楽しく遍路

四国遍路のアルバム

初めての遍路 ④ 鴨島駅前 へんろ転がし なべいわ荘

2012-03-10 | 四国遍路
     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ

2001.12.25   三日目 曇のち雪  鴨島駅-藤井寺-焼山寺-なべいわ荘

6:00 朝食 
昨日より1時間も早い朝食です。なにせ、今日は「遍路転がし」が控えています。山道約13キロ、標高差の計1100㍍ほどです。しかも天気予報は「曇のち雨か雪」。
「転がし」とは、遍路続行の意思を放棄せしめるということでしょうか、しばしば谷底に転落する者も、という意味でしょうか、いずれにせよ厳しい道である(あった)ことには違いありません。
一晩明けてみると、マメの水抜きは成功したようで、今は、痛みは感じていません。疲労は重なっていますが、食欲の減退もありません。



鴨島駅 午前6:40  当時としては珍しく「記録」を意識して撮った写真です。北さんも「同行三人」に、この私の行動を書き残しています。常にはなかった行動だったからです。空に星はなく、天気予報は当たっているようでした。
  
  
6:40 鴨島駅前 発
駅の売店でお握り3個、お茶を買いました。他に、昨晩、食堂で買った太巻きがあります。甘みは、お接待でいただいたチョコレートと飴です。このお接待には、「遍路転がし」を無事越えなさい、とのメッセージが込められていたようです。1粒で1000米は、がんばれそうです。
まだ明けやらぬ住宅地を抜けてゆきます。緩やかな傾斜を上り、行き着いたところが、11番藤井寺です。そこからが山道、すなわち「遍路転がし」になります。
やがて身体は暖まりましたが、指先や顔は冷たく悴んでいます。靴紐を直したくなりましたが、指が言うことをききそうもありません。

陽が出てきました。少し晴れ間さえ見えています。しかし天気が下り坂であるのは間違いありません。



11番 藤井寺 ここは臨済宗のお寺です。88カ所に真言宗以外の宗派が含まれていることは知っていましたが、遍路道空間の「キャパシティ」の大きさに気づくのは、もっと先のことでした。

7:20 藤井寺 着
・・・お年寄りが箒の木で作った長い杖に赤い紐をまいて登場。その現れ方といい、風貌と言いい映画のシーンを見る様。お経をあげて立ち去る・・・以上、北さんの記録です。新米遍路は思わず頭を下げてしまいそうな方でした。
彼が去るのを待って、私たちはお参りを始めた、そんな記憶があります。貫禄負けをして、並んで立つことができなかったのだと思います。
境内には私たちしかおらず、何方のジャマになるわけでなし、大声をあげてもかまわないのですが、やはり「発声」は「心の開放」と密接に繋がっているようで、相も変わらず、ボソボソとした声しか出ませんでした。



登り口

7:50 遍路転がしへ
「遍路転がし」への入り口は、まことにさりげなく、「焼山寺へ」と表示されていました。
すぐ道は細くなりましたが、しばらくは「ミニ四国」の道と重なっているようでした。苔むした石仏が並んでいます。両側の木には、15㌢×10㌢程の札が吊されています。白地の鉄板に赤ペンキで、「遍路道」、「同行二人」、「頑張ってください」、「お大師様の通った道」、「ご苦労様」などなど、と書かれています。
「ミニ四国」の石仏が途絶えると、札はここぞとばかりに増えました。厳しい道の「始まり」を告げているのでした。いずれの札もが、暖かい言葉ながら、歩かなければ1センチも前には進まない、この道理を思い知れ、と教えているように思われました。



・・・15㌢×10㌢程の白地の鉄板に赤ペンキで・・・納め札を入れるステンレス製の箱があり・・・中を見ると、金や銀の札が・・・。いかにも初遍路らしく、今では当たり前の景色を克明に記録しています。

9:15 小休止
休憩しました。休憩らしい休憩は、これが初めてでした。何度も立ち止まって息を整えましたが、ザックを下ろすことは、ほとんどありませんでした。杖でザックを支え、肩を楽にして立っていました。北さんは、自分の息が私よりも荒く、しかも収まりにくいことを気にしていましたが、私も同じことを考えていました。
休憩地点からは、(写っていませんが)昨日歩いた阿讃の山々、(ようやく写っていますが)昨日渡った吉野川が望めました。よく歩いた!有森裕子さんではありませんが、(早くも)、自分で自分を誉めたい気分になっています。(有森さんの五輪銀メダルからは、もう10年も経っていました)。
休憩は、それほど長くはありませんでした。ジャンパーを着用しても、止まっていると、すぐ寒くなるからです。



