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縄文人の志葉楽さんのブログ

日記や趣味を書く

●けやき

2020年12月17日 09時57分31秒 | 文化
●けやき
★けやき【欅】 三省堂 大辞林
ニレ科の落葉大高木。山地に生え、また防風林や庭木として栽植する。葉は鋸歯があり狭卵形で先がとがる。四、五月、葉腋に淡黄緑色の小花をつけ、ゆがんだ球形の小果を結ぶ。材は堅く木目が美しいので、建材・家具材などに用いる。ツキ。
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けやき【毛焼(き)】
(1)鳥獣の毛をむしったあとの肌に残ったこまかい毛を火で焼くこと。
(2)「毳焼(けばや)き」に同じ。

★けやき 【欅】  植物図鑑
わが国の本州から四国・九州、それに朝鮮半島や台湾、中国に分布しています。温帯林や暖帯林に生え、高さは20~25メートルになります。
幹は直立して、枝はほうき状に広がり、樹皮は灰白色で老木では大きな鱗片となってはがれます。
葉は狭卵形から卵形で互生し、縁には鋭い鋸歯があります。
雌雄異株で、4月から5月ごろ、黄緑色の目立たない花を咲かせます。
秋には紅葉します。名前は、「けやけき(際だった)木」といわれたことから。
古くは「つき(槻)」とも呼ばれ、
高槻の地名は、「けやきの大木」に由来します。

★ニレ科ケヤキ属の落葉高木で、学名は Zelkova serrata。英名は Japanese zelkova。
ネギのほかの用語一覧エノキ: ジョージアハックベリー リンドハイマーハックベリー 榎
ケヤキ: 欅
ニレ: 春楡 秋楡
ムクノキ: 椋の木

★欅(けやき) ウィキペディア 
ニレ科ケヤキ属の落葉高木。ツキ(槻)ともいう。

★五七調(ごしちちょう) https://ja.wikipedia.org/wiki/五七調
詩で五音・七音の順番で繰り返す形式。
七五調とは対照的に素朴で力強い感じを与えることを特徴とする。主に万葉集に使われている。
・音楽における五七調
 ・国歌「君が代」(起こりは短歌でいわゆる「歌」ではない)
 ・海行かば
 ・全国高等学校野球選手権大会歌「栄冠は君に輝く」
日本の伝統詩歌および韻文の韻律(調子)の名称で、七五調とともに、その基本をなすもの。
一般的に日本古典韻文は5拍の句と7拍の句を基本にしている。その組合せのなかで、「五七/五七/五七/……」の続き方をするものを、とくに五七調とよぶ。記紀歌謡に始まり『万葉集』時代に全盛期を迎える長歌は五七調を基本とした。「うつせみと 思ひし時に/取り持ちて わが二人見し/走出(はしりで)の 堤に立てる/槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の/春の葉の 茂きが如(ごと)く/思へりし 妹(いも)にはあれど/たのめりし 児(こ)らにはあれど/……」(『万葉集』柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ))などが長歌の典型的な型である。短歌では、「春過ぎて 夏来たるらし/白栲(しろたへ)の 衣乾したり/天の香具山(かぐやま)」(『万葉集』持統(じとう)天皇)のように、「五七/五七/七」の形を五七調とよんでいる。そのほか、「五七七/五七七」の旋頭歌(せどうか)も、五七調を基にした詩型とみなすことができる。五七調は古代前期においては優勢を占めたが、奈良朝末期からしだいに七五調にとってかわられ、勅撰(ちょくせん)集時代には七五調に主流を譲る。しかし、江戸、明治期に至って万葉調歌人が出現するに及んで、ふたたび復活の兆しをみせたのであった。

