岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

軽貨物で北上の旅

 2019年6月25日火曜日。午後12時34分自宅発。ぐうたら生活からは何も得られそうもない。<だから>、出発だった。ハンドルを握る。旅先で<寂しい不安>に霧のように包まれる予感が舌の下に生まれる。僕は飲み込む。軽貨物のエンジン音が前進を促す。誰もすべてを解決したうえでいつも出発できるとは限らない。未解決のまま、心の表面に気になる泡粒を幾つも震わせながら、人は外部へ飛び出して行く。何でもいい、何か一つのものを得たい。これが僕の中の旅人の叫びだ。誰も既に一つの罠に陥っている。ここではない他のどこかに行かざるを得ないという罠だ。<だから>、人は朝靄が薄くなり始めるやすぐに歓喜を探し求めるために立ち上がろうとする。その<歓喜>の型は、人それぞれだろう。しかし、人生の晩年に踏み込んだ僕にはもうその揺るぎない型がない。熱情を流し込めるような、一直線に走り込んで行けるような型がない。風のまにまに漂う感覚。良くも悪くも、僕のタイヤは浮遊している。家から遠ざかる。見慣れた風景にはもう何も感じない。どこへ行っても、しかし、もう何も掬い取れないかもしれない。それでも、行かざるを得ない。罠に落ち込んでいる。もがき・あがきの網を通して、僕はこの先何を得られるのだろう。その夜、黒姫駅付近の道の駅しなの(長野県上水内郡信濃町)で泊まった。途中の峠道から見下ろした千曲川沿岸、姨捨付近の木の間隠れの夜景は、思わず「素晴らしい」と独り言を漏らしてしまうほどの予想外の恵みだった。〔走行距離 269.4k〕


 6月26日水曜日。午前6時前起床。曇。ラーメン食べ、バナナ食べ、ふと見上げると、北に妙高山の天辺が齧られたような山容が出現。西に黒姫山の碗を伏せたような、飯茶碗によそった砂をドサッとぶちあけたような平凡な山容が、霧から出る。天気予報は終日晴れ。残り時間の少ない人生だ。逃してはならない。

 午前7時半過ぎ、黒姫山(長野と新潟との県境付近にある。標高2,053m)に表登山道から登る。アプローチが、平坦だったが、やたらと長かった。4合目からきつくなり、8合目辺りが胸突き八丁だった。5時間程の苦行で山頂に到着。野尻湖、斑尾山、妙高山、火打山、槍ヶ岳等の北アルプスも眺望できた。絶佳。午後1時10分頃下山開始。午後4時前駐車場に戻った。天麩羅蕎麦を食べ、温泉に入った。股間に赤い斑点が幾つか生じていた。加齢と共に表皮の炎症も多くなってくる。悩んでいる暇があったら、山に登れ。これが僕の最近の座右の銘だ。午後10時過ぎ道の駅あらい(新潟県妙高市)に到着。〔走行距離 311.6k〕
  
 6月27日木曜日。午前5時40分頃起床。晴れ、夕方より雨。名所旧跡に佇めば、何かを偲ぶことができる。名もない土地の草叢に立小便をすれば、気が晴れる。柏崎の岸辺で釣り糸を垂れる前に、恋人岬という名の看板に釣られて立ち寄る。一見の価値だになし。リールの使い方について少々慣れる。出雲崎町の「陣や」でランチ。佐渡島の南約70キロに位置するこの北国街道出雲崎宿、ここは江戸時代天領で、佐渡相川の金銀の荷揚げの拠点として、最盛期には人口2万人を誇った。往時の妻入り家屋を偲ばせる街並みをスケッチするために、東京美大の院生たちは毎年訪れるそうだ。彼らの思わず息を飲むような見事な作品は、道端のあちこちに飾られている。午後6時22分頃、新潟県北部、村上市九日市の道の駅神林に到着。一瞬、「こんな事をしていていいのかな」という思いが胸をよぎった、昔、昼日中に2階の窓から田舎の畑を見下ろしながら交合していた時にふと思ったように。〔走行距離536k〕

