初ばなな。
……初めて読むには、すでに薹が立ってしまっていたのかもしれない……
村上春樹とほぼ同じクサミを感じる。つまり「自分を可愛がりすぎ」。
こういう雰囲気の一人称の小説だと、どうしたって語り手=作者じゃないですか。
その読み方自体が間違っているならば何をかいわんやですが、
多かれ少なかれ、小説の主人公は作者の投影でしょう。
(もっと言えば、すべての登場人物は作者の投影だが)
それをあんまり贔屓に書きすぎるので……食傷する。
可愛い可愛い主人公のことを、主人公が大好きなキャラクターに「お前は素晴らしいんだ」と
これでもかと褒めさせるのは……枝葉を取っ払って言ってしまえば、
自己愛の内部完結でしかないんじゃないか。
もっとも、ブンガクは枝葉こそが重要なのであって、そこで枝葉をとってどうする、とは思うが、
そうであればもう少し妥当に、公平に枝葉を茂らせて欲しい。
あまりにも、ある一本の枝だけに光が当たり過ぎというか。不健康な畸形感を感じる。
だって、3巻の高橋くんのお母さんへの敵意なんか、単に嫉妬でしかないと思うのに、
そこで彼女と(そして真一郎くんと)比べて“いかに自分がピュアか”ということを
主張しないではいられないんだよね。
そこがクサミと感じる所以。自分が嫉妬という醜い感情で動いていることを受け入れられない弱さ。
それならそれで――つまりお伽噺にしたいなら、むしろ理解できるんだよ。
だがそれならば、高橋くんのお母さんや、1巻に出て来たクサイ隣人をそう簡単に断罪するなと。
自分が好きな人だけが正しくて、それ以外の人には大変冷淡。
それって、ただ単に日常でしょう。普通の人が普通に生きていてやっていることでしょう。
自分の部分だけはお伽噺で、その他の部分は日常にしちゃうの?不公平じゃない?
嫉妬していると言及するなら、それで終わらせていれば、そこを直視してれば、潔いのに。
……やっぱり畸形感。乗り越えられない。
貸してくれた人(ばななファン)が言うには「“自分は特別”という種類の話」だそうで、
ああ、なるほど、と納得。特別な自分について書いた話で公平感を求めても仕方ないのか……
ベタベタの私小説から始まった日本ブンガクとしては、やはりこういう方向ということか。
“自分”以外の部分――思想部分というか、人生の真実部分と言うか、青年の主張部分は
普通に読める。だがほんとに普通に読めるということであって――
もっとずっと若い時に読んでいたら、「ああ!」と膝を打つとかそういうことになっていたかも
しれないが、そこまでには至らず。“薹が立つ”という所以。
青春の文学なのであろう。読むのなら若い時に読んで置いた方がお得。
わたしにとっては新井素子あたりが同じ役割だったかなあ。
数十年前の作品が数年前に文庫化されているのを見ると、
彼女の当時の作品にはそれなりに普遍性はあるようだ。
彼女の文章自体は当時でさえ、どうなのよ、とは若干思っていたが、書いてあることには
けっこう説得されていた。当時読んだものを10年くらい前に読みなおしても、納得しつつ読めた。
でも今はもう新刊には食指が動かないな。ここ数年でも何冊かは出しているらしいけど。
実験のために、当時の作品を、(わたしと趣味が合う)オトナの人に貸して
読んでもらってみたが、やはりノレなかったらしい。
児童書とかと同じで、出会いの時期って大切ですね。
出会いの時期を選ばない作品は大名作と呼ばれるのに値するだろうが、(「指輪」とか)
それもなかなか稀有でしょうから。
……初めて読むには、すでに薹が立ってしまっていたのかもしれない……
村上春樹とほぼ同じクサミを感じる。つまり「自分を可愛がりすぎ」。
こういう雰囲気の一人称の小説だと、どうしたって語り手=作者じゃないですか。
その読み方自体が間違っているならば何をかいわんやですが、
多かれ少なかれ、小説の主人公は作者の投影でしょう。
(もっと言えば、すべての登場人物は作者の投影だが)
それをあんまり贔屓に書きすぎるので……食傷する。
可愛い可愛い主人公のことを、主人公が大好きなキャラクターに「お前は素晴らしいんだ」と
これでもかと褒めさせるのは……枝葉を取っ払って言ってしまえば、
自己愛の内部完結でしかないんじゃないか。
もっとも、ブンガクは枝葉こそが重要なのであって、そこで枝葉をとってどうする、とは思うが、
そうであればもう少し妥当に、公平に枝葉を茂らせて欲しい。
あまりにも、ある一本の枝だけに光が当たり過ぎというか。不健康な畸形感を感じる。
だって、3巻の高橋くんのお母さんへの敵意なんか、単に嫉妬でしかないと思うのに、
そこで彼女と(そして真一郎くんと)比べて“いかに自分がピュアか”ということを
主張しないではいられないんだよね。
そこがクサミと感じる所以。自分が嫉妬という醜い感情で動いていることを受け入れられない弱さ。
それならそれで――つまりお伽噺にしたいなら、むしろ理解できるんだよ。
だがそれならば、高橋くんのお母さんや、1巻に出て来たクサイ隣人をそう簡単に断罪するなと。
自分が好きな人だけが正しくて、それ以外の人には大変冷淡。
それって、ただ単に日常でしょう。普通の人が普通に生きていてやっていることでしょう。
自分の部分だけはお伽噺で、その他の部分は日常にしちゃうの?不公平じゃない?
嫉妬していると言及するなら、それで終わらせていれば、そこを直視してれば、潔いのに。
……やっぱり畸形感。乗り越えられない。
貸してくれた人(ばななファン)が言うには「“自分は特別”という種類の話」だそうで、
ああ、なるほど、と納得。特別な自分について書いた話で公平感を求めても仕方ないのか……
ベタベタの私小説から始まった日本ブンガクとしては、やはりこういう方向ということか。
“自分”以外の部分――思想部分というか、人生の真実部分と言うか、青年の主張部分は
普通に読める。だがほんとに普通に読めるということであって――
もっとずっと若い時に読んでいたら、「ああ!」と膝を打つとかそういうことになっていたかも
しれないが、そこまでには至らず。“薹が立つ”という所以。
青春の文学なのであろう。読むのなら若い時に読んで置いた方がお得。
わたしにとっては新井素子あたりが同じ役割だったかなあ。
数十年前の作品が数年前に文庫化されているのを見ると、
彼女の当時の作品にはそれなりに普遍性はあるようだ。
彼女の文章自体は当時でさえ、どうなのよ、とは若干思っていたが、書いてあることには
けっこう説得されていた。当時読んだものを10年くらい前に読みなおしても、納得しつつ読めた。
でも今はもう新刊には食指が動かないな。ここ数年でも何冊かは出しているらしいけど。
実験のために、当時の作品を、(わたしと趣味が合う)オトナの人に貸して
読んでもらってみたが、やはりノレなかったらしい。
児童書とかと同じで、出会いの時期って大切ですね。
出会いの時期を選ばない作品は大名作と呼ばれるのに値するだろうが、(「指輪」とか)
それもなかなか稀有でしょうから。
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