立志之地」の碑が建っています。たまたま出会った北条の人が、・・戦前、北条の小学生は、修学旅行で大洲に行った。・・と話してくれました。旧藩の繋がりで行ったというより、中江藤樹先生の繋がりで行った、とのことでした。中江藤樹先生への篤い敬愛の心がうかがわれます。


中江藤樹先生立志之地の碑(北条柳原)
また、大洲城の南に在る県立大洲高校は、自分たちの学校が「中江藤樹邸址(ていし)校」であることを誇りにしています。校地が藤樹の邸跡と重なることから、そう呼んでいるのだそうです。戦後の一時期、その呼び名は忌避されましたが、1950頃から再び口に上るようになったと言います。→(H24春2)


鵜飼い  
大洲城から肱川橋を渡り返してくると、観光鵜飼いを見ることが出来ました。
側で観ていた4-5才くらいの、人なつっこい男の子が私に話しかけてきました。
・・ネェ、ナンデ ヒイ モエトランノー?
はて?問いの意味が分からないまま、・・なんでやろうねぇ・・などとごまかしていると、お母さんが通訳してくれました。
・・この子、夜の鵜飼いしか見たことがないんです。夜の鵜飼いは、火を燃やしているじゃないですか。


鵜飼い
聞けば、今年から昼の鵜飼いが始まったのだそうです。
次掲のポスターをご覧ください。6月-9月の毎週日曜日と、8月のお盆期間中、昼の鵜飼いが催されるとあります。


鵜飼いポスター
なかなかに鋭い子でした。


ででむし 
 でで虫の 出番の雨を 待ちゐたり 安井和子(俳誌のサロン 歳時記より
でで虫登場。ついに雨が降り始めました。この子は大歓迎なのでしょうが、明日に出石寺登山を控えた私には、出来れば降ってほしくない雨です。
風が強くで、傘では防げないのでポンチョを付けました。天気は下り坂。宿へ向かいます。


やど 
訪うと、すぐ宿の人が、新聞紙のボール玉が入った箱を持って、出てきてくれました。濡れた靴に詰めて乾かすためのボール玉です。ありがたく使わせていただきました。お風呂も沸いているとのこと。すぐ入らせてもらいました。
この宿には、連泊します。明日、軽装で金山出石寺に登るためです。

  平成22年(2010)7月12日 雨 第二日目

天気予報 
厳しい天気が予想されています。後で知ることになるのですが、この日、・・愛媛県では一時、時間雨量50ミリ前後の激しい雨が降り、夏目漱石ゆかりの木造2階建て「愚陀佛庵」が土砂崩れで全壊した。(『気象人』HPより)・・とのことです。
この激しい降りは、やがて私も身を以て知ることとなります。私の所には、ご丁寧にも、雷様(市川雷蔵さんではありません)も、お出でくださったのでした。
下欄の選挙結果は、民44、自51、公9、共3、社2、国0、み10、無2、残0、と表示されています。


駅前 
当初予定では宿から歩くつもりでしたが、雨の影響を考え、平野駅まで電車で行くことにしました。
ズルしてしまったと、やや気持ちが落ちこんでいましたが、今では、正解だったと思っています。


電車 
距離的には5Kほど短縮されると思われます。


Aコープ 
7:00 ポンチョと、百円ショップで買ったビニルのズボン、さらに折りたたみ傘をさし、平野駅を歩きはじめました。傘をさすのは、カメラを濡らしたくないためです。
この店のことは、宿でおそわっていました。食糧調達に便利なお店でした。


 
県道234号(大洲-保内線)を進みます。
今日私がゆく道は、「地蔵越え」と呼ばれているコースです。平野駅から出石寺まで、約8.7キロあります。
途中、「キリシタン大名 一条兼定仮寓の地」なる所があるとのことで、これは大いに楽しみにしています。「一条兼定」とは、むろん、前シリーズ(平成21年冬)にもたびたび登場した、幡多一条氏の第四代当主・一条兼定です。またまたこんなところで再会できるとは、思わぬ喜びです。


