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。。Slow Step 。。

1989年11月9日ベルリンにて

当時の絵葉書
全ての画像は当時のネガ写真を
20年前にスキャンしたもので
お見苦しいことをご容赦ください


ドイツ・西ベルリンに住んで3年8ヶ月
1989年11月9日(木)は
何ら変わりのない普通の1日として
終わろうとしていた。。

19:00のニュース番組で、確かに
「東ドイツ人の国外旅行が解禁に…」とは
言っていたが、いつからなのか?
そんなことがありえるのか?
そんなすぐには実現しないだろうと
本気にせず寝ようとしていた。

…が!23:00過ぎに
夫*の駐在員仲間から電話があり
(*現在は元夫ですが「夫」と表記します)
「壁の周りが大変なことに!」
「既にたくさんの東独人が西へ!」
…という電話が!

何か大変なことが起きている!
「"壁"に行ってみる!」と言う夫に
「危険だからやめて!」と止めた私。
今となっては
カメラ持って駆けつければ良かった。。

車で20分弱の場所で
まさか世界史の大いなる1ページが
開かれていたとは。。



翌日の話の前に
当時の東ベルリンの様子を
駐在員の妻としての視点で綴ってみた。



夫は当時東ベルリンにある
西側企業が入っているビルで
日本企業の一員として働いていた。

西ベルリンの家から東ベルリンの事務所へ
国境="壁"を通って車で通勤するのだが

毎日チェックポイント チャーリーという検問所で
パスポートには"入国"&"出国"のスタンプ!
→荷物の厳重なチェック!
帰りには、逃亡者をチェックするため、更に
車のボンネット&トランクと座席をめくられ
車の下を"特製ミラー"で覗かれていた。

(壁崩壊後に撮影!以前はもちろん禁止!)
西側からの"チェックポイント チャーリー"
外国人の為の唯一の検問所
手前がベルリンの壁!
赤い屋根の建物は東側にある。

何重にも遮断バーがあり物々しい。
グレーの屋根の部分が車用ゲート。
右にある低い塔のようなものが「監視塔」



夫の事務所で働く秘書達と運転手は東独人
彼らは"ドイツ社会主義統一党"の党員だ。
それも有力なコネがなければ
西側企業で働き、西側"ドイツマルク"を
稼ぐことは出来なかった。

運転手の自宅に招待された時
見たのは…東ベルリン市内の湖畔に
瀟洒な邸宅とYAM○HAのヨット
社用車の大型○ンツが前庭の目立つ所に!
(西ベルリンへ行ける特権も持っていたのだ)

"ドイツ社会主義統一党"員というだけで
リッチな生活が約束されていた訳である



一般の市民の暮らしは…と言うと
1度だけ東側のスーパーへ行ったが
生鮮食料品のひどいこと。。

覚えているのは
牛乳はロングライフの三角パック
キャベツは腐りかけ、果物はリンゴだけ
そんな生活レベルだったことが窺える



東ドイツでは、党員が
密かに自宅の周りの住民を監視する
…ということが日常茶飯事だった。

当然、西側企業が入っているビル全体や
日本人も"監視=盗聴"の対象だ。

東側の駐妻友や勤務中の夫との電話は
時々混線状態になり長話になるとブチッ!
盗聴しているのは、日本語の分かる
"○朝セン"の人ではないかとの噂が…。
そんな「監視社会」だったのである。

☘️

もうひとつ
財政上、建物の修復まで手が回らず
建物が酸性雨や排気ガスで黒ずんでいて
まるで白黒TVを見ているようだった。
壁を通過すると西側は"カラーTV"♪

夫の勤務先の高層ビルから見た
壁崩壊前の東ベルリン
撮影禁止だったけれど密かに撮影!
異様なテレビ塔は「ネギボウズ」と命名(笑)
今は観光地のドームの丸い屋根も真っ黒!




