バリエーション山行同人

バリエーション山行を志向する登山者の集まり(主に、東京、神奈川、埼玉エリア在住の方向け)

南魚沼 金城山(2019.11.2)

2019-11-03 20:22:20 | 尾根

今年の10月の週末は雨天が多く、ほとんど山行が出来なかった。昨年の11月3連休は越後三山縦走を試みるも、まさかの降雪で八海山のみに縮小せざるを得なかった。今年、再挑戦を考えていたが、昨今の体調不良等を考慮して大幅変更し、同じ南魚沼地方の金城山に日帰りで登り、六日町で宿泊。翌朝に越後湯沢に移動し、飯士山の鋸尾根に臨むプランとした。いずれの山も標高は低いものの、峩々とした山容が気になっていた山だ。この際、2ついっぺんに片付けてしまおうと考えた。結果としては、飯士山には行かず、金城山のみで終わった。辿ったルートは一応、一般ルートで、バリエーションの範疇外とも思ったが、意外にも道が悪く難儀した。昨年辿った、八海山の屏風道に匹敵すると感じたので、執筆することにした。

朝1番の上越新幹線で越後湯沢を経由して、六日町駅に降り立つ。バスの乗り継ぎ時間がやや不安だったが、乗客私一人の野中行きのバスは8:25(午前中はこれ1本のみ。運行してくれるだけ有難い)に出発した。

▼8:40に宮村バス停に降り立つ。既に陽も高いが、東京朝発なので致し方ない。

 

街道沿いの小さな街並みを抜け、農道を辿って一人、登山口を目指す。途中、田んぼの中に作られた墓地の中に、「登山家之墓」と彫られた複数の墓石があるのに気が付いた。珍しい苗字の家だが、「とざん」と読むのだろうか、もしくは苗字らしく「とやま」とでも読むのだろうか? いずれにしろ、実際、登山をご趣味になさっていたのだろうかちょっと気になった。

▼麓からすっくと立った金城山の登山口を目指す。

 

▼右に数台の車が既に停まっている駐車場。登山道は左に伸びる道を進む。

 

▼その先すぐのところで、水無コースと滝入コースの分岐。今回、一応、「下山禁止」(八海山の屏風道と同じ)となっている水無コースを登り、反対側の観音コースへ降りる予定であった。

 

▼「水無」なのでいきなり尾根に取り付くのかと思ったが、小沢をいくつか横切りながら進む。最後の小沢を横切ると、胸突き八丁の急登が続いた。

 

道は急な登りと平坦でやや痩せた尾根が交互に現れる感じ。所々に「●合目」表示のポールや看板が設置されている。
平坦な尾根に乗ると樹林を脱することが多く、周囲の展望が望める。

▼黄葉が中心で、所々紅葉が混じる感じ。山の上部ではもう枯れかかった葉を多く見かけた。

 

▼五合目を通過(11:15)。ここでの合目表示は高度ではなく、距離換算でつけられているようだ。このコースは、写真に有るような大岩がとても多い。

 

▼この岩の先で道が無くなっているように見えたが、岩に沿って回り込むようになっていた。

 

▼岩の上に積もった濡れた枯れ葉が多く難儀させられる箇所が多い。ここは鎖はあるものの足元が悪いバンドをトラバースすることになった。

 

▼トラバース後に振り返ったところ。

 

▼九合目に到着。背後に、左から、八海山、駒ケ岳、中ノ岳が並ぶ。来年こそはオカメノゾキに行けるだろうか。

 

▼左には、魚野川沿岸の里が広がる。

 

▼金城山の最高地点。周囲は藪で囲まれており、山頂標は設置されなかったようだ。辺りは小さな湿地になっており、その奥に赤リボンがあり、イワキ頭や巻機山へと続く稜線の入口を示しているものと思われた。

 

▼最高地点からいったん下って登り返すと避難小屋に到着。入口は何枚もの板で覆われ、利用時は1枚ずつ板を外して入るようになっていた。板の隙間からドアノブを回してみるとドアは開いたので、冬でも避難小屋としての機能は維持しているようだ。

 