ひらじはし 
兼定が当地に仮寓したことは、『伊予温故録』(明治27年/1894刊)なる本にも、記されているそうです。
・・天正初、一条兼定、当域に二三年(にさん年)寄寓あり。
ここに言う「当域」は、文脈から「平地」(大洲市平野町平地)を指しますから、つまり「ひらじはし」(平地橋)が架かっているこの界隈は、もうすでに一条兼定に所縁の地である、ということのようです。


 
なおも県道234号を進みます。
上掲写真の鉄橋は、JR予讃線の鉄橋でした。大きな建物は、平野小学校の体育館でしょうか。


交通標識 
久米川と沼田川の合流点です。
この地点と次掲写真の分岐点の間には、地蔵堂や大安寺という、普段なら見過ごすことはない、興味深いところがあるのですが、天候が心配で、今回は通過することにしました。これらについては、→(H28春6)をご覧ください。


分岐 
沼田川に架かる橋の手前で、道が分岐しています。左が県道234号で、右は、234号の迂回路になっている道です。従って、右に進むと、やがてふたたび234号に合流することになります。
迷っていると、ガードレールに右方向へのシール(次掲写真)が貼ってありました。


矢印 
矢印に従いました。


道標 
迂回路状の道が234号に復する少し手前に、山道(林道)に入ることを促す、道標が立っていました。
なるほど、この道は、引き返すより進む方が、見つけやすいのです。それで右方向を指示したのでしょう。


山道 
山道の様相が強くなってきました。時刻は、7:25です。


ダム 
桑坂川砂防ダムです。通過は7:40でした。


竹林 
竹林のざわつきが、映画『蜘蛛巣城』(黒澤明)の名シーンを思い出させます。先ほどから遠雷も聞こえており、何やら心乱される気分です。


竹の道 
稲光と雷鳴の間をカウントすると、5秒くらいあります。これを基準として、雷雲の動きを考えることにしました。


分岐 
7:50 いよいよ林道から山道に入ります。宿「ときわ」のご主人によると、この先、草に隠れた細い路があるので注意が必要、とのことです。
そのご注意の含意するところは、ひとつは、道を失わないようにとのご注意。もう一つは、ハメ(マムシ)が隠れているかもしれない、とのご注意です。ヤツは、雨が嫌いじゃないらしい。


ペンシル型道標 
要所要所にペンシル型の道標が立っていて、とても助かりました。
そのことを宿に帰って話すと、ご主人が、・・あれ、私が建てたんです。・・とのことでした。


案内 
この頃はまだスパッツを持っていなかったので、いまや私の靴の中は、洗濯機状態です。一歩毎に、靴下は脱水-吸水を繰り返しています。
着衣は、雨には濡れていませんが、汗で内側からグッショリです。


停滞
雷様が近づいてきました。5秒より早く雷音が聞こえる回数が増えてきました。
30分ほど停滞することにし、ザックを担いだまま座り込みました。


 
幸い雷様は遠ざかりつつあり、雨も小止みです。
登りを再開します。


一条兼定寄寓地跡(H28春撮影)
8:35 「一条兼定仮寓の地」に着きました。集落を見下ろす、やや広い平坦な場所に、平地郷土史愛好会による案内板「キリシタン大名 一条兼定仮寓の地」が建ち、日蓮宗の題目塔が二基、石積みの台座に置かれた妙見堂、石板に覆われた、教会を模したかのような小祠、ヤマモモの樹、何基もの墓石、・・などがあります。


一条兼定寄寓地跡(H28春撮影)
天正2年(1574)、幡多一条氏の第4代当主・兼定は、中村を捨て、岳父・大友宗麟の豊後臼杵に逃れました。長宗我部元親に追われたとも、家臣団のクーデターから逃れたとも言われますが、おそらくは、そのどちらも正しいのでしょう。クーデターは元親の陰謀であったとの説もあるくらいに、兼定をとりまく状況は、混乱、錯綜、切迫していたと思われます。


寄寓地跡からの景色(H28春撮影)
とまれ、そんな状況下、兼定は豊後に移り、キリスト教に入信。唯一絶対神に、その身をゆだねました。天正3年(1575)のことです。霊名ドン・パウロ。
兼定がこの地に寄寓するようになるのは、これ以降のことです。