★七五調(しちごちょう)  https://ja.wikipedia.org/wiki/七五調
七音・五音の順番で繰り返す形式。
五七調とは対照的に優しく優雅な感じを与えることを特徴とする。
主に古今和歌集に使われている。
・主な七五調の詩
 ・与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」
 ・いろは歌
 ・島崎藤村「初恋」
・音楽における七五調
明治時代の文明開化以降に作られた唱歌や寮歌、軍歌を中心に見られ、現在でも校歌に七五調を採用する学校は多い。
七五調の歌詞を持つ歌は、同じ七五調の別の曲の節で歌っても歌唱上は違和感がなく、おおむね互換性があるといえる。
また、外国の曲や日本の歌百選にも、七五調の曲がある。
日本の古典詩歌および韻文の韻律(調子)の名称で、五七調とともに、その基本をなすもの。一般的に日本古典韻文は5拍の句と7拍の句を基本単位にしており、その組合せにおいて「七五/七五/七五/……」の続き方をするものを七五調とよぶ。「いろはにほへと ちりぬるを/わかよたれそ つねならむ/……」といった調子がそれで、短歌では「天(あま)つ風/雲のかよひ路 吹きとぢよ/をとめの姿 しばしとどめむ」(『百人一首』、僧正遍昭(へんじょう))のように「五(/)七五/七七」の調子をいう。奈良朝末から五七調を圧倒し、平安朝・中世・近世を通して、和歌はもとより、各種の歌謡、『平家物語』『太平記』などの軍記、さらには謡曲、浄瑠璃(じょうるり)の詞章、歌舞伎(かぶき)の台詞(せりふ)など、きわめて広く七五調が用いられた。五七調が重厚荘重な調子であるのに比べて、七五調は軽快優美な調子で、平安朝以降の時代的欲求に合致したためだろうとされる。
近代に入っても、新体詩は七五調を主流としたし、唱歌の類にも七五調が大いに用いられた。「汽笛一声 新橋を/はやわが汽車は 離れたり/……」(『鉄道唱歌』)などその数は多い。

★ケヤキ【槻・欅】https://ja.wikipedia.org/wiki/ケヤキ
ケヤキ(欅、学名:Zelkova serrata)は、ニレ科ケヤキ属の落葉高木。
ツキ(槻)ともいう。
ツキノキともいう。ニレ科の落葉高木。高さ30メートル、径2メートルに達する。梢(こずえ)はほうき状に立つ。樹皮は象皮状で灰褐色、初めは平滑で、のちに鱗片(りんぺん)状にはげる。小枝は繊細。葉は互生し、狭卵形ないし卵状披針(ひしん)形で羽状脈がある。長さ3~7センチメートル、幅2センチメートル、先端は鋭くとがり、基部は円形から浅心形、辺縁には鋭い鋸歯(きょし)がある。花は4、5月、開葉とともに開き、淡黄緑色。雄花は新枝の下部に固まってつき、雌花は上部に1個つく。雄花は花被片(かひへん)4~6枚、雄しべ4~6本。雌花は雌しべ1本で、花柱は2裂する。果実は痩果(そうか)で10月ころ熟し、ゆがんだ扁平(へんぺい)球形、径5ミリメートル。本州、四国、九州の低山地に生え、朝鮮半島、中国に分布。庭木や並木に利用するほか、木理(もくり)が美しいので建築材、家具、船舶材として用いられる。名は「けやけき木」、すなわち顕著に目だつ木の意味という。欅の字は本来は中国のシナサワグルミの漢字である。

★神子畑鋳鉄橋(読み)みこはたけちゅうてつきょう
事典 日本の地域遺産の解説
(兵庫県朝来市(国指定重要文化財))
「近代化産業遺産」指定の地域遺産。
1885年(明治18)に外国人技師の架けた神子畑鋳鉄橋は国指定重要文化財、八代(やしろ)の大ケヤキは国の天然記念物である。1999年、多々良木ダムの近くに「あさぎ芸術の森美術館」が開館した。

