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楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H24春遍路 ② 堀江 粟井坂 北条辻 杖大師

2012-05-21 | 四国遍路

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4/14 曇のち晴  堀江-(粟井坂)-杖大師・・・
計画では亀岡まで歩いて、(予讃線で)北条に引き返すつもりでしたが、よんどころない事情で、浅海(あさなみ)までしか行けませんでした。しかし悔いてはいません。明日は、北条から高縄山に登ります。



しばらくは、この山が目標になります。

7:00前、民宿四国を発ち、妙な形の山を目標に歩きました。堀江の町から北方向にある山で、大谷トンネルが貫通しています。山頂には、葛籠屑(つづらくず)城跡があり、今も石積みの一部が残っているそうです。もちろん河野氏関連の城ですが、築城は脇屋義介(新田義貞の弟)だともいわれています。 
  


振り返ると、こんな景色が見えました。奥が堀江港→太山寺がある山々です。


葛籠屑城の山を過ぎると、前方に見えてくるのが、下の景色です。
この山越えが、かつての難所・粟井坂でした。



粟井坂へ

少し細かく説明します。
現在「粟井坂」と呼ばれている所は、岬の先端、大きな建物が立っているところです。もちろん、かつての粟井坂とは異なります。
この建物は「海鮮北斗」という食堂ですが、この建物の、道を挟んだ反対側(山側)に、粟井坂・小川大師堂があります。かつては山の中腹に茶堂としてあったものが、大師堂になって降りてきたものです。保守・管理などに地元・小川が働いておられます。
海沿いの道が出来て、かつての難所、粟井坂は、坂とは名ばかりの、平坦な道になりました。明治13年、難工事の末、開通したそうです。
なお、ほぼ並行して走る予讃線の、伊予北条-松山間が開通するのは、ずっと遅れて、昭和2年です。トンネルを穿ちました。

では、難所、旧粟井坂はどこを通っていたか。
右部分に、青地に白の道路案内標識が見え、その下に家が建っています。この家には「食事処 たこ松」という看板が出ていますが、今は営業していません。
旧粟井坂は、「たこ松」の向こうを右(東方向)に入り、すぐ予讃線の踏切を渡って、左に進む道でした。



「たこ松」さんの所で右に入ると、こんな景色になります。粟井坂トンネルが見えます。

土地の人の話では、(トンネルの上に見えている)ミカン畑の地主さんの協力で、三年ほど前、旧粟井坂の道を拓いたのだそうです。けれど、通る人も少なく、せっかく拓いた道も、藪や葎が塞いでしまったといいます。今は通れません。



「幸の神」が祀られていました。

「たこ松」さんの先、道を挟んだ山側に「幸の神」が祀られていました。
新しい鳥居は、話では三日前に建てたばかり、とのこと。私は運がいい!この鳥居がなかったら、見過ごしたかもしれません。
「幸の神」は、「さえの神」と読み、「塞の神」とも書きます。邪霊の侵入を防ぎ、行路の安全を護る神、道祖神で、村境、郡境などに置かれる神さまです。
粟井坂は、和気郡と風早郡の郡境となる道ですので、この「幸の神」は、郡境の、和気郡側に置かれていることになります。



涼しさや 馬も海向く 淡(粟)井坂 子規

粟井坂は「間ノ坂」とも呼ばれたそうです。澄禅さんは「四国遍路日記」で、伊予の南七郡(和気郡側)を「道後」、北七郡(風早郡側)を「道前」と云い、その間に架かる坂、ということで「間ノ坂」と云う、と書いています。
・・・堀江ト云町ヲ経テ間ノ坂ニカゝル。此坂ヲ間ノ坂ト云心ハ、先此伊予ノ国ヲ二ツニ分テ南七郡ヲ道後ト云、北七郡ヲ道前ト云、惣テ十四郡也、其道前道後ノ境ナレバ間ノ坂ト云・・・柳原・カザハエ(風早)ナド云所ヲ往ク・・・

ところで、澄禅さんは書いていませんが、道前-道後をつなぐ、もう一つの峠道が知られています。
前回でも触れた、「桜三里」と呼ばれる道です。今治を経由しないで、松山から丹原・小松→讃岐に通じる道で、こんぴら参りの人たちが多く利用しました。国道11号線のベースと考えてもいいと思います。
面白いことに、「桜三里」は今なお現代地図上でも、道前-道後をつないでいます。すなわち、丹原・小松の「道前平野」と、松山の「道後平野」をつないでいるわけです。「道前平野」は燧灘(ひうち・なだ)に流れる中山川がつくった平野で、「道後平野」は、斎灘(いつき・なだ)に流れる重信川や石手川がつくった平野です。

