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新・我歩我遊

~walkman・徒歩日記~

     

〔寄稿〕サー稼ぐぞ!「ヨーロッパ歌う大道芸人の旅」[2]

2007-02-26 | ◆ディーノ
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 その後、98年にもアムステルダム・ブリュッセル・ウィーン・ローマなどで大道芸人を行っている。
 こんな出たがり屋、目立ちたがり屋のオジサンの道楽を手助けして下さっている、朗読や楽譜点訳のボランティアの皆様には心から感謝したい。そんな旅の中で心に残る一言がある。ウィーンの大工の棟梁が、低音で囁いた。「おいドミンゴ、音楽で金を儲けようなんぞと思ってはいかんぞ。音楽はな、神様から賜った最も素晴らしい贈り物の1つだからな」
 さて、この夏の旅行では残念ながら歌えるのは私ひとりである。そこで今回は現地の大道芸人の方と共演することを思いついた。
 モナコのギターとマンドリンの若者たち。ウィーンのとっても暗いロシアのアコーデオン弾きとテノール歌手。ヴェネチアの流しのアコーディオン弾きのオジサン等と歌ったが、やはり大道芸人は観光地の花形である。陽気に明るくなくてはいけない。ヨーロッパの観光客は、ラテン系の人とアメリカ人が圧倒的に多い。オット、 日本人を忘れてはいけませんね。
 今回の旅で最も印象深かったのは、旅の最終地ローマのナボーナ広場である。空が暮れなずむ頃、アコーディオン・ギター・バイオリンなどの楽器の演奏やパントマイム・似顔絵書きなど、ここは大道芸人のルツボである。
 そんなレストランの1つで食事をしていると、ギター2本の伴奏でハイバリトンの素晴らしい歌声が聞こえてきた。お店に向かって歌い、お客様からリクエストも受けている。何曲か歌うと大きな輪のついた巾着を差し出した。チップが見えないように気を使っている。何とかこの人達と一緒に歌える機会を私は狙っていた。チャンスはすぐに訪れた。突然、激しい夕立が降り始めた。広場にいた人達は皆屋根のあるお店へ逃げ込む。もちろん、大道芸人たちもである。先ほどの歌手が私達の居るレストランへ雨宿りに来ているではないか!このチャンスを逃してはならぬと彼らに話し掛ける。おまえの名前はと聞くのでDino(ディーノ)だと答えると変な顔をしている。後で聞いた話だが何とこのオジサンの名前もディーノだったのである。
 これから日本から来たディーノと一緒にオー・ソレ・ミオを歌いますと紹介してくれる。屋根があるので、たいへん良く響く。肩を組んで気持ち良く歌わせてもらう。もちろん大きな拍手とブラボーやパバロッティ・セコンドとかマエストロ等と声を掛けてくれる。
 何と不思議なことに土砂降りが嘘のようにあがったではないか。私の太陽という訳にはいかないが雨上がりの空に八月十三夜の月が、ぽっかりと顔を出し広場を美しく照らしていた。
 来年の夏もヨーロッパの何処かで広場は劇場だを合言葉に歌っているだろう。大きな大きなボーシを前に置いて・・・・・・Dino 
 [ディーノ大いに歌う・完] [3月末に・でぃーの・作/創作民話「にこげしょう」を掲載します。お楽しみに。大いに歌う1話はカテゴリー・デイーノぼっくすからご覧ください]
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〔寄稿〕サー稼ぐぞ!「ヨーロッパ歌う大道芸人の旅」[1]

2007-02-21 | ◆ディーノ
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 ウィーン南駅からの夜行列車は、翌朝定刻通りヴェネチア、サンタ・ルチア駅に到着した。私たちは、荷物をホテルに置くとすぐにバポレット(水上バス)で サン・マルコ広場へと急いだ。歌う大道芸人としてイタリアでデビューするためである。今回の旅ではすでにハイデルベルク・ミュンヘン・ウィーンで歌っているが、歌の本場イタリアではさすがに緊張する。椿姫の乾杯の歌から始める。すぐに何重もの半円形の人垣が出来、最前列は地面に腰掛けて聞いてくれている。
 ヨーロッパ旅行の大好きな私は、この20年ほどイタリアを中心に小人数の旅を企画し友人の添乗員と共にテーマをもうけた旅を楽しんでいるが、ローマのスペイン階段を訪れる度に最上段のテラスから歌ったらどんなに気持が良いだろうと思っていた。
 92年の夏、思い切って友人と二重唱でオー ソレ ミオを歌い拍手喝采をもらった。
 旅から帰ると40の手習いで始めたチェロに替えて声楽のレッスンに通い始めた。歌う変なオジサンとしてヨーロッパでデビューするためである。
 その後、渡欧の度にカプリ島の青の洞窟・ポンペイのアレーナ・ミュンヘンのホーフブロイハウス・ウィーンのグリンチンク・ガルダ湖の遊覧船・ヴェネチアのラルト橋やゴンドラの上で1曲だけ歌い拍手をもらい喜んでいたが、94年にウィーンのシュテファン大寺院の前の広場で、無伴奏ではあったが帽子を前に置いて大道芸人をすることに話がまとまり、3曲だけ歌い帽子を持って路地へ逃げ込んだ。肥ったオバチャンが追いかけて来て、ダンケシェーンと言いながら20シリング札を帽子の中へ追加してくれた。
 帰国後、友人の押入れに30年近く眠っていた埃だらけのアコーディオンを拝借し、何時の日か歌う大道芸人として、ヨーロッパを旅するために練習を開始した。機会はわりと早く訪れた。歌の好きな友人たちとヴォーチェ・アプリートという会を結成し、毎年声楽のコンサートを開催しており、今年は7回目を数え会場も世紀末コンサートにふさわしく11月に御茶ノ水のカザルスホールに決まっている。その会員の1人で、カルチャーセンターでお年よりの合唱講座を受け持っている友人から受講生の研修旅行でウィーンの大工さんとその家族の混声合唱団との交流会と、ウィーン市立の老人ホームでのコンサートに歌の仲間2人と共に参加する誘いが舞い込んだ。96年の3月であった。
 ウィーンでのコンサートにだけ参加し、その前後は大道芸人をやろうと話がまとまったのである。早速、曲目を選び、大道芸人らしい衣装も作ることになった。しかし、弱視が1人で2人は全盲に近いのだ。2週間の旅は前途多難である。やむおえず、友人の添乗員にビデオ撮影を兼ねて 同行してもらう事となったのである。〈つづく〉
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