岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

妙高山から帰る その3

第八章 下山

 午前5時。黒沢池出発。
 黒沢池ヒュッテの宿泊客は、ほとんどが妙高山か火打山か笹ケ峰方面へ向かった。三つ峰、神奈山、関温泉ルートを辿るのは、私一人だけだった。途中、雪渓の傍らにミョウコウザクラの群れが咲き乱れていた。鬼百合の一種も目に付いた。
 見上げると、青空。ようやく山の景色が楽しめる。シャッターを連続的に切る。と、木の間から高い山がそそり立っている。地図で確かめる。間違いなく、妙高山だった。昨日は下からは見えなかったので、その山の姿を見たのはこの時が初めてだった。あれが妙高山か。心の中で、そう呟く。昨日攀じ登ったクサリ場が見える。あの頂上まで登ったんだ。よく登ったもんだ。改めて、じわじわと達成感が心の底に湧き起こる。来て良かった。私は、目の前の妙高山に向かって、大きな声で「ヤッホー」と叫んだ。木霊は、返ってこなかった。
 6時42分、神奈山到着。標高1909m。先程まで見えていた妙高山が見る見る雲に包まれ、見えなくなった。良かった、さっき見ておいて。見るのと見ないのと、この差は無限大の差だ。
 高度が低くなるにつれて、蒸し暑くなっていった。トンボが50匹ほど群れ飛んでいた。ひらひらと蝶々が一匹、まるで道案内をするかのように、私の前を飛んでいた。しばらくすると、ガイドブックに書いてあった通り、大ブナ林に出た。思わず見とれる。ブナの大木を見ていると、なぜか心身共に癒される。天狗をも鎮撫するような樹皮の色、優しい木漏れ日をきらめかせる葉の形、天空を信じて仰いでいるような太くて丸い幹と枝。まったく唐突な感想を述べることになってしまうが、ブナ林にしか日本人の豊かな未来はない、と私はなぜか思う。
 8時7分、関温泉口到着。標高1200m。関温泉まで「あと1.6km」と標示されていた。そこは、関温泉スキー場のリフト乗降所になっていた。リフトの支柱には「日本ケーブル㈱東京」と書いてあった。リフトの管理人室の壁には、今年の5月のカレンダーが貼ってあった。
 乗降所の10畳程の板敷きの上で休憩することにした。登山靴を脱ぎ、ストレッチをして、ゆっくり眼下の風景を眺めることにした。8時20分、黒沢池ヒュッテで買ったレトルト食の赤飯を食べた。涼風が気持ちいい。さっきまでの蒸し暑さが嘘のようだ。蝉の鳴き声。シャケシャケシャケ、シャケシャケシャケ。蛙の声か、グィーグィー。昨日通った妙高ゴルフコースも国民休暇村も見えた。振り返ると、妙高山も雲の合間に少々見えた。
 8時50分、リフト乗り場の板敷きから出発。9時19分、関温泉スキー学校前に到着。

第九章 関温泉到着
 
「登美屋」という旅館に入った。温泉利用だけの料金は、500円。湯の中には、誰もいない。温泉の独り占めほど贅沢なものはない。燕温泉は白濁していた。ここは、そこから数kmしか離れていないのに、赤土を溶かしたような色をしていた。髪を洗い、長々と体を伸ばし、「源泉100%掛け流し」の天然温泉を味わった。
 湯上りに生ビールを、と探すがない。まだ朝の10時15分だ。仕方がない。国民休暇村妙高まで歩いていくことにした。
 休暇村にも生ビールはなかった。が、地ビールがあった。柿の種をつまみながら、330mlを2本飲んだ。名物の「山もち」も注文した。500円。
 ほろ酔い気分でソファーで寛いでいると、二人の若い女性が現れた。私の真後ろに座った。たちどころに芳香が漂ってきた。「夜間飛行」という名の香水を連想した。「いい香りですね。なんていう名前ですか」と尋ねた。香水の女性は、「分からない、『ヒトミ』かな」ともう一人の女性に確認するように答えた。名前も知らずに香水を付けるなんてことがあるだろうか。また、自分の香水の名前を友達に聞くなんてどういうことだ。「とてもいい香りだ」と再び言うと、彼女は、「そうですか、ありがとう」と答えた。
 13時50分、関山駅到着。結局、国民休暇村から駅まで歩いて行った。途中、関山神社で小学生くらいの3人の女の子と出会った。