なお、律令時代の道前-道後は、国府が基準となったようです。伊予の国府は、現・今治市桜井の辺りでしたから、澄禅さんの時代とは、また違っていたと思われます。



岬の先の食堂「海鮮北斗」

食堂の向かいに粟井坂・小川大師堂があり、食堂の少し先に「粟の井戸」と休憩所があります。
「粟の井戸」は、古来粟粒の様な水がブツブツといづむところから「粟乃井」とよび、粟井郷(後の粟井村)の地名の起こりとなった、のだそうです



粟井坂の小川大師堂

句碑など、いろいろがあります。
大師堂内の句碑は、すべて翻字してくれているので、読み取ることが出来ます。
右に大きく見えるのが「粟井坂新道碑」です。海沿い道開通までの苦労などを記し、その功績を顕彰しています。
大師像は「修行大師」で、花へんろ第二番札所、になっています。井戸の前に置かれているのは、「粟の井戸」を意識しているのでしょうか?
ちなみに、一番は鎌大師堂、二番は、ここ、粟井坂・小川大師堂、三番は高縄寺、四番は杖大師、です。四番で終わりです。

ジャマですが、私のザックが写ってしまいました。ビニール袋は、お接待のミカンです。二つ三つは少ないし、四つは縁起が悪いし、というわけで、ラッキーセブンの七つ、いただきました。うれしい重さです。
背後に、山頂に桜が咲いている山が見えます。やがて、この山が話題にあがります。



大師堂に向かって右(南側)に「河野通清公墓所」への登り口があります。私はこれを登りました。



登り道から見た太山寺方面です。下に国道196号線が見えます。これが現在の遍路道です。



風早八十八ヶ所の石仏がありました。



河野通清公墓所がある粟井坂の峠=郡境の関所跡

ほどなく「河野通清公墓所」に着きました。ここは、粟井坂の峠、すなわち、和気郡と風早郡の郡境で、かつて関所がありました。
「たこ松」から入る旧粟井坂は塞がってしまいましたが、塞がった先に出てきた訳です。

河野一族の頭領の名に「通」の字が通字として使われるのは、河野通清(みちきよ)に始まります。
源頼朝が伊豆に挙兵したと聞くや、通清は、息・通信(みちのぶ)とともに、これに呼応、一時は伊予全土の支配に成功しましたが、西日本での平氏勢力は強く、孤立する中、通清は、(後に述べる)「山の神の大松」の下で割腹して果てました。
しかし息・通信は生き延び、やがて義経と共に平氏勢力を一掃、義経亡き後は、頼朝の傘下に入り、実質的に伊予国守護となります。
その後、承久の乱での衰退、「元寇」での活躍→旧領回復など、盛衰しますが、戦国大名への脱皮には失敗しました。道後・湯築城への本拠移転は、室町期のようです。
なお、一遍上人は通信の孫にあたります。
 


郡境の碑。ひどく風化しているので、後にコピーがあります。



この道を、みんなの人が通ったぞなもし

「この道を小林一茶も学信も、中江藤樹も蔵沢も、おへんろさんも其他みんなの人が通った道ぞなもし」と刻まれているそうです。
学信は伊予出身の真宗僧のようです。蔵沢は、やはり伊予出身の吉田蔵沢でしょう。絵画、俳諧をよくしたそうです。一茶と藤樹のお二人には、この日、私も出会うことになります。

関所跡を後にして、峠を下りました。
少しの下りで、「山の神古戦場跡」に出ました。土地所有者が碑などを集めて公園化し、「閑林苑」と名付けたそうです。
ここの地形は、公園化工事で手を加えてはいるのでしょうが、舌状に小さく張り出し、周りが落ち込んでいます。城郭の防御ラインが見えるようです。



山の神古戦場跡 

「河野氏一門之供養塔」が建っています。この地に、今は枯死してありませんが、「山の神の大松」が立っていたそうです。通清は、その下で割腹自裁したといいます。



「おへんろさんも通ったぞなもし」、へんろ道標もありました。



地元の方のボランティア清掃

山の神古戦場跡を清掃している人たちがいました。地元・小川の元気なお父さん、お母さんたちです。
私有地であることから、清掃などは、長く独りの女性に頼ってきました。ですが彼女も80才を越え、身体が不自由になったのだそうです。それで、代わりに、地域のみんなで、やり始めたのだそうでした。



