楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H24 秋遍路⑦ 明石寺の御篠山 松葉城趾 鳥坂峠 冨士山

2013-05-03 | 四国遍路

     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ

11月19日 第7日目 晴  


明石寺本堂・修復中

明石寺の背後の山は、「御篠山」と呼ばれています。山頂に篠山神社が勧請され、鎮座なさっているからです。
篠山神社は熊野修験道の聖地でした。そして明石寺も、熊野修験の中心道場として知られていました。そういうご縁です。



坪ケ谷新四国霊場配置図

御篠山に「坪ケ谷新四国霊場」があります。天保2(1831)、創基されました。明治28(1895)に再建されています。
新四国霊場の一番は、開明学校側の光教寺にあります。ここから反時計回りに御篠山山頂・篠山神社に向けて登り、明石寺を回って、雨山公園の側にある88番へ降りてきます。
39番を過ぎた所には、実際の88箇所と同じく、分岐があり、篠山神社に通じています。「お篠」に参拝の後、打ち返して40番に進む仕組みです。篠山信仰(熊野信仰)が構想の中心にあることが覗えます。


新四国霊場一番がある光教寺

宇和先哲記念館で、札所の配置図、一覧表をいただきました。民具館といい、先哲記念館といい、本当に親切に対応してくださいまして、ありがとうございます。
いただいた資料に、施主の出身村が記されており、中に、懐かしい地名がありました。「宮ノ浦」です。これは現・今治市大三島の「宮浦」ではないでしょうか。地元、55番南光坊と56番泰山寺の、再建時の施主になっています。卯之町と今治、どのような繋がりがあったのでしょう。

光教寺は、後に述べる、西園寺氏の菩提寺です。


大師堂の右の小さな池

御篠山山頂(388㍍)への登り口は、「掬水へんろ館」掲載の、「歯長城主」さんお勧め、「明石寺山越え」に従いました。
・・・(明石寺)大師堂の直ぐ右の小さな池(水溜まり)裏から上がる道の方が、初めの50m位は荒れていて勾配もきついのですが、後はきれいな山道で迷うこともなく、20分足らずで山頂の休憩小屋に着きます。・・・


新四国の道標

すぐ道標に出会いました。「新四国42番~38番 頂上休憩所」とあります。
「篠山神社」の文字が入っていないのが、ちょっと残念です。


分岐

少林寺側のおばあさんから教わった「タテ道-馬車道」を思い出します。
道標はありませんが、頂上へ向かうのですから、上へ上へと、タテ道を進みました。


41番龍光寺

41番龍光寺の創基時の施主は、地元の気概でしょうか、「三間村」の人です。ただし「三間村」の施主は、この一例のみです。山で隔てられているとはいえ、隣村です。もっと多いと思ったのですが、なぜでしょう?もう一つの隣村、「吉田村」の施主は11例を数えます。
なお、仏木寺の施主は不明です。


御篠山の篠山神社

正面の自然石には「篠山神」と刻まれています。再建の頃に建てられたようです。明治33(1900)の年号が刻まれています。
この頃は、神仏分離で、すでに「篠山大権現」ではないわけです。


松葉城本丸へ

篠山神社から尾根伝いに、松葉城趾(400㍍)へ向かいました。
当然のことながら、城の本丸に辿り着くのは容易ではありません。そのように城は造られています。
ですが、ありがたいことに、長い木製の階段がついています。「歯長城主」さんは「千と千尋の・・・」を思い出させる風情のある階段、と書いていおられます。


本丸跡

景色と陽光を楽しんでいると、散歩の男性が登ってきました。晴れていれば、たいていは登ってくるとのこと。
汗を拭きつつ持参のペットボトルを取り出されましたが、ふと気づき、何もお接待するものがないのでと、私に差し出だされました。むろん、謝して辞しました。お気持ちは、いただきました。
小一時間、会話を楽しみました。遍路だから知り得ている地元のことなどもあって、喜んでいただけました。また、ヤマガラの歓迎をうけました。


卯之町

中世、南予一帯は西園寺一族の支配下にありました。藤原北家・西園寺氏の分流が下向し、土着したものと考えられています。
西園寺氏は松葉城を居城として築き、城下町の経営を始めました。やがて防衛力を強化するため、宇和川を挟んだ対岸の山に、黒瀬城を築き、本拠を移しましたが、城下町としての発展可能性は、松葉城の側にありました。
慶安4年(1651)、町並みは松葉城側(現在の中町通りの場所)に戻りました。「卯之町」と呼ばれるようになったのは、それ以降だと言います。しかし、この頃、西園寺氏はすでに滅び、卯之町は宇和島藩の支配に入っていました。