▼避難小屋を過ぎてすぐに、屹立する岩峰が目に飛び込んでくる。人が居るあそこが金城山の山頂として選ばれたようだ。

 

▼ズーム。

 

▼やっと「山頂」の到着(13:30)。さっきまで居た2人は下山したようだ。

 

▼「山頂」からは巻機山の雄姿に圧倒される。昨年車窓から眺めた時は雪を被っていたが、今年は全く雪は見られない。いずれ巻機山の裏側から登ってみたい。

 

山頂からはすぐに急な下降が始まる。ガレ場の縁を辿ったり、水場表記のある場所を通過。ここまででだいぶ時間がかかってしまったが、観音コースと滝入コースの分岐で逡巡。コースタイムは前者の2時間半に対し、後者は2時間。前者であれば最終バスには余裕がありすぎで、六日町に着くのがだいぶ遅くなってしまう。後者であれば、頑張れば何とか最終バスに間に合いそうだ。よって急遽、滝入コースに下降路を変更することにした。

▼観音・雲洞コースと大月・滝入コースの分岐

 

ここからも急下降が続くが、この日、履いていた靴がアプローチシューズで、山頂以来、爪先が痛くて仕方ない。そのうち、靴先を正面に向けて降り続けるのが困難になり始めた。また、道も沢沿いをトラバースしたり、藪に道が隠れた個所が多くなり、まったくペースが上がらない。そのうち闇夜が近づいてきて、最終バス(宮村17:17発)には間に合いそうもなくなってきた。

▼大滝。この下が二合目。

 

最後の渡渉点で明かり無しには進めない状況に陥ったが、何とか登山口に戻った(17:30)。しかしこの頃には爪先の痛みがひどく、普通には歩けない状態になってしまった。こんな状況では、翌日の飯士山は難しいと判断し、断念することにした。
里に下りて、少し街道を下り、五十沢温泉入口の看板辺りからタクシーを呼んだ。このまま帰京するのも何なので、六日町駅付近で日帰り入浴できる施設がないか聞いたところ、「湯らりあ」を勧められたのでそこに向かってもらう(2,640円)。

「湯らりあ」では愛想のよい奥さんが受付をしており、入浴料は400円。石鹸などは別料金というシステム。受付の方からは「湯が熱いので気を付けて」と言われ、恐る恐る湯船に足をつけると相当な熱さだ。45度くらいはあるのではないか(源泉は52.9度との表示あり)。仕方ないので、水道でうめはじめたところ、他のお客さんから「皆、家に風呂があるのに、この熱い湯を求めて来ているのだから、あまり水を出さないでほしい」と注意を受けてしまった。全くその通りで、水道のそばにも「水を多く出すと効能が弱まり、また湯量が少ないのでまた温度を上げるのに時間がかかってしまう」旨の注意書きが書かれていた。しかし、水道のおかげで、少しだけだったが熱い湯に身を沈めることができたのは良かった。

湯から出たのは19時半ごろ。ラグビーW杯の決勝が行われている最中だった。こんな時間でも東京に戻れるのは新幹線のおかげ。いろいろあった南魚沼日帰り山行であったが、越後三山を含め、また来年来てみたい。この後、六日町駅19:50発で越後湯沢に向かい、20:25発の新幹線で帰京した。

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山梨 相模川水系 葛野川 釜入沢(2019.10.5)

2019-10-12 20:50:30 | 

本当は、6月15日に行くつもりであった沢だが、その後、3、4回も順延の憂き目にあい、10月にようやく実現にこぎつけた因縁の沢である。

中央道を大月ICで降り、大月市街に戻って、岩殿山の東を回って、葛野川に沿った国道139号を遡る。深城(ふかしろ)ダムの駐車場を使わせてもらって、スタート(8:50)。

 

▼国道を少し戻り、2つ目の橋の袂の階段を進む。右下の釜入沢は深く切れ込んでいて谷が深い。

 

階段を上がると踏み跡が2つに分かれるが、沢に並行した水平道の方を進む。

 

▼残置された長い長いロープを使って河床を目指す。足元が不安定で、川近くは特に崩れやすく、ある意味、今回の核心部だった。

 

