いのちの煌めき

誰にだって唯一無二の物語がある。私の心に残る人々と猫の覚え書き。

きよしさん

2023-03-27 15:03:00 | 日記
きよしさんは、80代男性。身体には麻痺がある。何というか…、脳梗塞による片麻痺のようなものではなく、両上下肢共に自分の意思で少しは動かせる。内科的な病気も色々抱えており、全身的な健康状態はあまり良くない。座位は保て、車椅子への移譲は介助にて可能。

ただ、この移譲介助がとても困難だ。激しい介護拒否があり、介護者への暴力と暴言が頻発する。

きよしさんは、元暴力団員だ。

背中にも足にも、立派な刺青が入っている。小指やくすり指の先は欠損していないから、組織の中では幹部クラスだったのかもしれない。

きよしさんの気分次第で、爆発する暴力は相手が女性であっても容赦ない。麻痺があるとはいえ、ある意味「専門家」だったきよしさんの暴力は巧みでアザが残るほど激しい時もある。
しかし機嫌が良く、激昂していない時のきよしさんは、話し掛けに饒舌になることもあった。私の出身高校の話しをすると、自分の姪御さんと同じだと笑顔を見せた。私は思い切って「なんで、体、動かんようになったん?」と聞いてみた。きよしさんは「ビルの11階から落ちた」とポツリと言った。
私には、きよしさんの麻痺の原因が何となくわかった。これは、全く私の妄想だが、抗争相手とのトラブルか何かで、追い詰められるようにして、ビルから転落したのかもしれない。

きよしさんは時々、私の顔を見て「何で、こんな仕事してるんや」と聞くことがあった。
介護の仕事は、きよしさんの目には、そんなに良い仕事には見えないようだ。
そういう事を聞く…ということは、認知症の程度は、それほど重くはないということだろう。だから、介護者への暴力行為も確信的に行っていると思う。

私はきよしさんの暴力や暴言に困ってはいたが、特に怒りは湧かなかった。それより、なぜ、きよしさんの感情表現は暴力に走るのか?ということのほうに興味があった。
結局、人生のほとんどの問題を暴力で解決してきた、きよしさんには、その方法以外、解決方法がないのだと思った。
気持ちの表現は、ほとんどが暴力。
適切な言葉を使って自分の思いを伝えたり、健全な方法でコミュニケーションをとったりすることは、どう転んでも、きよしさんには出来ないことだった。

暴力で他人を支配しコントロールしてきた人生。今は、家もお金も健康も何もかも無くなって、身動き一つとれなくなっている。そんなきよしさんを訪ねてくる人は、誰一人いなかった。











えいじさん

2023-03-26 01:02:00 | 日記
えいじさんは、70代男性。電気工事関係の自営業を営んでいた。身体的な障害はほとんどないが、心臓疾患を抱えていたため多少の健康不安はある。
性格は几帳面、少し神経質。私が会った男性全般に言えることだが、えいじさんもプライドは高い。でも、依存的。社長さんだったのだから、もっと自立的な考え方をするのかな…という私の期待とは違っていた。
よく、私の仕事の合間を見計らって、個人的な話しをしに来た。たいてい、家族の愚痴話しが多かった。
えいじさんの趣味の話しに切り替えると、好きな昭和歌謡の話し等もしてくれる。昔の歌を覚えたいと私がお願いすると、カセットテープに様々な曲を録音してくれた。

ある時、友達と九州方面へ旅行に行くと言って出掛けた。
その旅行から帰ってくると、えいじさんと、えいじさんの家族が大勢集まって深刻そうに話しあいをしていた。内容はわからない。ただ、その後しばらくして、えいじさんは離婚した。

旅行に一緒に行っていたのは、奥さんではなく、彼女だった。
一度だけ、その女性をお見かけしたことがあるが、私には、えいじさんとは不釣り合いなように見えた。
女性に何を言われたのかはわからない。
でも、かいがいしくお世話をしてくれるようなタイプには、どうしても見えなかった。
依存心の強い、えいじさんのような高齢の男性と、この女性はいつまで一緒にいられるだろうか?ふと…そんな事を思った。
何の根拠もない、勝手なわたしの想像だけど。

