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楽しく遍路

四国遍路のアルバム

金山出石寺 

2016-09-15 | 四国遍路
 
 
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  西大洲駅 深井の道標

電車利用
隣に座った女性との会話です。
  私 :出石寺には登り口がたくさんあるんですね。
 女性:そりゃそうよ。地球は丸いけんね。
つい、なるほどと思ってしまったのですが、どういう理屈でしょうか?


出石寺へ
それはさておき、・・・
西大洲駅で下車し、深井の登り口付近を散策してみました。出石寺への道標があると聞いていたからです。出石寺の登り口は大きく分けて、長浜口、八幡浜口、大洲口の三つがあり、そのそれぞれの口が、またいくつかに分かれているようです。深井は、大洲口の一つです。


道標
ありました。右の石塔です。一字一石大乗妙典塔ですが、出石寺への道標も兼ねています。左は南無妙法蓮華経の題目塔です。両塔は願主が同姓です。


一字一石大乗妙典塔
    年号二干支年七月吉日
    一字一石大乗妙典塔
     いつしみち 八十丁
        願主 ○○??女
年号干支は、わかりません。○○は個人姓なので伏せました。


いつしみち
わかりにくいですが、「いつしみち 八十丁」と刻まれています。
出石寺への道標は、もう一つ、近くにあるはずなのですが、これは探し忘れました。


題目塔
題目塔の建立は昭和58(1983)です。「深井道路改修の砌」とあります。高山集落を経て、(高山寺山向こうの)打越や上須戎へ出る道を指すと思われます。
出石寺へは、高山集落から、おおむね西方向、後、北西に稜線をたどって行きます。


  出石駅 大和(郷)の道標

出石寺へ
出石寺への道標をもう一つ。こちらは長浜口です。
区切り歩きの帰途、「愛ある伊予灘線」の出石駅(いずし駅)で下車してみました。長浜方面からの出石寺参詣道が通っていて、道標が残っていると聞いていたからです。因みに出石寺は行政区分では、長浜町に属しています。今は合併して大洲市ですが。

肱川
出石駅は長浜の隣駅ですから、この辺はもう、肱川の河口付近です。下流方向が開け、河口の風情を見せています。初冬のある朝、肱川あらし(肱川おろし)がここを駆け下るのでしょう。


大和川
肱川に注ぐ大和川です。川沿いに上ってゆきます。
この川は何度も氾濫を繰り返してきたそうです。地区ぐるみの治水工事については、後述します。


道標
交番を過ぎた先の分岐点に道標が立っています。
右は大和川に沿った道です。左は鼻欠山へ上る道です。途中に柿ノ久保があります。
どちらの道も(出石寺の)大門につながっていますが、参詣道は左です。


道標
    開山一千二百年大法會記念
(左手差)出 石 寺 参 詣 道
   大門迄 七十九丁 
左面には、「特志者」と読むのでしょうか、松山信仰会の人たちの名が40名ほど並んでいます。性別は、むしろ女性のほうが多いようです。道標の建立に関わった人たちなのでしょう。


道標
 (右手差し)豊茂村坂口迄 平道六十四丁
        坂口ヨリ大門迄 山道三十四丁
大和川沿いに比較的楽な道を行き、豊茂村の坂口から、(地名通りに)坂を登りはじめ、出石寺(大門)に至るようです。合わせると98丁となり、「出石寺参詣道」よりも19丁遠回りしています。
建立は、大正六年 陽春四月建之。1917年です。


御大典紀年
分岐点の10㍍ほど先にあります。昭和3(1928)5月、昭和天皇の即位を記念して、道路の改修が行われたようです。左二つは、その記念碑です。
中央の碑には、寄付金額と寄付者名が、40名ほど記されています。多くは男性個人名ですが、中に、柿久保青年(団)とか小浦組、総瀬組など、集落名も見えます。高額順ではなく、百円の隣に三円が並んだりしています。


寄付
出石寺の寄付は、別の石に大きく記されています。金拾円 金山出石寺。隣に、金八拾円を出した個人名が記されています。


道標
記念碑の側に道標があります。
  従是 いつし迄 八十四丁
  願主 長濱横町中
大門まで79丁と記した道標から10㍍ほどの所ですから、どちらかが元々の場所から移されてきたと考えられます。とすると、84丁の方でしょうか。