街並み

江戸期に入り卯之町は、宇和島藩の「在郷町」として発展しました。「在郷町」とは、農村部の中の商業地です。
卯之町には、「宇和3万石」と呼ばれたほどの、大穀倉地が控えていました。加えて、盆地とはいえ、宇和島へも、八幡浜へも、大洲さらには松山へも通じる口を持つ、「交通の要衝」でもありました。


申義堂

幕末から明治にかけて、卯之町には「進取」の気風がみなぎっていました。
この地に開設された初の小学校は、その名も「開明学校」でした。開明学校は、当初、私塾・申義堂を借りて始まりましたが、やがて地元の寄付で校舎が建ちました。


町が建てた開明学校校舎

幕末四賢侯と呼ばれた内の一、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)侯の存在は大きかったと思います。
シーボルトの娘がこの地で育っていたとは、また高野長英がこの地に潜んでいたとは、私は知りませんでした。これは、宗城侯の庇護なしには、起こりえなかったことでしょう。


大恵寺

松葉城から降りてきたところに松観山大恵寺があります。天台宗の寺です。
近所で尋ねると、「この辺は皆、天台だよ」、とのことでした。これは、天台宗明石寺、「あげいしさん」を念頭に置いた答でした。


狛犬

小さな狛犬さんが、満身創痍となりながら、お寺を護っていました。


西園寺家神霊塔

正面に「西園寺歴代神霊」と刻まれています。左側面には「妙経一字一石」と刻まれています。法華経の一文字一文字を、小石の一つ一つに写経したということです。神霊と法華経。神仏習合の塔です。ちなみに法華経の文字数は、6万9.348 だそうです。
神霊塔が在る場所としては、やや落ち着かない位置です。どこかから遷されたか、建物の配置が変わったか、したのかもしれません。


鬼面?

角がとれてしまったのでしょう。鬼瓦と同じような意味、悪霊払い、と捉えればいいのでしょうか。


八幡浜方面

大江で見かけた茂兵衛道標です。直進(北上)すると、(60㌔ほども先ですが)、「菅生」、つまり44番菅生山大宝寺です。
左方向(西方向)は、鳥越峠(292㍍)を経て八幡浜に至る道です。この道は、(前回、枯雑草さんがコメントしてくださった)笠置峠を迂回する道です。笠置街道は、古くより八幡浜への主要道でしたが、峠越え(397㍍)は難儀だったようです。迂回路が出来ました。
笠置街道は廃れましたが、峠下に笠置トンネルが抜け、今は予讃線が通っています。姿は変わっても、主要道ではあるわけです。


出石寺への案内

車向けの、八幡浜→出石寺への案内標識がありました。歩きの「いづし道」(出石道)については、鳥坂峠のところで記します。


大師堂

西園寺公高郷之墓所、という石碑が目に入ったので少し登ってみると、観音堂と大師堂が並んでいました。
大師堂には、日切地蔵、この地より出土したという大師像、木彫大師像、マリア観音の如き観音像などが居並んでいました。


地蔵

逆廻りのお二人がやってきました。前に初老の男性、後に、その母上でしょうか、女性が歩いています。男性の荷物が多めですが、女性も、荷物を背負っておられます。ゆっくりと、しかし確実な歩みです。「ご苦労様です」と言葉を交わしあい、すれ違いました。鳥坂峠は、峠越えだったでしょうか、トンネルだったでしょうか、いずれにせよ、きびしい道でした。


道標

八幡浜への道標が、また、ありました。この道標も、鳥越峠を経て八幡浜へ行く道を示しています。
笠置峠への道標は、結局、見つけることが出来なかったのですが、「えひめの記憶」によると、旧卯之町に残っているそうです。機会があれば探してみます。できれば歩いてもみたい。峠にはいくつもの遍路墓があるそうです。


荷台かな?

