楽しく遍路

四国遍路のアルバム

初めての遍路 ② 大麻比古神社 1番霊山寺・・・5番地蔵寺

2012-01-28 | 四国遍路

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2001.12.23 初遍路の初日 晴 
はじめに、ちょっとお断りをさせてください。
この初めての遍路では、カメラは持ってゆきましたが、あまり使いませんでした。使っても、人物が入った記念的な撮影がほとんどでした。もともとは、カメラを使う習慣がなく、映像は脳にしまいこむ方だったのです。
加えて、当時は俳句趣味が高じており、句材を探しては、指折り数えながら捻りあげ、景色は句の中に、なんとか写し込んでおりました。これは北さんも同じです。共通の友人に俳句の達者がおり、影響を受けていたのです。お伝えするのも恥ずかしいことですが、私のザックには、歳時記が入っておりました。季語こそ、脳にしまいこまれてあるべきにもかかわらず、です。
そんなわけで、このアルバムに掲載した写真の多くは、後年、同じ場所を訪ねたときに撮影したものです。
遍路を重ねるにつれ、句材をカメラに仮置きするという怠けが生じ、その結果、カメラ多用の今日に至るのですが、その経緯は追々お伝えいたします。
さて、2001年12月23日(日)、ANA 7:25羽田発 徳島行。
早起きし、始発電車の「人生模様」を眺めながら羽田空港へ。なんとか滑り込んで、機上の人となりました。飛行機の経験はあまりなく、下界が「地図そっくり」であると、逆さまな感嘆をしておりました。


奥・渥美半島、手前・知多半島。地図の通りです。
  
8:40 徳島空港着
「ついに来てしまった」、徳島に降り立った私の一言を、北さんが記録していました。いろいろの感情が交錯して、こんな言葉になったのでしょうが、その中に「小さな覚悟」も、確か、含まれていたと思います。
徳島駅で電車待ちしていると、浜田省吾の「追っかけ」だという女性が、坂東までのタクシー相乗りを提案してきました。コンサートまでの時間でお参りするそうでした。
ほとんど考えることなく応じていました。見知らぬ者同士が意思を通わせる、若者同士なら当たり前かもしれませんが、「年輩」の私には、やや興奮する体験でした。タクシー代、3人で3900円。
1番霊山寺参拝の前に、大麻比古神社に詣でました。「追っかけ」さんも一緒でした。なぜ「追っかけ」るのか、そのわけを引き出そうとしましたが、わかりませんでした。いま分かるのは、私たちとの出会いも含めて、「追っかけ」を楽しんでいたのだろうということです。後に私たちの遍路スタイルとなる「なんでも見てやろう」的遍路に、似ていなくもありません。


大麻比古神社の楠。この前で「追っかけ」さんと記念写真を撮りました。お名前も知りませんが、忘れられない人です。

9:50 大麻比古神社着
私の「小さな覚悟」を小揺るぎさせるほど長い参道、樹齢1000年の大楠、ご神体の大麻山は、「さすが阿波一の宮」と思わせました。
ただし、4日目、13番大日寺で、私たちはもう一つの「阿波一宮」に出会うことになります。更にまた、天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけ・やぐらひめ)という、同じく阿波一宮に比定される神社の存在も知りました。



1番霊山寺の「総合案内所」です。巡拝用品を売っています。

ここで遍路用具一式をそろえました。総額18.000円プラス消費税。
この段階では、一回こっきりで終わってしまう可能性は�・く、躊躇する気持ちも働きました。しかし、出発前に読んだ本に、他人様の土地を歩かせていただく以上、遍路姿をするのは最低の礼儀、とあったのを思いだし、揃えることにしました。また、北さんは「本寸法」の遍路を目指しており、(とはいえ、照れず、恥ずかしがらず、作法を守ってお参りする、ほどのことですが)、となると、私だけ私服というわけにはゆかないのでした。
とまれ、遍路としての出で立ちは、できました。
  白衣着て 杖もて 俄か遍路かな  (北)