離婚後、まもなく、えいじさんとこの女性は同居を始めたらしい。
えいじさんが今もお幸せなら、それでいい。







私と父の物語2

2023-03-23 12:51:00 | 日記
父親に関して、最近、わかったことがある。
私の父は「これをしてはいけない」と言われると、かえって、それをしてしまう人。禁止事項の方に、引っ張られていく人だと思う。
そうそう、、お笑い芸人のプラスマイナスさん、知っておられるかな? あの岩橋さんという人も、そういうタイプの人だと思う。私の父も、あんな感じ。
やってはいけない…と言われれば、言われるほど、それをしたくなる。禁止事項を繰り返し、繰り返し、何度も念を押されたら、どうしてもその禁を犯したくなるという、あの症状。

今思うと、先のブログに記した携帯ショップの件も、そういう事の一つだったのだと思う。
「私も一緒にいくから、絶対に一人では行かないで…」と私は父に何度も念を押していた。でも私に、繰り返しそう言われると、余計にその言葉がトリガーとなって、父の行動を反対方向へと誘導してしまったのかもしれない。

もし本当にそうなら、今まであった、家族間のトラブルや、その他の色んな出来事も、なんとなく辻妻が合ってくるような気がする。

神経過敏で潔癖症な母の気持ちを、わざわざ逆撫でするような事をしたり、結果、母を激怒させたり、そして、自分では事の収集が出来なくなって、私を巻き込んだり、そういう家族ゲームを私は子供の頃からずっと、父に仕掛けられていたのかもしれない。

これまで私は、私の人生脚本のモーターは、母だと思い込んでいたけれど、子供時代、怪物のように怖かった母の行いの、そのキッカケを作っていたのは、実は父だったのか…

してはいけないことを、どうしてもしてしまう父、その父が母の爆発スイッチを、いつも押していた。なぜだろう?と、私は子ども心にも思っていた。そんなことを言ったり、したりしたら、絶対、母が怒り狂うのはわかっているのに、なんで、いつも父は、そういう事をするのだろう?と。
子供だった私はただ、巻き添えになっていただけなんだな… あの夫婦の問題の。

たいていの場合、子供には逃げ場がない。

頑張ったと思う、小さかった頃の私も、今の私も。
でももう、そろそろ私は、こんな茶番劇の家族ゲームからは退場させてもらおう。 

大人なら、大人らしく振る舞うべきだ。
自分の機嫌は、自分で直すもの。

父も母も、そうすればいい。
いつまでも、自分の子どもに、自分の心のお守りをさせたりするのは、いかがなものかと私は思う。

私と父の物語1

2023-03-23 11:23:00 | 日記
実家の父(80代)から、電話があった。
今まで使っていたガラケーの携帯電話を、スマホに変えたという連絡。
それだけなら、普通のことと、だれもが思うのかもしれないけど、私は、それを聞いたとたん、猛烈に腹が立ってきた。

約束していたんです。
そろそろ、父の携帯電話の機種交換をしないといけないことは、私もわかっていたから、今回の新型コロナの諸々が落ち着いたら、一緒に携帯ショップへ行こうねって、話していたんです。

父も高齢になっているし、一人で出掛けて行って、ショップ店員の言いなりに、高額、高機能の父には不釣り合いな品物を買わされてはいけないし…と娘なりの思いやりの気持ちでした。
何度も、父にも母にも話していたのに…
私に一言の相談もなく、「買い換えた」という連絡と、案の定、使いこなせなくて、今、とても困っているとのこと。

私はスマホじゃなくて、ガラホというほうを、勧めるつもりだったのに。
ガラケーしか使えない高齢者が、今さら、普通のスマホを操れるとは、到底、思えない。
末端の携帯ショップも、あくどいと思うけど、機種変更を余儀なくする大元の携帯電話会社にも、すごく苛立つ。
私自身も、通話は断然、ガラケーの方が使い易いから、未だに、昔から愛用しているガラケーを手放してはいない。通話料金も安いし、重宝している。それでも、いずれかは、ガラホに買い換えないといけないのだか…
とにかく今、私は、父にも、携帯電話会社にも、ものすごく腹が立っている。
そして、こんな嫌な気持ちを味わいながら、「なんで、私、こんなことで、無性に腹が立つんだろう?」と考えてみた。

すると、フワっと、子供の頃の嫌な思い出が蘇ってきた。
父はよく、私との約束を反故にしたことがあったのだ。

子供なりに、とても大切にしていた約束を、父のどうでもいいような自分の気まぐれで、いとも簡単に破ったことが、何度もあった。
そのことで、傷付いていた私の中のインナーチャイルドが、今また、同じようなことをされて、怒り狂い、泣き喚いたのだと思う。
「嗚呼、、私は心の奥底に、こんな傷も持っていたのか…」と、新たな発見をした。

