枡野浩一×正岡豊トークライブ
「いまきみが入れた真水のコップに話す」@新宿ロフトプラスワンをみてきました。
開演15分前に到着。
会場に流れるBGMが音楽じゃなくて
正岡さんの朗読(じゃBGMとは呼ばないのか)。
ほどなく時間になり、お二人が登場。
都合がどうしてもつかずこれなかった短歌友達にレポートを頼まれたので
まじめにメモをとろうとノートをひろげる。
まず、枕として短歌ヴァーサスの「四月の魚」誌上掲載について話され、
そこから正岡さんがいったん歌をやめたのはなぜかという話がふられ、
しょっぱなから全力モード。
これはメモをとりながら聞くような話ではなさそうだと思い
やっぱりノートを閉じました。
というわけで、このレポートは発言ママではないので
ご了承ください。
なんか間違えがありましたらご指摘ください。
実際のところ、ノートを開いていても
メモをとるひまがなかったのではないかと思うほど、
話はめまぐるしくかわり、
それもひとつひとつが濃く深かったです。
短歌の話はもちろん、周辺の現代詩・俳句・川柳への言及、
海外詩・連句についてのレクチャー、
それらの相互関連、あるいは相互断絶について。
短歌自体も、歌人論的に多くの方の仕事に言及され、
結社のこと、総合誌のこと、歌集のこと、そしてかんたん短歌のことを各論的に
そして、短歌でなにを夢みるかということを総論的に
話されてました。
これだけ書いても拾えきれてないトピックスがあるので
これ以上の項目を3時間強で話されたわけです。
なんども「話を元に戻すと」とおっしゃって、
とにかく先に先にと話をする正岡さんをみて、
これでも、
この容量でさえ正岡さん的には伝えたいことのミニマムなのかと、
正直その凄みにあてられました。
枡野さんのトークイベントをみるのは3回目(だと思う)だけれど
これほど聞き役に徹する枡野さんははじめてで、それに応えて、
正岡さんが、誠実に熱っぽく語られてました。
僕にはオーバーロードで、全部を受け止めることはできませんでしたが
だけど、あえて不親切にその熱量をそのままに伝えてくれたということが
ここでは、サービスとして機能していたように思います。
トーク中、おふたりの共通点として
背が高いというのと同じ新人賞に2篇応募した変わり者というのを
あげられていたけれど
一番おおきい共通点として、広さへの指向を感じました。
正岡さんの広さは、
短歌が短歌として充足してしまうことへの強い反発という感じで
枡野さんのそれ、一般への浸透とは違うんですが。
枡野さんが正岡さんを敬慕してるのはわかるけど、
正岡さんが枡野さんをどう評価してるのか
このトークライブをみるまで正直みえなかったのですが、
短歌は(詩は、という主語だったかも)それを読んだ人に
もう一度生きてみようとおもわせるものでなくてはならない、
というようなことを正岡さんが語られたとき、
(すごい感動的な発言だったんだけど再現できないのがくやしい)
それに加えて、
枡野さんの歌は、ある年齢以下の人たちに確実にそう思わせてるよね、
ということをおっしゃられてて、
ああそういうことかと思ったのでした。
あと、
詩に対してはみんなが敗者で勝者がいないというようなことを
正岡さんが話されていて、
たしかに正岡さんの歌はどう負けるかって歌だよなと思って。
絶対負ける戦いで、
勝てるかもという幻想もみせず、
敗者の美学に逃げることもせず、
どう負けるかってところで希望をみせてくれるというか。
でも、詩の生理(生理でいいのかな?)というよりも
世代的なというか時代への対応としてそうだったのかなと思っていたので
そのへんはもっと考えたいなと思いました。
枡野さんの発言では、
自分が詩人でないのはわかっているけどそういう自分でも
できることがあるのでは……。ってのが印象に残ってます。
ある場所で、僕がなんで枡野さんを好きなのか語る機会があって
「天才がどこまで遠くにいけるかよりも、
ハンパな才能をもった人が今ここをどうしのぐかに僕は興味があって、
そういう意味で枡野さんのかんたん短歌的な手法は意味があると思う」と
答えたのですが
(もちろん「ハンパな才能」というのは
こんなのはフルーツ味のノドあめのようにハンパな才能だから/枡野浩一
をうけてで、
その「ハンパな才能」も僕からみたら見上げるばかりです、と注釈)
そういう気持ちを再確認できました。
最後に、
「ちょっと頭のいいひとだったらすぐ私みたいな短歌はつくれる」(枡)
「でも一線はこえられないよ」(正)
というやりとりは、
僕が頭いいかどうかは別として、いましめとして。
とっちらかったままですが、このへんで。
おおげさに聞こえちゃうかもしれないけど
短歌に出会えてほんとよかったなと思える時間でした。
正岡さん、枡野さんありがとうございました。
宇都宮敦
