楽しく遍路

四国遍路のアルバム

初めての遍路 ① 出かけるまで

2012-01-10 | 四国遍路

     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ

出かけるまで
2001年(H13)11月20日、退職後の生活がいまだ型をなしていない頃、北さんから電話がありました。四国遍路への誘いでした。北さんは職場の元同僚です。
私が近況報告の手紙に、体力維持のため歩くなどしていると書いたのを読み、誘ってみようと思ったのだそうです。
東京育ちの北さんは、四国、とりわけ伊予への「憧れ」がありました。「菜の花や この道 伊予に続きゐし」は、「憧れ」が創った、北さんの想像上の遍路俳句です。私が選ばれたのには、私が伊予育ちであったことも関係したでしょう。



「冬飛行 道は室戸に続きおり」 これは実際に見ながら創った即席俳句です。室戸へ、伊予へと続く長い道が、北さんには視えていたのでしょう。句の上手下手ではなく、私たちの気持ちをよく表している句として、紹介しました。

北さんは四国遍路の計画を長く温めていました。四国を旅行する度に、石手寺、善通寺、岩本寺、霊山寺などを訪れており、へんろみち保存協力会の「四国遍路ひとり歩き同行二人」を手に入れたり、辰濃和男さんの「四国遍路」を読んだり、友人の遍路経験者から話を聞くなど、断続的にですが、「その日」のための準備を進めていました。
北さんの提案は、「乗り物は一切使わない区切り歩き」でした。10年かけて一周りしませんか、というのです。
 
私は子供時代を四国・今治で過ごしており、55番南光坊は遊び場の一つでした。少し遠かったのですが、56番泰山寺や、犬塚池を挟んだ57番栄福寺、58番仙遊寺、そして59番国分寺、これらへは、よく「遠征」しておりました。ただ、54番延命寺は、近くに大きな墓地があり、その奥には火葬場もあって、(口には出しませんでしたが、怖かったので)敬遠していました。



55番南光坊門前の石橋です。
「折敷に縮三文字」が見えます。大山祇神社の社紋です。神仏分離以前の55番札所は大山祇神社だったと分かります。この辺の地名は「別宮」(べっく)といいますが、大三島・大山祇神社の別宮(べつぐう)ということです。


そんな環境も関係したのでしょう。私の「ふるさと原風景」の中には、知らず知らず、「遍路」が描かれていたようです。人生の手仕舞い期に入って、ようやく鮮明度を増してきた風景の中に、遍路となって歩いている私が見えておりました。
とはいえ、私にとって遍路は、思い描きはしても、実行することではありませんでした。書斎で山頭火に憧れている、そんな感じに近かったでしょうか。子供の頃、実際に見たお遍路さんは、破れた菅笠に汚れた白衣、まさに「ヘンド」の姿で廻っておられました。にもかかわらず、風景の中の私は、のんびりと春遍路を楽しんでいたのです。



古・国分寺の礎石。現・国分寺から1-2分の所だったでしょうか。何基も、野天に転がっています。聖武天皇による国分寺創建の詔は 天平13(741)です。

北さんから誘いがあって、まず思ったのは、愚かにも「行きたい」でした。あの地に我が身を置いてみたい、すべてを身体に感じながら歩いてみたい、と思いました。
私は極端に足弱で、歩くことはあきらめていたにもかかわらず、衝動とでもいいましょうか、四国の地を歩きたいと、強く願ったのでした。青壮年期、意図して「ふるさと」を捨てていた、その反動だったのかも知れません。不思議な引鉄でした。
北さんと一緒ならと、頼る気持ちも働いたようです。

そんなわけで、私の四国遍路への動機は、多くの方々とは異なっていました。不遜且つ不敬だったと思います。
先祖供養や家内安全などの「祈り」は、私の動機ではありませんでした。自分探しなどの「思索」も、考えにありませんでした。自分を鍛えるなどの「修行」は、もっとも私が避けたいことで、まったく考えていませんでした。病気回復などの「祈願」もありませんでした。「お大師さん」を、私は理解しておらず、「空海」は、歴史上の人物として、理解しようとしていました。札所で納経する度に、スタンプラリーが思い浮かぶ、そんな状態でした。



国分寺近くの桜井海岸。白砂青松の海岸線が、昔は、今治港近くまで続いていました。ちょっと足を延ばして、ご覧になってください。こんな景色が見られるところは、もう、ほとんどありません

むろん、願ってどうなるものでもありません。計画が具体性を持ってくるに従い、「歩き遍路」の大変さが分かってきました。行程を検討すると、1日20K歩き切る脚力が、最低、必要のようでした。20年近く歩いたことがない距離です。歩いて10分の所へも車で行くような生活を続けてきたのです。健康維持のために少々歩いたくらいで、なんとかなるものではありません。

私(たち)は、長い話のあげく、「試行遍路」という考えに至りました。つまり、うんと期間を短く切って、ともかく歩いてみる、というわけです。駄目と分かったら、互いに遠慮することなく、即、打ち切り、残った日数は、どこかで観光でもしましょう、というわけです。
話の中で、歩いていて靴の具合が悪いときは、即、止まって直しましょう、何回でも、遠慮なく止まりましょう、そんな合意までが出来上がっていました。不安の大きさが分かろうというものです。
もっとも、これらすべては、北さんの私への大譲歩であり、配慮でした。北さんは(多少の不安はあったにせよ)健脚で、共通の友人が私のことを、北さんと一緒で大丈夫か、と心配したほどです。

11月26日、北さんから、大量の遍路資料が郵送されてきました。道、宿、札所案内などの他、般若心経のCDまでが入っていました。
私は資料を読み、行程の立案にかかりました。自ら検討することで、自分を追い込む必要を感じたからです。「四国を歩きたい」が私の動機ですから、「乗り物を使う」ことは念頭にありません。となると、(遠慮なく打ち切ってもいい、とはいえ)、限界の近くまでは、頑張らねばなりません。そう思いました。



犬塚池には地名伝承があります。栄福寺からも仙遊寺からも可愛がられていた犬の話です。二つの寺から同時に呼びがかかり、いずれに行かんか、犬は困り果て、身を投げてしまいました。池は、その犬の姿を残しています。写真、奥左が尻尾です。私は頭部から撮っています。

12月15日、北さんと会いました。「試行遍路」の行程を固めるためです。
決まった試行計画は次のようです。
期間は3泊4日、としました。「試行」である以上、最初の「遍路転がし」は、経験しておく必要があります。そのためには3泊が必要です。しかし、「遍路転がし」を下りてきたときには、私の力は「尽きている」だろうと思われ、4泊は、止めました。「浴びせ倒し」ならぬ、「浴びせ倒れ」、すぐに飛行機に乗って帰る、そんな算段でした。
飛行機の予約など、一切は北さんがやってくれました。私の役割は、できるだけ長く歩く、でした。



以上が初遍路までの経緯です。
12月23日、私たちは四国に向かいました。まさか、「雪の遍路転がし」が待っているとは、知るよしもないのでした。
その様子、初めての遍路 ②は、1月28日頃を予定しています。

     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« H23秋 ⑥ 1番霊山寺 十輪寺 ... | トップ | 初めての遍路 ② 大麻比古神社... »

コメントを投稿