ゆるーい思春期ネットワーク

キヅキ☆ミツメル

こころの目を通して真実を見よう

「心に闇を抱える人」と言われて

2013-09-23 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

~しばらくお休みしていたブログスタッフのつぶやきから~

 

先日、ある心理カウンセラーの方とお食事をご一緒させていただく機会がありました。

私は相手の方のことはお名前を存じ上げる程度でしたが、

心理カウンセラーの方はすでに、その場に同席していた

ある私の知人(以下、同席者と表記)から私のことをいろいろと聞かれていたようでした。

私自身、初対面の方と話をするのはあまり得意ではありませんし、

食事会への参加も非常に憂うつでした。

食事の場所はすでに設定してあり、それもかなり高級なお店を予約されていました。

いざ食事会が始まりますと、

いろいろな形で私から話を引き出そうとされるのが、ひしひしと伝わってきました。

職歴、家族歴、出身校の諸先生方の噂話…

そしてそれは客として出席している私や私に関連することを

多少なりとも知りたい、話を聞いて広げもてなす意味でのことだったと

思うのですが、私はなにか、話せば話すほどどうしても警戒してしまって、

失礼ながらお話はあまり耳に残らず、出される料理をめでながら

その料理への言葉を述べ、いただききるのに精一杯でした。

食事会後は、ドライブをかねて最寄り駅まで送ってくださり、

お見送りまでいただきました。

翌日同席者から、その心理カウンセラーの方が

「こんなことを言っていたよ」と聞かされました。

その内容は

「いろいろなものを背負って苦労されている人のようね。

人に助けを求められないみたいで、痛いほど伝わってくる。

あなた(同席者)のことをまぶしいと感じて、気後れしているのではないかしら。

もっと助けてあげなさい。」

同席者はそう言われたそうで、

「やっぱり凄い先生でしょ」ととても得意げに話していました。

この話を聞いて、とても複雑な気持ちになりました。

まず、初対面の人に、自分からは自分のことを話していなくて、

先に同席者からいろいろと聞かれていて、

それが何よりいやでした。

それらはもちろん私の許可なく事前に話した同席者、

また、聞いたことをそのまま私に言ってこられた心理カウンセラーの方の

ご対応によるものなのですが、何か、

尋問されているようで、試されているようで、

いい気分はしませんでした。

その食事会の席に私は客として呼ばれていたのですが、

それはあくまでも建前で、

本当は心理カウンセラーの方が私にカウンセリングをしたかったのではないか、

すでになにか「心に闇を抱える人」のように見られ、扱おうとしていたのではないか、

そんな気さえしてきました。

その心理カウンセラーの方と同席者は既に何年来も家族ぐるみのお付き合いを

されているようで、そのような気さくな集まりに、部外者の私をお招きいただいた。

そのことに本来感謝すべきなのでしょうが、

お目にかかったあと、そのようなことを言われていたことには、

私は「自分のことをもっと話したい」となるどころか、

「どうしてあなたにそんなことを言われるのかわからない。」

「あなたに何がわかるのか。」という気持ちになってしまいました。

もちろん同席者には、事前の本人の許可なく、

本人の話をしてはいけない、そのことで私は不快になったことを

伝えましたし、その点は同席者は「配慮が足りなかった」と

詫びてくれましたが、私はこの心理カウンセラーの方の

話を聞く姿勢、引き出す姿勢には、何ともいえない違和感を感じました。

心理学の権威でいらして、立派な業績を数々残され、

今もご活躍中の方です。

私など足元に及びませんし、この場で公開することも

最後まで迷いました。

ただ、誘導尋問的に話を引き出し、はなから私に対してラベル貼りをして、

また、貼ったラベルが適切かどうか検証をすることもなく、

その前提で話をする。

こういう方とは、その方がたとえどんなに立派な肩書きをお持ちでも、

もう二度と話をしたくないと思いました。

皆さんが私の立場にいらしたとしたら、どんな風に感じられたことでしょう。

その場が楽しければそれでいいじゃないと思う方もいらっしゃるでしょう。

客をもてなす上で事前の情報収集は当たり前、それを話題にするのも当然。

もてなしを受けておいてその言い草は何だ!

