岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

青ざめて、赤岳へ (その1)

青ざめて、赤岳へ


山 際 う り う


 赤岳の頂上付近だった。四つん這いになって岩登りをしていた私の顔は、青ざめていた。鏡もないのに自分の顔がなぜ分かる。そう聞かれたら、言葉に詰まる。では、青ざめていたのは私の心だった、と言い換えようか。辺りの岩は、可憐な表情の、様々な花で彩られている。それは、確かだった。しかし、その時の私には、花々を嘆賞する余裕がなかった。三千メートル近い高所での登攀は、息が切れる。一秒に一歩の歩みが出来ない。青ざめていたのは、しかし、そういう身体的な疲労のせいではなかった。主たる原因は、便意だ。ここだけの話だが、低地の岩陰で・・・・一度、・・・ばかりだ。それなのに、又しても襲われたのだ。もう叢も人目を避ける岩陰もない。漏らすしかないか。最悪の状況が、瞬間的に、頭の中をよぎる。天井から下りてくるように中年の登山客が私の頭上に姿を現した。「済みません。こっちの頂上の方に、山小屋はありますか?」見上げながら縋り付くように聞く私の声は、切羽詰っていただろう。この山は、数年前に征服している。なのに、この場面では、記憶が、はっきりしなかった。私の思いは、最短経路でトイレに行き着くことだけだった。
 必死の思いで崖を越えると、「赤岳2899m」の標柱が見えた。
今回は、純粋な征服感、達成感からは、ほど遠かった。堂々と語るに語れない言わば汚辱にまみれた二度目の登頂成功だった。
 二泊三日の往復555kmの旅だった。
2006年8月5日土曜日、いつものように自分一人で朝食をこしらえ、自分一人で食べた後、ぐずぐずと登山の準備をした。今年、登りたい山は、鳥海山しかない。しかし、7月20日以降の空模様が私の計画を狂わしていた。前日の8月4日金曜の夜、行き先を急遽近くの赤岳に決め、鳥海山は、8月後半にした。
8月5日土曜日。午前10時頃、多治見を出発。中央高速道から見る恵那山は、はっきりした姿を見せていなかった。ほとんど何も考えずにただ走った。諏訪南インターから一般道路へ。原村到着。することもないので、ぶらぶらと原村村営の「いこい荘」の中に入り、張り紙を何気なく見ていたら、「星祭り」というのがあった。ちょうど8月4日から6日までの開催だ。偶然だったが、前回ここに来た時も同じような催しをしていた。大きな望遠鏡で月や土星を観察させてもらったことを思い出す。駐車場の車の中で長い一夜を過ごすのも苦しいことだったので、「星祭り」に参加することにした。
この「星祭り」の会場は、「原村自然観察園」とかいう名前だった。夜7時に出かけると、駐車場は既に満杯で、林の中の臨時駐車場へ誘導された。
 広場の中央でスクリーンに映像を映しながら講演をしていたのは、知る人ぞ知る日蝕研究家の石井馨氏だった。世の中は広い。わざわざ日蝕を観察するために文字通り世界の果てまで出掛ける人がいる。何年何月か聞き漏らしたが、石井氏によれば、次回の皆既食は、南極の或る山の麓(昭和基地の反対側)でしか見えないのだが、そこへヘリコプターを使って観察に行くツアーがあるそうだ。オーロラと日蝕とが同時に観察できる可能性があるらしい。門外漢の私にはまったく縁のない情熱に静かに包まれていた石井氏。一つの知的かつ神秘的な世界に陶酔しながらはまり込んでいる人の口調。卑俗な世界の住人である私の耳には、星の囁きのように響いて来た。リビアの日蝕観測地の話もあったが、興味と暇のある方は、彼のホームページを訪ねるといいだろう。