新しい家
・・・大和地区の家は、どの家も新しい。
出会った男性に尋ねてみました。男性は、よくぞ尋ねてくれたとばかりに答えてくれました。大和川の氾濫が度重なるので、地区全体の土地を3-4㍍嵩上げしたそうです。そのために40戸全戸が家を壊し、工事期間中は引っ越しし、皆が帰ってきて新居を建てました。
地区の生まれかわりを記念してでしょうか、元は「郷」と呼んだこの地区は、今は「大和」と呼ばれています。


保育園
・・・一戸の反対があっても出来(け)なんだよ。
男性はいかに粘り強く取り組んだか、誇らしげに語ってくれました。工事は平成13(2001)に着工。平成20(2008)に竣工しました。着工以前に長い、難しい話し合い期間があったのは、言うまでもありません。
・・・話し合うて、保育園も、まあ、建てることにしたんよ。(移住者を迎えるための)土地はまだ余裕があるよ。
その意気やよし。しかし他方で、大和小学校がこの春、閉校するという現実もあります。

  金山出石寺参拝 平野地蔵堂から

大洲駅前
大洲駅前の朝です。鳥居は少彦名神社の大鳥居。山は冨士山(とみす山)です。
これより列車で平野に移動。地蔵堂経由で金山出石寺に参拝します。前回はドシャブリの雷雨でしたが、今回は、いい天気のようです。


県道259号
平野駅で下車しました。ここは県道259号です。すぐ先で234号・大洲-保内線につながっています。
259号は信里-伊予平野停車場線ですから、平野停車場すなわち平野駅の辺で終わりなのです。


県道234号
234号線です。出石寺に参るには、234号を歩いて、地蔵堂の先で山の道に入るのが一般的です。私もこの道を行く予定でしたが、ちょっと逸れてしまいます。それはまた、その時に。


道標
二本の県道がつながる地点に、道標があります。大正5(1916)春の建立です。
  平地大安寺
  乳 薬 師 佛
  昔より ちちすくなき女○だけ
  牛馬の○に能(よ)く乳を授けらる
「乳薬師」を案内しています。女を牛馬に例えるのは如何なものか、とも思いましたが、考えてみれば、安産祈願は戌の日です。問題ないようです。


道標下部
  (左手差)千丈村 
       八幡浜道
千丈村 八幡浜道は、国道197号に相当します。「酷道行くな」線です。千丈村は、八幡浜市の東部で、予讃線の千丈駅辺りでした。
夜昼峠という面白い名前の峠を越える道でしたが、明治38(1905)、夜昼隧道が開通。この道標を建てた時は、すでに開通しています。また昭和46(1971)には、夜昼トンネルが開通しています。


道標
別の面(234号に面した側)には、次のように刻まれています。
  平地 乳薬師 八丁
  日土 (右手差)川ノ石道
川ノ石は、保内町(ほない町)川之石で、八幡浜の北、名坂峠を越えた先の港町です。日土(ひづち)は、飛槌から来るとも、肘地(ひじち)が転じて「ひづち」となったとも言います。飛槌説は出石寺の縁起に関わるので後述します。肘地説は、肱川のように道がくねくねと曲がっているから、とのことです。


平地番所跡
乳薬師道標の、道を隔てた反対側に、平地番所跡の碑があります。(今は大洲市指定史跡ですが)宇和島藩の番所でした。


幟台
「奉 里下組復員者一同」の下に、8名の名前が刻まれています。昭和23(1948)4月吉日 建立です。
おじいさんが話してくれました。・・・前の戦争で里下組(さとしも組)から出征した者は皆、無事に帰り、一人もヤスクニにはおらんのよ。


大元神社
それは、あの神社の神さんのおかげだとも、・・・


景色
あの山の上に祠があって、その神さんのおかげだとも、・・・地蔵さんのおかげとも、乳薬師さんのおかげとも、・・・いや、仏さんは死んでからお世話になるんか?・・・とにかく無事を感謝して、幟台を奉納した、と話してくださいました。
なお、大元神社(おおもと神社)の神さんは、天御中主命(あめのみなかぬし命)です。この神は、後にまた登場します。


