いのちの煌めき

誰にだって唯一無二の物語がある。私の心に残る人々と猫の覚え書き。

食生活を見つめなおして

2024-09-03 19:17:00 | 日記
しばらく更新出来ない日が続いていました。更新しなくても、特段の不都合はないとも思っていました。
そんなブログでも訪ねて下さる方がいてコメントまで残して下さり、驚くと同時にとても感謝しています。

今日は更新しなかった間にあった印象的な出来事と、そこから自分が考えたこと感じたことを書いてみようかな…と思います。

ちょうど1ヶ月くらい前、父と母の通院介助に行きました。いつもの事ですが、とても大変でした。
早朝から用意して、実家までお迎えに行き、朝一の総合病院へ父を伴います。父には少し認知症の症状が出始めています。脳外科と内科、それぞれに待ち時間は長いです。
診察後、急いで両親のお昼ご飯を調達し、実家へ帰宅。
私はお菓子とコーヒーをサクッと食べて、灼熱の大暑の中へ。
病院へ行く日はヘルパーさんが来ないので、私が買い物に行きます。母の買い物は難しい。
「何、買ってきて欲しいの?」と聞いても、「適当に私の好きそうな物、買ってきて」と言います。だからといって、本当に適当な物を買って帰ったら不機嫌です。
母の喜びそうなものをアレコレ見繕って買い物しなければなりません。それだけでも、相当な脳内疲労です。
大量の商品を車に積み込んだ後は、もう滝汗。それから実家に戻り、買った物を冷蔵庫や戸棚へ。その後、トイレや洗面台など汚れの気になるところを大急ぎで掃除し終わった頃には、そろそろ午後の診察が始まる時間です。

整形外科へ母の送迎、その後、別の内科医院への送迎。父は手引きで歩けますが、母は車椅子介助が必要です。
最後の内科医院の駐車場で母を車から車椅子に移動させる時、私の移動介助の方法が気に入らないと母が「チッ」と舌打ちしたのを聞いて私、もう我慢の限界でした。「自分がイラだったからって舌打ちするなんて最低!もう、いい加減にして!」とブチ切れました。

話しは少し変わりますが、私のダイエットは継続中です。そろそろ50日目になりますが、今のところ成果は−4キロ、まずまずの滑り出しです。
ダイエットアプリ「あすけん」では栄養指導が伴います。指導通りに食事を調整していくと体質改善されてきた実感も得られています。
私も甘い物への執着心が殆どなくなり、食事の味付けも薄味になってきました。ジャンクな食べ物も食べたいと思わなくなり、野菜や海藻、キノコなどの副菜の量が格段に増え、外食やお惣菜より自炊したものを食べたいと思うようになっています。
「食べることは生きること」という言葉がありますが、私は今回のダイエットを通して、まさにこの言葉を噛み締めています。
食事は私たちの健康の土台となるものですが、食事を通していかに健康を保つかということは命を育むことそのものだと思うのです。そして食事は単に栄養やエネルギーを補うことに留まらず、もっと奥深いものを私たちにもたらしてくれるもの。人の記憶や生きるうえでの心の姿勢などは、すべて食べることと深く関わっているのではないかと考えるようになりました。
食事によって人生は豊かにも、乏しくもなり得るものではないだろうか、と。

そして自分と自分の家族の過去を振り返った時、母の食生活の激しい乱れに思い至りました。母は昔から物凄い偏食家なのです。甘い菓子パンやケーキ、お饅頭やチョコレート、そんな物を食事の代わりにしています。魚は大嫌いで、肉も決まったものしか食べません。野菜もほとんど食べないし、果物はカットされていれば少しは食べます。そういう食生活を何十年も続けてきて、健康にいられるはずはありません。身体中に痛みを抱え、いつも不機嫌な顔をしています。それは、最近の事ではなく、わたしが物心ついた頃からそうでした。私の記憶の中の母は物凄い肥満体で、眉間にシワをよせ、いつも怒っていました。
当時は何もわからなかったけれど、それでも「どうして、うちのお母さんはいつも怒っているんだろう」と思っていました。
でも今はわかります、母には根本的にあらゆる栄養素が足りていなかったのだということが。それは、今も昔も変わらない、母の有り様なのです。栄養が足りない母は、いつも足りない何かを埋め合わせようと、甘いパンやお菓子を貪っていたのだと思います。でもそれらの物では決して、心も身体も満たせなかったのでしょう。