さて、本堂に進み、お参りをします。
ローソクは奥から順に立て、線香は中央から立ててゆき、読経の時は他の人の邪魔にならぬよう、脇に立ち・・・、お手本を思い出しては確かめ合い、おっかなびっくり、般若心経もろくに読めませんでした。その様子を北さんは「けなげにも唱えた」と書いています。


霊山寺前のうどん屋さん。この隣の店でも巡拝用品は売っていました。値段など、よく比較して買うべきだったかな、ちょっと失敗。

11:20 昼の腹ごしらえをしました。
門前のうどん屋さんです。お店の方と、居合わせた地元の方に、今夜の宿について相談を持ちかけました。
今でこそ歩く速さを、時速4キロ、時速5キロと、おおよそ調整できますが、あの頃は、かいもく見当がつきませんでした。すぐ予約した方がいいことはわかっていますが、果たしてそこまで行き着けるかが問題なのでした。携帯電話は持っておらず、どのタイミングで、どこの公衆電話からかけるか、気がをもめることでした。すでに公衆電話は、携帯の普及とともに、その数を減らしていました。


霊山寺門前

11:45 門前にて記念撮影の後、覚束なくも、一歩、踏み出しました。
なにやら未知の空間にさまよい出た感じで、地に足が付いていませんでした。やたらと自分の遍路姿が意識され、周りは見えておらず、ただ、北さんの後をぎこちなく歩いていたのでした。

 

極楽寺の長命杉
 
12:00 2番・極楽寺着 
またまた、てんやわんやのお参りでした。ローソク、線香、ライター、納め札、これらの仕舞い場所がまだ定まっておらず、手こずりました。線香を先に出してしまい、ローソクを探すうちに線香が折れてしまう、そのうちバスで来た人たちに取り囲まれて・・・。その人たちのリズムカルな般若心経が耳に入り、か細い二人の読経は乱れに乱れ・・・。
印象に残るのは「長命杉」です。生命力あふれる荒々しさを、鮮明に覚えています。大麻比古神社の1000年大楠に続いて、1200年の「長命杉」、貫禄の登場でした。


金泉寺。数歩さがれば、全景が入ったでしょうに、浮ついた写真です。

13:24 3番・金泉寺着 
帰宅後の記録に、北さんも私も、この辺の札所はほとんど覚えていない、と書いています。
「遍路はけっこう忙しい」とは、北さんの弁ですが、寺社の由緒や佇まいなどを、ある程度の余裕を持って感得できるようになったのは、私の場合、18番恩山寺辺りからでした。区切り歩きも二度目で、「参拝」にすこし慣れてきたのです。
作法の順を、ほぼ覚え、参拝することへの違和感からも、すこし自由になっていました。私たちには、まともな参拝経験がありませんでした。北さんが、ことさらに「本寸法」の遍路を決意したのも、違和感を振り切る必要があったからと思われます。


土の道

大日寺に向かい歩いていると、「旧遍路道」に出会いました。短い距離でしたが、「へんろみち保存協力会」が土地所有者の協力を得て復元したとのことでした。田の畦を通り、竹藪を抜け、屋敷森の裏を歩く、「土」の道でした。
足裏に感じる柔らかさを、子供のように楽しみました。やっぱり来てよかった、と思いました。
「へんろみち保存協力会」の活動を、私はあまり知りませんが、同協力会による「道標」への感謝も記しておかねばなりません。
不安のなか、同会の道標を見つけ安堵したことが、幾たびあったことでしょう。おかげさまで、道中を楽しむことができています。