▼二俣が2つあり、間違えやすいが何れも左俣を行けばよい。

 

▼メインの3段の滝。一見厳しそうだが、順層の安定した岩棚から滝が構成されているため、意外と楽に直登できるが、安全のため、ロープを念のため出した。

 

▼水量は多くは無かったが、それでも少し濡れた。

 

源頭部は、岩塊からすだれ状に岩清水が染み出す感じの良い雰囲気の場所だった。源頭を詰めると稜線の林道に出るものと思っていたが、踏み跡が左上していてそれを辿ると、林業関係者の作業道と思われる水平道を進むことになる。しばらくすると、南西方向に降りる長い支尾根に出た(そのまま右方向に進むと奈良倉山の稜線に出そうだ)。ここからは地形図を頼りに南西尾根を下る。途中1箇所右に折れるほかは、ほぼ顕著な尾根上を進めばよい。尾根の末端に近づくにつれ、国道を走る車の音が近づいてきた。最後まで尾根を辿ってしまうと国道に降りられなくなるので、登る際に辿った階段上に出るように左側の斜面を降りると程なく深城ダムが見え、国道に難なく降りることができた(13:50)。

その後、松姫トンネルを越えて、小菅の湯(750円)で汗を流し、再び大月市街に戻って念願の沢旅を終えた。
登れる小滝が多く、意外に楽しめた沢であった。お勧め。

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妙義 星穴岳 昭和45年2月の遭難について

2019-09-08 17:44:54 | その他

妙義の妙義湖(中木湖)の上流、星穴沢橋付近に慰霊碑がある。これまで行く度に手を合わせるようにしてきた。周囲は掃除がされていることもあり、供花の跡も見られることがあった。この遭難があったのは、昭和45年(1970年)2月。相当古いこともあって、その詳細についてサイトや雑誌等で語られることも多くはなく、いくつかの疑問を持ちながら時が過ぎていた。この度、地元紙の上毛新聞の当時の記事を探索したので、この遭難について概略を整理したい。

(注)本件は、昭和45年2月13日(金)、14日(土)の上毛新聞の社会面(第7面)をもとにしている。同年2月末日までの同紙記事をサーベイしたが、続報は見当たらなかった。同年3月以降、続報記事があるかもしれないが、その情報については未反映であることを明記しておく。

 