食べることは生きること、私はこの言葉を胸に今を大切に生きていこうと思っています。



お家で散歩

2024-07-28 22:51:00 | 日記
Google mapで遊んだ。

私は引っ越しが多い子ども時代を送った。

今のようにLINEやSNSで繋がることの出来ない時代、離ればなれになった友達とは、文通で繋がるしかなかった。
数年間はやり取りが続いても、次第に関係は途絶えていった。私の住所が次々と変わるため、音信不通になってしまったのか。または私の側が、新しい地で新たな人間関係を作ることに熱心になったからか。いずれにせよ、先の地の友人達とは、だんだん疎遠になった。

齢60にして、ふと立ち止まった時、幼い頃に遊んだ友達は、今の私にはもう誰もいない。

子どもの頃は、子ども時代にどんな意味があるのかもわからなかったけれど、子ども時代の原風景って、人格形成にものすごく重要なものだったっな…って思う。

もう簡単には訪ねては行けない距離の所にある、かつて住んでいた家や遊びに行った友達の家、通った小学校への通学路など、Google mapのストリートビューで辿ってみた。
なんだか懐かしさで、胸いっぱいに込み上げてくるものがある。

つらいことも多かった子ども時代だけど、春にはレンゲの花で埋め尽くされる田んぼの中で首飾りを作り、夏には学校プールに通い、秋には季節の果物狩りをした、冬はそんなに寒くなくて、一年中暖かい日差しと綺麗な夕日が私を包みこみ慰めた。
自然には、人を育む大きな力があると思う。そういう場所で子ども時代を過ごせた私は幸せだった。

幼馴染とは疎遠になってしまったけれど、幸い心許せる友達は今、私にもちゃんといる。

暑い夏の一日、私は一人で思い出探しの旅をした。


ダイエット10日目

2024-07-25 23:38:00 | 日記
最近、栄養バランスが整ってきたおかげで、心身の不調が改善してきたように思う。

ダイエット前には、何事もないのにイライラしたり、妙な不安感に囚われたり、そのせいで、いつも何か気を紛らわせるものが必要だった。例えばテレビとか、ラジオとか、あるいは甘い物とか。
あっ、、テレビやラジオの利用者を否定的に捉えているわけではありませんよ。あくまでも、ここ数ヶ月間の私の状態が…という話しです。

ところが、今は何も必要としなくなっています。むしろ、静寂が心地良い。静かな部屋で一人でいると、自分を見つめなおす時間が出来ます。

「シンプルに生きる」という以前の記事の続き。

私も含め現代人の多くは、概ね長時間働いて、子供のため、家族のためにと、色んな物を買おうとしている。
家、車、洋服、習い事、おもちゃ、etc…
私達は、物をたくさん買うことで、幸せを得られると思っています。一生懸命働いて、たくさんの収入を得れば、それだけ多くの物を買うことが出来ます。
だけどそれは、もしかしたらマイナスの罠にハマっている姿かもしれません。
子供の物を買うために、必死に働いて、子供と過ごす時間がなくなり、罪悪感を感じ、さらに物を買って、埋め合わせをしようとする。
本当に子供が欲していることは、「さみしい」「誰か、一緒に遊んで」という気持ちかもしれないのに。

でも多くの大人達は「ちょっと待って」と言いながら、「仕事しないと、おまえに物を買ってあげられない」と自分の行動を正当化しています。
物のせいで、まともな生活ができなくなっている。振り返るとそういう事が、かつて私にもありました。

私は極端なミニマリストに、なりたいわけではありません。でも、ミニマリズムの考え方は、少ない物を持つことにすれば、いろいろな体験をする余裕が生まれる、というものだそうです。
では、今あるたくさんの物を手放すには、どうすればいいのでしょう。

使うか、捨てる。

本当にそれを使っているのなら、持ち続ければいい。でも、もし使っていないなら、持っていないことと同じです。
その本質的には持っていないもののために、毎日、時間やお金、スペースや人間関係を失っていることになります。