話が元に戻るが
翌日の11月10日(金)の朝は
西ベルリンの住宅地は
いつもと変わらない朝の光景だった。。

昨夜の電話の駐在員仲間と共に朝早く
夫は車を連ねて出掛けることになった。

当時は携帯電話もない時代
当然東側の電話は通じないから
連絡不能になることは間違いなし。。

夫からの言葉
「外出せず戸締まりは厳重に!
東側から大勢の人たちが
ここまで押し寄せて来るかも。。
何が起こるか分からないけれど
必ず帰ってくるから!」

一瞬中国の天安門事件が脳裏に…!
あまりの心細さに思わず涙ぐんでしまった



何も手がつかず、ラジオからの
「壁が崩壊~!」の大歓声ばかりが響く中で
8時になったとたん日本から電話が…!

以前ベルリンにいらした駐在員妻の方から
興奮した声で
「大変なことになってるでしょう?
夕べは壁に行った?あ~今すぐ行きたい♪
日本のTVは朝からベルリン一色よ!」

私「え?まだ半信半疑なのですが
一体何が起こっているのですかぁ?」
…と思わず聞き返してしまった。

日本の方が大騒ぎになっていて
現地にいる私の方が訳が分からない
…という有り様だった。。



そして、10:30頃、玄関のチャイムが。
夫が事務所の秘書を連れて帰宅!

東独人の彼女にとっては
初めて壁を通過して、西ベルリンへ!
「本当に?…Wirklich?…」
お互い抱き合いながら涙が。。

我が家でコーヒーを飲んですぐ
西ベルリン見学ツアーへ♪

彼女は瞬きも忘れ、食い入るように
車の窓から西ベルリンの街を眺めていた
今でもその横顔が目に浮かぶ。。

そして、西ベルリンのデパートで
「何かプレゼントしたい」と申し出たら
彼女が遠慮がちに言ったのは
「チコリとレモン」だった。。



その日の午後と翌日11日はカメラ持参で
壁付近を撮影に出掛けた…と言っても
東独人を始め、ドイツ国内&欧州から
たくさんの車と人で大混雑~!



開いている壁の所では、東側からの人達を
拍手やハグで歓迎する歓声が響く。
まるでお祭り騒ぎだ。

当時の東独製の車トラバントが
壁の壊れたところを通る。左が東側。
向こう側には西側の人達が拍手で歓迎♪
まるでヒーローのような東独人
車の後ろに子供の顔が見える。

西側の警官も警備に当たっている
東側の建物がはるか先に見えるが
ここは現在ベルリン一の繁華街
ポツダム広場である。



ブランデンブルグ門

11月11日
西側のブランデンブルグ門前
人々が壁に上るのを阻止するため
東独の国境警備隊員が壁の上に整列!

世界中のTVカメラが集まり
臨時の電波塔まで。。



壁の前の慰霊碑を撮影する外国のTVクルー
壁を越えて逃亡しようとした東独人は
容赦なく国境警備隊に射殺された。。
ここは、壁のすぐ後ろの住宅が東側なので
逃げようとした住民がたくさんいたらしい

壁と壁の緩衝地帯を
線路づたいに歩いて西側に入る東独人
国境警備隊員に西側ジャーナリストが
和やかに話を聞いている。
こんな光景を見られるなんて。。



そして…
ブランデンブルグ門の東側が解放された後
東側から門の中を通過した時の感動は
一生忘れられないと思う。
それまで2つの壁に挟まれていて
近付くこともできなかったのだから。。

残っていた西側の壁の上に大勢の人達が!
ちょうど11日に見た↑
国境警備隊員が整列していた壁だ。
向こうに見える光は
西側のクリスマスツリー♪



その3ヶ月後
私達はドイツ統一を見ることもなく
帰国することになった。。



最後までお読みくださり
ありがとうございました。




コメント一覧

wakoslowstep
マンマさま
「ベルリンの壁崩壊」…今年はすっかりお気楽にその日を過ごしてしまいましたぁ(^^;
今や内戦や紛争で混乱している国々を見ていると、ドイツ人だからこそ成し遂げられた「無血の革命」ですものね。

