谷川の歌を読むと短歌で世界を肯定するということに思いが巡る。
きみの顔みながら鞄さぐるとき水中眼鏡ばかりがあたる
短歌で世界を肯定する。たとえばそれは、鞄のなかのなにかを手探りで探しているときにお目当てのものがなかなか見つからず、よりにもよって「水中眼鏡ばかりがあたる」ことを歌にすることだ言ってみる。これはなかなかにイライラさせられる、どこか不条理な状況だ。が、同時に、なにか愉快でもある。心の中の「なんでーっ」に笑いが混じるこの感じは、水中眼鏡が泳ぐときかビールかけのときにしか使えない、陸上の平場ではなんの役に立たない代物で、かつ、それでしかない独特な形状を有することからもたらされる。「きみの顔みながら」なのもよい。「きみの顔みながら」なのはきみに見せたり渡したりするものを探しているからなのだろうけど、一時もきみから視線を外したくないといったたぐいの情熱由来ではなく、きみをみていることもなにかを探すこともどちらも「ながら」な、一種の散漫さをみなもととしている。世界の肯定とは、声高に世界の素晴らしさを叫ぶことではない。このように、世界がわかりやすく素敵な場でもひどい場でもないこと、つまりは世界が世界であることからもたらされるまぬけな輝きをルーズに捉えることだ。もしかしたらこの歌のリアリティが気になるひともいるかもしれない。びしょびしょにぬれる水中眼鏡なんてものをふだん使いの鞄にはだかでいれるなんてことある? うん、あるよ。どんな状況やどんな理由でそんなことしたかは知らないけど、そういうことふつうにあるよ。この歌が事実ベースかどうかというのとは別のフェーズで、ある。世界はそういうふうにできていることを私たちは知っている。
ほかに私が好きな谷川の歌をあげる。
あの籠を買ったら洗濯籠にして洗濯物を一挙に運ぶ
円卓を日当たりのいい一角へ動かすためのこの腕捲り
お鍋できたよって よ。に力が入る よ、によって持ち上がる
全身にくる会いたいという気持ち山ですという山の迫力
山頂でヘリコプターから降りてくるオレンジ色の救助隊員
カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから
友だちが来てテーブルをくっつける 新しいテーブルの大きさ
一首目、二首目のような谷川の運搬にかかわる歌が私は好きなのだけれど、きちんとそのものの重さを感じているところがいいなと思う。重さをきちんと感じているといっても、それを重く受け止めているわけではない。「洗濯物」や「円卓」に重さがあること、重さのあるものに対して自分の物理的な力が作用することを軽やかな歓びとしている。三首目になると重さに作用するのは言葉の魔術的な力だ。ただし、重力のキャンセリングは志向されず、ここでも「お鍋」はその重さを持ったまま持ち上げられる。ときに重力は、地上への、あるいは地上なるものへ呪縛としてとらえられ、重力からの解放は多くの芸術分野で主要目的のひとつとなっているわけだけれど、この歌集では肯定的に捉え続けられる。四首目、超重量の「山」と並置されることで、「会いたいという気持ち」は地上のものとなり、地上のものだからこその尊さをまとう。五首目、「救助隊員」のなめらかな鉛直下降運動は重力による恩寵だ。
短歌で世界を肯定するには、言葉による世界の反転を遠ざけることが前提条件となる。六首目、七首目に描かれる光景は、ありふれた光景といえばありふれた光景で、当然、この歌によって世界が裏返ることはない。そのうえで、肯定を急ぎないことが必要となる。六首目の「カラオケのハンガー」の用途外使用も、七首目の飲食店で「テーブルをくっつける」行為も、ありふれている光景を歌にすることで当たり前ではない世界の更新をおこなっている。短歌で世界を肯定するということに思いが巡ると初めに書いたが、より正確に言えば、短歌で世界を肯定することの不可能性を思わずにいられない、というこだ。こんなにあざやかな世界の目覚めに立ち会わせてもらってもである。だって、世界は別に誰からの肯定も必要としていないから。ただ、短歌を作ることはどのような不可能性を選択するかと同義だとも思っている。いくつもの不可能性の中からこの不可能性を生きることに決めたという選択に強いシンパシーを寄せたくなるのだ。
谷川由里子『サワーマッシュ』(2021年、左右社)