ものを捨てるコツは、とにかくやり始める、捨て始めることです。
今の私は体重が増えすぎて困っています。あれこれ…数年間で、ここまで太りました。
何年もかかってためこんだ物品を週末に全部捨てようとするのは、無理な話しです。
でも1日10分の片付けなら、現実的です。
毎朝10分間、一箇所だけ片付けをしようと決める。
ダイエットも同じです。
私も毎朝10分間のエクササイズなら出来そうです。
物があると集中できないのです。私の場合は、テレビやラジオも、そういう類いのものでした。


ルッキズムに思うこと

2024-07-23 11:16:00 | 日記
ルッキズムとは、人を見た目で判断し、差別的な言動をすることで、外見至上主義とも言われます。

デリカシーのない人というのは、たいていどこにでもいるもので「見た目をイジるのはNG」という風潮がなんとなく広まってきた昨今でも、体型や顔について、ぽろっとデリカシーのない言葉を言われ、傷ついた出来事が私にもあります。

私は職場で、よく太った体を揶揄されました。なんとなくその場をやり過ごすために愛想笑いで同調し、心にも無い自虐的な笑いを自らとったりもして、後から切ない思いをする…なんて経験を何度もしました。

でもある日、いつも私の見た目をイジリにくる同僚の言葉のしつこさに、遂に堪忍袋の尾が切れて「私が太っていることで、何か貴女に迷惑をかけましたか?」「体型については自分が一番、気にしているし、もうこれ以上、言われたくないです」とはっきりと言い返してから、何も言われなくなりました。言った瞬間は、その場が凍りつきましたが…(苦笑)

自分がありのままの自分を認め、自分を大切にしようと決心すると、そのような心ないイジりやからかいに同意しなくてもよくなるのだとその時、知りました。
他でもない自分が、自分のありのままの姿を認めているのに、他人にあれこれ言われる筋合いはありません。

しかし、嫌だなと心で思っていたとして、「そういうのやめてくださいよ!」と言葉にするのはハードルが高いかもしれません。
そんな時は無理せず、まずは愛想笑いをやめる、あまり反応しないようにするなどというところから始めて、無言を貫いたらいいのかもしれません。見た目いじりの話が始まったら席を立ち、デリカシーのない人とは距離をとるようにするなど、自分を守る行動をとるべきです。

私は仕事柄、関わる高齢者、特に男性入居者から、身体のサイズを揶揄されることがありました。「太ってるなー」「大きなおケツや」と暇つぶしのように話題にされるのです。こういうのカスハラっていうのでしょうね。でも、高齢者にはルッキズムうんぬんも、ハラスメントも何のことだか、わかりませんからね。その人にしてみれば、相手の気持ちなんてお構いなしのコミュニケーションのつもりなのかもしれません。
そういう場合は「私の旦那さん、太ってる女性が好きなんです」「痩せたらあかん、痩せたらあかんって言います」極めつけは「旦那は、このおしりが大好きで、とても満足しています」と真顔で言い返すと、大抵、面食らって黙ります。
たった一人の私の連れ合いが、あるがままのこの私を愛しているのに、赤の他人の男性が口出しすることではないのですよ…と案に、でも毅然と引導を渡します。

自分に、そして隣人にも優しくできる。自分だけでなく他人のことも見た目でジャッジせず、内面を見て人と関われるようになるといいですね。

ダイエットの日々に、ふと考えたことでした。

甘いもの依存

2024-07-22 14:34:00 | 日記
ペットロスで激しく落ち込んでいた時期、寂しさを紛らわせる為に、やたらと甘い物を食べた。

特に、和菓子は欠かせなかった。
色んな物をお取り寄せして、予備の冷蔵庫に詰め込んだ。
そして悲しくなると、それらを食べた。
食べている間は、少しホッとする。。

その悲しみも、時間がゆっくり癒してくれたと思う。まだ思い出したら、少し涙は出るけれど…

ダイエット7日目。
甘い物への執着心が、薄らいできている。
AI栄養士の未来さんのアドバイス通り、食べる物のメニューを出来るだけ整えていると、身体の中が整ってきているような気がする。(あくまでも主観)
でも栄養素が、まんべんなく足りてくると、変な食欲は抑えられるのかもしれない。

とにかく、この一週間で食べたお菓子は、最中一個。これは、私的には画期的なこと。物凄く、我慢しているわけでもなく、甘い物への渇望感が湧かない。

このまま逆切れしないで、甘い物依存から脱却出来ることを切に願う。

刺繍も再開しました。両手が塞がっていると、オヤツに手を伸ばせません(笑)