大安寺駐車場
「乳薬師 大安寺」とあります。大安寺の駐車場です。寄ってみることにしました。すこし登ります。


県道234号
写真奥から歩いてきました。沼田川沿いのこの辺を、「里四」と呼ぶようです。前述の里下から、途中の矢ノ口、会心(かいしん)、現在地の地蔵堂を合せて、「里四」です。


大安寺
臨済宗妙心寺派 定慧山 大安禅寺。
下の駐車場には「乳薬師 大安寺」と案内されていましたが、ここには「乳薬師」の文字はありません。当寺のレーゾンデートルは今日、「乳薬師」にはない、住職さんはそう伝えておられるのかもしれません。


本堂
禅寺らしい簡素さが素敵です。住職さん一家が常住されています。


大師堂
臨済宗の寺ですが大師堂があります、・・・と書いてみて、前号でも岩木の安養寺について、同じことを書いたのを思い出しました。そういえば大和地区に臨江寺がありましたが、ここも臨済宗ですが大師堂があり、弘法大師が座しておられました。
臨済宗の寺に大師堂は、珍しいことではないようです。ただし、ここで挙げた寺は、いずれも妙心寺派です。


地蔵堂集会所
大安寺から下まで降りてきて、今度は地蔵堂を探してみようと思いました。「地蔵堂」は地名になっていますが、どこかに地名の元となった地蔵さんが祀られているはずです。


地蔵さん
幸い土地の男性が案内してくださることになりました。この地区に地蔵さんは三体、祀られているそうです。
写真は、その一体目。民家の間を抜けた、私独りでは入り込めそうもない場所にありました。年号が刻まれていますが、はっきりとは読めません。


上に大安寺
一体目の地蔵堂から見上げると、大安寺が見えました。なんと二体目の地蔵さんは、大安寺の境内に祀られているとのことです。また登らねばなりません。
男性は私の荷物を気にされたのでしょうか、軽トラックで寺まで上がってくれました。


寺の地蔵
二体目の地蔵さんも、境内とはいえ、見つけにくい所にありました。地蔵さんは、本堂の右を回った、裏庭にいらっしゃいます。なぜこのような位置関係になったのか、なんらかの経緯があるのでしょうが、わかりません。


三体目
三体目の地蔵さんは、県道を越えた、向側の山にあります。
望遠を目一杯効かせて撮っていると、男性が、行ってみないかと誘ってくれました。


一字一石塔
すこし躊躇しましたが、結局、甘えて、お願いしました。道をグネグネと下り、グネグネと上ってきました。
三体目とされている石仏は、大乗妙典一字一石塔でした。法華経の功徳が谷に満ちることを願ってでしょうか、里四を見おろす位置にあります。


高森
三体目から撮った写真です。大安寺が左寄りに見え、一体目の集落が右寄りに見えます。そして、その背後にお山が見えます。
聞けば、お山は城山であり、また霊山であるそうです。山頂には高森城址があり、山中には高森四国八十八ヶ所霊場(写し霊場)があるといいます。


大安寺と集落
高森城は戦国時代の戦城で、大洲城主宇都宮氏の臣、梶谷伊豆守景則が預かっていました。(後述しますが)梶谷氏が屋敷を構えていた地が、「梶ヤ谷」という地名で、今に残っています。
写し霊場が出来た時期は、尋ね忘れましたが、大安寺が乳薬師として栄えた頃ではないでしょうか。里四には、写し霊場「日参」の慣わしがあり、巡拝で持ち歩く幟旗は、大安寺が保管しています。日参の時期が来ると、里人は大安寺から幟旗を預かり、二戸1組で巡拝。旗は次々と回され、終わると、また寺に返します。


日参の幟旗
幟旗は今も「現役」です。残念ですが、写真の掲載は控えます。大きさ・形は、鬼平犯科帳で、密偵「おまさ」が持ち歩いているような幟旗、といえばおわかりでしょうか?
次のように墨書されています。(もちろん縦書きです)。
  南無大師遍照金剛  同行二人
  高森四国八十八ヶ所霊場日参
  家内安全 風雨順調    里四
黄ばんできた竹、にじんだ墨、明度を失ってきた白地、手作り感いっぱいの旗です。