平和と言っても、今はコロナ禍でドイツも大変ですね~。2年連続でクリスマスマーケット(ドイツ語で書こうとしたけど、スマホなので面倒!笑)が閉鎖!なんて。。
でも、お隣の国フランスでは、シャンゼリゼのイルミの点灯~✨って、国境なんてないようなものだから、今後また怖いですね。。
あ、話がコロナになってしまいました(^^;
マンマさん、お忙しいのに、また読んで頂いて、、
コメントまでありがとうございました。
マンマ♪
今年も感動的な記事、読ませていただきました。
ありがとうございます💕

wakoさまの記事を読むたびに、今は平和で自由になってきたのだと実感します。
この平和がいつまでも続きますように✨✨
wakoslowstep
@sukekaku5th 桐花さん
頂いたコメントの最後の言葉に心が釘付けになってしまいました✨「格差もなく」…なかなか気が付かない視点です。。さすが桐花さんですね💞

東西ドイツが統一した当時は、今もかもしれないけれど、東西の「格差」がひどくて、東側の人達はかなり差別されていたそうです。「格差」から生まれる負の感情、そこからまた争いが生まれるような。。だから、「格差もなく…」は平和の最低条件のような気がしますよ☘️

当時高校生のドイツ人のお友達も西側の方なのに、人生変わるほどのことだったのですね。同じドイツなのに、ビザがないと入れなかった旧東ドイツに突然入れるようになり、見たこともない、そこが自分の国になるのですものね(^^;

それにしても、桐花さん、高校生になったばかり?💦お若いっ。。そんなお若い桐花さんから、私はいつもたくさんのステキな言葉を学ばせて頂いています✨
コメントありがとうございました。
sukekaku5th
wakoさん、こんばんは。
当時まだ高校生になったばかりで、テレビにくぎ付けになっていた思い出があります。
あの歴史的一大事を現地で体験されていたなんてすごいことですね!
アメリカで親友になったドイツ人女性は西側の出身で、当時やはり高校生で、人生が一変する出来事だったと言っていました。でも東側の人の方がその思いは強いはず…と。
記事やテレビでその逸話を聞くことがあっても、wakoさんのようにごく身近に東側出身者がいて、そのお話を読ませていただけて、なんだかずっしりくるものがありました。いまは東西なくひとつのドイツで喜ばしいですね~
世界中が平和で格差もなく、みんな笑顔で穏やかに暮らせる日が待ち遠しいです。
__桐花
wakoslowstep
@maru-peace miyanさん
私も学生時代はドイツには全く興味がなく、東欧向け輸出の仕事をするようになって、初めて東ドイツや東西ベルリンの実情を知ったのです。何しろベルリンは東西ドイツのちょうど間にあると思い込んでたのですから(^^;

miyanさんに「お疲れさまでした」と仰っていただいたら、ドッと疲れが…(/--)/なんちゃって。。でも、20年前はスラスラ書けたのに、今は時間がかかってしまって、ホントに疲れました(笑)

ところで♪きららちゃんがおうちに来た当初は大変だったのですねぇ。ワンコも(人間も!笑)トイレ問題が大きなネックですね(^^;でも、今では3wansちゃん達の良きリーダー✨ご主人様もお空の上から見て、安心していらっしゃいますよね。。🌈
コメントありがとうございました。
maru-peace
wakoさん....凄い体験でしたね。
世界に疎い私でもこのことはよく覚えています。
その中にwakoさんが居たなんて....詳しいその当時の状況説明に
夢中になって読みました。
リアルで....凄いです。
ベルリンにお住まいだと言う事を知って是非色々と知りたいと思って
いましたら
こんなすごい体験のお話を聞かせて頂くとは....
夢にも思ってはいませんでしたよ。
長い綴り....素晴らしかったです💛
ありがとうございます。そしてお疲れ様でした。
wako
olive-oliveさん
↓下のコメントは、wakoです💦
何故か名前が消えてしまって、
直せない。。(笑)
失礼しましたm(__)m
Unknown
@olive-olive808 olive-oliveさん
世界史の年表に刻まれる瞬間には立ち会えなかったのですけど、すぐ近くにいたことだけは確かです(^^;「引き込まれるように」お読み頂いたとのこと、嬉しいです~💕

31年経っても、テレビの光景を覚えていらっしゃるとは!私は自分の写真見て、やっと思い出した程度です(笑)