 6月28日金曜日。雨。午前5時34分頃、コンビニ内で朝食を済ます。窓外を見ると、線路沿いを傘をさして、とぼとぼと長靴で歩いて行く男がいる。長年の孤独と労苦と浮薄に敗者のように動かされて、人は彷徨するのか。自分勝手な空想が、理由もなく湧き上がる。午前9時40分頃、鳥海山温泉郷「あぽん西松」(山形県飽海郡遊佐町)から出た。長距離運転での疲労をためないように、朝と言わず昼と言わず、温泉にはなるべく入るようにしていた。湯客10名程。山形弁なのか、「ハアー、ハハハ」以外の会話は聞き取れなかった。「鳥海山大物忌神社」へ傘をさして行く。本殿の木組み、その飾り、単純で洗練されたものだった。道の駅内の観光案内所で蕎麦屋を尋ねる。すぐそこに「じゅこう」という名の蕎麦屋があります、と言う。行って見ると、「じゅこう」と「樹光」という店が道の両側にあった。どちらも蕎麦屋で、「古式手打ち蕎麦」という宣伝文句も同じだった。入りやすそうな店の方に入ったが、ここだけの話、腹の底に残ったものは後悔の種だけだった。北進するにつれて、空は晴れ上がり、西に傾く前の太陽の方向の靄の中に、岩木山のシルエットが見えた。あれこれ迷った。天気が良くなる見通しがないので登山は諦め、フェリーで北海道に渡ることにした。19時10分の出航ギリギリの乗船受付だったが、何とか乗せてもらうことができた。午後11時10分頃、函館着。道の駅きこない(北海道上磯郡木古内町)で午前0時頃就寝。〔走行距離995.4k〕

 6月29日土曜日。曇。午前5時半前起床。左側臀部に直径1センチ程の出来物、押すと痛む。左腰ベルトより少し上部、横一線に赤い擦り傷。生身の人間に傷、異変は付き物だ。素足だと寒かった。インスタント麺と切餅の朝食。午前8時58分、檜山郡上ノ国町の湯の岱温泉に到着。(上ノ国町の位置関係について。北海道南西部の海老の尻尾のような半島、渡島半島、その尻尾の右側が亀田半島、その左側が松前半島だが、その松前半島の根元部分が上ノ国町だ。)湯の岱温泉の営業開始は午前10時。1時間程待機。湯客は6名。彫り物をした壮年。多摩ナンバーの左ハンドルのベンツに載っていた老年。この爺は洗い場で下着を洗濯していた。残りの3名は特徴がない。湯船に浸かりながらこの場の想念をまとめた。世間に6人いれば、3人は筋金入りの狡い男で、1人は歴然たる常識人で、残り2人は日和見主義的な境界人。従って、すべてを多数決で決めるとすれば、狡猾派が常に勝つことになる。(そして、もっと留意すべきことは、今便宜的に人間を単純に3種類に分類したが、実際は、各々の人間が、場合によっては他の2種類の人間の顔を見せることもあるということだ。)仮の世の実相に対する暗澹たる思いに沈み込みながら、狭い世間を眺めていると、信じられない光景が次から次へと目に飛び込んだ。6人ともなぜか浴場から去る前に、自分が使用した洗い場の腰掛けや桶を放置せず、きちんと浴場の一隅に元の通りに整然と片付けたのだ。たまたま6人全員が几帳面な性格の持ち主だったのか。ずぼらな僕は、不思議の念に打たれたまま、暫く湯の中で呆然と浮いていた。帰り際、暇そうにしていた受付の婆さんに世間話を持ち掛けたが、「そうですね」と気のない対応だった。薬類はどこで買うのかと尋ねると、地元住民は江差まで買いに行くと答えた。

 昼飯を食うために、江差町海の駅に立ち寄った。戊辰戦争の時に使われた軍艦開洋丸を復元した資料館が併設されていた。売店の土産物の中に、土方歳三の俳句集があった。「うらおもてなきは君子の扇かな」、俳句もいいが、なかなか写真写りのいい男だ。

