楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H25 初夏 ② 境目峠 雲辺寺 萩原寺 小松尾寺 

2013-07-05 | 四国遍路

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境目峠へ


境目峠へ

椿堂で合流した192号線を歩き、七田橋(しちだ)から境目峠に入ってゆきます。山道に入る前に、金生川を渡ります。川之江に流れてゆく川です。「川之江」を造る川、です。
境目峠入り口の少し手前には、曼荼峠を経て直接、雲辺寺に向かう道の登り口がありました。


雲辺寺 箸蔵寺へ(明治期の道標)

伊予と阿波の境目(の)峠を越え、佐野に降りてゆきますと、そこは阿波です。ふたたび山登りして雲辺寺に至るのですが、今度は、そこは阿波と讃岐の境目です。澄禅さんの「四国遍路日記」によると、・・・此山ハ阿・讃・伊ノ境ト云エドモ、山ハ阿州のノ内、札ハ讃岐ノ最初ナリ・・・とあり、まことに込み入った、しかし地政学的には優位の位置に在ります。
土佐の長宗我部元親は雲辺寺に参拝した折り、旧知の住職から、あなたは土佐一国の器でしかないと説諭されます。ところが元親は、むしろ逆に、四国制覇の意を強めたのだそうです。元親をその気にさせてしまう、そんな位置に、雲辺寺は在るのでしょう。


雲辺寺 箸蔵寺へ(大正期の道標 )

雲辺寺を経由せず、直接、箸蔵寺へ行くには、白地(はくち)を経て、吉野川沿いに歩き、それから登ります。「白地」という地名は、孫子が言う「衢地」(くち)から来ているという説があります。「衢地」は、戦略上の交通要衝を意味します。
雲辺寺へ一度登り、山道を歩いて箸蔵寺に行くこともできるそうです。この道は、いつか歩いてみたい道です。


峠道

気温は30度を超えています。照り返しの強い192号線から峠道に入り、うんと涼しくなりました。登りが苦になりません。


ザック背負ったまま座れる椅子

峠道を登り切った所に椅子がありました。近くにお住まいの方が作って下さいました。ザックを担いだまま座れるように出来ています。置き台の高さは、通りかかった遍路に協力してもらい、調整したそうです。いい具合に出来ています。箱の中には団扇が入っています。自由にお使い下さい、とあります。風に飛ばされぬよう固定され、雨に濡れぬよう蓋がされています。
腰掛けると、目前に花が咲いています。


蝶と薊

作って下さった方は、私と同い年でした。そうと分かると、ますます話は長引いてしまいます。ついには、近い将来入るべき墓石の善し悪しやら何やら、ろくでもない話もしてしまいました。
・・・花を植えたら、この黒蝶が来るようになりまして、・・・とのことで、よし撮ろうとカメラを構えました。この一枚を撮るために、十回はシャッターを押したでしょうか。やがて夫婦のモンシロチョウも来るとのことでしたが、こちらは諦めました。


峠の切り通し

標石には、「是従東 徳島縣三好郡」「距 徳島縣廳 貳拾参里五丁  三好郡役所 参里五丁」「至 愛媛縣川之江 四里七丁」などとあります。左の標識は「愛媛県 川之江市」です。かつては旅館もあったそうです。
峠を越えて、愛媛から徳島へは魚や葉たばこが供給されました。阿波池田はたばこ産業で栄えたのでした。徳島から愛媛へは、薪炭や楮が運ばれていたそうです。楮は、ご存じ、和紙の原料です。(洋紙に代わりましたが)、川之江は今も「紙の町」です。


元は国道だった

見えにくいですが、古い道路標識に「国道192」と記されています。この峠道はかつて、国道192号線でした。1973(S48)、境目トンネルが開通し、峠の部分が192号線から切り離されたのです。


佐野へ

1日何本も走っていたバスの便が、トンネル開通後は2-3本に減り、そのうち、まったく走らなくなった、と地元の方は話してくれました。峠道沿いに住んでいた人たちも、道と一緒に切り棄てられた格好となりました。


トンネル出口

境目トンネルの出口(入り口)です。ドップラー効果とやらで車の音が増幅されて聞こえてきます。怖い音です。
前回は椎間板ヘルニア手術後だったため、トンネルを抜けましたが、出てくると、白衣の右袖がススで汚れて黒くなっていました。車が怖くて、壁際に寄って歩いたのです。
宿に着くと、ご主人は慣れておられて、(同じような人がいるのでしょう)、すぐ掃除機を出してきて、ススを吸い込んでくれました。


お地蔵さんが取り持つご縁

お地蔵さまに挨拶しようと思ったら、野宿遍路の方が水を補給しておられました。
妙に話の波長が合って、歩きながら会話がはずみました。そうこうするうちに私の宿に着いてしまい、「それでは、私は贅沢をさせていただきます」、と言って分かれました。彼は、この先の高速道の下にテントを張る、と言います。この方とは雲辺寺、大興寺でも会うことになります。