「いまきみが入れた真水のコップに話す」@新宿ロフトプラスワンをみてきました。
開演15分前に到着。
会場に流れるBGMが音楽じゃなくて
正岡さんの朗読(じゃBGMとは呼ばないのか)。
ほどなく時間になり、お二人が登場。
都合がどうしてもつかずこれなかった短歌友達にレポートを頼まれたので
まじめにメモをとろうとノートをひろげる。
まず、枕として短歌ヴァーサスの「四月の魚」誌上掲載について話され、
そこから正岡さんがいったん歌をやめたのはなぜかという話がふられ、
しょっぱなから全力モード。
これはメモをとりながら聞くような話ではなさそうだと思い
やっぱりノートを閉じました。
というわけで、このレポートは発言ママではないので
ご了承ください。
なんか間違えがありましたらご指摘ください。
実際のところ、ノートを開いていても
メモをとるひまがなかったのではないかと思うほど、
話はめまぐるしくかわり、
それもひとつひとつが濃く深かったです。
短歌の話はもちろん、周辺の現代詩・俳句・川柳への言及、
海外詩・連句についてのレクチャー、
それらの相互関連、あるいは相互断絶について。
短歌自体も、歌人論的に多くの方の仕事に言及され、
結社のこと、総合誌のこと、歌集のこと、そしてかんたん短歌のことを各論的に
そして、短歌でなにを夢みるかということを総論的に
話されてました。
これだけ書いても拾えきれてないトピックスがあるので
これ以上の項目を3時間強で話されたわけです。
なんども「話を元に戻すと」とおっしゃって、
とにかく先に先にと話をする正岡さんをみて、
これでも、
この容量でさえ正岡さん的には伝えたいことのミニマムなのかと、
正直その凄みにあてられました。
枡野さんのトークイベントをみるのは3回目(だと思う)だけれど
これほど聞き役に徹する枡野さんははじめてで、それに応えて、
正岡さんが、誠実に熱っぽく語られてました。
僕にはオーバーロードで、全部を受け止めることはできませんでしたが
だけど、あえて不親切にその熱量をそのままに伝えてくれたということが
ここでは、サービスとして機能していたように思います。
トーク中、おふたりの共通点として
背が高いというのと同じ新人賞に2篇応募した変わり者というのを
あげられていたけれど
一番おおきい共通点として、広さへの指向を感じました。
正岡さんの広さは、
短歌が短歌として充足してしまうことへの強い反発という感じで
枡野さんのそれ、一般への浸透とは違うんですが。
枡野さんが正岡さんを敬慕してるのはわかるけど、
正岡さんが枡野さんをどう評価してるのか
このトークライブをみるまで正直みえなかったのですが、
短歌は(詩は、という主語だったかも)それを読んだ人に
もう一度生きてみようとおもわせるものでなくてはならない、
というようなことを正岡さんが語られたとき、
(すごい感動的な発言だったんだけど再現できないのがくやしい)
それに加えて、
枡野さんの歌は、ある年齢以下の人たちに確実にそう思わせてるよね、
ということをおっしゃられてて、
ああそういうことかと思ったのでした。
あと、
詩に対してはみんなが敗者で勝者がいないというようなことを
正岡さんが話されていて、
たしかに正岡さんの歌はどう負けるかって歌だよなと思って。
絶対負ける戦いで、
勝てるかもという幻想もみせず、
敗者の美学に逃げることもせず、
どう負けるかってところで希望をみせてくれるというか。
でも、詩の生理(生理でいいのかな?)というよりも
世代的なというか時代への対応としてそうだったのかなと思っていたので
そのへんはもっと考えたいなと思いました。
枡野さんの発言では、
自分が詩人でないのはわかっているけどそういう自分でも
できることがあるのでは……。ってのが印象に残ってます。
ある場所で、僕がなんで枡野さんを好きなのか語る機会があって
「天才がどこまで遠くにいけるかよりも、
ハンパな才能をもった人が今ここをどうしのぐかに僕は興味があって、
そういう意味で枡野さんのかんたん短歌的な手法は意味があると思う」と
答えたのですが
(もちろん「ハンパな才能」というのは
こんなのはフルーツ味のノドあめのようにハンパな才能だから/枡野浩一
をうけてで、
その「ハンパな才能」も僕からみたら見上げるばかりです、と注釈)
そういう気持ちを再確認できました。
最後に、
「ちょっと頭のいいひとだったらすぐ私みたいな短歌はつくれる」(枡)
「でも一線はこえられないよ」(正)
というやりとりは、
僕が頭いいかどうかは別として、いましめとして。
とっちらかったままですが、このへんで。
おおげさに聞こえちゃうかもしれないけど
短歌に出会えてほんとよかったなと思える時間でした。
正岡さん、枡野さんありがとうございました。
宇都宮敦
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