寄寓地跡からの景色(H28春撮影)
兼定の平地寄寓は、大きくは「渡川の戦」の前と後、2回に分かれます。(そう私は考えています)。
1回目は、来たるべき渡川の戦(天正3年/1575)に備えての寄寓でした。その様子を案内板は、次の様に記しています。
・・長宗我部元親に追われ豊後大友宗麟の許に在った頃、(兼定は)一時当地平地村梶屋谷城に仮寓したという。其処で彼はキリシタン修行と旧領奪還の陣立てに専念し、・・。


寄寓地跡唐の景色(H28春撮影)
また『伊予の隠れキリシタン』(小沼大八著)は、次の様に記しています。
・・追放先の豊後で受洗した兼定が、土佐の有力者たちからの誘いもあり、自分の領地をキリスト教宣撫の理想郷とすべく、ついに立ち上がる決意を固めたことは先の述べた。けれども、何しろ相手は難敵、長宗我部勢である。大友勢だけが手勢ではいかにも心許ない。かれには是が非でも、伊予の土豪たちを味方につける必要があったのである。けれども、そんな工作をするにも、かれには伊予に足場が必要だった。してみれば、へんぴな山城だったにもかかわらず、兼定が平地の高森城(案内板にある、梶屋谷城の別名)に身を寄せたのは、そんな理由ではなかったか。・・


日蓮宗題目塔
しかし、この1回目の寄寓は、長期間にわたるものではありませんでした。
 兼定が豊後に移ったのが、天正2年(1574)
 キリスト教入信が、天正3年(1575)
 渡川の戦が、同・天正3年(1575)
この年表が正しいかぎり、この時期の兼定には、長期間の寄寓・・例えば『伊予温故録』が記すような、・・二三年の寄寓・・などは、出来ることではありませんでした。寄寓は、せいぜい数ヶ月の長さだったはずです。


日蓮宗題目塔 
ただし、それは寄寓がなかったことは、意味しません。兼定は(中村ではなく)宇和島で兵を上げ、中村に向かって進軍していますが、このことを可能とするには、平地寄寓は欠かせませんでした。
戦の結果は、兼定方の大敗でした。案内板は次の様に記しています、・・天正3年、一時は旧領奪還に成功したが、(略)、渡川の会戦に敗れ、南予地方処々に潜行後、天正10年宇和海の孤島戸島に隠棲中、旧臣の一人に暗殺された。
兼定軍は大敗し、ここに幡多一条氏は、事実上、絶えてしまします。


教会?(H28春撮影)
すでにお分かりと思います。2回目の平地寄寓は、渡川の会戦に敗れた後、・・南予地方処々に潜行・・しているときでのことでした。処々の一箇所が、『平地』だったのです。
おそらく2回目の寄寓では、兼定は出来るだけ長く、一箇所に留まろうとしたでしょう。・・二三年の寄寓・・は、この時のことだったと思われます。


教会?(H28春撮影)
一説には、当地にはキリスト教会が建っていたとも伝わります。その伝承は、彼が此所で信仰一途の日々を送っていたことを、伝えているのかもしれません。彼が播いたキリスト教の種子が、ここに花咲き、教会となっていたのです。
それかあらぬか、この写真をご覧ください。見えにくいですが、ドーム状の屋根の上には、十字架らしきものが見えています。在りし日の教会の姿でしょうか。


出土した青銅製キリスト像(『伊予の隠れキリシタン』より
当地にキリスト教の信徒がいた、確かな証拠があります。高さ30センチほどの、青銅製のキリスト像です。安政の頃、土地の農夫が掘り出したものを宇和島藩が保管。維新後、元宇和島藩医が譲り受けたことにより、世に知られるようになったと言います。
元藩医は、以下のような箱書きを残しています。・・安政年中 宇和嶋領 保内郷平地村 通称切支丹畑ヨリ 里人掘出セル物也 此ノ畑ハ 当時教会堂如キ物ノ有リシ所也シナラン 明治十年十月 東京伊達家邸中ニ於テ 割愛ヲ受ク 谷世範・・