 午後2時10分、江差の北隣、乙部町の滝瀬海岸。たまたま浜辺で出会った「福宝丸」の老船長と少々言葉を交わした。ムラサキウニの漁の準備だという。漁具は、6m程の棒の先に鉄製の大きな爪が2本Y字形に取り付けられた単純なものだ。色々聞き出したかったので、僕が「福宝丸、名前がいいねえ」と掉さし気分で話し掛けたが、老船長は多忙なのか、口数の少ない人なのか、長話をしようとはせず、海に背を向けて坂道を静かに帰って行った。荒々しさとは正反対の、繊細で温和そうな、生け花のお師匠さんのような雰囲気のある老人だった。

  乙部町三ツ谷橋付近での自己像については、どのように描けばいいだろうか。釣りの練習をしていて、竿の周囲で糸が絡んでしまったという事実がある。自分の過去や未来における抑圧、束縛、不自由からは逃れて、海と釣り竿と自分というのっぴきならない三角関係の中で、僕は悪戦苦闘していた。絡み合った釣り糸を解きほぐし、釣り糸に餌を付け、海に投げ入れ、魚を釣る、これが<この時の譲れない問題のすべて>であり、同時に、自分の意思一つで<いつでも譲り渡せる問題>に転化しうるものでもあった。なぜなら、間の遊びだからだ。何をしてもいいのだ。過去の出来事は、たとえそれが遊びだったとしてもなかったことにはできない。もうそこには<間>が存在していないからだ。そこから行き過ぎてしまった僕らは一切介在できない。一つ一つの<間>において絡んだ糸を解きほぐしている<今>は、まさに現在進行しているものだ。僕は自由な<間>に入り込んでいる。確かに、今は糸を解きほぐさなければならない。しかし、この雁字搦めにされた行為は、<不自由>の範疇にはない。むしろ、自由に遊びの間に入り込んでいる。解決の糸口さえ見つからないこの厄介な絡み、ここに<自由の今>を味わわずに、一体人はどこで味わうのだろう。見通しはゼロ。或いは、一つではない、と言うべきか。どの賽の目が出るかは分からない。岸辺で苛立ちながらも、神経を擦り減らしながらも、僕は絡んだ糸で織り込まれた自分の世界をゆっくりと味わい尽くすべきだったのだろう、いずれは脆く崩れ去る世界であったにしろ、いつまでも絡まり続ける世界であったにしろ。道の駅よってけ島牧(北海道南西部の海老の尻尾の根元付近)で宿泊。車中で弁当と酒。強風のため、時々、車体が揺れた。夕暮れの中を定期バスが運行している情景を目にすると、侘しく一人で晩飯を食べている身にも何となく心の安らぎが染め付けられるようだった。左膝の辺りにビリビリと来る感覚が間歇的に生じた。風は夜中にその激しさを増した。〔走行距離1,185.1k〕

 6月30日日曜日。曇。朝食、バター餅、味噌汁、茶、大豆1品(と、メモにあるが、思い出せない)。午前5時15分、身支度完了。行く先思案。5時47分、出発。7時前、弁慶岬(寿都郡寿都町)で釣り。強風で困難。上から下まで装備万全の青年釣り師が数名いた。やはり隙のない心構えというものは、隙のない外観に表れるものだ。

 積丹半島の西、古宇郡泊村立泊小学校近辺の漁港で釣り。自転車に跨ったおじさんが近づいて来て、「釣り禁止」と言ったようだ。訛りが強いのか、発音不明瞭なのか、ほとんど言葉が聞き取れなかった。かなり長い間話し合ったが、聞き取れたのは「熊が出た、テレビ、泊小学校、祭り、酒、煙草」ぐらいだった。奇しくも、僕と同じメーカーの色違いの腕時計をはめていた。別れ際、飴3個を贈呈しようとしたが、なかなか受け取らなかった。毒入りとでも思ったのだろうか。昼に積丹うに丼を食べるつもりだったが、どの店も超満員で食べられなかった。余市の道の駅スペースアップルに午後2時53分到着。駐車場に車を置いて、ニッカウイスキー工場見学。そこで擦れ違った韓国系の、質素だが洗練された身なりの若い女性に魅了されたが、今はもう記憶に残っていない。美人の顔も覚えておられないようでは、男ももう終りか。ウイスキーを4杯飲んだ後、電車で小樽へ行った。寿司屋で5千円余使った。帰りの電車の中、斜め前に座っていた外国人女性は、有川浩の英訳本を読んでいた。〔走行距離1,382.3k〕