★縁切り(えんきり)
主として夫婦など男女について、まれに親子、兄弟姉妹について、それぞれ関係の断絶をいう。
逆は縁結び、縁つなぎ。
江戸時代には、夫婦の結び付きは、当人の意思に関係なく宿縁によるものと考えられ、せっかく結ばれた縁は容易には断ちがたいとされた。
さらに男尊女卑の思想も根強く、武家社会はもとより庶民社会でも、夫や舅姑(きゅうこ)の不法に対して妻側から抗議し離婚を申し入れることは認められなかった。
離婚は夫側から一方的に申し渡される習わしで、「三下り半(みくだりはん)」の離縁状がそれをよく表していた。
しかし妻側からの非常手段がないわけではなく、神職や山伏(やまぶし)の家、あるいは尼寺(あまでら)に逃げ込み、それらの人々の尽力で離婚を迫ることがあった。
この種のものでは相模(さがみ)(神奈川県)鎌倉の東慶寺(とうけいじ)と上野(こうずけ)(群馬県)新田郡(にったごおり)の満徳寺(まんとくじ)が、俗に縁切寺、駆込寺(かけこみでら)として有名であった。
 一般にはこんな方法もとれず、ひたすら縁切りを神仏に祈るだけというありさまで、祈れば効き目があるとされる縁切地蔵、縁切稲荷(いなり)、縁切薬師、縁切榎(えのき)などが各地に伝えられてきた。
 京都・清水寺(きよみずでら)にはもと縁切厠(かわや)なるものがあり、そこに入って祈れば効験があるとされた。東京都板橋区下板橋にあった縁切榎(実はケヤキ)は江戸時代から知られ、樹皮をはいで細かく刻んでひそかに相手に飲ませたり、男女背中合わせの絵馬(えま)を供えて祈ったりすれば祈願が成就するといわれた。
 それだけに良縁を望む人々には嫌われ、嫁入りにはその前を避けて通った。
 せっかくの良縁も不縁になってしまうとして、それに近づくことを忌む石、木、橋、坂、神仏なども少なくなく、縁切石、縁切橋、縁切地蔵、別れ松などの名がついていた。
 東京都新宿区の淀(よど)橋は別に「姿見ず橋」ともよばれ、不吉の橋として婚礼に新婦は渡らなかったという。
 このような禁忌を伴うほうが信仰としては古態であり、それは逆の縁結び祈願にも通じてくる。
 そこで、縁切り祈願も、個人の自由を束縛された遊女など特定の女性による行為が注目され、それが広まった新しい習俗ではないかと考える者もある。

★大野(市)(おおの)
福井県東部,大野盆地を中心に,両白山地から流れ込む九頭竜川など多数の河川流域の広大な地域を占める市。
東・南部で岐阜県に,北東部で石川県に接する。
1954年大野町,下庄町と上庄村,乾側村,小山村,富田村,阪谷村,五箇村の6村が合体,市制施行。
1970年西谷村,2005年和泉村を編入。
市名は古代からの郡名による。
盆地の西部に位置する中心市街地大野は中世に金森長近の3万石の城下町となった。
大野城や亀山公園がある。
清滝川の扇状地端にあるため湧水に恵まれ,道路網が整然とし,小京都といわれる。
北部には経ヶ岳からの火山泥流による塚原野と六呂師高原がある。機業が盛ん。発電所が多く,九頭竜ダムは観光地としても有名。打波川上流の谷には鳩ヶ湯温泉がある。
九頭竜川上流の九頭竜峡は渓谷美で知られる。
本願清水イトヨ生息地,専福寺の大ケヤキ,アラレガコ生息地は国の天然記念物。宝慶寺の旧橋本家住宅は国指定重要文化財。
市域の一部は白山国立公園,奥越高原県立自然公園に属する。
JR越美北線,国道 157号線,158号線,476号線が通る。
面積 872.43km2。人口 3万3109(2015)。