(1) 遭難した女子高生2名(二年生)は、星穴新道を登り遭難したことを受け、星穴新道は登山禁止になったと思っていたが、2名の辿ったコースは違うようだ。

  • 昭和45年2月11日13時20分頃、妙義湖から上に2kmの山林で仕事をしていた農家の方が、この2人と思われるパーティーから「相馬岳に行く道はどこか?」「遅いからよしなさい」との会話を行なったとの証言があったとのことである。これが正しいとすると、2人は見晴を経由してまず相馬岳を目指したことになる。
  • 2人の遺体が発見された(同年2月13日正午)のはそれぞれ別の場所で、星穴岳の頂上部から100m近く下の、それぞれ北面、南面であった。同紙では、「足取りから2人は妙義湖から白雲岳頂上の相馬岳からバラ尾根に向かおうとしたが、道に迷い登山道の無いけわしい星穴にはいり転落したものらしい。2人が別々のところで転落死していたのは1人が落ちたあと救助を求めて1人が"迷路"にはいり転落したのではないかと関係者はみている」と記されている。
  • 前述の通り、登山開始が時間的に遅いことから、日帰りを前提とするのであれば、相馬岳、バラ尾根の後は、女坂を下るのが順当と思われる。もし薄暮の中、道に迷って、鷹戻しの登りに気づかずに通過することはちょっと考えられない(2人は妙義は3回目とのこと)。よって、女坂を下る計画が、道に迷って中ノ岳方面に縦走したのではなく、意思を持って中ノ岳へ向かった公算が高いと思われる。相馬岳への登りでペースよく進み、女坂分岐で思い切って縦走に切り替え、中之岳神社への下山を目指したのだろうか。私の推測では、相馬岳から中ノ岳方面への縦走は当初計画通り。その後、中之岳神社への分岐を薄暮もしくは暗闇の中で見逃し、西岳を経て星穴岳に至り、彷徨したと考える。
  • 北面で発見された1人の遺体は同年2月13日14時半、星穴沢橋に降ろされて検視。一方、南面で発見されたもう1人の遺体は同日14時頃、中之岳神社に降ろされ検視を受けたとのことである。なお、同紙の同年2月14日の記事では、北面に転落した1人の遺体収容に関する箇所で「遺体収容作業は13日正午過ぎから始まったが、松井田山岳会員がまず遺体を下の金洞沢におろし、これを自衛隊員の手で金洞沢から星穴沢へと、2人で元気に登ったルートを無言で帰還した」とあり、「2人は登ったルート」について同じ記事内で矛盾を感じさせる記述があった。
  • 果たして、2人は相馬岳にまず登ったのか、星穴沢を遡行したのか? ただ、(記事を参照させてもらったのに恐縮だが)この上毛新聞の記事を書いた記者の正確さにやや疑問を感じるところがある。記事中には「遭難現場」の概念図が付けられているのだが、金洞山と金鶏山を結ぶ稜線上に「鷹もどし」と記され、さらにその稜線上を妙義町から四ツ家に至る車道が越えているように描かれているなど、同記者の地理的理解にやや疑問符が付くように感じた。以上を勘案すると上述の「相馬岳に行く道はどこか」との証言の方に信憑性を感じる。もちろん、その会話の後、急遽計画を変更して星穴沢に転進した可能性もゼロではないが。。。
  • 巷では、「当時、登山地図にも一般道として記された星穴新道が実際にはあまりに危険なため、星穴新道を登路に採ったこの遭難事件を機に廃道となった」と記されるケースを見るが、正確には「この遭難事件を機に、星穴新道を含む星穴岳に至る周辺登山道がすべて登山禁止の措置が採られた」と理解するのが良いと思う。
  • さらに踏み込んで言わせてもらえれば、もし遺体発見現場が星穴岳直下ではなく、例えば、鷹戻し付近での事故で有ったなら、星穴岳の登山禁止措置は(少なくともすぐには)採られなかったのではないかと想像するが如何に。

(2) 遭難した2人は群馬県立藤岡女子高校の山岳同好会に所属していたが、この遭難事件の際は、同校の部活動とは関係のない、会員2名による個人山行での事故であった。

  • 特に北面に転落した1人は同年2月7日、同校山岳同好会の前顧問の教諭に「妙義に半日で行けますか?」「無理だよ」との会話をしている。さらにこの彼女は「ゆくゆくは会長に推薦されるほどの信頼を会員から受けていた」とのことである。また「2人とも山が好きで、1年のときは八方尾根、昨年は八ヶ岳と山岳部の計画にはほとんど参加」とある。
  • 北面に転落した1人は、「同年2月11日、同校で行なわれた簿記の試験を受けて10時ごろから同校を出発」し、南面に転落した1人は、「自宅から9:45(筆者注:八高線群馬藤岡駅か)の列車に乗り待ち合わせたらしい」
  • 「食料はサンドウィッチ、せんべいなど2食分ぐらいしか持って行かなかった」とあり、「家族、学校に登山計画を知らせていないため、はっきりした登山コースはつかめていない」と、捜索開始を伝える同紙の同年2月13日の記事は伝えている。
  • 私は当初、「低山とは言え、2月の表妙義に高校山岳部員を連れて山行を決行した同校顧問」といった図式で本件を捉えていたが、まったくの個人山行であることを今回、理解することができた。


▼星穴沢橋付近の看板。奥に進むと、女坂や星穴新道に至る。

 

▼改めて、合掌。

 