雲辺寺へ


朝日

日の出が早くなり、(本当は歳のせいですが)、目覚めも早くなりました。朝食の時間まで、やることがなく、散歩をするようになりました。ブラブラ歩きながら、その日の脚の調子を確かめたりしています。


バス駅阿波佐野駅

こんなものを見つけるのが、朝散歩のおもしろさです。
剥がれている部分には「国鉄バス」の文字がありました。川池線(かわち・せん)(川之江・伊予三島-阿波池田)の「バス駅」です。待合室があり、小荷物なども扱っていたようです。JRに引き継がれましたが、廃線となりました。


鎮守さま

今朝は私が一番乗りのようです。
御祭神はどなたでしょうか。書いたものが見つかりません。土地の人たちにとっては、村の鎮守さま、で十分なんでしょう。


雲辺寺へ

雲辺寺は標高900メートルを超える、88カ所中で一番高い札所ですが、佐野がすでに200㍍を越えていますから、実標高差は700㍍ほどです。「遍路転がし」という言葉ほどの実感は、現代では、ありません。


登り口

ただし、H19の「復活遍路」 では、やはり厳しさを味わされました。下りで大ブレーキがおきました。 (→ブレーキ)
それは翌日まで尾を引いて、財田川の土手では、本山寺の五重塔を遠くに見ながら、、何度も何度も立ち止まったのでした。北さんにえらく迷惑をかけました。


徳島自動車道

昨夜をこの下で過ごした野宿遍路さんは、すでに歩き始めたようです。寝ていても起こさないでね、と言われて別れたのでしたが・・・・・。




野宿遍路さんが道ばたに座り込んで、休んでいらっしゃいました。私も座り込みました。一別以来の(とは言っても昨夕以来ですが)、積もる話を交わしました。
私にとって、「休憩」は、ロスタイムではなく、歩いている時間と同様、楽しむべき遍路の、大切な一部、です。どうやら彼も、そんな考えのようです。これは大切な一致点です。


見せしめと脅し

これ何だと思う?と野宿遍路さんから聞かれました。髪の毛を吊してるんだよね、ずっと不思議に思ってるんだ、とのことです。見ると、畑を囲むように、この袋が吊されています。
これはねえ、髪の毛ではないんですよ、イノシシの毛なんです。イノシシに向けては、「こうなりたくなかったら、近寄りなさんな」と警告し、他の動物に対しては、「イノシシがいるぞ」と脅しているんです。私は埼玉の秩父で、同様のものを見たことがありました。


寺方向

尾根部に出てきました。1時間15分ほどかかりました。鉄塔方向に向かって歩いてゆきます。


仁王門跡

野宿遍路さんが教えてくれました。ここは仁王門跡です。記憶にはないのですが、野宿遍路さんによると、私が前回登ったH19.1には、まだ在ったはずだそうです。
ケーブルで来る人が多くなり位置を変えた、とのこと。彼は消息通です。


旧仁王門

前回、写真に撮っていました。


雲辺寺

様変わりした感じの境内でした。
来年の「四国八十八カ所霊場開創1200年」に合わせて新築、改築したようですね、それにしては、宝寿寺本堂の改築は、なかなか終わりませんがねぇ、とは野宿遍路さんの言。


新仁王門

ロープウエーを降りた人たちが信徒会館に向かって坂を降りると、そこに新しい仁王門があります。
仏木寺新仁王門との違いを、(ここには書きませんが)、野宿遍路さんが教えてくれました。


旧大師堂

毘沙門天の展望台に向かう途中、旧大師堂がありました。「奥の院」風にイメージされているようです。


毘沙門天像

山頂に巨大毘沙門天像が建っています。その足台部分が展望台になっていて、360度が見渡せます。
毘沙門天は、四天王の一として、また十二天の一として、また七福神の一として、多忙の身ですが、ここでは、阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場の一としての毘沙門天のようです。


讃岐阿波土佐側の展望

寂本さんは「四国遍礼霊場記」で、・・・雲辺の名むべときこゆ。西は与州直下に見、北は中国の諸州一望し、東南は讃阿土の三州めぐれり。其蟠根四国にわたり、むかしは四国坊とて四ケ寺ありとかや。今は此一寺にて、阿州の城主より造立そ給ひむれど、讃州の札所に古来属せり。・・・と書いておられます。


伊予讃岐側の展望

(霞んでいるのは残念ですが)、この景色を見れば、「雲辺」の名で呼ばれるのもむべなるかな、であります。
雲辺の山は、四国四ケ国に根を下ろす山である、故に、(この山には)、四ケ寺があり、「四国坊」と呼ばれていた、のだそうです。その後、雲辺寺という一寺となりました。