そう考えられる方もいらっしゃるでしょう。

あるいは同じように感じてくださる方も一人くらいはいらっしゃるかもしれません。

私はMIを学ぶ一人の人として、

こういうカウンセラーの存在はクライエントにどういう影響を及ぼすのか、

読者の皆様にも考えていただく機会にしたいと思い、

あえてこの場に書かせていただきました。

お読みいただきありがとうございました。

 

from ゆるーい思春期ブログスタッフ

 

*なお、この記事では、特定の職種や個人を批判する目的は一切ございません。

 

 

 

 


闇雲に強い力で押さないで [3]

2013-07-15 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

ポルノグラフィティの「EXIT」 にはセリフはたった一か所。

涙をうかべて
「自分勝手」と責めるかい?
どうしようもないことだってあるんだ


これは、彼が彼女に別れを告げた直後のシーン。
そして、彼は、闇雲に押される地下鉄から抜け出し、
どうしようもなく「本当に大切なもの」を求めて再出発をする。

 

「自分勝手」というセリフを思うと、

きっと、感想文の作者は、それを一人の人ではなく、
闇雲に関わった多くの女性から言われていたかも・・・。
そして彼自身もそれだけ傷ついていたはず。

そして、乗るはずの地下鉄も見送り、
乗った地下鉄ではもみくちゃにされ・・・。

 

歌詞は、

僕は上手に笑えてたかい?
泣けていたかい?
どんな時も 君が望んでる
僕でいたかった
どんな時も 強い姿で
君の前に立っていたかった
上手くはいかなかった

暗い足元こんなにも頼りなくて
信じるものが今ひとつ
フワフワと掴めない

取り戻せたなら
ただとりとめのない話に
柔らかな相づち 穏やかな午後


と純愛を歌うけれど、
感想文の彼はこれを聞いてどう感じただろう。
自分の場合は・・・。

 

私自身も、この著書にある例に似たような経験がある。
大学入学を現役では失敗して浪人した際、浪人生という所属のない状態の中で、
私は異性との交際にどっぷりと浸かった。
誰か特定の異性と一緒にいたいというような愛情欲求とは異なって、
とにかく少しでも関係を持ってくれそうな異性がいれば積極的に関わるといったような、
そういったいわば歪な欲求を抱えていた。
そして、その欲求を抑えられないことに一抹の不安を感じていた。

そんな折にTVで、あるロックバンドの曲をたまたま聴く機会があった。
その曲の中の「闇雲に強い力で押さないで 何が大切?探しているところだ」
というフレーズを耳にした時に、私はハッとした。
自分にとっては「何が大切」なのか、自分は内なる自分に対して無頓着になってはいないだろうか。

(中略)

私がそんな「気づき」のきっかけを得られたのは、
自分が好きなバンドが歌っていた曲がたまたまそのような内容だったからである。
例えば本書に書かれているようなカルト教団のように
「ほかとのつながり」を切らされた状況であったら、
その「気づき」のきっかけを得ることはできなかっただろう。

 

 


闇雲に強い力で押さないで [1]

2013-07-13 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

以前載せた「二重洗脳」の感想文

内なる自分に対して 

を再度、紹介させてください。

毎日新しく、記事を書き続けていくことに、困難さを感じている、ということもあるのですが、

無理に新しい記事を書くことで、質が下がってしまう危惧があること、

と同時に、過去の記事が埋もれていってしまう、という寂しさもあります。

時折、読者の皆さんに読み返してほしいな、と思う記事を再度紹介していきたいと思います。

ところで、この記事には、ある歌が出てきますが、

それについて、少し気づいたことがあるので、

次回はそれについて書いてみますね。

 


「想い」

2013-07-12 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

たまたま通りかかったターミナルで、

(社)日本臓器移植ネットワークの主催で、

移植を受けた子供たちの作品展が行われていました。

その中から一つ紹介します。 

本当はイラスト入りのとてもかわいい作品なのですが、カメラがなくて文字だけです。

 

「想い」 斉藤千鶴 

どんなに強く願っても叶わない事がある

どんなに大きな夢を持っていても叶わない時がある

でも叶わないからといってあきらめたらそこで

本当に夢も希望も終わってしまう。だからあきらめないで

今あるこの命をたいせつにする

それだけですてきな人生が

ひらける気がする だから

がんばってつかれたら休めばいい

思いだしてみて いろんな人に支えられてきたことを

体が弱いなら心を強くすればいいじゃん だれかにたよったっていいじゃん

だからあきらめないで あなたは誰よりも大切なことを学んだんだから・・・

・病気の人でも病気でない人でもあきらめないでがんばってほしい

・自分が一番自分のことを知っているんだから
 限界が来る少し前に休んでそれからいろんなことに挑戦すればいい
 自分のペースでゆっくり前にすすめばいい


2002年7月 腎移植 鷹揚郷腎研究所弘前病院

 