旧粟井坂から見た風早郡

左端が鹿島、徐々に高くなるのが新城山です。鞍部を挟んで腰折山(こしおれ)が、その名のような姿を見せています。右の一番高いのが恵良山(えりょう)です。右端に小さく写っているのは名石山でしょう。「めいし・やま」と読むようです。

新城山と腰折山の鞍部に「鴻之坂」が通っています。北条側の登り口に鎌大師堂があります。浅海に抜けますが、実は浅海も風早郡です。隣の野間郡との境は、浅海の向こうの窓坂峠です。これが風早郡の北の出入り口です。
南の出入り口は、前述のように、粟井坂(間之坂)で、小川大師堂があります。
なお、東は高縄山(986㍍)が塞いでおり、山頂に高縄寺があります。西は斎灘(いつき・なだ)です。



てっぺんに桜が咲く山

196号線に戻るべく歩いていると、老夫婦がひなたぼっこしていました。1才の孫を抱いています。
山のてっぺんに桜が咲いていましたが・・・、と話すと、私らが登って植えたんです、私がつくったサツキの挿し木を、小学3年生が持って登り、挿したんですよ・・・、と交互に話されました。



もうひとつの、てっぺんに桜が咲く山。7年前、浅海の先で撮影。

同じような話を、H17に歩いたとき、浅海の先でも聞きました。山のてっぺんがちょっと寂しーで、みんなで登って植えたんよ、目立とうっちゅうことじゃねー、と話されていたのでした。この土地は、かつて、そんなことを軽くしてのけるエネルギーを持っていたのです。

北条・久保に、前にへんろで知り合った方のお宅があります。お会いしたいのは山々ですが、一礼をして通り過ぎました。
お目にかかれば、明日の高輪寺参拝のことをお話しすることになり、そうなると、高輪山の清掃ボランティアなどをされている方なので、お気を煩わせることになると懸念したのです。ごめんなさい。黙って通過してしまいました。
私は、高縄山ふたたび、と考えていますので、その時はぜひお世話になります。



徳右衛門道標

和田バス停の側に徳右衛門道標があります。痛んでいます。帰宅して、写真をためつすがめつしてみました。
左の面「・・・越智郡朝倉 徳右衛門」、右の面「・・・延命寺へ七里七丁」、写っていない面「施主 風早郡・・・」が、なんとか読み取れると思います。



蓮福寺大師堂

へんろ道標が見えます。一面に「粟井坂 高野山 十三丁」とあります。高野山はお大師さんのおられる所、つまり、粟井坂の小川大師堂へ13丁、ということでしょう。
反対の面には、「延命寺へ七里 大正八年建之」とあります。徳右衛門道標から七丁歩いたことになります。

蓮福寺大師堂は粟井川の河口にあります。
川を渡った少し先の、理髪屋さんの角、2㍍ほど奥に、「松山札の辻より三里」の里程石と「お塚さま」(と呼んでいました)、が並んでいます。



里程石と「お塚さま」

どちらも元は、もっと道寄りにありました。
移動させるとき、里程石の下の部分が折れてしまいました。繋ごうとしたのですが、脆くなっていて出来ず、折れた下の部分は、「お塚さま」の後に置いてあります。
お塚さまの、下段の石が、やや白味がかっているのがお分かりでしょうか。この部分は、長く土中に埋まっていました。移動に当って、お坊さんに来て貰ったところ、さすがお坊さん、もう一段下があるはずだと話され、掘ってみたところ、出てきたのだそうです。



中江藤樹先生立志之地

碑が建っているこの辺を「柳原」といいます。澄禅さんが、間ノ坂を越えると「柳原・カザハエナド云所ヲ往ク」と書いた、風早郡 河野村 柳原 です。河野氏の故地でもあります。
大洲藩の人、中江藤樹さんが、なぜ柳原で「立志」したのでしょうか。
実は、この辺は大洲藩の飛び地でした。藤樹さんは少年時代を、郡代官を命じられた養父(実の祖父)とともに、この地で過ごしたのでした。