★釜(かま)
ご飯を炊いたり、湯を沸かすのに用いる陶製または金属製の容器。普通、鍋(なべ)よりも底が深く、口が狭く、上部(甑(こしき))と底部の境に鍔(つば)(羽口(はぐち))をつくり、飯釜(めしがま)には重厚な木蓋(きぶた)を置くが、湯釜にはつまみのある、釜と同材の蓋を置く。飯釜の大きさは、その炊く米の容量をもって何升炊きといい、湯釜の大きさは、その口径をもって何寸という。またその個数を数える単位は古くは何枚といった。
なお釜は、鉄製、銅製、アルミニウム製、陶製、土製のものが多く、蓋には重くてじょうぶなケヤキやカシが使われ、茶の湯釜の蓋には、釜と同材の銅製、銀製、真鍮(しんちゅう)製などが用いられた。

★看板(かんばん)
看板の起源は平安時代初期の『令義解(りょうのぎげ)』に「肆廛(みせ)に榜標(ぼうひょう)を立て行名(こうめい)を題せよ」とあるように、法令で決められ、都の東西の市(いち)に立てたものであった。しかしながら『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』に描かれた備前(びぜん)福岡の市には、それらしきものはみられず、商品だけが並べられている。これは鎌倉時代の絵巻物に描かれた市のありさまであるが、文献的には室町時代の末期から屋号とともに標識、つまり看板がみられる。次の安土(あづち)桃山時代に入ると、のれんとともに店先に掲げられた小さな絵看板が『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』や埼玉県川越(かわごえ)市喜多院所蔵の『職人尽絵』のなかにみられる。
日本では室町末期から江戸初期にかけての絵巻物に看板が認められ,江戸時代には暖簾(のれん)や板,行灯(あんどん),旗などに文字や絵をかいたもののほか,実物や立体のつくりものも用いられた。湯屋の看板の弓矢(弓射る,湯入る),まんじゅう屋の荒馬(あらうまい)のように判じ物風のものもあった。江戸中期から明治にかけて多く用いられた軒下の吊り下げ看板は閉店時店内に取り込んだので閉店のことを看板という。西洋では古くから動植物や物を店や業種のシンボルとして用いることが行われていた。床屋の赤・白・青のだんだら棒,居酒屋のキヅタの枝束,質屋の3個の金の玉などが有名。