妙見堂
この小祠は、かつてこの地にあった、キリスト教信仰の名残です。妙見堂ですが、一見して、扉のモチーフが「十字」であるとわかります。(次掲写真をごらんください)破風にも「十字」が、すかし彫りされています。
この小祠は昭和30年に再建されたものですが、施工の宮大工は、・・旧態どおりに作った・・と述べているそうです。察するに、明治のキリスト教解禁の時、江戸時代から伝わるキリスト教信仰の話を基に、このような様式が作られ、これまで受け継がれてきたのではないでしょうか。


破風の十字
小祠の中には、むろん妙見菩薩像が収められているのですが、その像は、同じ妙見菩薩像でもキリスト教との縁が深いと言われる、「能勢妙見菩薩像」です。
この事実を『伊予の隠れキリシタン』は、次の様に説明しています。
・・この地に土着したキリシタン信仰が時代を経るにつれて、(日蓮宗の)妙見信仰と習合した姿なのだろう。


能勢妙見菩薩像
またWikipediaには、次の様な解説がありました。
・・能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている。
思うに、北極星を神格化した妙見菩薩は、本地垂迹説では天之御中主命の本地仏とされる仏(神)です。その点で、天帝(デウス)に結びつけやすかったのではないでしょうか。


矢筈紅十字
写真は、能勢妙見菩薩像が立つ台座です。台座に掘られた矢筈十字は、能勢氏の家紋であり、また日蓮宗霊場・能勢妙見山の寺紋でもあります。
台座の前に置かれた奉納札には、この小祠が昭和30年に建立されたものであること。制作費が4300円であったこと。寄進者名、制作者名、寄付者名などが記されています。なお寄進者は、その姓から、後述の墓に関係する方と思われます。


大樹 
木柱に、・・大洲市指定 梶ヤ谷のヤマモモ・・とあります。
案内板には、・・胸高幹周は2.8m、樹高が12m、地上から2.5mの付近で幹が4つに分岐していますが、根回りは石垣を補修した際に1mほど埋められたため、本来の根回りの大きさはわかっていません。・・とあります。推定樹齢は250年ですから、残念ながら、一条兼定お手植えの、とはまいりません。兼定は16世紀の人です。時代が合いません。


墓地 
文政、明和、安永などの墓石が、隣り合って並んでいるので、いつの時期かに改葬したと思われます。
此所に眠る人たちと、かつてのキリスト教信仰との関わりが、気になるところです。


 
さて、長滞在になってしまいましたが、出石寺へ向けて歩きます。


ヌタバ 
イノシシのお風呂は、お湯タップリです。


道標 
雷様以外、誰一人として会うことのない道で、心強い案内です。


丁石 
三十二丁、とあります。距離的に合わないので、長い年月かけて、どこか上からずり落ちてきたのかもしれません。


分岐 I
10:10 出石寺山道入口です。
これより先、出石寺までの約3Kの道は、歩きの人なら、どこからアクセスした方てもかならず通る道です。


石門 
撮影時は、全く気づいていませんでしたが、この巨石には像が刻まれているようです。
さながら門番ででもあるかのように、何者かが立っています。


 
もうすぐ到着ともなれば、金山出石寺(きんざん・しゅっせきじ)について、ふれておかねばなりません。
山号「金山」は、弘法大師が「三国無双の金山」なりと賛嘆されたことに由来するといいます。ただし「金」は、「銅」を意味します。中国の青銅器に刻まれた文字を「金文」というように、「金」は、かつては、「銅」を意味していました。
この山では、実際、明治末から昭和20年まで、三菱鉱業が経営する出石山(いずしやま)鉱山が操業していたのだと言います。


新四国28番
縁起では、作右衛門という猟師が鹿を追いつめ、まさに射んとした時、天智鳴動、光明赫赫、鹿の立つ岩が真二つに割れ、金色燦然たる千手観世音菩薩像が、地中から湧き出たのだといいます。
この奇瑞を目撃した作右衛門は、猟師を止め、「道教」と名乗って仏道に入ったそうです。そして、出石寺を開基したと伝わります。作右衛門の道教が、千手観世音菩薩を御本尊として、出石寺を開いたのだそうです。