「あなたは一期一会の人に~」の記事へコメントをいただいて

2013-07-06 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

先日ご紹介した「あなたは一期一会の人に言えますか。」の記事に

読者の方がコメントをお寄せくださいました。

ありがとうございました。

さっそく公開させていただいていますが、この記事を通して

ブログスタッフで「電話相談」について、相談対応者の役割や気持ちを考え直してみました。

電話という顔の見えない手段でのコミュニケーションというのは、

対面の面談とはまた違った難しさがあると、私たちは感じています。

コメントをくださった読者の方がお書きのように

「また電話してみようと思える」ような関わりができれば、

相談対応者としての一役割は果たせていると思います。

対人援助職として、ブログスタッフも各々の仕事を通して、

日々、さまざまなケースに関わらせていただいています。

心残りな結果に終わったケースも少なくないという意見も出ました。

そのなかで、自分のところではどうにかできなくても、

相談してくれた人が希望を捨てずあきらめず、

誰か別の相談対応者のもとを、何度でも訪れてみようという気持ちを

持ち続けてくれるようになれば(そういう気持ちを持って行動してくれていれば)…

そのことだけはいつも心の片隅に持ちながら相談に関わらせてもらっている(関わらせてもらってきた)。

そんな意見もありました。

一方で、誰かの相談に関わるということは、時に重く、苦しいものでもあると思います。

私たちの中に「手放せる勇気」というのも必要なことなのかもしれない。

そんな意見も出ました。

 

from ゆるーい思春期ネットワーク

 


「露出は避けて、暗い夜道は歩かないで」と言われても

2013-06-25 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

「夏場は痴漢が多いので、露出の多い服は避けて、暗い夜道は歩かないでください」

こんな掲示が夏になると街のあちこちで見られます。

「痴漢が多い」から「露出は避けて」「暗い夜道は歩かないで」

メッセージからは警告は読み取れるけれど、

「でも夏は暑いし、仕事や学校で帰宅が遅くなるのは仕方ない、じゃあ街灯を増やすとか何とかしてよ。」

「露出が多くたって痴漢しない人もいるでしょ。痴漢する人、しそうな人を何とかしてよ。」

「痴漢されるような恰好をしてるのが悪いんだろ。男性心理を理解しろよ。」

いろいろな言い分があるかと思います。

…どうしたらいいのでしょう。

ある職場で管理職をする友人が、職場の女性職員のことで相談してきました。

交代勤務があるので、どうしても夜中の出勤、退勤が伴う。

昔はタクシー代支給などがあったが、昨今はそれも打ち切られ、多少一人歩きの時間がある。

勤務明けに遊びに行くためかわからないが、

びっくりするようなホットパンツやキャミソールで出勤する人もいるため、

職場の守衛さんも「あれはまずいんじゃないですか」と言ってくれて、

若い職員が出勤するときは特に入念に職場の周りを巡視している。

「うちの近所でも性犯罪がたまにあって、僕自身も夜、悲鳴を聞いたことが何度かある。

そんなことになると、と思うと、彼女たちには何とかわかってほしいんですけどね…」

友人は深いため息をつき、そう話してくれました。

夏が近づくにつれ、こういう相談を受けることがままあります。

女性として、夏にしか楽しめないおしゃれを楽しみたい人がいるかも…

そういった気持ちもわかる気がするし、でも、ほんとは危険なんだよ!って忠告したい気持ちもある。

それなりに気を遣って相手に言っても「セクハラまがいだ!」と訴える人もいる。

「どうしたらいいんでしょうね…」

友人も私も答えを見つけられませんでした。

皆さんがこういった相談を受けたとしたら…

あるいは親として、学校の先生としての立場にあるとしたら…

どうするのが望ましいのか。

これという答えがあるのか。

よかったら皆さんも考えてみてくださいね。

 

from ゆるーい思春期ブログスタッフ


明快な力強い言葉は…

2013-06-03 05:30:00 | ブログスタッフのつぶやき

「私に任せておきなさい」

「私が言うんだから安心していいですよ」

「○○しさえすればいいんですよ」

「○○はいい/わるい」

 