休憩場所から見えた景色 ぼけた写真です。

北さんが立ち止まり、私が追いつきます。会話はほとんどなく、「いいか?」「ん」、で登りを再開します。
自分の歩幅が北さんと同じになり、それが自分の搭載エンジン能力をこえていることに、私は気づいていませんでした。搭載エンジンの巡航速度に歩幅、歩数を合せると楽に登れる、ようやくそのことに気づくのは、H21になってからでした。高越山に、宿で一緒になった町田さんと登り、教わったのでした。「高越寺あれこれ③」をご参照ください。

10:10 長戸庵 着
山は、寒気の中に鎮まっています。枝のそよぎひとつなく、鳥たちも声をひそめています。時折、鋭い声を引いて飛び立つのは尾長でしょうか、それがかえって静寂を深くします。
小休止していると、大きな荷物を担いだ人が登ってきました。装備から見て、野宿もする方のようでした。私たちは興味津々なのですが、寡黙な方で、挨拶をしただけで去ってしまいました。この寒い中、一人でどこを目指すのでしょう。
私たちもすぐ歩き始めました。ここからは柳水庵まで、かなり急な下りです。爪先を痛めないよう、靴紐を締めました。



「へんろみち」と一枚、下がっているだけで、どれほど安堵できるでしょう。

10:50 柳水庵 着
ちょうど3時間で着きました。資料通りの所要時間でした。
ようやく自分たちの歩きが、計算可能となりました。ここが中間点とのことですから、あと3時間、14:00焼山寺着が可能となりました。ただし、14:00までは着くことはなく、歩かねばなりません。怠ければ、いくらでも遅くなります。
寒くて、うまく口も回りませんが、般若心経を読みました。
  悴んで ハンニャシンニョウ 納めけり

そして「昼食」です。オニギリを、冷えたお茶で飲み下しました。
早々に食べ終えて、いざ出発。ザックを肩にかけました。と、雪が一片、舞ってきました。その軌跡が、白い蛍を思わせました。よく見ると、何匹も飛んでいました。雪の降り始めでした。
不安材料が増えましたが、雨よりは始末がいいとプラス思考しました。
雨具は着けませんでした。傘も、木が上を覆っている所が多く、まだ差さなくても大丈夫です。
北さんによると、この辺りの山の石は結晶片岩(この辺では阿波石ともいう)で、滑りやすいのだそうです。気をつけねばなりません。

 

「拾い歩き」遍路で写した徳島城の石垣。 阿波石を使っています。昨日歩いた吉野川左岸のどの家でも、庭や塀に、この石を使っていました。
結晶片岩がもっとも露出しているのは、四国の大歩危小歩危と、埼玉県の長瀞だといいます。埼玉では秩父石と呼ばれます。両者は「中央構造線」で繋がっています。




左右内(そうち)の一本杉と弘法大師像  
登り切ると、突然、お大師さんに出会いました。背後の、樹齢千年ともいわれる杉大樹が、お大師さんの「実在」を表象しているかに見えました。樹高30㍍、樹周7・62㍍、東西16・1㍍、南北14・8㍍、だそうです。地上3㍍で数株に分木しています。




一本杉庵の縁側をお借りし休憩しました。屋根の下で坐ることが出来るのは、うれしいことです。
   着ぶくれの 上に白衣を 重ねけり


12:25 一本杉庵 発
今度は下りです。道が真っすぐ、谷底に向かって落ちています。
13:20 谷底 着
今度は登りです。最後の登りです。



「これからが一番苦しい 頑張ろう」、その言や、よし。

登っては、同じくらいを下り、また登っては下りました。登山なら最悪のコース取りですが、この道は登山道ではなく、遍路道です。あえて「楽」よりも「苦」を選んでいるのかもしれません。
・・・33丁・32丁・31丁と一丁ごとに数字が減っていくが、この辺になると疲れているのか、なかなか減ってくれない。時々見落としているのか、突然二丁ぐらいとんで現れると正直もうけた気分になる・・・と北さんは書いています。
実際、ザックがだんだん重くなってきました。また、私の場合、靴の中が濡れ始めたことが気になります。



あと1.0㌔と表示されています。

14:10 12番焼山寺 着
山門を入らず、しばらく雪景色を眺めました。谷を隔てた山々が見事な墨絵をなしていました。
見とれていると、長戸庵で見かけた遍路がやってきました。もうお参りをすませたようでした。今日は(も)、野宿だそうでした。

(まだ携帯を持っておらず)、公衆電話で「なべいわ荘」に予約しました。すべて北さんがやってくれました。後で知りましたが、北さんは、可能なら杖杉庵に泊まりたかったのでした。
北さんが納経所で情報をいただき、電話をかける間、私は自販機でコーヒーを買い、手を温めていました。予約が終わった頃、北さんのコーヒーは冷めていました。