新四国29番
さて、話はまったく違いますが、 愛媛県に「少年式」なる通過儀礼があることをご存知でしょうか。かつての元服に相当するもので、14才(中2)の少年・少女が対象だといいます。
少年式当日、少年・少女には課題が課せられます。大洲の少年・少女に課せられるのは、「金山出石寺への徒歩参拝」です。(課題は地方によって異なり、例えば八幡浜では、佐田岬の先端・三崎までの往復が課せられるそうです)。


新四国石柱
そこで、リライト版の強みを活かして、令和の今日、「少年式」はどうなっているのだろうか、調べてみました。
”少年式 大洲市 出石寺” で検索すると、うれしいではありませんか、大洲南中学と平野中学の記事に出会うことが出来ました。「少年式」は「少年の日」に名を変え、課題は単独行ではなく、親子連れに変わっていましたが、出石寺徒歩参拝は、きっちり、残っていました。


道標
大洲南中学の記事です。
・・2023年11月1日 2年生の少年の日を祝う会の記念行事として出石寺登山が行われました。生徒たちは、各グループで協力して、苦しいときはお互いに励ましあいながら、目的地にたどり着くことができました。



地元中の地元・平野中学の記事は、こうです。
・・2年生親子行事「少年の日記念出石寺登山」は、12月9日(土)に実施する予定です。登山はしんどいけれど、出石寺から見える景色や達成感は何物にも代えられないと思います。体調を整えて、みんなで出石寺を目指しましょう!
ガンバレ!少年、少女たち!


片目地蔵
江戸時代のことです。秀厳さんという出石寺の住職さんは、ご本尊の千手観世音菩薩を、どうしても拝見したくなりました。というのもご本尊・千手観世音菩薩像は、弘法大師がお定めになった秘仏で、50年に一度しか開帳されません。なのに指折り数えてみるに、自分は生涯、拝見できそうもないのです。
ある日のこと、どうしても我慢できなくなた秀厳さんは、お姿を拝見することにしました。しかし、ご縁日以外の日に拝見すると、その目は見えなくなると言われているので、片目で拝したのだそうです。
そして、・・言い伝え通り、秀厳さんの片目は、見えなくなってしましました。


片目地蔵(平成28年撮影)
秀厳さんが亡くなられたとき、供養のお地蔵さまが作られました。片目の秀厳さんですから、地蔵さんも片目です。それで秀厳さんの地蔵さんは、『一眼(いちがん)地蔵』と呼ばれはじめたのでしたが、・・
やがて、・・これはひょっとしたら、『一願(いちがん)地蔵』ではないか、・・という噂が、立ちはじめたのだそうです。秀厳さんの『一眼地蔵』に願をかけると、『一願』が叶うからなのです。
どうやら秀厳さんの見えなくなった「一眼」には、秘仏・千手観世音菩薩が、しっかりと焼き付けられているらしいのです。であるなら、掛けた願はかならずや、その千手で受けとめて戴けるとて、以来、「片目地蔵」さんに願掛けをする人は、後を絶たないのだと言います。


千体地蔵壇
平成元年の日付の、出石寺からの「お願い」看板がたっていました。
『片目地蔵』との関わりなのでしょうか、この地に地蔵像を断りなく奉納してゆく人が増え、出石寺は、困っているのだそうです。
そこでお寺は「千体地蔵」を発願。祭壇を作って下さいました。
これからは、寺に断って、ここに祀るよう呼びかけています。


到着
弘法大師像が見えてきました。なにに向かって、立っておられるのでしょうか。
玉垣に囲まれた、聖域中の聖域に、いよいよ入ってゆきます。


あじさい
アジサイには雨が似合います。雨の日に来てよかった!