「立志之地」の石碑を見ていたときのことでした。実に楽しい方との出会いがありました。自転車を押しながら散歩している「お父さん」です。三穗神社を案内してくださるというので、ご一緒させていただきました。



三穗神社

この時はまさか、この「お父さん」と北条辻まで、たかだか三㌔ほどを、ゆるりゆるり、三時間近くもかけて歩くことになるとは、思ってもいませんでした。「お父さん」は糖尿病を患っておられ、散歩は欠かせない日課です。「おへんろさん、一緒に歩いてもよかろうか?」と尋ねられるので、「もちろん」となったのでした。

神社は、「立志之碑」から少し海側(西)に入ったところにあります。郡代官屋敷と隣接していたそうです。
御祭神は、大国主神、 事代主神(ことしろぬしのかみ)、 蛭子神(ひるこのかみ)、とされています。



地名誕生の碑と、殉教キリシタンの供養祠

柳原」という地名がここに誕生した、のだそうです。代官屋敷から三穗神社にかけて柳の並木があったからだ、とも聞きましたが、定かではありません。
碑の左に祠が見えます。秀吉の追放令で処刑された、三人のキリシタンを祀っていると伝わっています。殉教キリシタンを、人々は哀れに思ったのでしょう、日常生活では親しい仲だったのですから。また霊を怖れたかもしれません、多くが神式や仏式で供養されています。表向き、供養は罷り成らん、でしたが、世の中すべて、建て前通りにはまいりません。(→仏式供養の例)



三穗神社の鳥居

三穗神社は海に向いています。この先に、柳原港があります。藤樹さんの頃は、大洲本領との海上路も拓かれていたと思われます。
「お父さん」の小学校(戦前)時代、修学旅行の行き先は大洲だったそうです。旧藩との繋がりと云うより、中江藤樹先生との繋がりだったろう、と言います。(→大洲の中江藤樹像)



境内の小祠

「お父さん」は、これを私に見せたかったのです。
石柱には、「大洲藩主加藤家、大洲藩士中江家の小祠」と刻まれています。たかだか百石の藩士中江家が藩主家と並記されているのは、「近江聖人」の偉大さ故でしょう。



こんな道をぶらいぶらりと

「お父さん」は「今治」を、「いまはる」と発音されます。この読みは、昔、けっこう一般的でした。「今治」(イマバリ)という街よりも「今治水」(コンジ・スイ)の方が知られている、そんな時代の話です。
今どき、こんな人と出会えるなんて、これは「お導き」なのかしらん、と思いました。
ちなみに、今治水は虫歯の痛み止めで、いま(今)なおる(治る)歯の薬、です。綿に染みこませて、虫歯の部分で噛みます。「征露丸」(露を征するラッパのマーク)ほどではありませんが、まあまあ知られていました。



虚子像と句碑

像の近くに、今は草が生えた空き地ですが、「虚子先生 生家池内邸 跡地」があります。虚子は池内家に生まれましたが、9才の時、祖母の家を継ぎ、高浜姓となりました。
   この松の下にたたずめば露のわれ
句碑にあるこの句は、大正6年、帰省した虚子が、幼い頃に遊んだ西ノ下大師堂で詠んだものです。大師堂には当時、大きな松の木があったそうです。



西ノ下(げ)大師堂

ここを、幼い虚子=清少年が駆けずりまわっていたのでしょうか?凧揚げならば、なにせ風早の地ですから、それは高く舞上がったことでしょう。
「虚子」は、本名、清(キヨシ)をもじった俳号です。
ちなみに、やはり正岡子規に師事し、子規亡き後は虚子と対立することになる俳人・松根東洋城(とうようじょう)は、本名・豊次郎をもじったものです。新しい名を得て、ちょいと鼻高げな明治の文学青年が目に浮かぶようです。



赤大師・赤地蔵

「お父さん」は「赤地蔵」と呼んでいました。ここを地蔵堂と認識しているのです。私が「赤大師では?」と尋ねると、「ああ、ほうやねぇ」と言って、否定するでもありません。お地蔵さんとお大師さんが並んでいらっしゃるのです、どちらでもいいのでしょう。



赤大師の中司道標

お地蔵さまとお大師さまの背後に、八十八回目の中司道標があります。他所で石橋に組み込まれていたものが、昭和60年代、ここに移されたそうです。この頃は、「中務」ではなく「中司」でした。