 もっと直接的に感動したものがあった。山登りとは無関係の話だが、書かずにはいられない。天文学者の大野某氏の講演の時だった。「星になったチロ」という課題図書とも縁の深い人だ。講演の最後に参加者の輪の中に入って来て、(私は彼のすぐ隣に立っていた)、星空を見上げた。そして、どこに隠し持っていたのか、突然、ペンのようなものを空に向けたかと思うと、そのペン先のようなものからレーザー光線を発射させた。何と空の星まで届いているではないか。参加者は、皆、「おお!」と叫んだ。人工ではない、まさしく自然のプラネタリウムだ。本物の星空教室だ。今、思い出しても、興奮する。実際、自分たちの頭上にある、有名な「夏の大三角形」を、レーザー光線で指し示す。何と分かりやすいのだ。何と素晴らしい授業なのだ。名古屋市の科学館のプラネタリウムは好きだったが、もう似て非なるものは、見る気がしない。
 楽しいことは、まだあった。いよいよ山とは無関係になってくる。柳家小ゑん師匠の落語だ。「星祭り」のポスターには書いてなかったので、嬉しい驚きだった。生の落語を五メートルの距離で聞いた。見覚えの無い落語家だった。まだ若そうだったが、また聞きたいと思うほど面白かった。ニュートンの反射望遠鏡のくだりや、東京三越の化石のくだりなどは、どこまでが作り話でどこからが真実の話なのか判然としないほど小ゑん師匠の話はうまかった。
 ミス原村の何とか姫と紹介されていた女性も見た。椅子に座っている時も、立っている時も、背筋が伸びていて姿勢が美しかった。女性は、顔よりも姿勢だ。顔よりは姿勢のほうが大事だ。
 雲が空を覆ってきたので、車の中に入り、寝袋の中で寝た。夜は寒くなる。深夜一時半頃、目を覚ました。ふと見上げると、雲は去っていて、満天の星空だった。早速「夏の大三角形」の復習をした。恐怖感を覚えるほど無数の星が出ていた。圧倒されそうな煌めきだった。
 8月6日日曜日。朝4時40分起床。朝食後、美濃戸登山口まで車で移動。駐車料金一日500円。いよいよ登る。
 長い林道を美濃戸山荘まで歩く。次回赤岳に登る時は、この山荘まで車で来ようと思う。駐車料金は一日千円になるが、車が来る度に車をよけながら林道を歩くのはあまり面白くない。
 美濃戸山荘の入り口横にある冷たい湧水をペットボトルに詰め込んで、前回と同じ南沢ルートに入った。涼しさを味わいながら、樹木や巨岩のある風景の中を登った。
見覚えのある風景が幾つかあった。何度見てもいいものだ。
行者小屋には多くの登山客が休憩をしていた。私とほぼ同時刻に到着した十九歳くらいの女の子が椅子に走り寄って、腰掛けながら、「気持ちいい!」と誰に言うともなく言っていた。頬のふっくらした元気そうな女の子だった。私は、そこでは休憩せずに目の前にそそり立つ赤岳を目指した。そこからの急坂が、本当に苦しかった。
息が続かなかった。三十秒で二十一歩しか進めなかった。旧中山道とは違う。道は、空に62.5度の角度で架かる長い梯子のようだった。四つん這いになって登攀するしかない。まさしく岩壁登攀だ。実際、鉄製の梯子が所々架かっていた。鎖も張ってあった。集中力と軍手なしでは登れない場所だ。浮石がザクザクと道を覆っている。油断できない難所だ。行者小屋が眼下に見える。が、どんなに苦しくてももう引き返せない地点だ。頂上小屋へ行く方が近い。立ち止まっては息を整え、息を整えては登った。登っても登っても黒い岩の群れが回りから押し寄せて来る。いや、違う。登っても登ってもではない。登れば、頂上は、すぐそこにあるのだ。それは分かっているのだが、登れないのだ。登りたくても、息が苦しいのだ。おまけに、運の悪いことには、私の苦しみには、また別の要素が加わってきた。悪い予感の的中だった。そうだ。冒頭に書いた便意だ。予感は、旅の前々日からあった。悪い予感があっても、様々な事情で前進しなければならないことがある。人生の辛さの一つだ。しかし、こんな天下の名山赤岳の、しかも檜舞台とも言うべき華々しい地点で、風雲急を告げることになろうとは!すぐ隣に優美に聳える阿弥陀岳を眺める余裕も消え果てた。

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