★街路樹(がいろじゅ)
日本の並木、街路樹の起源も古く、『日本書紀』によると、敏達(びだつ)天皇(在位572~585)のころ難波(なにわ)の街路にクワが植えられたとある。聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときには、平城京にタチバナとヤナギが植えられている。さらに遣唐使として入唐(にっとう)した東大寺の僧普照(ふしょう)が754年(天平勝宝6)に帰朝し、唐の諸制度とともに並木、街路樹の状況を奏上し、759年(天平宝字3)に太政官符(だいじょうかんぷ)で街路樹を植栽することが決められた。これが行政上の立場から街路樹が植えられた始まりである。桓武(かんむ)天皇(在位781~806)時代には、平安京にヤナギとエンジュが17メートル間隔に植えられ、地方には果樹の植栽が進められた。その後、鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギが植えられている。江戸時代になると、各地にマツ、スギ、ツキ(ケヤキの古名)などが植えられた。
 近代的な街路樹は、1867年(慶応3)に横浜の馬車通りにヤナギとマツが植えられたことに始まる。74年(明治7)には東京の銀座通りにサクラとクロマツが植えられたが、木の成長が悪く、84年になってシダレヤナギに植えかえられている。1907年(明治40)になると、白沢保美(しらさわほみ)、福羽逸人(ふくばはやと)の街路樹の改良計画に基づいて、イチョウ、スズカケノキ、ユリノキ、アオギリ、トチノキ、トウカエデ、エンジュ、ミズキ、トネリコ、アカメガシワの10種が街路樹として選定・植栽され、ほぼ今日の街路樹体制の基ができあがった。のちにイヌエンジュ、シダレヤナギ、ソメイヨシノ、ミツデカエデが追加され、ミズキ、アカメガシワは成績不良で廃止された。
 1977年(昭和52)の調査(林弥栄ほか)によると、東京都23区内の街路樹総本数は15万5000本、三多摩地区5万1000本、総計20万6000本である。このうち、本数の多い樹種はイチョウ、プラタナス、トウカエデ、シダレヤナギ、エンジュ、サクラ、ケヤキの順となっている。また、全国主要都市160の街路樹は、1967年の調査によると、105種、総本数52万本であった。本数の多い樹種を順にあげると、プラタナス、イチョウ、シダレヤナギ、ニセアカシア、カロリナポプラ、ソメイヨシノ、アオギリとなる(両調査以降、新しい調査は行われていない)。世界各国における街路樹種は200種に達し、もっとも広く用いられているのはポプラ類、プラタナス類、シナノキ類、ニレ類であり、これを世界四大街路樹とよんでいる。次いで多いのはニセアカシア類、カエデ類、トチノキ類である。
 街路樹の選定にあたっては、その地方の気候風土に適応し、樹性強健で、大部分の土地で生育でき、乾燥に耐え、大気汚染などのいわゆる公害に対して抵抗力のあるものが望まれる。さらには、太陽熱、反射熱や病害虫に強く、深根性の樹種が選ばれる。
 また、有毒、不快な臭気、刺(とげ)、有害液などを出さないという環境衛生的な面や、剪定(せんてい)、整枝によく耐え、上長成長が早く、まっすぐな樹幹をなし、下枝がよくそろい、樹形が整然として優美であるといった美観の面も考慮される。専門的には、大量な育苗栽培が可能で、しかも移植が容易で活着後の生育のよいものが街路樹としての条件となる。
[林 弥栄]
『本間啓監修『世界と日本の街路樹』(1982・日本交通公社)』

★木馬(きうま)
積雪の少ない地方で夏季に用いる木材運搬用のそりの一種で、「きんま」ともいう。カシ、ミズメ、ケヤキ、ナラなどの硬木でつくった2本の親骨に3~5本の横木を取り付けた梯子(はしご)形のそりである。 ...

★木地屋(きじや)
木地の挽物(ひきもの)をつくる木地師の店。木地挽師・轆轤(ろくろ)師また轆轤屋ともいった。13世紀の鎌倉期には木工から分化していたようである。塗師などの漆塗職人の下職になる者や、挽物に簡単な色をつけたり漆を塗ったりしていた者もある。居職(いじょく)であり、ミズキ、シラカバ、トチ、ケヤキ、ホオノキなどを材料としていた。木地屋のなかには、木材に恵まれた各地の山村に集落をつくり、椀(わん)、盆、しゃくし、こけしなどの日常生活用具をつくっていた者も多かった。

★木地蝋塗(きじろぬり)
漆器の素地がもつ天然の木目模様の美しさを、そのまま生かす目的の漆塗り法。素材は木目のよく現れる木種を選び、ケヤキ、カエデ、トチなどがよく用いられる。素地の表面に透明な漆で下塗り、中塗り、上塗りの3工程を施し、さらに油の混入していない上塗り漆を塗り、磨いて仕上げる。漆を塗る前に、木地を砥石(といし)に水をつけながら研ぎ、かつ木目に錆(さび)を埋めて目止めして平滑な面をつくる。さらに、黄、赤などに着色する場合があり、漆を塗る前に着色をする。着色剤は、黄色の場合、梔子(くちなし)、黄檗(おうばく)、雌黄(しこう)、石黄(せきおう)、オーラミン、チオフラビンなど、紅色の場合、べんがら、洋紅、スカーレット、フクシなどを使用する。黄色に着色する漆器に春慶塗(しゅんけいぬり)などがよくみられるが、紅色に着色した古い遺例に、奈良時代の法隆寺や正倉院にある赤漆(せきしつ)があげられ、紅(べに)木地蝋ともいう。

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