お友達のご主人様はドイツ人なのですね。9日の夜なのかしら?それとも私達と同じ10日になってからなのでしょうか。壁付近がとにかく山手線のラッシュアワーのような混雑で近付くのに大変だったので、その中にいらっしゃったりして?(*^^*)
コメントありがとうございました。
olive-olive808
すごい歴史的瞬間にドイツに住んでいらしたのですね!
引き込まれるように読みました。
私はその頃ニュースで見ていましたが・・
あれから30年も経つのにテレビに映し出される光景ははっきり覚えています。
お友達のご主人(ドイツ人)もベルリンの壁崩壊のあと見に行ったと言っていました‼
wakoslowstep
ピエリナさん
まさに「不可能なようなこと」が突然起きたので、あんな近くにいたのに動けなかったのです(^^;リアルタイムで日本のテレビを見たかったですよ(笑)

東ドイツの人達が検問所に押し寄せた時、国境警備隊が発砲でもしていたら、天安門のような悲惨な結末になっていたかもしれないけれど、それをせずに無血で国境を解放したのはドイツ人のなせる技だと思います✨もしかしたらキリスト教に裏打ちされてる民族性なのかも?と、今、ピエリナさんへのお返事書いていて思いました。

ブログでは、封印しようと思っていたベルリン在住時代の話を、介護の話で繋がったピエリナさんに読んでいただいて、不思議なご縁を感じます~💕
コメントありがとうございました。
ピエリナ
こんにちは、wakoさん

ベルリンの壁の崩壊はテレビで観ながら驚いていました。
まさかこんな不可能なようなことが実際に起こるなんて…と思いながら。
人々が抱き合いながら泣いていました。
あの時、wakoさんはそこにいらしたのですね。
そして、それをテレビで感動しながら観ていた私とwakoさんが今はこうしてブログで繋がっている。
きっとその後もいろいろなことがお互いにあったことでしょう。
不思議なご縁ですね。
もちろん私だけでなく、ここにいらっしゃるすべての方々にも言えることですけれども。
wakoslowstep
マンマ♪さん
ベルリン在住経験なしには今の私はいないと思うので、今日じゃなくても、いつかは、ここに書いていたと思うのですよ(*^^*)だから、謝らないでね♡

でも…ベルリンに在住(旅行ではなくてね)していたマンマ♪さんがここにいたからこそ、共感して頂きたかったので、今、頑張って書けた気がします♪
ありがとうございます~💕

この記事を書きながら、「いつかベルリンへ♪」という夢がなんと小さくなってしまいました(((^^;)もう私の知っている街ではないし、今のポツダム広場に立っても、壁の遺構を見ても、何の感動もないかも。。と思い始めたのです。そういえば、当時の駐妻友が数年前に行ってみたら、繁華街は知らない街だった…と言ってました。

当時の駐在員で、なんと一流商社を退職してまで、ベルリンに移住(?)した方がいました。高齢者や障がい者に優しい国で、30数年前から、ノンステップバスでしたからね~。帰国してから日本の弱者に対する冷たさに唖然としました。。「老後に移住」って?(^^;マンマ♪さん、まだ老後ではないでしょう?(笑)

長くなってしまいました。いつかゆっくりワインでも飲みながら、ベルリン(あ、禁句?^^;)やイタリアのお話したいものですね🍷✨
コメントありがとうございました。
マンマ♪
wakoさま、衝撃の時代の一コマを身を以て体験されたのですね。
ベルリンの様子を知っているだけにゾクゾクしてしまいました。
私が2002年に在独していた時、聞いたことと一致しました。
1992年初めてドイツに行った時、ニュルンベルクからドレスデンに行くまでの車窓は
(元東独の景色)は黒いススでとても汚かった印象です。
1990年、年明けに帰国されたのですね。
あれから30年人々は自由を手に入れて、メルケルさんの信頼は
揺らぐものではありませんね。

今日のwakoさまの記事を読んでいたら、
旧東独側のバス停で元夫が私に言ったことを思い出しました。
「老後はドイツに住みたいね。」 
こうなっていたら私たちは別れずに済んでいたのでしょうか !?
いいえ、そういう問題ではありませんね。
夫婦の信頼関係を崩すのは一瞬ですからね💦💦

wakoさま、本当はその当時の思い出は封印しておきたかったのではありませんか?
なんだか私によって刺激されてしまわれたのでは !?
申し訳ありません。
今日は本当に貴重なお話、体験を読ませていただき
ありがとうございました❣️
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