第十章 妖精
 
 関山神社の境内には清水が湧いていた。3人の妖精にはそこで出会った。一人は、旧妙高村の畑に転がっているジャガイモのような、田舎風の顔立ちだった。残りの二人は真っ白い揃いのワンピースを着ていた。すぐ姉妹と分かった。二人の顔立ちには軽快な色ときらめきがあった。「この水、飲める?」と尋ねた。3人の間から「飲める」という答えが返ってきた。彼女達は、すぐ柄杓で汲み取って飲み始めた。一番背の高い子に確認した。「君は、旧妙高村の子どもか。そうか、それなら間違いないな」私は、飲むことにした。気のせいだったかもしれない。今まで飲んだ清水の中で一番甘くておいしかった。水を甘いと感じたのは、この時が、初めてだった。飲んだら誰でも蛍になれる水。この子たちに出会わなかったら、きっと飲まなかったに違いない水。「一寸先の闇」には、悪い事ばかりじゃない、こんな小さな喜びが隠れている場合もあるのだ。
 「どこから来た?」
 「東京」妹の方が答えた。
 「じゃ、江戸っ子だな」
 「江戸っ子て何。初めて聞いた」
 妹の方がよく喋る。間髪を入れず返答する。そればかりか、「初めて聞いた、初めて聞いた」と言いながら小さな体を私の方に押し付けてきた。可愛い子には弱い。いきなりジャンケンを挑んでみた。子どもは愉快な存在だ。見ず知らずの他人である私の遊びの世界にすぐ飛び込んでくる。姉の方の名前は、ユリカちゃん。年長の村娘の方にカメラを差し出し、写真を撮ってと頼むと、そのユリカちゃんが、すばしこくカメラを奪って、「はい、チーズ」と私に言った。カメラに向かって股覗きのパフォーマンスをすると、妹の方が、急に火がついたように笑いこけた。神社の正面の鳥居の所に、ユリカちゃんたちの母親がいた。「このおじさん、面白いよ」と母親の手を引っ張りながら告げたのは、勿論、妹の方だった。さよならと言う代わりなのか、可愛い妖精は、駅へ向かう私の背中を小さな手で突き押した。

第十一章 運命の古間駅
 
 関山駅から帰途についた。14時44分発の長野行き。人身事故のため少々遅れた。私が乗った車両には、偶然にも、妙高山頂で見かけた3人娘と昨夜山小屋で一緒に並んで寝た女性とが乗り込んだ。この偶然は、しかし、私の心を直撃しはしなかった。
 それは、単なる前奏曲だった。
 古間駅から乗り込んだ白の麗人が私の霞んだ視野の中に鮮やかに入ってきた瞬間、私はecstasyを感じた。彼女の気品に満ちた笑顔の先を見ると、プラットフォームに彼女の両親がいた。見送りだ。彼女は、3連休を利用して、東京から帰ってきていたのだ。そして、今、明日から始まる仕事のために東京に戻るところなのだ。一瞬のうちに、そういう啓示を受けた私は、この運命の出会いに激しい心の昂ぶりを感じた。と同時に、30年早くこの世に生まれてしまった私の運命を嘆いた。可愛い女性だけならば、どこの街角を回ってもいるだろう。知性美だけの女性ならば、図書館通いをすればすぐ見つかるだろう。しかし、可愛さ三分に清楚さ三分、残りの四分が知性美で、身体全体がまぶしく光り輝いている女性など、この世にそうざらにはいない。出会った場所が横浜なら、こんな衝撃は受けなかっただろう。古間駅。ここで出会ったということが、彼女を忘れられない存在にした。
 昨年、最終列車でここを通過した時のことを思い出していた。夜霧。寂しい駅周辺の風景。誰がこんな駅に降り立つのだろう、と思いながら眺めた。しかし、なぜか心が引かれた。いつかこの駅に降り立ち、名もない細い道を「曖昧な憂愁」を抱きながら歩いてみたい、と思った。とりとめもなくそんな想念を辿っていたら、列車は、現実の古間駅に停車し、ドアが開き、白く輝く彼女が乗り込んできたのだ。私が降り立ち、細い田舎道を逍遥し、そこで普段着の彼女と出会うのだったら、私の心は、まだ準備ができていた。私は、言わば、降り遅れたのだ。妙高山に登る前に、ここで降りるべきだったのだ。死神がやって来る時も、多分、同じように悔やむことだろう。こうなる前に、ああしておけば良かった、と。私は、妙高山の征服者だった。その時、電車の中で、既に私の心は成就感のために死んでいた。死んだ人間の心にとって、まばゆい美は、希望の対極だった。
「縁」とはままならないものだ。ままならないからこそ「縁」と言うのだ。

 私は、出発する前に、こう歌った。
   自分だけの鎮守の森は、
   どこまでも探しに行かねばならない。
   あっても、なくても。
 「自分だけの鎮守の森」とは、こういう麗しい女性の存在のことだったのだろうか。もしそうだとしたら、たとえ探し当てたとしても、また、たとえ幻を見るように見ることは出来たとしても、この手でつかまえることは出来ないだろう。
 手に入れられない葡萄は、酸っぱいとは限らない。いや、きっと甘いに違いない。ゆえに、私は、いつも「曖昧な憂愁」の陰に潜むことになるのだろう。

 列車が長野駅に到着すると、彼女は、白く光り輝きながら階段を走って上って行った。多分、東京行きの新幹線に乗るのだろう。
 長野駅からしなの22号に乗り換えた。初めは空いていたが、松本駅から満員になった。私は、車窓から風景を眺めながら、かつて須原や十二兼周辺を歩いた思い出に耽っていた。多治見が段々近くなってきた。

第十二章 終章

 20時前に帰宅。
 玄関横の水道で汚れたアイゼンの土を洗い落として、裏の庭に干した。ザックの中の整理をした。疲れていたが、糠漬けの世話だけをして寝ることにした。二階の部屋に入ると、むっとした空気が充満していた。この夏の間にもう一度登りに行きたい、と思った。

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