こういった明快な力強い言葉を発する人は、私は苦手です。

人の言うことに何もかも反発しましょう、ということではなく、

ちょっと立ち止まって、自分自身の心や考えに耳を済ませたいと思うのです。

 

人は、明快な力強い言葉をかけられると、

考えることをやめてしまうことがしばしばあります。

そして考えをやめてしまう人が増えれば増えるほど、

その意見が「多数の意見」として扱われ、

多数の意見=正しい意見 と錯誤しがちです。

明快な力強い言葉を発することは、他者の人生を背負うことでもありましょう。

はたして人にそんなことができるのでしょうか。

そしてそのことを、本心では、あるいは状況が変われば、どう思うでしょう。

 

「その人に任せておけばいいんだ」

「その人がいうんだから何とかしてくれるだろう」

 

これは人を信じるからこその発想である一方で、

自分で物事を考えたり、決めたりすることを避ける行動につながるともいえると思います。

明快な力強い言葉であってもそれはあくまで、その人の考えを表したものにしかすぎません。

もちろんこうしてここで発している言葉も同様です。

何より、その人がその言葉を発する意味、そこに耳を傾けたいと思うのです。

そうしたうえでどう判断するか、ということになるでしょう。

「私の言っていることは正しいかどうかわからないから、自分で考えてほしい」

「私についてくればいいなんて、とても言えません。進む道を一緒に考えていきましょう。

そのなかでいやになったらお互いちがう道を進むこともありです。」

こういう言葉を発せる人こそ、人のもつ弱さや強さ、優しさやいやらしさなどに

真に寄り添う力を併せ持つ人だと、私は感じます。

 

from ゆるーい思春期ブログスタッフ

 


こだわりについて

2013-05-04 06:15:00 | ブログスタッフのつぶやき

「こだわり」

これは誰しもがもっている感情だと思います。

漢字で表すと「執着(しゅうじゃく)」だそうです。

一般的にはあまりよくない意味で用いられるようですが、

そのことの議論はさておいて、

今日はこの「こだわり」について考えてみたいと思います。

先日届いたある封書にタワシが1個入っていました。

そのタワシにはいろいろと意味があるのだということが連綿とつづられた手紙が添えられていました。

これまでいろいろなものをその解説文と一緒に送ってくれるのは、

齢を重ねたある友人です。 

手紙を受け取ってしばらく、その友人のもつ「こだわり」に思いをはせてみることにしました。

友人は齢は重ねているものの、大病もなく今日まで過ごして来ました。

2~3か月に一度の手紙のやりとりを通じて、

手紙の字が震えているような時、

しっかりとした筆圧でつづられている時、

いろいろな時があります。

筆跡からその時その時の様子が何となく感じられるものです。

手紙をしたためるのに使う筆記具も、

黒だったり赤だったり、鉛筆だったりボールペンだったり、途中から2色になっていたり、

その時その時で違っていて、それも様子をうかがえるきっかけになります。

どんな時であっても、友人の行動を通して、その人の「こだわり」が見えてくるのを感じます。

「元気でいたい」「体にいいものを摂りたい・使いたい」

「『今こんなことに興味を持っているんだよ』ということを知ってほしい」

「(私に対して)元気でいてほしい」

そんな感じでしょうか。

いろいろなこだわりが垣間見えてきて、

それらはどれもその友人を形づくっているもの、友人の魅力そのものだと思います。

「こだわり」には自分から見て「あれ?」と思うことや「ちょっと…」と違和感を感じることもあるかもしれません。

実際、時々思いがあふれるのか、友人の「こだわり」に少し圧迫感を感じるようなこともありますが、

きっとそれはこの友人の、私を思う気持ちから起きるのだと考えると、

素朴にこんな疑問が湧いてきます。

「どうしてそのこだわりを持つのだろう」

その疑問を素直に相手に投げかけてみると、

なぜ友人がそうこだわるのかが何となく見えてきて、

自分が感じる「違和感」が相手の「魅力」と感じられることがあるかもしれません。

タワシを送ってくれたこの友人は、時に「こんな世の中で生きていたくない」ということももらします。

その一方で、「元気でいたい」という気持ちも持ち合わせているだろうこともひしひしと伝わってきます。

まさに友人自身が「○○でいたい、でもいたくない」という気持ちをもちながら、今を生きている。

「今」を一生懸命生きているからこそ、いろいろなこだわりをもつのかもしれません。

 

from ゆるーい思春期ブログ スタッフ

 