 7月1日月曜日。曇。午前6時41分道の駅スペースアップル出発。余市川で釣りの練習。仕掛けを投げたら、向こう岸の岩に引っ掛かり、二進も三進も行かなくなった。何気なく振り仰ぐと、橋の上に自転車に跨ったままこちらの様子を見降ろしている男が二人いた。多分通勤途上なのだろう。下手な釣りを笑われているような気がして、少々恥ずかしかった。川の流れは侮れないが、水位は膝頭程度だった。止むを得ない。なるべく浅瀬を選び、ふらつきながらも慎重に徒渉し、仕掛けを回収した。午前9時45分、何も釣れず、飽きも来て、断念。
 
 南下。11時過ぎ、倶知安市の十割蕎麦店で蕎麦を賞味する。雰囲気、味、共に良い。晴天時には多分店の大窓から羊蹄山が見えるのだろう。隣のパン屋へ行く。店主が「5分待ってください」と言って、その場でコロッケを揚げてくれた。熱々だ。こういうのが本当のサーヴィスだ。もしまた倶知安に行くことがあれば、必ずこのパン屋に立ち寄るぞ、と僕は固く決意した。近くの京極温泉に入り、倶知安のコインランドリーへ行き、道の駅名水の郷きょうごくで日程を終了した。〔走行距離1,483.8k〕

 7月2日火曜日。曇。名水の郷一帯の敷地は広大で、使用料1時間千円のテニスコート、京極温泉等があった。羊蹄山が目の前に晴れ間から圧倒的な山容を現すと、俄然抑えきれない衝動が湧き起こり、7月4日に登る予定を立てた。斜里岳登山は予め旅の目的の一つに数えていたが、羊蹄山については、まったく考えていなかった。これも<間の遊び>だったか。午前9時、ニセコ五色温泉へ足を延ばし、営業開始まで待機した後、湯に入り、数年前の冬の雪をかぶった五色温泉を思い出しながら、ゆったりと足を伸ばした。他に客はいない。この湯の中の贅沢で満ち足りた時間をたった一人で味わっているという幸福感。一度一人旅の醍醐味を味わうと、人はもう病み付きになる。と言っても、人の複雑な、時に辻褄の合わない心を一筋縄で始末することは出来ない。ここから話はやや飛躍するが、一人旅志向の奥の方の襞の裏側には微量の自虐趣味があるのではないか。僕はひょっとすると、みずからを生け贄として埋めるかわりに、人目に付かない岬や鎮守の森の外れに佇んで、無意識の内に微かな贖罪意識を吐き出しているのかもしれない。「人生は荒行の連続だ。そこでは享楽と忍苦の混じり合った一塊のものが、瀑布のように激しく行者の頭上に落下している。生涯を通じて狂いの無い、透明な世界で静かに暮らすことなど誰にもできない」、こうして贖罪という名の女々しい身勝手な弁明が、僕の中の不毛の世界に蔓延ることになる。・・・五色温泉の入口の戸を開け、券売機で入浴券を買い、湯に入り、立ち去るまで、僕は管理人に一度も会わなかった。関係性のない所には自虐も贖罪もあり得ないものだ。
  
 午前11時頃、川の名も橋の名も不明だが(多分、尻別川だと思う)、その河床の赤茶色だけが印象に残っている川で、最初のキャスティングをした瞬間に仕掛けの部分だけが飛んで行ってしまった。今度の失態は誰にも目撃されていなかったが、自分の不器用さに厭悪を感じると共に深い溜め息が出た。ランチを倶知安町の旧比羅夫小学校校舎を改装した店、「冒険家族」で食べた。他に客はいなかった。愛想のないおばさんの飯の味はまあまあだった。ちょっきり千円だった。尻別川で釣りをして(完全に準備できていないのに仕掛けを川に投げて失って)、自分の性格が分かった。いい加減。投げ遣り。手堅いの反対。こういう芳しくない側面が間間表に現れるということだ。自戒を重ねなければならない。道の駅ニセコビュープラザで宿泊。目の前に羊蹄山の全容が見えたり隠れたり。〔走行距離1,594k〕