この辺の道ばたに何本か見られます。ザックを背負ったまま載せると、立ったまま小休止できます。私はそのように使っているのですが、本当の用途は別にあるのかもしれません。


ホーロー看板

「文六餅」 は「てんやわんや」を書いた獅子文六さんに因んだ、津島岩松の土産品です。
「桜うづまき」は、・・・


伊予北条の酒

「桜うづまき」は伊予北条の酒です。右側の、桜模様が付いた方です。伊予北条には、もう一つ、「雪すずめ」という酒があります。左側です。どちらも美味しい酒です。


鳥坂峠へ

宇和盆地の最北端に鳥坂峠があり、山向こうが大洲です。今は鳥坂トンネルが抜けているのは、もちろんです。


領界石

「従是南宇和嶋領」。元は、宇和島藩の東多田番所跡に建っていたそうです。


鳥坂峠登り口

左の坂を登ってゆきます。


大洲藩の鳥坂番所跡

少し登ると大洲藩の番所跡があります。ここに番所が在ったということは、ここで領界が確定していたことを意味します。
しかし、戦国期の鳥坂峠は、血で血を洗う戦場でした。永禄10(1567))の「鳥坂峠の合戦」は、伊予でも最大級の戦だったといわれています。


卯之町方向

鳥坂峠の攻防の、眼目の一つが、この豊穣の地の争奪にあったことは、想像に難くありません。


鳥坂峠

峠の左右に残っている石積みは、鳥坂城の砦跡です。
戦いの始まりは、大洲宇都宮氏と河野氏の争いだったそうですが、それぞれに同盟する勢力が加わり、万を超える連合軍対連合軍の戦いとなりました。宇都宮勢には土佐一条氏、長宗我部氏、西園寺氏が参陣、河野勢には毛利氏、村上水軍、さらには小早川氏が参陣しました。
結果は、地元宇和の西園寺氏が河野方に寝返りし、河野方が圧勝しました。これにより大洲宇都宮氏は滅亡、一条家は衰退し、やがて長宗我部氏に滅ぼされることになります。


鳥坂峠

「四国遍礼名所図会」・・・宇和島領・大洲領境、此所ニいづし道有。戸坂村、戸坂(登り八丁也。下り二里半有り)、峠より左ニ伊づし観音山見ゆる。豊後日向路はるかに見ゆる・・・、
「いづし道」(出石寺への道)があった、と記しています。地図でたどると、鳥坂峠-滝宮-城の下-地蔵堂-出石寺、となるのでしょうか。出石寺観音山を近景に、豊後、日向を遠景に眺め、歩いたようです。


日天さま月天さま

「日天さん月天さん」という幼児向けのお話があります。ウサギさんやタヌキさんやブタさんが、おばあさんから、姿が消える呪文を教わります。「ニッテンサンガッテンサン」という呪文です。しかし、これ、覚えにくく、言いにくい。ウサギさん達は、いろいろと唱え間違いします。上半身は消えたけど、下半身は消えなかったり・・・。その度に、子供たちが大笑いする、というわけです。
お日様とお月様は、もっとも素朴で原初的な、庶民の信仰対象のひとつです。奥の小祀には、日月を浮き彫りにした円形の石版が祀られています。


林道

すぐ56号線に降りてしまうと味気ないので、林道を歩きました。すぐ道標も遍路札もなくなるので、地図とコンパスが頼りです。方向を札掛に合わせます。
ところで、歩き遍路にもGPS時代が来るのでしょうか?車の方達はとっくに使っていますが。


札掛大師堂

林道から降りてきました。札掛山仏陀懸寺(ふだかけさん・ふだかけじ)とあります。弘法大師がご休憩の際、釈尊のお札を松の枝に掛けられた故事に因む寺名、だそうです。
何年か前には再建されたとの話も聞いていたのですが、残念です。以前見た写真には釣り鐘が写っていたのですが、鐘木だけしか見えません。


札掛大師堂

「えひめの記憶」には、・・・ここから大洲市黒木、同平野町の平地を経由して出石寺を訪れる者もいたようである・・・とあります。
現代の道路でたどれば、235号線から259号線を経て平野に出る道だと思われます。もちろん、ここに札を納めて過ぎてゆく人もいたでしょう。その意味でも「札掛」なのでしょう。