最後に、参照させていただいた上毛新聞の本件記事の見出しを列記させていただきたい。

【昭和45年2月13日(金)第7面】

  • 女高生二人帰らず 妙義山
  • 登山コース知らせず
  • 軽装のまま入山
  • 難航する捜索
  • あわただしい藤女

【昭和45年2月14日(土)第7面】

  • 警告振り切り死の"迷路"へ
  • 甘くない妙義登山
  • もろい岩はだ露出
  • 「一般向き」の宣伝アダ
  • 妙義山遭難の女子高生  二人とも絶壁から転落死
  • "まさかあの難所に"
  • 山男も恐れる「星穴」
  • 禁止していた冬山登山  徹底しない県教委通達
  • 泣きすがる遺族
  • 悲報にガックリ
  • 藤女 授業も打ち切る

 

 

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奥多摩 海沢川(2019.8.17)

2019-08-18 08:10:45 | 

酷暑が続いている。こんな状態で本当に来年、国際大会を安全に終えられるのか心配になってきた。こんな日は、水量多めの沢に行って、「体を芯から冷やしたい」そんな気持ちになった。当初、「泳ぎ系」の水根谷沢に行く案もあったが、今回まだ行ったことのない海沢川に行くことにした。

▼初めて降りた青梅線白丸駅(7:34)。長い階段を下りて青梅街道に出るが、階段下周辺には駅を表す看板などが見当たらず、地元民向けの駅という感じ。一方、駅の改札とは反対側には最新のトイレが完備。

 

▼青梅街道を少し登り、多摩川本流を渡り、右岸の遊歩道経由で海沢を目指す。

 

この後、海沢を目指すが、多摩川右岸にできた城山トンネル周辺の開発の影響か、地図との対応が付かないことが多く、少々右往左往した。とりあえずキャンプ施設「アメリカ村」の看板を頼りに、舗装林道を進む。白丸駅から40分ほどで着くものと思っていたが、意外に長い登りが続き、1時間以上を要した。

▼やっと着いた海沢園地。東屋やトイレ(臭)がある。辺りはキャニオニングに来た方々のワゴン車が多数駐車。


▼入渓してすぐ現れた三ツ釜の滝。左壁の水線辺りを攻めて登る。すぐ脇を登山道が通りギャラリー多数。

 

▼ネジレノ滝。既にキャニオニングツアーの方によって固定ロープが張られて、釜へのジャンプ場と化していた。
奥の滝は下から見る限り登れそうになく、右岸の泥坂を登って大きく巻く(赤テープ、虎ロープあり)。

 

▼大滝。ここも傍に登山道が通っておりカメラマンが数人。

 

▼少し際どい水平道を辿って、不動滝と岩茸石沢から落ちる線状滝の出合を上から見下ろす。

 

▼この後、岩茸石沢を横断し、不動滝の上に懸垂下降で降りる。

 

▼いくつかの小滝を通過し、二俣を左にとり、核心の枠木大滝を目指す。枠木大滝の右岸にある左上して伸びる岩のフレークを利用して巻き、滝の落口を目指して、微妙なラインを水平にトラバース。途中、複数のスリングを連結させて、空中にぶら下がって着地し、落口に到達。途中、支点となる樹木や残置ハーケン&スリングあり。

 

▼枠木大滝の上に最後の懸垂下降。核心部を越えたことでここで遡行終了とした。

 

▼上方に見えたモノレール軌道を目指して急坂を登り、後は軌道に沿って海沢園地に戻る。踏み跡は明確だが、不安定な急傾斜や不安定な足元が所々あった。

 

しばらくして、人の声が大きくなり、左下を見ると三ツ釜の滝が見えたので、軌道から離れ、河原に降り、登ってきた登山道に無事合流し、ほどなく海沢園地に到着。遡行終了時から30分ほどで到着した。

その後、長い舗装林道を下り(登ってくるサイクリスト多数)、海沢大橋を渡り、奥多摩駅を目指した。多摩川本流の河原もキャンパーたちでいっぱいだ。もえぎの湯に寄るが待ち客多数のため入浴を断念し、奥多摩駅(16:05発)から帰京した。

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南ア 日向八丁尾根、鋸岳(2019.8.9-11)

