goo blog サービス終了のお知らせ 

Waiting for Tuesday

こちらは宇都宮敦の短歌ブログです。

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)を読んで

2022-01-03 11:42:00 | 歌集評

「切り結ぶ」という言葉がある。刀をまじえて切りあうことを原義とし、激しく争うことを指す言葉だけれど、そういう本来の意味を離れて、短歌は切り結ぶものだと思う。短歌とは対象を切り、それをふたたび結びつけるというある種相反する行為を一首のなかで共存させる必要のあるものだ。言うなれば、「切り、結ぶ」。いかに対象への斬新な視点や明晰な分析を示しても「切る」のみでは、逆に、どんなに対象に対する感極まった絶唱や耳なじみのよい総括を示しても「結ぶ」のみでは歌にはならない。その実践は容易ではなく、単なるマッチポンプに落ちてしまう危険をつねに孕むが、この困難さの克服に発揮されたものこそ短歌的知性と呼ぶにふさわしい。最初に書いたように、原則的に「切り、結ぶ」と「切り結ぶ」にはなんの関係もないが、それなのになぜかこの二つが重なる歌人がなかにはいて、平岡はまさにそんな歌人といえる。

負けたほうが死ぬじゃんけんでもあるまいし、開いたてのひらの上の蝶
なけなしのお金をフリージアに変えそれから食べ方を考える


平岡の歌の切断面にみえるのは、例えば、つまらない負けであり、ありふれた貧しさである。しかし、これらが単純な悲嘆や諦念や憤怒で結ばれることはない。かといって、その結び目に修辞的反転による栄光が立ちのぼるわけでもない。これらのいわば現実的な敗北は美学的な敗北で結び直される。一首目のじゃんけん、相手はチョキ、自分はパーで負けているのだろうけれど、自分が手を握りグーが出せなかったのはてのひらに一頭の蝶が止まっていたからだ。自分はあくまで蝶の美しさに負けたのであって相手に負けたわけではない。二首目のひもじさは、確かに一面では手持ちの少なさゆえかもしれないけれども、もやしなんかの安くて嵩のある食材を買うこともできたはずで、直接的にはフリージアの美しさに判断を狂わされたゆえのひもじさである。ここでいう美学的な敗北はあくまで美学的な敗北であって、敗者の美学ではないことに注意されたい。後者のような甘美さは一切なく、くだらない現実を洗い流す世界の残酷さそのものだ。「切り、結ぶ」ことで現れたこの敗北は、敗北といっても「切り結ん」だ結果ではなく「切り結ぶ」ための刀である。ゆえに、「負けたほうが死ぬじゃんけんでもあるまいし」とうそぶきはどこまでも高潔だし、狂ったまんま「食べ方を考える」主体に一片の後悔もない。

やや構図の見えやすい歌を引いたかもしれない。これを踏まえて、でもあんまりこれが前景化しないかもしれない感じで私の好きな歌をさらに何首か読みたい。


行き先の字が消えかけたバス停で神父の問いに はい、と答えた

「神父の問い」について、Yes/No形式であることは歌から確定できるが、その内容の予想は無限にできる。しかし、少なくとも「カレーは好きですか?」でも「今日の昼、カレーを食べましたか?」でも「カレーは飲み物ですか?」でもないことは、ほぼ自明といってよいだろう。どんな内容でも想像はできるが、このシチュエーションが選ばれた必然性を思えば、蓋然性の高いものは二つに絞られる。ひとつは「あなたは神を信じますか?」といった類の信仰についてのもの、もうひとつは「ここのバスは○○に行きますか?」といった類の行き先についてのものである。前段の比喩に乗っかれば、切断面にそれぞれの問いを浮かべた状態といえようか。ぱっと見、一方に絶対的強者の圧、他方に絶対的強者のゆらぎといった二面性を感じることができるが、実態はより複雑である。現実において町中で不躾に宗教的な問いを投げかけてくるのは、神父ではなく新興宗教の勧誘なのだから。というか逆で、こんな現実の場面を知っているから前者の問いの可能性を思わされているのだが。切断面では思いのほか強と弱が、聖と俗が、尊と卑が、現実がさざめきだっている。ゆえに「はい」という短くくもりのない、恭順にも捉えられかねない肯定の返事に世界がたじろぐ。

小平市津田町を着て約束のきみの新宿区に会いにいく

とても好きな歌だけど、この歌を読む前にこんな歌を引いておきたい。

家よりも大きなものは着られないのにどうやって逃げるというの

ときに美学的な敗北は語学的な敗北、 “わからない”として現れる。この歌は、「家よりも大きなものは着られない」という認識のもと「どうやって逃げるというの」という感慨が示されているというよりも、「どうやって逃げるというの」というやりきれない現実の切れっぱしを、「家よりも大きなものは着られない」という理由づけでなんとか結んだように見える。ただ、その理由は誰にでも伝わるものになっているわけではない。そのものが着られる/着られないの判断を家よりも大きい/小さいでする人はあまりいないだろうし、理路が通っているかもよくわからない。この歌からわかるのは、こうとしか結べなかったという痛切な何かだけである(この痛切な何かは“わからない”でしかわからないと言うこともできるけど)。

小平市津田町を着て約束のきみの新宿区に会いにいく

もちろん、違う歌なのだから「着る」のルールが変わっていてもいいのだが、同一のルールが働いているように思える。すなわち、着られる「小平市津田町」は「家」よりも小さい。もっと言えば、たんに条件を満たしているだけではなく、この「小平市津田町」にはあつらえたようなジャストフィット感がある。そんな「小平市津田町」を軽やかに着こなして「約束のきみの新宿区に会いにいく」。「約束したきみの新宿区に」は例えば「約束した新宿区で待つきみに」の圧縮版ではないだろう。「約束したきみの新宿区」は「約束したきみの新宿区」だ。じゃ、「約束したきみの新宿区」って何? 知らない。けど、「小平市津田町」は着るもので、「新宿区」は会うものだってことだけは確かなこととして受けとる。

わたしたちの避難訓練は動物園のなかで手ぶらで待ち合わせること

先に「切り、結ぶ」と「切り結ぶ」が重なると書いたが、それは不本意なことなのかもしれない。ほんとうは「切り結ぶ」なんてことをせずに逃げられるなら逃げてしまいたいのではないか、と。そんな来るべきときに備えた「避難訓練」ではあるが、やってることはちぐはぐである。非常時に飼育中の猛獣や大型動物の制御が効かなくなる可能性のある「動物園」は避難場所としてふさわしいとは言いがたく、防災グッズも持ち合わせず「手ぶら」である。一方、「避難訓練」「動物園」とくると、夕方のニュースなんかで取り上げられる猛獣役の職員がかわいい着ぐるみを着てクソ真面目に避難訓練を行っているおもしろ映像を想起してしまう。厄災のなかにある動物園は、キュートな猛獣たちにとっては一番安全な場所なのかもしれないね。

他に好きな歌を数首だけあげるとこんな感じ。


セーターはきみにふくらまされながらきみより早く老いてゆくのだ
心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ
冬。世界はだいたい毛糸だらけで、とつぜんきみの耳が出ている
春の底、桜吹雪の白熱をフランス人の耳で聞きたい


平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(2021年、本阿弥書店)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 谷川由里子『サワーマッシュ... | トップ | 連作7首 »

コメントを投稿

歌集評」カテゴリの最新記事