 

 

 

 

 

 


ある詩を読んで(ブログ読者からの感想)

2013-04-25 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

今日は先日連載した「母と娘の会話から」シリーズをお読みいただいた読者の方からの
メッセージをお届けしたいと思います。

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「時を超えた美しさの秘密」
アメリカのSam Levensonという人が書いた詩です。
彼の詩集時の試練を経た人生の知恵」の中にあります

ある日、ラジオからこの詩の朗読が聞こえて来ました。
その一節にとても心を動かされ、私は思わず涙してしまいました。

友人の何人かに、この詩を紹介したところ、読んだ人の感想はそれぞれ。
どこかに、「そうそう、そうかもしれない」と思わせる部分があります。
ひょっとしたら、同じ人でも、その時におかれた立場や状況によっても、感じ方が違うかもしれません。

みなさんは、この詩のどんな部分に注目するでしょう。
私がこころを動かされた部分、それは…
「年を重ねると、やがてあなたは、自分にふたつの手があることに気づくでしょう
ひとつは、自分自信を助けるために
もうひとつは、他者を助けるために」
 
 
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【時を超えた美しさの秘密】

魅力的な唇であるためには、美しい言葉を使いなさい。

愛らしい瞳であるためには、他人の美点を探しなさい。

(中略)

美しい身のこなしのためには、決してひとりで歩むことが ないと知ることです。

物は壊れれば復元できませんが、人は転べば立ち上がり、

失敗すればやり直し、挫折すれば再起し、間違えれば矯正 し、

何度でも再出発することができます。

誰も決して見捨ててはいけません。

人生に迷い、助けて欲しいとき、いつもあなたの手のちょっと先に

助けてくれる手がさしのべられていることを、忘れないでください。

年をとると、人は自分にふたつの手があることに気づきま す。

ひとつの手は、自分自身を助けるため、

もうひとつの手は他者を助けるために。

(後略)

by Sam Levenson 

*著作権の都合上、全文は掲載しておりません。
興味のある方はキーワードでweb検索してみてください。 

 


Miller先生 WSに参加して

2013-03-14 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

3月1~3日、日本動機づけ面接協会主催の

Miller先生の特別講演・設立総会、ワークショップ(WS)等に参加してきました。

その時の所感を簡単ですがお伝えしたいと思います。

3日間のスケジュールのなか、とてもお疲れになったことと思いますが、

Miller先生は終始笑みを絶やされず、

温かく、力強く私たちに、MIについて、人と向き合うことについて語りかけてくださいました。

そのご様子をたとえると、

静かな湖畔に佇みながら、鳥のさえずりや草木・花々などに囲まれて、

世に生きるすべてのものに温かい眼差しを向けられながらご自分の生を日々歩まれている一人の人。

そのような光景がまぶたの奥にふわーっと浮かんでくるようでした。

静かでいて力強く、それでいて押しつけがましくなく、終始穏やかで控えめなご様子に、

MIのプロとしては言うまでもなく、一人の人としてとても魅了されました。

3日間参加して、Miller先生の向けられるまなざしと語りに触れて、

自分自身のMIに対する姿勢を謙虚に見つめなおしたい、

Miller先生のような人になれたらいいな…心の底からそう思いました。

まさにMiller先生に動機づけられた瞬間でした。

MIを知って、学習を積みながら何とか活用できるようになって、そして、今、

つたないながら学習会の場を開かせてもらっているそんな私ですが、

自分の驕りや未熟さを目の当たりにさせられもしました。

MIとは何なのか、私がMIに惹かれる理由は何なのか、

いろいろなことを考えさせられました。

この3日間は時間を経てもなおよき思い出となっています。

MIとの歩みを見つめなおす大変よい機会となりました。

*主催者の皆様方、貴重な機会を設けてくださりありがとうございました。

 

from mimi

 


自殺を考える (2)