焼山寺で

奥の院まで登りたいと、希望はしていたのですが、あきらめるしかありませんでした。
なお、私たちはH20年、再び焼山寺を訪れますが、この時は、すっかり「遍路転がし」をなめきっていて、藤井寺から焼山寺まで8時間かけて遊行してしまいました。加えて、予約していた「なべいわ荘」が一時休業のやむなきに至り、宿が10㌔ほど先になりました。そんな事情で、奥の院参拝は、いまだに実現しておりません。
  
15:10 焼山寺 発
気がつけば、すでに一時間も滞在しておりました。予定通りに着けたことで、安心してもいたのでしょう。
ここからは、雪を防ぐ木々はなく、雨具をつけました。北さんはゴアーテックスの上下、私はポンチョでした。 

15:40 杖杉庵 着 
高度が下ったからでしょうか、霙に代わりました。集落に続く道は舗装されており、時折、自動車が通ります。歩いているのは私たちだけです。
白い車が止まり、中年男性が窓から、「良かったらお乗りになりますか」と言います。思えば、すべてを心得たお接待の言葉でした。
私は、このようなお接待があることを知らず、どう対応していいのか分かりませんでした。北さんが、宿もすぐ近くだし、「歩いている」ので、と丁重にお礼を述べ、辞退しました。好意を拒むことへの、申し訳ない気持ちが働きました。
疲れているし、寒いし、載せていただけばどれほど助かるか・・・。北さんは、「生涯忘れられない事になりそうだ」と記しています。
   霙にも あたたかきもの ありにけり  (北)


むろん、「生涯忘れられない」のは、車のお接待だけを指しているのではありません。それは、車のお接待を契機に、ようやく私たちに分かり始めた「お接待」というものの全体であり、その「お接待」によって受け入れられ、包まれて歩いている、この度の遍路行でした。
この遍路行は、まだ明日の行程を残してはいるものの、すでに「試行遍路」の域を脱し、「次なる遍路」に繋がるべき、本格的遍路の始まりとして、それぞれの中で意識されつつありました。



「不思議話」を書くつもりはありませんが、このような契機が杉杖庵近くで得られたことには、深い感慨をおぼえます。
ご承知のように、衞門三郎は、客人(まれびと)である弘法大師への接遇を誤り、それを悔い、改め、大師を求めて四国を廻り始めます。しかし果たせぬまま、ついに、(杉杖庵が在る)この地で死を迎えます。すると、そこへ大師が立ち現れ、許され、河野一族の一人として再来することになります(石手寺縁起)。
この話の前半部分は、「お接待」の大切さを説く「諭し話」であり、後半部分は、衞門三郎自らが遍路者になることで、四国遍路の「興り話」となっています。
私たちも、「お接待」に感謝しつつ、遍路者として、この後の道を歩き継ごう、そんな意思が固まりつつありました。




後に撮った写真です。長く、「じょうさん・あん」と読んでいました。「じょうしん・あん」が正しいようです。大師は、衞門三郎形見の杉の杖を、墓標として立てました。すると杖から芽が出、今は杉大樹となっている、と伝わります。

16:20 なべいわ荘 着
玄関に柄付きの束子とバケツ、真っ白の雑巾が置いてありました。もう、その意味は理解することが出来ました。「お杖」を洗い、玄関内を濡らさないよう、外で雨具を脱ぎました。古新聞紙をいただき、靴に詰め、濡れた靴下を脱ぎました。疲れた身体には、けっこうきつい作業でした。
大きな宿ですが、時季も時季です、泊まり客は私たちだけで、ホールに置いたストーブの周りに、湿ったものを全開しました。明朝、取りいれるのでいい、とのことです。

この年、「なべいわ荘」は築2年目でした。木の香りが、まだ濃厚に残っています。檜の5寸柱を使った豪勢な造りです。棟梁は宮大工の「西岡」という方ですが、あるいは、名宮大工・西岡常一さんと関わりがある方かもしれません。聞きはぐりました。
風呂は、少し離れたところにあり、釜風呂ですが、その内外には檜が張ってあります。

風呂でほぐしたつもりでしたが、腰の辺りに重い痛みが生じ、寝つけませんでした。意識が高揚していたからでもあったでしょう。
せっかく寝ていた北さんを起こしてしまいました。北さんも布団から出て、しばらく、これまでの遍路を語り合いました。
明日、14番・常楽寺まで歩き、帰宅します。「試行遍路」は成功裏に終わるかに見えます。

次回、最終日の報告は3月31日頃を予定しています。

     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 初めての遍路 ③ 民宿寿・・・... | トップ | 初めての遍路 ⑤ なべいわ荘・... »

コメントを投稿