土井集落
軽トラックで土井集落まで運んでいただきました。これより梶ヤ谷へ登り、その先で地蔵堂からの道に合流します。本当にお世話になりました。


林道梶屋谷線
梶屋谷(梶ヤ谷)への林道を通すにあたって、大洲の方が寄附しています。六十圓也。


梶ヤ谷集落
梶ヤ谷集落です。梶ヤ谷は梶谷氏ゆかりの地ですが、今では一条兼定(かねさだ)ゆかりの地として、より知られています。以下、「伊予のかくれキリシタン」(小沼大八著)と梶ヤ谷広場の説明看板に依りながら記述します。
兼定は土佐一条氏の4代目当主で、最後の当主となる人物です。長宗我部元親との決戦を前に、数年間、当地に滞在しています。滞在目的は伊予勢の糾合にありました。
「伊予の・・・」は記しています。・・・けれども一条兼定の平地寄寓は、(平地は梶ヤ谷がある所)、思わぬ副産物をもたらした。この地にキリシタン信仰の種子が播かれることになったのである。
*この部分にかんしては、コメント欄もご覧ください。



兼定はキリシタンでした。入信は天正3(1575)。兼定が臼杵に逃れているときです。元親の侵出で、事実上、自領を乗っ取られた兼定は、母の父である大友宗麟を頼っていたのでした。洗礼名はドン・パウロ。当時の臼杵には、学院や教会、司教館が立ち並んでいたといいます。
以下、「伊予の・・・」に依りながら、兼定が残した「副産物」を見てゆきたいと思います。なお念のためですが、当時、キリスト教は「禁教」ではありませんでした。よって「隠れ」ではなく、漢字も「吉利支丹」が当てられ、まだ「切支丹」ではありませんでした。


「広場」
この土地は「伊予の・・・」によれば次のようになります。以下、孫引きです。
・・・現地古老は、そこを往昔「切支丹畑」と俗称したという。古老はまた、その広場に妙見小祠堂があったが、昭和初期妙見不動堂再建に当たり、場所を二、三間上方の崖近くに移したという。その広場が往昔の教会址だったのである。


「崖」
驚きです。私は今、往昔「切支丹畑」と呼ばれた、「教会址」に立っていることになります。写真が「崖」です。この崖下に、先ほど通過した梶ヤ谷集落があります。
ヤマモモの木は、樹齢250年ほどだといいます。何かの記念に植樹したと説明板にありますが、なんの記念かはわかりません。


祠堂
「妙見小祠堂」です。堂内に納められた奉納板によると、昭和30(1955)、破損につき新調奉納されたとのことですが、「伊予の・・・」は、・・・施行した地元の大工に堀井氏(研究者)が問い合わせたところによれば、旧態どおりに施行したという。・・・とのことです。破風の十字は、遅くとも昭和初期には、刻まれていたことになります。


十字  
祠堂の扉を開けると、(写真掲載は控えますが)、赤く塗られた矢筈十字紋の台座に「妙見不動」が乗っています。
「伊予の・・・」は、・・・この地に土着したキリシタン信仰が時代を経るにつれて、妙見信仰と習合した姿なのだろう。・・・と記しています。北極星を神格化した妙見信仰が、宇宙の中心をなす神、造化三神の最高位たる天之御中主命と習合。天之御中主命が万物の創造主たるキリスト教の神と習合した、ということでしょうか。


題目塔
妙見菩薩は、日蓮宗(仏法)の守護神です。石塔には南無妙法蓮華経と、はね文字で大書されています。


題目塔
こちらの題目塔は、明治6(1873)の大干魃で雨乞いをしたときのものです。八大龍王と七面天女(池を司るという)に祈願しています。


「教会」
石板の覆い屋の中に小祠が見えます。


「教会」
小祠の屋根にはアーチ状の飾りがついていて、それはあたかも、「教会」であるかのごとくです。



「広場」は江戸期、墓場になっていたようです。手前から安永2(1773)、文政3(1820)、明和6(1769)、不明、弘化2(1845)です。
建立年が異なる墓が整然と並んでいます。ほとんど傾いてもいません。いつの頃でしょうかか、整理したのだと思います。



妙見信仰は、(なぜかについては諸説在りますが)、鉱山師のなかに深く根づいていたといわれます。とすると、出石寺は「石が出る寺」ですし、事実、この山には出石鉱山があって、昭和25(1950)頃まで、(休業を挟みながらも)稼働していたといいますから、広場の妙見不動と出石寺との関わりは、大いに気になるところです。
そんなことを思いながら「教会址広場」を去ります。この件は、また別の機会に探ってみたいと思います。