2013-03-10 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

「もう死のうと思います。」

ある日職場にこんな電話がかかってきたことがありました。

電話を受けたのは私はとっさにこう尋ねました。

「死にたいって…どんなことでもいいので話してくれますか。」

電話をかけてきてくれた人と、少しでも話したい、そう思いました。

「死にたいんです。」その人はそう繰り返しました。

「今、死のうとして、でもその前にこうして電話をくれたんですね。」

私はそう言うのが精一杯でした。

「はい。」

その人はそう答えました。

私の電話のやりとりを聞いていた職場の同僚が、私の周りを取り囲みました。

黙って聞いている人もあれば、「死ぬわけないだろ。イタズラだから(電話を)切ればいい」という人もいました。

その言葉が相手の人に聞こえないよう、何とか私は身振り手振りでその人たちを制止しつつ、

電話の向こうの相手の声に耳を傾けようと必死になりました。

「死ぬ前に、誰かに言っておきたかったんです。」

この言葉を聞いた時に、話を続けられるかもしれない、そう確信しました。

「誰かにあなたがいま生きていることを伝えたい、そう思っているんですね。」

「はい。」電話の向こうの声は、はっきりと、そううなずきました。

そして少し話してから、

「今○○にいます。ビルの上です。」

「○○にいるんですね。」

私がそう言い終える前に、ぷつりと電話が切れてしまいました。

すぐ警察に電話してその付近を調べてもらおうとした同僚もいました。

しかし「イタズラなんだから通報することはない」そう言いきった上司がいて、電話することを阻止しました。

このできごとがあって、数名の同僚と私はその後しばらく、

口数が少なくなり、電話に出るのが億劫になってしまいました。

「何とか生きていてほしい」「本当に亡くなってしまっていたら…」「あの時どうしたらよかったのか」

私たちには想像することしかできませんでした。

あなたがこんな電話を受けたらどうしますか。

私にはあの時どうすればよかったのか、私の対応がどうだったのか、わかりません。

その場にいた同僚も同じような気持ちでいます。

実際に自殺でなくなっていった人たち…自殺で大切な人を失った人たち…

苦しい、つらい…何か一つの言葉だけでとうてい表現できることではないと思います。

その人たちのことを思うと、何とか自殺を防ぎたい。その気持ちで胸がいっぱいになります。

 

 

*自殺を考える 2012.11.7 当ブログ掲載

 