母との関係性の方が、深刻で複雑だったため、時間と労力を費やしたが、その分、父とのことは、後回しになっている課題が、まだ、いくつかあるんだな…とわかった。
傷のありかがわかれば、その傷を癒すのは、そんなに難しくはない。大人になった私が、小さな子どもの私を、抱きしめて、慰めてあげればいいだけだから。

父は最近、物忘れが強くなっている。認知症の始まりだろうと、私は感じている。
また、なるべくして、なっている…とも思う。
父は昔から、物事を自分の都合の良いようにしか見ない人だった。それは、若い時から、そう。認知の歪みのある人だったのだ。
私が、病気を患って、辛い思いをしていても、「お前は、いつも元気やな」と平気で言う人。
「そんなことないよ、私も今、病気になってて、しんどいんやで」と病状の説明をしても、心の中には入っていかない。自分の見たいものを、見たいようにしか見ない人。
また次に会った時には必ず、「お前も、お前の家族も、みんな元気やな」と言う。
「私、今、難病指定患者やで」って、また答えても、「あっ、そうやったかな?」と言うけど、その言葉は父の心には残らない。それは、認知症になるずっと前からそう。
そういう認知の歪みを使って、父は父なりに、自分の心を無意識に守ってきたのかもしれない。最近の私は、そう思う。でも本当は、親に心配してもらえない子どもって、切ないんだよ。

とめさん

2023-03-20 10:35:04 | 日記
とめさんは80代。骨太のガッシリとした体型。立位保持は可能。手引き介助で歩行も少しは出来る。認知症は中程度から、やや重度のほうに傾いている。黙って座っている時は一見、気難しそうなおばあさんに見える。ところが、話し掛けると印象は一変する。活発な発言が続き、表情も豊かになる。

とめさんは誰かが一緒に座ってさえいれば、自分の話したいことを語り続ける。相手が聞いていてもいなくても、それは関係ない。だだ話しの内容は断片的で、わかりにくい。
先日、入浴介助の機会があったので、試しに少し簡単な質問をしながら聞き出してみた。いつも「お父さんが、お父さんが、、」という言葉をよく使っているが、お父さんとはとめさんの実のお父さんのことで、亡くなった旦那さんのことではなかった。とめさんも先に記したきょう子さんと同じく、最後まで記憶に残っているのは子供時代の事のようだ。とめさんの産みの母はとめさんが5歳の頃、病気で亡くなった。お母さんは死の間際「お母ちゃんはマンマンちゃんの所へ行くけど、お父ちゃんの言うことよう聞いて、お父ちゃんに可愛がってもらうんやで」と言われたという話しを繰り返す。5歳だった自分には、マンマンちゃんの所に行くが、もうすぐ死ぬという事だとはわからずに、母親は病気が治れば帰ってくるんだと思っていたと寂しそうに話してくれた。とめさんの心の中の小さな5歳のとめさんは、まだお母さんとお別れを出来ていないのかな?と思った。とめさんの下には、妹さんがいたそうだ。他に私が確認出来たとめさんの記憶に残っている兄弟は、お兄さんが二人、お姉さんが一人だった。お父さんは山陰地方で製紙工場を営んでいて、お父さんの存命中はそこそこ裕福だった。ただ、とめさんのお母さんが亡くなった後、程なくして継母がやってくる。二人の連れ子を伴ったこの女性は、とても意地悪だった。商談のため、遠方まで出掛けることもあったお父さんがいない時には、とめさんと妹はご飯を食べさせてもらえなかったという。家の裏で妹と寄り添い、ひもじい思いを噛みしめた時のことは忘れられないようだった。
でも、この継母が連れて来た二人の男の子は優しかったという。自分達のお母さんの目を盗んでこっそり食べ物をくれた。「早よ食べ。うちのお母ちゃんに見つかったら、怒られるから。早よ、早よ、、」って、ご飯を届けてくれたそうだ。
程なくして、この継母の行いは、ご近所の人々から父親にも伝わり、継母と連れ子達はお里に返された。それでも一年以上は辛い思いをしたという。
とめさんの話しは、断片的にこれらの出来事の繰り返しが多い。時系列に話してくれる訳ではないので、うわの空で聞いていると、それはただの雑音と変わらない。聞く側が整理して聞かないと理解出来ない。
実母と継母、この二人の母との関係が、とめさんにとっての思い残しなのかもしれない。