出石寺の略縁起によると、開創は養老2(718)6月17日だそうです。日にちまではっきりしています。猟師の作右衛門が鹿を追い、まさに射殺そうとしたところ、突然、暗雲低迷、全山鳴動、光明赫赫。鹿の姿はかき消え、立っていた足下の岩が真二つ。金色に光り輝く千手観音菩薩と地蔵菩薩の像が地中から湧き出してきたといいます。
その神々しさに打たれ、以来、作右衛門は殺生を止めて仏道に入り、この仏像を本尊として、出石寺を開いた、ということです。


三叉路
前述の「日土」(ひづち)という地名は、この像を槌で打ったところ、槌が2つに割けて飛んだ、つまり「飛槌」(ひづち)が転じて「日土」となったのだ、とも。
寺まで、これより山道を3キロです。


丁石など
一ヶ所にまとめたようです。丁石もいろいろです。五丁、十五丁、廿二丁があります。道標は、「右 をゝづ 左 かみすがい」(大洲 上須戒)となっています。


一願地蔵
一願地蔵は、初めは「一眼地蔵」でした。片目が見えない住職さんを供養して造られた地蔵さんだったのです。
出石寺のご本尊は、弘法大師が護摩供を修法され、石室に密閉された秘仏で、50年に一度しか拝見できません。その他の時にお姿を目にすると、あまりのありがたさに、その目は見えなくなるのだそうです。ところが、・・・


一願地蔵
江戸時代の出石寺住職、秀厳さんは、両目では畏れ多いので片目で、秘仏を拝見してしまったのです。やはり、その片方の目は見えなくなりました。
秀厳さんの没後、地蔵像が供養として造られましたが、像は片目なので、「一眼地蔵」と呼ばれていました。しかしご本尊は有り難いものです。いつしか「一眼地蔵」は「一願地蔵」となり、願掛けをすれば、願いを一つ、かなえてくださるようになりました。


出石寺着
着きました。お大師さんはご本尊の方を向いておられます。足下には、秘仏密閉の護摩供を修した「護摩ケ岩」があります。


護摩ヶ岩
弘法大師護摩供修法の遺跡。お大師さんの向く方に、本堂があります。


道標
山道から境内への入り口に、道標があります。手前は一願地蔵さんへの案内です。200㍍下、とあります。登ってくる途中、何人ものお参りの人とすれ違いましたが、車で来られたらしく、歩きづらい靴の方もいらっしゃいました。しかしそれでも「一願」の功徳に与りたく、お参りしています。
奥の道標は、古い遍路道標です。見えている面は、「右遍路道 大洲 ○○丁」とあります。○○は、私には読めませんが。百八だとか。


長浜道
隣の一面は、長浜道の案内です。
長浜道は出石寺境内の中心線と、ほぼ一致しています。牛の峰峠を経て、冒頭でご紹介した柿の久保、大和(郷)に降りてゆきます。降りるとすぐ肱川で、すぐ長浜です。


道標
この遍路道標は、「右 順道」「左ぎゃく○○道」とあります。


道標
こちらは、「大ずミち」「宇和嶋道」 とあります。宇和嶋道の、とりあえずの向かう場所はどこなのでしょうか。わかりません。


山門へ
右端の神馬像、本当は石段上に置きたかったらしいのですが、上には当寺縁起に由来する鹿の像があり、どうも組み合わせがよくありません。それで下にあるらしいのですが、なにやら寂しげに感じられなくもありません。


境内
護摩堂です。


石段
ふたたび石段を上がります。


本堂
本堂です。本尊は千手観音菩薩。出石寺は、昭和16(1941)、火災に見舞われたそうです。


朝鮮の鐘
朝鮮高麗王朝時代の作、とのことですが、王朝(12-14C)の、どの時期かはわかりません。また、後世になって伝わったものかもしれません。しかし、風格ある鐘です。