きみの顔みながら鞄さぐるとき水中眼鏡ばかりがあたる
短歌で世界を肯定する。たとえばそれは、鞄のなかのなにかを手探りで探しているときにお目当てのものがなかなか見つからず、よりにもよって「水中眼鏡ばかりがあたる」ことを歌にすることだ言ってみる。これはなかなかにイライラさせられる、どこか不条理な状況だ。が、同時に、なにか愉快でもある。心の中の「なんでーっ」に笑いが混じるこの感じは、水中眼鏡が泳ぐときかビールかけのときにしか使えない、陸上の平場ではなんの役に立たない代物で、かつ、それでしかない独特な形状を有することからもたらされる。「きみの顔みながら」なのもよい。「きみの顔みながら」なのはきみに見せたり渡したりするものを探しているからなのだろうけど、一時もきみから視線を外したくないといったたぐいの情熱由来ではなく、きみをみていることもなにかを探すこともどちらも「ながら」な、一種の散漫さをみなもととしている。世界の肯定とは、声高に世界の素晴らしさを叫ぶことではない。このように、世界がわかりやすく素敵な場でもひどい場でもないこと、つまりは世界が世界であることからもたらされるまぬけな輝きをルーズに捉えることだ。もしかしたらこの歌のリアリティが気になるひともいるかもしれない。びしょびしょにぬれる水中眼鏡なんてものをふだん使いの鞄にはだかでいれるなんてことある? うん、あるよ。どんな状況やどんな理由でそんなことしたかは知らないけど、そういうことふつうにあるよ。この歌が事実ベースかどうかというのとは別のフェーズで、ある。世界はそういうふうにできていることを私たちは知っている。
ほかに私が好きな谷川の歌をあげる。
あの籠を買ったら洗濯籠にして洗濯物を一挙に運ぶ
円卓を日当たりのいい一角へ動かすためのこの腕捲り
お鍋できたよって よ。に力が入る よ、によって持ち上がる
全身にくる会いたいという気持ち山ですという山の迫力
山頂でヘリコプターから降りてくるオレンジ色の救助隊員
カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから
友だちが来てテーブルをくっつける 新しいテーブルの大きさ
一首目、二首目のような谷川の運搬にかかわる歌が私は好きなのだけれど、きちんとそのものの重さを感じているところがいいなと思う。重さをきちんと感じているといっても、それを重く受け止めているわけではない。「洗濯物」や「円卓」に重さがあること、重さのあるものに対して自分の物理的な力が作用することを軽やかな歓びとしている。三首目になると重さに作用するのは言葉の魔術的な力だ。ただし、重力のキャンセリングは志向されず、ここでも「お鍋」はその重さを持ったまま持ち上げられる。ときに重力は、地上への、あるいは地上なるものへ呪縛としてとらえられ、重力からの解放は多くの芸術分野で主要目的のひとつとなっているわけだけれど、この歌集では肯定的に捉え続けられる。四首目、超重量の「山」と並置されることで、「会いたいという気持ち」は地上のものとなり、地上のものだからこその尊さをまとう。五首目、「救助隊員」のなめらかな鉛直下降運動は重力による恩寵だ。
短歌で世界を肯定するには、言葉による世界の反転を遠ざけることが前提条件となる。六首目、七首目に描かれる光景は、ありふれた光景といえばありふれた光景で、当然、この歌によって世界が裏返ることはない。そのうえで、肯定を急ぎないことが必要となる。六首目の「カラオケのハンガー」の用途外使用も、七首目の飲食店で「テーブルをくっつける」行為も、ありふれている光景を歌にすることで当たり前ではない世界の更新をおこなっている。短歌で世界を肯定するということに思いが巡ると初めに書いたが、より正確に言えば、短歌で世界を肯定することの不可能性を思わずにいられない、というこだ。こんなにあざやかな世界の目覚めに立ち会わせてもらってもである。だって、世界は別に誰からの肯定も必要としていないから。ただ、短歌を作ることはどのような不可能性を選択するかと同義だとも思っている。いくつもの不可能性の中からこの不可能性を生きることに決めたという選択に強いシンパシーを寄せたくなるのだ。
谷川由里子『サワーマッシュ』(2021年、左右社)
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