ハリネズミ

土地の子供たちに出会ったとき、私はかならず挨拶はします。しかし、私から話しかけることは、諸般の事情から、控えています。もちろん話しかけられれば、それは別です。
南久米小学校の近くに来ると、写真の工作物をもった男の子が、「ハリネズミだよ、ハリネズミ」、と言いながら近づいてきました。「おばあちゃんが見たいから持って帰るんだ。先生が持って帰っていいと言ったんだ」と、尋ねもしないのに事情を話してくれます。写真を撮ってあげると、ワッ、スゲッ、ズーム!
ほとんど、いわゆる「標準語」を話します。言葉の面で物怖じすることは、ないようです。私などは、えらく苦労したものですが。


タコ焼き

札掛から56号線に出ると、タコ焼き屋さん、ラーメン屋さんなどが集まった一角があります。
この辺に、地元の人たちが「お接待場」と呼んでいる、かつての常接待場の跡があるそうですが、見つかりませんでした。


冨士山(とみす)

富士山型の冨士山(とみす)が見えてくると、もう大洲です。


肱川

この深みを、「臥龍淵」、と呼ぶそうです。臥龍山荘の名の興りです。大洲藩3代藩主加藤泰恒の命名だそうです。


臥龍山荘

臥龍山荘は、藤堂高虎の家臣・渡辺勘兵衛が造った庭園に始まる、と言います。
「槍の勘兵衛」として知られた人物で、主人が凡愚と見ればさっさと愛想づかしをするという、戦国の気風を持ち続けた豪の者、と言います。


今治城の勘兵衛石

渡辺勘兵衛は私には懐かしい存在です。写真は今治城にある「勘兵衛石」。勘兵衛が築城奉行だったことに因む巨石です。


如法寺参道

冨士山の山裾にある、如法寺を訪ねました。苔むした、風情のある参道です。


如法寺

臨済宗 寛文9(1669)大洲藩二代目藩主加藤泰興創立。残念ですが工事中でした。


大洲城

平成16(2004)、大洲城は復元がなりました。昔の資料を調べ、往時のままを再現した木造建築です。
前述の如法寺が、木材の拠出に働いたと聞いています。 (→建築中の大洲城)


冨士山から見た肱川

宇和盆地から大回りして、ここまで流れてきました。一説には、肘を曲げたように曲がっているから「肱川」だとか。


冨士山山頂の「座禅石」

冨士山の山頂に巨石遺跡があります。側の案内板には「如法寺山巨石遺跡」と書かれています。地図上は冨士山ですが、如法寺との関係でいえば、如法寺山なのでしょう。
諸説があります。定説はありません。如法寺を開山した盤珪和尚が座禅した(かもしれない)とかで、「座禅石」と呼ばれていますが、他にも、なんらかの祭壇石だったとする説、ドルメン(支石墓)とする説などもあるそうです。


冨士山から見た神南山

神南山(かんなん)。手前が男神南で標高654㍍、奥に連なるのが女神南で710㍍です。
神南(かんなん)は、神奈備(かんなび)から来ていると言われ、少彦名命の霊が安まる、御神体山とされています。少彦名命は、大国主命の国造りパートナーですが、大洲で亡くなった、と信じられています。


高山メンヒル

出石寺から阿蔵へ降りるとき、高山集落で見かけました。このメンヒル(立石)は、神南山に向いて立っている、と考えられています。残念ながらこの日は雨で、神南山は見えませんでした。
土地では、前面を仏様とし、背面を神様として、(合わせて、権現様として)、崇拝している、とのことです。特に目いぼのある者が祈願すれば霊顕を得るのだそうです。
 

少彦名神社

大洲駅に降り立った者が、否が応でも目にするのが、少彦名神社の大鳥居です。神社は、冨士山の、肱川を挟んだ南側のお山にあります。
神社への道では、遍路道から逸れているためでしょう、何人もの方から、道を間違えていないかとご注意を受けました。「少彦名神社へ参ります」と答えると、「ああ、おすくな様へお参りですか。ありがとうございます」と、感謝されました。篤い信仰があるようです。


拝殿

時間不足で、山頂まで登れませんでした。当然、山頂に奥の院があるはずです。また来る機会があれば、登りたいと思います。

以上でH24秋遍路のシリーズを終わります。半年もかかってしまいました。
次回は、「てんやわんや王国」の皆さまが復旧された、松尾峠です。
更新は、5月17日に予定しています。

     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« H24 秋遍路⑥ 歯長峠 法花津... | トップ | てんやわんや王国の松尾峠道... »

コメントを投稿