松山市 北条市

おへんろさん、ほらほら、「お父さん」が指さす先に、旧市名・北条市と新市名・松山市がありました。
「お父さん」は、北条市の名が消えてしまい、悔しいようでした。律令時代、この地に条里制が敷かれていたことに因む名だそうで、松山ごときに併呑されたのが、無念のようでした。
かつての道前-道後ではないですが、今は、今治と松山が境を接しています。



北条港

・・・おへんろさん、あれが鹿島よ、鹿島神社がある、・・・神社よ、神宮じゃーない、「お父さん」の説明は佳境に入っています。なにせ、家族中から「男のくせに、おしゃべり」と言われるほどの話し好きです。
鹿島神社の御祭神は、「武」の神さま・武甕槌命(たけみかづち)、経津主命(ふつぬし)の二柱に、この辺に多い三穗神社の事代主命が合祀されています。河野氏が勧請しました。



「花へんろの町」石碑 、「松山札辻より四里」の里程石

・・・裏に回ってみますと「左 金毘羅三十二里」と刻まれたこんぴら道標なのですね。他の場所にあった道標をここに移してくるとき、金毘羅の面を正面にすると左右が逆になるので、裏に花へんろの町と刻んで今のように置いたというのが真相らしいですよ・・・、枯雑草さんが街のご老人から聞き取られた話です。(「枯雑草の巡礼日記」より)



これが裏、というより本来の表

この面の方が時代を経ているのは、確かです。
「花へんろ」は、早坂暁さん作の人気テレビドラマです。ただし、放映された1980年代、私はあまりテレビを見ていませんでした。記憶に残っていません。けっこう仕事に打ち込んでいた?



富屋 勧商場

今は居酒屋ですが、かつては「勧商場」(かんしょうば)だったそうです。「花へんろ」の舞台になりました。
木板看板は早坂暁さんの筆だと、「お父さん」が教えてくれました。
勧商場とは、勧工場ともいい、「一つの建物の中に多くの店が入り、いろいろな商品を即売した所」、なのだそうです。百貨店の前身ともいえそうです。
万屋(よろずや)とは違います。こちらは田舎の個人商店で、なんでも屋です。コンビニの前身でしょうか。

さて、「お父さん」と柳原で出会って、すでに3時間が経ちました。いくら楽しくても、いつまでも、というわけには参りません。
ここで、お別れすることにしました。納め札をお渡ししました。
ありがとうございました。「お父さん」から教わった雑草のこと、祭のこと、町の人脈のこと、ご友人との出会い、紹介してくださったお店の見学などなど、書いておきたいことはいっぱいありますが、これにとどめます。「お父さん」、ありがとうございました。いっぱい歩いてくださいね。



杖大師

急ぎお参りし、引き返して、今日の宿・太田屋さんに荷物を預けました。身軽になって、一茶の道から鎌大師、鴻之坂を経て浅海を目指します。予定していた亀岡はもちろん、菊間までも、もう無理でしょう。
「お父さん」との道中で遅れたのですが、それを悔いてはいません。むしろ逆です。おかげさまで心身ともに元気いっぱい、これより快速遍路に変身して、ぶっ飛ばします。

思いつくまま書くうちに、ずいぶんと長くなってしまいました。1日の途中ですが、いったん切らせてください。
これより以降は、次回、明日の高縄山参拝とともに報告します。アップロードは、6/10過ぎを予定しています。

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2 コメント

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Unknown (枯雑草)
2012-05-21 17:57:20
こんにちは。
綿密な事前調査、そして現地調査、話し好きの方との出会い・・いいですね。
ゆったりとした時間が流れているようです。
遍路記は、いや遍路旅はこうあるべきだ・・と感じさせられました。
ところで、参考にあげられている「今治街道を行く」、すごい調査報告ですね。私も以前から注目していました。圧巻は土佐国境までの「土佐街道」の調査。
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Unknown (楽しく遍路)
2012-05-22 11:40:52
ありがとうございます。
枯雑草さんの遍路、遍路記は私の手本ですので、とても励まされます。
「今治街道を行く」のサイト、「熟年夫婦」さんの記録だそうですが、やはり草刈り鎌を持っての調査のようですね。驚きです。
枯雑草さんも「秘密兵器」を持参されるとのことですが、私には、そのエネルギーはありません。先人たちの後を「楽しく」追いかけるのみです。
また、よろしくお願いします。
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