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
本文中、特に「兼定寄寓の地」の記事で、平成28年撮影の写真を多用しています。平成22年の遍路では多くの撮影が失敗し、写真が不足してしまったからです。傘を差していたために片手撮りになってしまい、ピンボケてしまったのです。その割りに書きたいことは多く、やむなく別の遍路の写真を使いました。
更新が遅れたのは、誘われて、ちょっと長めの旅行に出かけたからでした。帰宅してから間に合わせるつもりでしたが、疲れが出てしまって、やりきれませんでした。この分では、秋の遍路が案じられます。
次回の更新は、7月10日の予定です。

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2 コメント

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Unknown (楽しく遍路)
2024-07-01 15:31:18
天恢さん コメントありがとうございました。
「老いの坂道」をゆっくり下りる方法はないのか?とのこと。共通の悩みですね。
火野正平さんは自転車旅の番組で、下り坂、最高!と、人生を謳歌していましたが、どうやら最近になって、撮影が中止となり、放送はすべて再放送となってしまいました。
けっこう好きな番組で、特に四国を走るときは遍路道が写ったりするので、欠かさずみていたのですが、まあ、火野さんに限らず、「最高」はいつまでもは続かない、ということなのでしょう。

私は、すでに男の平均年齢とやらを過ぎ、健康年齢とやらに至っては、10年以上も過ぎています。
過ぎてなお、まあまあ元気ではあるのは、かねてより低空飛行を心がけているからかもしれません。昔の人は、「10」は落ち目の始まりだから「最高の数字」とせず、「9」を「最高」としたそうです。まだ上があるからです。賢いですね。足りないと思っているうちが、いいのです。もっとも私は、心がけて足りないのではなく、根っから足りないのですが。
とまれ、これからも最高は狙わず、・・足らざるを以て良しとする・・をモットーに、低く低く暮らしてゆきたいと思います。低く暮らせば、落ち幅も小さいですからね。

とはいえ、いつ何時、なにが起きるかわからないのが人生です。
先日、かつての職場の同僚が亡くなりました。30代半ばから40代半ばまで、それはそれは大変な時間を、共に過ごした人でした。・・今年の目標は「楽しく過ごす」です、・・などと言いながら、吹き矢の練習を始めたりして、元気だったのですが、歯の治療中、敗血症にかかってしまい、一週間も経たないうちに亡くなってしまったのでした。
私は大いに哀しみ、久しぶりに呑んだりもしたのでした。
どんなに用心して暮らしていても、なにか起きるときは起きる、と教えられました。それは老いも若きも同じです。起きたら起きたで、その時は仕方ない。なんとかするほかはない。いや、なんとかなるだろう。だんだん、そんな風に考えられるようにはなっています。しかし、いざともなれば、あわてるのでしょうね。

これは友人の歯医者の話とは関係ありませんが、たまたま今日、私はこれから歯医者なんです。
下の前歯を4本抜かれます。まだしばらくは使えるのですが、病院に自分で通えなくなる前に治療しておこうと、一大決心をし、治療に同意した次第です。できる備えはしておこう、というわけです。その後、上も、たぶん4本抜くことになるでしょう。
乳歯から永久歯への生え替わりは、5歳半くらいから始まり、下前歯→上前歯と進むそうですが、私のその時期は敗戦直後の大混乱期で、親が子供にできることは、なんとか食べさせてやるくらいのことでした。私は歯の生え替わりのことなど、まったく教わっておらず、すべて自分で対処していたのです。
驚かないでください。その頃の私は、歯は(何回でも)生え替わる、と思っていたのですよ。だって、抜けたら生えてきたのですから。
そんなわけで、私はとても歯並びが悪く、治療しても治療しても、痛んでしまうのです。
ここはやはり、ボケた私を歯医者に連れて行く人の苦労を考えたら、直しておいてやらないといけません。
歯医者なんて、いやだー!と思いつつ、仕方ありません。行ってまいります。

不景気な話ばかりだったので、終わりに、少し楽しいことを、箇条書きします。
・長浜大橋(赤橋)、は、私も訪ねました。次号に赤橋を描いた小学生の絵を載せますので、楽しみにして下さい。小さな子の絵には「心の躍り」が表現されているので、見ていて本当に楽しいですよね。
・天恢さんが出石寺未踏とは、おどろきです。ぜひ、登ってみて下さい。いいお寺です。次号には、空海が出石寺に立っていた、話を書くつもりです。
・アンパンマンは、「僕の顔をお食べよ」と言って、ひもじい子に食べさせたりするんですよね。やなせさんは、すごいキャラクターを思いついたものです。捨身飼虎です。
・今回の遍路は、石手寺がゴールです。出石寺から大洲に戻り、その後は、ほとんど逸れることなく普通の遍路道を歩きます。次号は出石寺から内子辺りまででしょうか。楽しみにして下さい。
・現代の遍路とは似て非なるものかも?・・それ困ります。秋には、どうしても行くつもりですので、現地の新しい情報があれば、教えて下さい。
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続:♪なんのために生まれて なにをして 生きるのか~  (天恢)
2024-06-30 09:50:35
毎度ながら、ついつい愚痴っぽくなりますが、早くも令和6年・2024年も中間点に立ちました。 何事も半分過ぎれば、あとは坂道を転がり落ちるように過ぎ去ってしまいそうで、何とか「老いの坂道」をゆっくり下りる方法はないのか? 無駄な抵抗でも逆らいたくなるのです。