2019-08-12 12:16:10 | 尾根

昔、初めて甲斐駒から鋸岳に縦走したとき、六合石室を早朝に出発してしばらくして尾根の山梨県側に伸びる踏み跡を進んだところ道を失いかけたことがあった。磁針で方向を見定め、しばらく藪をこいだところ、ひょっこり登山道に出たことがあった。これが八丁尾根の烏帽子岳から三ツ頭の稜線との出会いであった。日向山から続く日向八丁尾根は「風雪のビヴァーク」にも出てくる(冬の記録だが)ので、以前から知ってはいた。それが最近、有志による整備が進んだとのことが今回行くきっかけになった。実際、「山と高原地図」が今年改訂されたが、従来、登山道の表記の無かった大岩山から西の部分に赤い破線が加わるようになった。

今回、計画を立てるにあたって留意したのは持参する水の量で有った。昨今の下界の猛暑を考慮すると2,500m前後とは言え、それなりに暑いだろう。増して、盛夏の単独縦走が久々の私にとっては、暑さに耐えられるかが心配で、結局、7リットルの水を担ぐことにした。また行程も日向八丁尾根を踏破して三ツ頭から鋸岳方面に向かうことを基本にするものの、場合によっては中ノ川乗越からの下山、もしくは小屋の多い甲斐駒ヶ岳方面へのエスケープも念頭に置いて今回臨むことにした。

 

いつものように、中央線の初電を乗り継ぎ、朝7:18に長坂駅に到着。この駅と隣の日野春辺りから見る甲斐駒ヶ岳の姿にはいつも目を奪われる。

▼今回初めて降り立った長坂駅。北杜市の中心駅とされるが無人駅。

 

予約したタクシーで日向山登山口の矢立石へ(4,960円)。

▼8:00ごろ、矢立石登山口を出発。「10-1」から順次道標に番号が降ってあり、「10-9」が雨量計、「10-10」が雁ケ原(最近は三角点位置ではなくここを山頂と見なすようだ)であった。

 

標高は既に1,000m以上あるので、下界より涼しいのだが、重荷と体力低下もあり、最初から全然ペースが上がらない。軽装のハイカー数組に抜かれるのは良いとしても、標準コースタイムすら難しいペース。登っているときはとにかく暑くて、塩飴をなめ、長ズボンの裾をまくり上げ、Tシャツも半袖に代えた。

▼日向山の雁ケ原に到着。この時点で既に2時間を要している(標準は1:35)。ここまで4、5組のハイカー(ほとんどがカップル)を目にしたが、これ以後は人の姿を見なくなる。ここから右の森へ歩みを進める。中央は甲斐駒ヶ岳。

 

▼破線ルートではあるが、踏み跡もはっきりしているし、道標もある。問題は歩みの遅い私の脚。15分に1回は休んで体を冷やさないときつい。

 

▼途中の千段刈付近の唐松林では熊の爪痕?のようなものを見かけた。

 

この後、日向山を出てから初めての人に会う。聞くと、今朝、竹宇から黒戸尾根を登り、ワンデー周回するのだそう。おそらく涼しい未明から登り始めたのだろうが、私とは「生物としての種」が異なるような気がしてならない。なぜそんなに小さなザックで(おそらく)そんなに少ない水量で長躯踏破できるのか。「十分な装備で安全登山を」と若い頃教えられてきた「常識」がトレランの方々の前ではいつも崩れ落ちる感覚を覚える。なお、当のトレラン氏が言うには、大岩山の登路が80度くらいの急傾斜でほとんどぶら下がらないと登れなかったらしい。「荷物が重そうな貴方は注意してほしい」との忠告をこのとき受けた。

大岩山まではほぼ展望がない樹林帯の道であった。しかし、却って日射が無くてよかったかもしれない。急な登り降りは比較的少なかったが、それでも相変わらずペースは上がらず、休むたびにどんどん水が消費されていく。

▼大岩山に16:15に到着。本当はもう少し、烏帽子岳方面に行きたかったが、大岩山からの急降下が心配だったので、山頂脇の小スペースにテントを張らしてもらう。この日、夕立が18:00ごろ少しあったが、結局、この山行中、雨に遭ったのはこの時のみ。テントの奥に山名標。夕食は水節約のため、フリーズドライ中心。

 