本堂

さてここで、前々回のコメントでの、天恢さんとのやりとりを思い出します。「四国中央市」という市名について、でした。
言説をひっくり返すようですが、雲辺寺が「四国坊」という名を持ち、近くの仙龍寺が「四国総奥の院」を名乗り、阿波池田が「四国のヘソ」を自称 (→四国のヘソ ) している、などを考え合わせるとき、「四国中央」という市名も、実は的を射ているのかもしれない、とも思うのであります。


昼寝で見上げると

道脇に置いてある石材に寝転ぶと、石の冷たさが心地よく、つい、まどろみました。前回は、この石材にザックを置いて、急ぎジャンパーを取り出して身に着けたのでした。まだ雪が残っていました。


乳銀杏

乳が出ない母のために大師が植えられた、とのことです。幹を削って煎じて飲むのだそうです。


萩原寺へ

昼寝をしている間に野宿遍路さんと別れてしまったようです。私は萩原寺へ向かうので、もう会えないと思っていましたが、実は翌日、大興寺で三度、会うことが出来るのでした。
歩き再開。下のロープウエー駅までは、歩きやすく、いい道でしたが・・・


ロープウエー

・・・下のロープウエー駅から萩原寺にかけては、歩道が付いていない車道です。遍路道らしい道はないか、探してみましたが、見つかりませんでした。


監的所

大野原町内野々一帯を「雲辺寺ケ原」と言うそうです。
日清戦争直後、善通寺に陸軍第十一師団(初代師団長=乃木希典中将)が設立され、「雲辺寺ケ原」は、その山砲射撃場となりました。以来、昭和20(1945)まで、演習場として使われます。五色台は今も自衛隊が使っていますが。
写真は、山砲の着弾状況を確認する施設で、「監的所」と呼んだそうです。


溜め池・大谷池

下りてきた道は溜め池にぶつかります。この辺には溜め池がたくさんあります。


萩原寺

このお寺は、歩いてくる寺ではないようです。


山門

萩原寺の寺伝によると、弘法大師が彫造された千手観音菩薩と地蔵菩薩のうち、地蔵菩薩を萩原寺が本尊とし、千手観音菩薩を雲辺寺が本尊とした、のだそうです。また萩原寺縁起によると、雲辺寺に火災が起こり、寺務が滞ったため、山麓に寺務所を造った、それが萩原寺の興り、だそうです。両寺の深い関係が覗えます。


境内

また両寺は、共に「巨鼇山」(きょべつ・ざん)と号しています。
 巨鼇山 地蔵院 萩原寺
 巨鼇山 千手院 雲辺寺 
「巨鼇」は、巨大な海亀です。巨大な亀に下支えされ、揺らぐことのない雲辺の山の、一方は山上に、他方は山裾に、建っています。




茶屋の人に大興寺への道を尋ねたら、「坂を下りて川沿い」と、すごく効率的に教えてくれました。


道標

ようやく、雲辺寺から直接下りてくる道と出会いました。これからは遍路道らしくなります。
右 こまつおじ すぐ こんぴら道 左 かんおんじ と刻まれています。


みんなの お休み所

左官さんとのひょんな出会いから、豪華な休憩所が誕生した、とのことです。鏝絵(こて絵)の龍や鶴が楽しめる休憩所です。
こんな伝統技能を継承している左官さんは、もう数えるほどではないでしょう。そもそも左官さんが、もう少ないのです。


地蔵

休憩所の前に、お地蔵さんと道標が立っています。椅子に座って、お地蔵さんと話が出来ます。


伊吹島

農作業の方に、あの島は何といいますか、と尋ねました。
・・・伊吹島よ、「ナナトコ 三里」いうてな、七箇所(どこから)見ても、三里沖合と見える島なんよ、とのことです。私は明日、あの島に渡り、泊まります。


蓮池

花が咲くには、すこし早いようです。
水辺の生物が少なくなりました。メダカやゲンゴロウが早々と姿を消したあとも、カエルやミズスマシは頑張っていたのですが、彼らも、近頃は、めっきり少なくなりました。


大興寺山門

寂本さんの「四国遍礼霊場記」に、・・・豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。・・・とあります。
地元の人たちは、今でも「こまつおじ・さん」と呼んでいます。道標も、古いものには「大興寺」という標示はなく、「こまつおじ」となっています。


天台大師堂

また、・・・其隆(さかん)なりし時は、台密二教構学の練衆「くじか」のごとく群をなせりとなん。・・・ともあります。
大興寺は、珍しくも、天台、真言の二宗からなる寺です。両宗の僧が、鹿が群れなす如く居て、学んでいたとのことです。互いに補完し合うというより、競い合っていたと思われます。