さて、今回は「楽しく遍路」さんが 平成22(2010)年の夏に歩かれた「大洲見学 一条兼定仮寓の地 金山出石寺へ」までのリライト版をコメントすることになります。 今シリーズは、大洲市内観光から始まりましたが、全行程が紹介されてないので果たしてゴールはどこか? まっ、ミステリー遍路として楽しむことにしましょう。
天恢も大洲は好きな街で、2010年に旧肱川橋からの大洲城との出会い。 その後大洲城や市内観光。 遍路を離れて、大洲駅から「愛ある伊予灘線」に乗って、肱川河口の長浜大橋(赤橋)、下灘駅も見物できました。 2019年には、このブログに刺激され、 ワールド・モニュメント財団によって「危機に瀕している世界のモニュメントリスト」に登録され、しっかり修復された「少彦名神社の参籠殿」を心ゆくまで拝観できました。
 このように札所から札所へ歩く遍路道も「寄り道、脇道、まわり道すれば、深い奥行きと広がりの世界が待っています。 それにしても金山出石寺へお参りできなかったのが心残りです。

さてさて、今回のタイトルは、前回と同じの『 ♪なんのために生まれて なにをして 生きるのか~ 』ですが、四国出身で、生涯を四国の発展ために尽力なされた漫画家・やなせたかしさん作詞の『アンパンマンのマーチ』からです。 子ども向けの漫画の歌詞にしては余りに意味が深すぎます。 自己再生への道として遍路を志す方達とご一緒に、このタイトルの意味を心に問うというのが前回からの宿題でした。
 よわい80歳過ぎた天恢も正直 『なんのために生まれて なにをして 生きるのか?』は、未だ悟るきっかけも見いだせません。 それを知ろうと思い四国遍路を始めたのが63歳の時でした。 しかし、いくら歩き続けても 『即席の人生指南を与えてくれない。お手軽な答えを用意していない』のが遍路です。 永遠のテーマとして問い求めるしかありません。
 気になることがあります。 あのバブル崩壊後、日本人は確実に貧しくなってきています。 時間も、お金も、気持ちまで失いつつあるような気がします。 このブログに掲載された2010年頃と現代の遍路とは似て非なるものかも?
 コロナ渦以降、歩き遍路はますます減ってきています。 20年前は60歳定年が一般的で、退職者は比較的元気でしたから、これに多少のお金と暇があれば気軽に遍路へ出掛けることができました。 それが、年金支給が65歳からになって、多くはその歳まで働かざるを得なくなりました。 実際は、平均寿命が多少延びても、健康寿命はそれ程延びていません。 男性の場合、平均寿命は81歳、健康寿命は72歳です。 65歳で退職しても準備・計画もあって即遍路に入れません。 モタモタしていたら、それ相応の気力・体力が必要となる歩き遍路へ行くチャンスを失います。 
昨今は、70歳からの年金受給の勧め、70歳まで定年延長してでも働かせようとする政府の思惑があります。 これに、インバウンドの影響で安価に泊まれた遍路宿が少なくなって、宿泊費がますます高騰しています。 これじゃ歩き遍路などは贅沢の極みになりかねません。 健康寿命を出来るだけ長く保って、政府に騙されずに65歳から年金貰って、元気なうちに遍路へ出掛けましょう。 自己再生への道で、『なんのために生まれて なにをして 生きるのか?』と問うて、『こたえられないなんて そんなのは いやだ!~』 です。
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