室戸へ向かう国道55号線

話が先になりますが、伊予路を歩いていた頃、もう一度歩きたいところは何処か、出し合ったことがあります。二人の答は期せずして一致しておりました。室戸岬に向かう国道55号線でした。「土」の道ではありません。アスファルトの道です。
遍路道の魅力は、「土」のみならず、「空」や「海」にもあり、また「歩く厳しさ」にもあるようです。
私たちは、その後、55号線をアンコール歩きすることになりますが、まったく思いもよらない感情の動きでした。
平等寺の先、鉦打(かねうち)から55号線に乗り、前方に「室戸96キロ」の表示を見たとき、何とも言葉にできず、ただ「エー」とだけ言った、その時から始まった長い長い固い道、越える峠、抜けるトンネル、右には山、左には空を分かって海、越えれば現れる次なる岬、マメの痛みを忘れようと、駆けるように歩き続け、杖を突き続けた、あの道が懐かしいとは、どういうことなのでしょう。


愛染院の門番犬

14:48 愛染院着
ここまでの札所の「巨大さ」は、私を圧倒していました。だから尚更なのでしょうが、私は愛染院に親しみを感じました。私が知っている(埼玉県の)秩父札所や子供の頃に遊んだ55番南光坊を思わせる、近づきやすさがありました。
二度目に愛染院を訪ねたときのことです。見れば、犬がグダーと寝ていました。近くに数匹のネコが目を細めて座っています。近づいても、警戒する様子を見せません。彼らはすっかり安心しているようでした。住職さんが彼らを、しっかり受けとめているからでしょう。ここには「巨大さ」はありませんが、受け入れる「大きさ」があるようでした。

15:22 4番・大日寺着
公衆電話を見つけ、民宿・寿食堂に電話予約しました。こんな遅い時間に、よくぞ受け入れてくれたものです。歩き遍路への特別の配慮に違いありませんが、恥ずべき「甘え」でした。
私たちは2回目の区切り歩きを、三ヶ月後の桜咲く春、「敢行」しますが、当然、宿探しに大慌てすることになります。



地蔵寺から吉野川方向

16:50 5番・地蔵寺着
視覚で、吉野川河岸段丘の大きさを認識したのは、地蔵寺に着いた時が初めてでした。明日、この段丘を下り、吉野川を渡り、また登ります。
樹齢800年の大イチョウがありました。ですが、その立派さにもかかわらず、800年ではもう驚かないのが、私の始末に負えないところです。次に驚くのは、三日目、山中で突如現れた「千年杉」です。「千年杉」を背にしたお大師さんと、真っ正面から向かい合ってしまったのです。
五百羅漢は、もう辺りが暗くなっており、残念ながら見られませんでした。私は10ヶ月後、「拾い歩き遍路」と称して、今回見られなかったところ、五百羅漢、建治寺(こんち・じ)、童学寺などを「拾って」歩きます。これは初の単独遍路でした。

17:22 民宿・寿食堂着
暗い道を、車のライトを頼りに歩きました。北さんはペンライトを持っていましたが、道を照らす明るさはありません。私は、なにも持っていませんでした。ムチャクチャでした。
ようやく、ずっと先の雑木林に一つ、外灯を見つけたました。「遍路よ あれが宿の灯だ」、でした!
訪うと、若い娘さんが出てきて、私たちの杖を洗ってくれ、部屋に持ってゆきなさいと言います。「杖」が「お杖」であり、きれいに洗って、部屋のもっとも上座に置くのだということを、私は知りませんでした。
夕食は寄せ鍋でした。遅く着いたにもかかわらずビールを頼み、1日目の「無事安着」を祝って乾杯しました。
食べていると、宿のご主人がやって来て、徳島県警の警察官(刑事)に会ってほしい、と言います。私たちが明日通過する予定の川島町で、強盗事件が起きたそうでした。被害はありませんでしたが、逃走時、白衣を着用したので調べているというのです。
この頃、徳島市周辺では、神戸辺りから日帰り犯罪者が入り込み、小さい事件を起こすのだそうでした。3年前、1998年、神戸-鳴門ルートが開通したことに、不況が重なっているとのことでした。加えて、その翌年、1999年には尾道-今治ルートが開通しましたから、四国に張られた「結界」は、もう一段階、緩んでしまったかもしれません。

20:00 消灯
こんな早くには眠れないだろうと思いましたが、いつしか寝ていたようでした。

次回、「初めての遍路 ②」は、2/18頃のアップを考えています。

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