夏風邪をこじらせてしまい、長く気管支の調子が悪かった。そんなこともあり、体重はいつの間にか増え、脚の筋肉もだいぶ落ちてしまった。このままでは極めてまずいので、駅から歩いて取り付ける短めのコースとしてここを選んだ。一説には、武田氏と北条氏の戦での激しい矢の音がその由来とか。今回は、南尾根から取り付いたが、詳細地図等と現地の様子が少々異なっている箇所があった。
▼相模湖駅に降り立ったのは何年ぶりだろう。綺麗な駅になったが、駅前は閑散となった感じ。
駅のすぐ南側を東西に走る旧甲州街道に沿って西進する。
▼与瀬神社入口の鳥居が大きい。境内へは中央道を跨ぐ橋を進んだ先にあるようだ。
▼中央線の線路沿いの古い住宅街を進む。
▼道は右に曲がり、中央道の高架橋をくぐって、国道20号線に降りる。この後、国道の湾曲した先から沢の左岸に伸びる舗装山道を進む。
▼左岸から右岸に渡るのだが、その分岐がはっきりしなかったが、ここを左に下った。
▼貝沢という沢を越えて、反対側の斜面に取り付く。
▼南尾根コースで唯一見かけた道標。「ハイキングコース」といった感じの道では無かったな。
▼藪っぽい小道を進むと急にブロック塀にぶつかり、右の階段を上がると、与瀬の一里塚跡の標識があった。旧甲州街道は国道20号線辺りで寸断され、痕跡は残っていないようだが、ここに通づるようだ。
▼標識のあるあたりは、ちょっとした広場になっていた(おそらく道路公団がすぐ下の中央道建設時に使った用地跡)。眼下には相模湖が見えた。
その広場の辺りから尾根に取り付いて送電線にぶつかるのだが、旧街道に沿って進み、住宅が見えてくると、右に「79」と書かれた道標があり、その踏み跡を進み、墓地を越えると容易に79号鉄塔にぶつかる。
▼79号鉄塔。その奥は藪っぽいが古い赤リボンが見られた。
南尾根は所々、藪に覆われていたが、道形は比較的はっきりしていて、尾根を外さなければ大丈夫だろう。
▼途中のピークに「大久保山」の山名標が随分高い位置にあり。
この後、大久保山ピークからコルに降りる際に、太い樹木に巻かれた赤テープや白いプラスティック製の標柱(水源林を示すものや何も書かれていないものが多数あり)に惑わされ、東方の斜面を下ってしまった。程なくして、中央道を走る車の音が右に聞こえることから、方角間違えに気づき、来たルートを戻り、明瞭な踏み跡(尾根上ではなく少し東側にトラバースする感じ)を進み北上した。
▼東側斜面から階段を登って稜線に出る。ここがコル。
▼尾根上に現れた大きな露岩。岩を越えて進む。
山頂直下はやや急な登りだが、それほど長くは無かった。
▼山頂から、辿って来た踏み跡を振り返る。
▼山頂の山名標。吉野矢ノ音という名称が正式の様だ。標高633m。南尾根では誰にも会わなかったが、ピークで2人ほど見かけた。
山頂から与瀬方面を指した道標に従って降りたが、かなりの急坂。山頂は樹林に囲まれて展望が無いのでほとんどのハイカーは山頂を巻いて進むものと思われる。
▼巻き道との合流点の先にある大平小屋。無人の休憩場所になっていた。
平坦な縦走路が続き、退屈していたので、ピークを巻かずに進むことにした。
▼子孫山の頭
▼当初はこのまま与瀬神社に降りるつもりだったが、道が良すぎて変化に乏しいので、駅の東側に降りる道に変更して、この道標に従って降りることにした。
つづら折れの下りが続き、中央道の車の音が近づいてきたころ、大きな貯水槽のある舗装路に出た。詳細地図にはここから左に進むように書かれていたが、道が変わったようで、右に折れて、弧を描くように進み、ゲートを越えて、相模湖を南に見下ろす長閑な人家に出た。
▼相模湖南面の紅葉した山
▼中央道を越える。
▼中央線を越えて、奥に見える相模湖駅に戻った。
最後に、この山の呼称であるが、山岳書には「やのおと」と書かれているものが多かったのに対し、現地の道標等に記されたフリガナは「やのね」としているものが多かった。よって、ここでは併記することにした。