鹿
猟師作右衛門を、この山に導いた鹿です。傍に、神馬の代わりと言ってはなんですが、臥牛がいます。


大洲方面
神南山が見えます。神南山は二つのピークに別れています。手前が女神南山で710㍍、奥が男神南山で、女岳より低い654㍍です。


保内
保内の町と川之石港。このように海が見えるということは、海からも、この山が見えているのでしょう。



船乗りたちが大錨を奉納しています。航海安全を祈っているのでしょう。


下山
さて、下山です。帰途、大洲八幡宮にも参拝したいので、急ぎます。


平野への降り口
往路は、平野からここに上がってきました。復路はここからは降りず、高山から阿蔵を降ります。


神南山
神南山がだんだん大きくなってきました。神南山は神奈備山(かむなび山)の転ともいわれ、少彦名命の神奈備ともされています。


高山集落
高山集落には「メンヒル」があります。メンヒルは東向き、神南山に向いて立っています。


メンヒル
大洲市教委の説明石板によると、昭和3(1928)、鳥居龍蔵博士が来洲。メンヒルとしては東洋一のものだろうと推称された、とのことです。
メンヒルの原義は「長い石」です。日本語では「立石」などと言われていますが、むろん自然に立っているのではなく、なんらかの文化的背景のもと、人が立てたものです。この石は、神南山の向こうから昇りくる朝の光を、全体に浴びるべき位置に立っている、と考えられています。


大洲
中央が神南山、右寄りに冨士山が見えます。


阿蔵
県道から逸れて、山道を歩きます。ここを降りると、まもなく元大洲藩総鎮守八幡神社です。


ご覧いただきまして、ありがとうございました。大洲八幡神社までは、なんとか今号に載せたかったのですが、ちょっと長くなりすぎました。別の機会に回します。
次回更新は10月13日の予定です。内容は、秋遍路との絡みもあって、未定ですが、宇和島街道中道となるかもしれません。3月に歩いたけれど未報告の区間です。

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4 コメント

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🎵雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく・・・ (天恢)
2016-09-17 16:28:34
 昨年に比べて少し涼しかった夏も過ぎて、初秋となるのですが、このところの台風の影響や秋の長雨で気分は湿りがちです。 今回も「金山出石寺」を楽しく読ませていただきました。

 さて、タイトルの「🎵雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく・・・」ですが、実は、ブログからは適当なタイトルが浮かばす、苦し紛れに、こじつけたタイトルなんです。 ちょうど中秋の名月の時期を迎えたのに、日本列島が台風や秋雨前線の停滞でせっかくの名月も楽しめそうにないので、「雨降りお月さん」をちょっとお借りした次第です。 天恢が付けるタイトルはいつも、こだわりも、難しさもない、いい加減なんです。 

 さてさて、今回ブログの一番心に残るのは、
「楽しく遍路」さんの「古い遍路アルバム集」にある「金山出石寺-久万高原-三坂峠-石手寺 アルバム H22.3.」に、この出石寺をお参りされた道中が掲載されていて、隠れキリシタンの里「梶ヤ谷」の題目塔の写真に「この地は、もう一度訪ねよう」というコメントをされてた箇所です。
 「満願寺・野井坂越え」と同じで、この日も雨が降って、思うように写真も撮れなくて・・・。 それで、いつの日かこの地への再訪を期されたのでしょうか? 写真だけではなく「また訪れたい」という強い気持ちも他にあったからでしょうか? ともかく、今回はまっこと好天に恵まれて、山上の境内からは360度の展望が広がっていました。 88ヶ所の札所ではありませんが、ここもゆっくり歩いてみたい魅力ある遍路道です。
 ブログを読ませていただいて、①標高812mの山上に、奈良時代初期に創建され、お大師さまも修行されたと伝えられる、別格第7番・金山出石寺ですが、『どうして、こんな不便な高所に大伽藍の寺社が造られたのか?』、 ②江戸時代、厳しい迫害や過酷な弾圧の中、伊予の地で『どうして「隠れキリシタン」が存在し続けたのか?』、 そして、③この9月のような長雨では、きっと遍路で難儀されている方も多いことでしょう。 遍路は、長い道中を激しい風雨の日も、暑いカンカンデリ照りの日も、雪が降り積もる日も歩かねばなりません。 それでも、『人はなぜ、遍路するのか?』と、いろいろ考えさせられます。 天恢は難しいことはわかりません。 ただ、これも、あれも『信仰心のなせるわざ』と理解しております。
返信する
ハレルヤ! (楽しく遍路)
2016-09-19 13:40:10
天恢さん ありがとうございます
前の出石寺遍路記、読み直してみました。
・・・この地は、もう一度訪ねよう・・・、確かにそう書いていました。6年前は、来られる自信があったのです。まだ(比較的)若かった、のだと思います。
今では、こんな書き方は出来ず、(天恢さんはすでにお気づきと思いますが)、・・・許されるなら、もう一度訪ねたい・・・と、自信なげに、しかし未練たっぷりな書き方をしています。みっともないけれど、仕方ありません。