前回のお参り

前回私が訪れたときは、ちょうど弘法大師堂が改修中でしたので、本堂でお参りした後は、天台大師堂でお参りしました。
この天台大師堂は、伝教大師最澄を祀っているのではなく、中国の天台宗第三祖・智者大師=智顛(ちぎ)、を祀っています。真言の空海に並ぶ存在を、(最澄ではなく)、中国天台の実質的開祖、智顛としているわけです。この認識は、当時の仏教の(また空海の)国際性を思わせ、とても興味深いものです。


熊野三所権現

弘法大師堂の左は、植木や木像の建物(小松尾自治会館)で仕切られているのですが、ちょっと入ると、熊野三所権現の境内です。昔は、大興寺が熊野神社の別当寺でした。
向かって右が熊野三所権現です。熊野三社の神々が祀られています。左は、その神々の荒ぶる(怖い)側面を祀る、荒魂神社です。同じ神々の、二つの側面が祀られているわけです。


熊野神社境内の小祠

私はこんな神さまが大好きです。


朝日

今朝も早起きでした。大興寺の周りを散歩しました。宿のすぐ裏が大興寺境内ですが、正面から入るべく、坂を下ります。


大興寺門前

門前ですが、まったく門前市をなしていません。昔からずっと、このようだったみたいです。五来重さんが指摘していますが、「四国遍礼霊場記」の小松尾寺図でも、大興寺門前は田圃です。むしろ民家が描かれているぶん、昔の方がにぎやかだった?

大興寺からコースを変えて本山寺に向かうことにしました。門前に座り込んで考えていると、野宿遍路さんが石段を降りてきました。三度目の出会いです。しかし、これで終わりでした。もちろん彼は観音寺に向かったからです。


弘法大師お手植えの樟

観音寺を飛ばして本山寺に向かう訳は、次のようです。一つには、伊吹島に行ってみたいことがあります。また一つは、本山寺の旧奥の院とも言われる、興隆寺廃寺を訪ねてみたいことがあります。この二つを実現するため、大興寺→本山寺→観音寺→伊吹島、というコースを考えました。

というわけで、次回は、本山寺、本山寺奥の院・妙音寺、旧奥の院・興隆寺廃寺、不動滝、観音寺、神恵院の報告です。
更新予定は、7月26日です。

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2 コメント

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Unknown (天恢)
2013-07-09 21:21:04
今回の「境目峠 雲辺寺 萩原寺 小松尾寺」、うだるような猛暑の中で楽しく読ませていただきました。
数ある挿話の中で気になったのが「雲辺寺の仁王門」です。 最初で最後になるのですが、H21年春、体調不良で息絶え絶えになって、遍路転がしを上ってきた私を迎えてくれたのが今は無き仁王門でした。2巡目となるH24年のこの雲辺寺のデジカメ記録にはこの門はありませんでした。
 大方の札所には通常は山門(仁王門)から入ります。歩き遍路にとって、苦しい道中でやっとの思いでたどり着いて、山門を見る時はそれぞれ特別な思いがあるはずです。 とくに遍路転がしといわれる焼山寺、鶴林寺、太龍寺、神峯寺、横峰寺などの山門は、私にとって格別なものがありました。 お大師様や仁王様が「おォ、やって来たか!」と、声を掛けて、待ち構えていらっしゃる雰囲気がそこにあるのです。
 雲辺寺の坊主にとっては、歩き遍路のこんな思いなどは到底わからないでしょうね。 ご指摘のように主流となったロープ・ウェーからの道順に沿って、心無いカタチだけの新仁王門を造ったのでしょう。 確かに、札所では来年の「四国八十八カ所霊場開創1200年」に合わせて新築、改築が盛んのようです。 山門が無いのが特徴だった13番大日寺にも立派な山門がありました。
 時代の遷り変わりとともに札所も様変わりしていくのでしょう。 野宿遍路さんの『それにしては、宝寿寺本堂の改築は、なかなか終わりませんがねぇ』については、高野山から戻りましてコメントさせていただきます。

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Unknown (楽しく遍路)
2013-07-11 06:43:33
天恢さん ありがとうございます。
古い山門を残す案も検討されたとは思うのですが、どんな事情があったのでしょうか、礎石しか残していないんですよね。書かれてある通り、苦しい息の中で見る静謐の山門は、格別の思いを抱かせてくれますから、残念な思いではあります。私は湯浪から登った横峯寺の山門が好きです。

「時代の遷り変わりとともに札所も様変わりしてゆく」・・・のでしょうね。天恢さんの提起に、まとめて答えることは出来ませんが、ブログ更新する中で、考えるための素材をできるだけ見つけてゆきたいと思います。

暑い中での高野山参り、体調管理に気をつけてください。
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