翌朝は5:00出発。さあ、今日はどこまで行けるか。三ツ頭か中ノ川乗越でどうするかを考えることにした。
大岩山から少し緩傾斜の道が続いた先、急にロープ、鎖、黄色の樹脂製のロープ、梯子が連続して現れる地帯に入った。まあ急ではあったが、比較的短い区間であったし、昨日のトレラン氏が言うほど困難な区間ではなかった。むしろ、重荷を担いだ逆コースの方が(少なくとも私の場合)難儀したかもしれない。岩場の急降下を想像していたが、実際は樹林の中の泥壁の急斜面にロープ等が張られていた感じであった。

▼縦横無尽に張られた樹脂製ロープ(黄色)

 

▼鞍部に降り立って振り返ったところ。確かに急傾斜だ。この区間、ブリキ製の薄板を赤く塗装して幹に巻き付けた形の道標を多く見かけた(途中、ブリキ板巻きやスプレー缶の置き場もあった。整備途上か)。

 

▼鞍部を越えて少し進んだ先にあった幕営適地

 

▼烏帽子岳への登りの少し手前にも、もう1つ幕営適地があった。

 

▼徐々に標高が上がり、展望が利くようになる。坊主岩を根に張った甲斐駒ヶ岳。

 

▼右には鋸岳。左の鞍部から順に中ノ川乗越、第2高点、大ギャップ、第3高点、小ギャップ、第1高点。
この方向から見ると大ギャップの切れ込みの鋭さがよく分かるとともに、山梨県側は意外に山頂付近まで緑が多いなと感じた。

 

▼さらに右に目をやると編笠山。」その右奥には穂高、槍の連なり。

 

▼だんだん烏帽子岳に至る稜線(約300mの登り)がちかづいてきた。左は甲斐駒ヶ岳。

 

烏帽子岳の登りに入ると道は段々荒れ、険しくなってきた。樹高も低くなり、アルプスらしい景観になってきた。

▼小はしごの先にあった岩小屋。

 

▼樹林帯を完全に抜け、甲斐駒ヶ岳に正対する。

 

▼辿りし樹林帯の尾根を振り返る。左は大岩山。

 

▼北岳、間ノ岳、塩見岳のシルエット。手前は双児山から駒津峰の稜線。

 

▼烏帽子岳にようやく到着。右に仙丈岳。手前に同じようなピークがあり、一瞬騙される。手前のピークにも文字は確認できなかったが古そうな鍵穴形の石碑が立っていた。

 

▼三ツ頭に合流。迷わず、鋸岳方面へ。この手前で、やはり黒戸尾根を登ってきたというトレラン氏に会う。「ホントは鋸岳に行きたいんだけど時間がなくて」と言っていた。

 

この後は1度歩いたことがある経路になるが、意外に、熊ノ穴沢頭の通過が険しく感じた。中ノ川乗越に降りる道も一部崩壊しており(補修あり)、ほとんど人と行き交うことのない縦走路を行く単独行として慎重に通過を余儀なくされた。

▼中ノ川乗越。この時点で、既に11時を過ぎている。このままでは戸台大橋からの最終バスには間に合いそうもない。そもそもペースが上がらないし、気が急いて行くのも良くないので、予定を1日延長して、もう1泊することにした。ここでも携帯電波は圏外だし、このまま熊ノ穴沢を下って戸台川に出ても当分圏外のままだろう。このため、第2高点に上がって、家族友人にもう1泊する旨連絡を入れることにした。

 

▼第2高点へ登るザレ場上部から振り返ると左に辿りし烏帽子岳の双子峰が見えた。

 

▼無人の鋸岳第2高点。携帯電波は山梨県側に向くとNGだったが、長野県側に向くと安定しないものの3本アンテナが立ち、通話できた(メール送信は不安定で出来なかった)。


▼第3高点と雲に隠れつつある第1高点。冬はこの稜線を辿ることになるが、夏は左(長野県)側の山腹を進み、鹿穴をくぐって山梨県側に出る。

 

▼大ギャップを見上げる。ここから落ちるルンゼの浮石は誰がどうやっても落石を発生させずに通過することは極めて難しい。周囲に一切の人影無し。

 