さて、天恢さんが「梶ヤ谷」に触れてくださったことを幸いに、「一条兼定の平地仮寓」に関する年表上の疑問を、やはり書いておきたいと思います。
・・・兼定関係の年表を調べると、
兼定が元親によって土佐を追放されるのが、天正2(1574)
兼定が追放先の豊後臼杵でキリスト教に入信するのが、翌年の天正3(1575)
・・・ここまでは問題ないとして、
兼定が元親に決戦を挑む「渡川の戦い」が、同年、天正3(1575)、となっています。
・・・では兼定は、いつ梶ヤ谷に「仮寓」したのでしょうか。「伊予のかくれキリシタン」は、兼定が2-3年間、平地に「仮寓」し、「この地にキリシタン信仰の種子が播かれる」としていますが、この年表が固定的に正しい限り、「仮寓」は長く見積もっても数ヶ月でしかありません。種を播く余裕はなかったはずです。

「兼定平地仮寓」は歴史上の事実ではなく、土地に伝わる「物語」であるのかもしれません。その可能性はあります。これは、やはり、記しておこうと思いました。
ただし、年表に多くの誤りが含まれていることは常識です。また私見では、歴史は時代の物語でもあります。時代により、人により、歴史は何回もリライトされます。
だから「兼定平地仮寓」を、年表との整合性だけで否定はできない、そう私は考え、今も「兼定平地仮寓」をめぐる展開を楽しんでおります。

タイトルは、天恢さんのタイトル、雨降りお月さん、とは関係ありません。主を讃える兼定に思いを致してつけています。
ただし頭に浮かんだのは、子供の頃の、今日はアーメン(雨)、明日はハレルヤ(晴れるや)、という言葉遊びからでしたが・・・。
返信としては内容が外れ気味ですが、かんべんしてください。これからもよろしくお願いします。
返信する
梶ヤ谷の地 (枯雑草)
2016-09-20 10:29:45
こんにちは。今回も楽しく拝見しました。
私にはちょっと難しい内容でしたが、今回の(メイン)主題はやはり「梶ヤ谷の教会址」でしょうか。
この地、私は今だ歩くことができていませんが、数年前大いに興味をそそられ、貴ブログやawatennbouさんやカトリック中央協議会のサイトを探ったことを思い出しました。
「伊予のかくれキリシタン」にいう「・・キリシタン信仰が妙見信仰と習合した・・」という記述には信徒ならずとも直には首肯できないと思う人も多いでしょう。能勢家の紋、日蓮宗能勢妙見山の寺紋でもある矢筈十字紋が何故ここにあるのか・・などなど謎もまた多いですね。
すべてお見通しの楽しく遍路さんに、敢えて愚見を・・
真実に近づこうとすることは最も大事なことでしょうけれど、ある所まで行ったらあとは謎(いや、夢かな・・)として残しておくこともまた楽しいことのように、私には思えます。
返信する
伝承と史実 (楽しく遍路)
2016-09-21 09:11:15
枯雑草さん ありがとうございます。ご忠言、ありがたくいただきます。
いつもながらの、冗長、散漫、「夢」のない遍路記です。筆者が楽しみすぎると、その分、読む人の楽しみが減ってしまう、・・・このことを読者としての私は理解していますが、筆者としては理解しようとしません。残念ながら私の限界なのでしょう。
すぐには出来ませんが、すこしずつ改めたいとは思っていますので、今後も、よろしくお願いします。

伝承は歴史の覗き穴のようなもの、穴を覗いていろいろの物語を紡げばいい、・・・私はこんな考え方をしていますが、また、・・・キリシタンの信仰が何かと混じった形といった推測は、よっぽどの根拠がないかぎり、軽々とはいわないでほしいと思う。・・・というカトリック中央協議会サイの立ち位置も理解できます。
この辺の咀嚼が不十分のまま書いたのが、今回の遍路記でした。
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