from ゆるーい思春期ブログスタッフ


MIを活用することの重み

2013-03-01 07:00:00 | ブログスタッフのつぶやき

動機づけ面接法 Motivational Interviewing(以下、MI)とは、

心理士のミラー氏とロルニック氏が開発した面接のスタイルです。

その特徴は受容と傾聴のスタイルを保ちつつも、変化の方向に向かいやすくなるように

カウンセラーから積極的に働きかけていくところにあります。

MIの学習会などを開くと、「このスキルが身についたら悪用する人が出てくるかもしれませんよね」

といった感想を寄せてくださる方が少なくありません。

MIの倫理的課題、と言われる部分の話題かと思います。

MIを学習するにつれて、MIを知り、多少なりとも使えるようになるということは、

学習者自身や学習者が関わる人(クライエント)の人生に与える影響として計り知れないものがあり、

むしろそういう場面に立ち会うことが多いからこそ、

MIを身につけ、活用することに対しては、慎重であるほうが望ましいのではないかと考えることがしばしばあります。

MIの学習は、受験勉強のように志望校に合格できたらOKということではありません。

誰かと競い合ったり、例えばテクニックとしての「聞き返し」を見せつけあうような場でもありません。

MIはクライエントの真の幸福を願って使う面接法なのです。

MIを学習し、「活用できるようになりたい」そう思ったら、

その時点からずっと学習の道を歩むのだと思っています。

MIを学習する人、MI学習の場を提供している人、MINTトレーナーを目指す人、いろいろな人たちが増えてきています。

私もそんな人たちに交じってMIをお伝えする活動を細々としていますが、 

MIをお伝えするということは、学習の先を行く人に後進の育成に対し協力を求めて共に進んでいきつつ、 

新しく学び始める人たちを温かく迎え、ともに歩んでいくことだと考えています。

それこそがMINFやCFP(ケースフィードバックプログラム)で取り組んでいることです。

一見、先を行っているかのように思える人も、行きつ戻りつしている部分があるでしょうし、

ついていくのに必死なように見える人でも先を行っている人よりうんと理解している部分もあるかと思います。

そういった集団力動を調整していくのが、講師やファシリテータの役割だと思っています。

もちろん講師やファシリテータの成長を支えてくれているのはともに学習する仲間だというのは言うまでもありません。

物事の理解には、のみ込みが早く「どんどん先に進める・進みたい」というタイプの人と 

「一つずつ理解したうえでないと先に進めない」というタイプの人とがいると思います。

私見ではありますが、

前者の人は、たしかに理解力はよく、すぐ実践に結びつけられる器用さを持っている人がいる一方で、

詰めが甘かったり飽きやすかったりしがち、という人もいるかもしれません。

後者の人は理解への過程にその人なりの段階があり、時として時間がかかったり、

周りからすると非常にこだわりの強い人のように見える時もあるかもしれませんが、

自分が知ったことをよく見極め、反芻し、慎重に自分のものにしていける人たちもあるでしょう。

どちらがいい、悪いを言っているのではありません。

人に何かを教えるというのはとても大きな責任を伴うものだと思っています。

とくにMIのように、人の人生のある瞬間や心の綾に触れる面接法を扱うことは、

慎重すぎるに越したことはないと思っています。

そしてそれは資格制度で計れるものではない、だからこそMIは資格制度を採用していないなかで、

MIを実践する人その人を信頼してくれて、応援してくれている。

そういった信頼のもとにMIをお伝えする活動をしていくことの責任の重みを感じずにはいられませんし、

その、人を信頼する、というスタイルそのものが、MIの実戦家・学習者を後押し、

自己研鑽の自己動機づけをしてくれているのではないでしょうか。

 

 

from ゆるーい思春期ネットワーク ブログスタッフ

 

 