▼ルンゼ下部を横断する。

 

▼今度は正面のルンゼを登るが、前回の時より崩壊が進んでいるように感じ、意外に苦労。「こんなはずじゃない」と思いながらⅢ級程度はあろうかという岩壁をトラバースしたり、直登した。周囲に人がいないことを良いことに、不安定要因の浮石を落とさせてもらいながら慎重に歩みを続ける。登りながら、「到底、重荷を背負ってここを下るのは困難ではないか」と感じたが、後で考えると左側の草付きにもっと明瞭な踏み跡が有ったかもしれない。

 

▼草付き上部との合流地点にあった赤布。鹿窓から落ちる長い鎖に到達するまでは気が抜けない。一人だし。

 

▼鹿穴が近づいてきた。長い鎖の末端に結び目を付け、簡易的に体に巻き付けたスリング先のカラビナを鎖に通りて万一に備えて凹状岩壁を登る。

 

▼鹿窓の手前から下を振り返って見下ろす。もしここで落ちたら、「涼しくなるまで」発見されないだろうな、なんて考えた。

 

▼鹿窓を越えて山梨県側に入り、小ギャップを鎖で越える。もし現地に来て、鎖が外れていたらどうしようと考えたりした。

 

▼第1高点を越え、角兵衛沢を見下ろす。この時点で既に15:00。

 

この後、角兵衛沢の大岩下の岩小屋(岩から滴る水場あり)に17:00頃着けるだろう。1度下ったことあるし、、、と考えていた。しかし、手元の高度計で標高2,000m付近になってもそれらしい景色になってこない。どうも変だなと思った時は既に遅かった。どうも沢の中州に相当する樹林の右側を降りてきたようで、左側の岩壁が目に入らなかったようだ。「今頃、冷たい水を堪能しながら寝転がっていたのに」という不満が頭をよぎりながら、夕闇の時間との戦いで(登り返すのは止め)先に進むことにした。だいぶあたりが暗くなったころ、18時半過ぎであったろうか、小沢を横切る地点(標高1,500mちょっと?)で水が沸く音を耳にした。行ってみると、大岩の下あたりから苔を通じて水か湧き出ているではないか。周囲を探索するもそれらしい幕営適地は無かったため、やむを得ず、登山道上に幕営させてもらった(19:00)。標高も下がり、暑さを感じるくらいだったので、シュラフなしでこの夜は就寝した(あまりよく眠れなかった)。

大岩下の岩小屋を過ぎてしまったが、その分、戸台大橋のバス第1便(7:55発)に間に合う可能性が出てきた。しかし、ここからでも4時間は掛かりそうなため、少し余裕をもって、まだ闇夜の3:40に出発した。ライトを点けて赤リボンを確認しながらの下降であった。荷物を置いての偵察も数度あったが、ちょうどよい距離間で何とか正規の道を確認しながら下ることができた。

戸台川の川音が最高潮に達した時、向こうの方にライトの明かりが見えた。人が近づいてきたので挨拶し、渡渉点を伺う(まだ4:30で周囲の様子もよく分からず)。靴を脱いで渡渉し、戸台川左岸の道を進む。戸台川の道は河原歩きに終始するように思われがちだが、ちょっとした高巻きやへつりもあり、変化に富んでいる。何度も通ったことのある河原だが、いつ来ても長く辛い道だ。これまでの山中と違い、登ってくるハイカーが続々現れる。皆さん、お疲れ様です。

▼河原でよく見かけた花。多くの群落を形成していた。

 

▼戸台河原の駐車場に到着(6:30)。道標もリニューアルされていた。

 

▼戸台大橋に到着(7:10)。7:55発のバスを待つ間、ゲート管理のおばさんと話し込む。来たバスはほぼ満員で1人乗せてもらうのがやっとであった(300円+荷物代150円)。

 

このあと、バス終点の仙流荘に行くが、外来入浴は9:30からとのこと(普段は10:00)。既に日差しは強く、下界のそれと同じ感を呈していたので、8:46発の循環バスで高遠を経て、伊那市駅、岡谷駅を経由して帰京した。

 

 

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