同じ『人』としての気持ちに気づいてほしい

2013-02-17 06:40:00 | ブログスタッフのつぶやき

エネルギッシュで、いつもじっとしていなくて、5つでも6つでも並行して仕事を進められる。

新しいもの、楽しいことが好きで、苦手なことは後回しあるいは無視する。

気に入った人、自分の利益になりそうな人だけを大切にし、そうでない人には目もくれない。

そんなリーダーを上司にもち、仕事をしている友人が、

そのリーダーのことで相談をしたい、と話し始めてくれました。

「どうせ私たちは(リーダーに)利用されているだけだから…」

話しはじめに、そう吐き捨てるように言った友人のその言葉が耳に残りました。

「利用されていると感じながら一緒に仕事をする…一言では言えない気持ちが詰まっているんじゃないだろうか。」

友人はいろんな思いを語ってくれました。

リーダーにはたくさんの部下、仕事関係をはじめたくさんの人が関わっているけれど、

いつも自分のペースで仕事を進めようとする。

そうできない人には「あいつは○○だから」とレッテルを貼ってはこばかにする。

「あなた(リーダー)みたいにできるわけないじゃない!」

そう思いながらも、できないなりに一生懸命がんばってるのに「努力を認めてもらえている気がしない」。

口先だけの「ありがとう」「あなたのおかげです」という言葉や買ってきてやったんだと言わんばかりの出張先からのお土産。

そんなものいらないから「ただ同じ目線で接してほしい」。

そこが感じられないから「同じ『人』としての香りがしない」。

人だから気分ののらない日、虫のいどころの悪い日、あるいはすごくうきうきしている日、幸せな日、いろいろあると思う。

そしてそれは、リーダーだけでなく、友人も、誰しもがそういう日、そういう瞬間を持っている。

そういった感情が互いにフィットするときもあれば、合わずにぎくしゃくするときもある。

でもそのリーダーにはそこが通じない。

いつも自分が中心、自分がすべて。

楽しいことを共有したいと思ってもいつもリーダーの顔色を伺わずにはいられない自分がいる。

そんなリーダーとはどんな日であっても、「心底から一緒に喜んだり、悲しんだりすることができない」し、

「作り笑いしかできない」そうも話してくれました。

割り切っていこう、と思うけど、体は拒否反応を示し、リーダーのもとを去っていく人も少なくない。

自分もどうしようか迷っている、と。

その話を聞いていて考えたのは、友人がこれまで苦悩しながらここまで来たことと同時に、

このリーダーも本当は周りの人の支えや優しさに気づき、あるいは自分なりにふがいなさに気づいている。

けれども、どう伝えたらいいのかわからないんじゃないか、ということ。

誰しもが持つだろう心の襞(ひだ)。

「心のひだを大切にしないなんて人は本当はあまりいないのではないか」ということでした。

他者のひだを大切にするあまりあれこれ悩んで先に進むのに慎重になってしまう人、

自分のひだも他者のひだも適度に大切にしながらその表現も自分なりにできる人、

自分なりに表現していても、その表現が誤解して受け取られがちな人、

他者のひだには無頓着なものの自分のひだは大切にする人…

いろいろな人がいたとしてもきっとその「ひだ」そのものは誰もが多少は大切にしたい、そう思っているかもしれない。

でも誰のどの「ひだ」をどう大切にしたらいいのかわからない。

他者の「ひだ」に触れると、自分の「ひだ」に触れてしまいそうで見たくない。

そんなふうに感じてしまっている人もいるかもしれない、そんなことを考えました。

そして友人が私に相談してくれたのは、そのリーダーを何とかすることはできないとわかっている、

だからこそ「同じ『人』としての気持ちに気づいてほしい」「本当は私たちも気づきたいんだ」

そんなメッセージがあってのことだったのだろうと思いました。

 

 

from ゆるーい思春期ブログスタッフ

 


スキルを通してその人が見える

2013-02-10 08:35:34 | ブログスタッフのつぶやき
人として会話が成り立たない人。
 
あなたの周りにいませんか。
 
一方的にご自分の話-特に肩書や自分の苦労話・自慢話-ばかりをする人、
 
「何のことだかさっぱりわからない」という表情を聞き手が見せているのに、延々としゃべる人。
 
どんなことを話そうとそれはある程度自由なものの、
 
相手が口をはさむ隙もないほどにしゃべりだすと止まらない人。
 
相手の話に声に、耳を傾けようとしない人。
 
「私はこんなにやれています」という自負があるんだろうな、
 
止まらないくらいに話さずにはいられないほどいろんな思いを抱えているのかもしれない、と
 
聞き手も少しは相手のことを想像してみるものの、
 
「その会話がすでに会話の障害になっている」
 
そう気づかないまま話を続けている人がいたりします。
 
(もしかしたら私も時にはそういう人になっていて周りに迷惑をかけているかもしれません…)
 
人としての会話にはいろいろあると思います。
 
相手を楽しませようとしてするもの、相手と楽しみたいと思ってするもの、その場しのぎなもの、
 
時として指摘をする必要に迫られるもの…
 
会話では誰しも、話し手、聞き手になるのであり、その中でその人の「人となり」が見えてくるのだと思います。
 
楽しい会話をしているようでも自分の話にばかりつなげようとする人、うわべだけの共感を押し付ける人、
 
何かを指摘するにしても相手への思いやりなしに、単に攻撃や批判をする人。
 
「あなたの話を聞いていますよ」と言っても、聞き手に都合のいい部分だけを選択的に聞き、
 
話し手の心の声に耳を澄ませようとしない人。
 
さらに悪いことには、そういう人が「私は○○をしっかり学習し身につけています!」という瞬間です。
 
○○には、さまざまなコミュニケーションスキルが入ります。
 
その○○を勉強しています、という人に対しては、「そのスキルを通して、その人が見えてくる」。
 
そう教えてくれた人がいました。
 
その言葉を聞いて、自分なりに反芻しています。
 
「たしかにそんな印象を持つことが時にはある」と思いました。
 
会話だけでなく手紙やメールなど書かれたものを通してもしばしば感じるものです。
 
たとえばMIはPACEの態度を大切に、クライエントとカウンセラーがともに歩んでいこう、というスタイルですが、
 
これは言うほど簡単なことではありません。
 
人によってはPACEの態度そのものを受け入れがたいという人もいるかもしれません。
 
それはもちろん自由です。
 
ただMIを学びたいと思う人は、日々練習を繰り返し、先学者にスーパーバイズを求めることで、
 
自分のスキルのみならずMIが最も大切にしている態度の部分へのフィードバックをもらい、研鑽を積むのだと思います。
 
MIに限らず、新しいことを学ぶときは、「私はできている」という、その思い込みを棚に上げて
 
自分の面接スキル、人との関わり方、得意な点、苦手にしている点、
 
いろいろな角度から自分を見直すところから、すべては始まると思います。
 
そして○○が苦手だなと思う人は、自分に合ったスキルを探し学ぶこともできるでしょうし、

無理をして苦手な○○を身につけたりする必要もないのかもしれません。
 
私自身、人としての会話がどこまでできているかはわかりません。
 
むしろ、できていない自分を強く感じているからこそ、
 
MIを通じて、広く言えば「人としてのトレーニングを積みたい」
 
私はそう思っています。
 
 
 
from ゆるーい思春期スタッフ