 7月3日水曜日。曇。午前6時前、セイコーマートは営業開始前だったのでセブンイレブンで朝食を取る。羊蹄山見えず。小雨も降る。昨日、今日、左臀部間歇的に痛む。6月29日の左膝辺りの痛みは消失。朝6時から営業開始の温泉、ニセコアンヌプリ湯心亭へ行く。湯代千円。ニセコ町の町民プール(温水)の横の空き地に駐車し、昼時まで周囲を徘徊した後、カフェ「white birch」で、今まで一度も食べたことのないチーズバーガーを注文し食べた。「日本人だ。あんなもの食べられるか」という頑固な明治男が抱くような固定観念は、チーズのように溶解していった。悪くない。価格1,200円と見合う味だった。添え物の皮付きジャガイモが旨かった。図書館に行き、川釣りの指南書を探したが、なかった。坐骨神経痛か、昨日よりもひどくなった感がある。30秒程度の間隔で痛みが生じる。引き続き、道の駅ニセコビュープラザの駐車場で宿泊。〔走行距離1,616.8k〕

 7月4日木曜日。曇。天気予報は晴れの見通し。山もほぼ全容が見えたので、羊蹄山に登ることに決めた。午前5時5分出発。午前10時過ぎ登頂。10時半下山開始。午後2時過ぎ駐車場に帰着。高所ではガスがかかり眺望はきかず、9合目辺りでは噴火口方面より冷たい強風が吹き上げてきて寒かった。また9合目の岩場付近は踏み跡が多く、どれが安全な登山道かを示す印もなかった。道迷いの危険性はその岩場付近にしかない。登山口から9合目までは、高層ビルの階段のような味気ない急坂の連続でかなりきつかったが、体力さえあればよく、判断力は要らないような道だった。坐骨神経痛のような症状が前日あったので、不安を感じながら登り始めたのだが、一歩ごとに不安は解消されていった。登山と言う荒療治が功を奏した。途中、追い越したり、追い越されたりの関係性の中で、5、6名の青年グループ(多分、六花亭という菓子会社の社員)と言葉を交わすようになった。一人は地元出身で、僕が「地元ならいつでも登れるからいいね」と言うと、中学時代に先生に引率されて登って以来の2度目の登山だと答えた。そんなものかもしれない。希少性のないプロセスに誰が血道を上げるだろう。下山後、ニセコ温泉甘露の湯へ行き、スーパーで食料を買い込み、車中で下山祝いと快癒祝いをした。その夜は夜中に一度も小便で起きることもなかった。前夜と同じ駐車場で宿泊。〔走行距離チエック漏れ〕


 7月5日金曜日。曇。羊蹄山全く見えず。朝10キロ歩く。有島記念館前、ニセコ駅、親子坂(有島武郎縁の道)周辺を漫歩。午前9時9分終了。途中、野鳥が囀る雑木林の中の小道で、陸上スキーで鍛錬している外国人娘と出会し驚いた。まったく場違いの、まるで異次元から突如闖入して来たような存在だった。擦れ違いざまに挨拶しただけだったが、香りの良い花のような北欧系の清潔感あふれる魅惑的な娘だった。僕は、名付けようのない透き通るほどに仄かな寂しさを感じつつ、振り返らざるを得なかった。小川のせせらぎや木道から離れて、広い道路に出ると、向こうからジョギング娘がやって来た。豊かな胸が揺れる様子を想像してほしい。その時、僕がどこを見ていたか言うまでもないだろう。朝の清澄な空気、野鳥の囀り、小川のせせらぎ、そして、何年修行しても脱離できない煩悩。南無阿弥陀仏。

 午後3時42分、余市に舞い戻る。道東方面に大雨予報が出たからだ。ぬかびら温泉行き、斜里岳方面行きを延期した。再度、道の駅スペースアップルで宿泊。暇なので、入場料を払い、余市宇宙記念館の中に入り、3D映像を見たり、プラネタリウム(白い幕を張っただけの子供騙しのような施設)を見たり、宇宙飛行士テストを試みたりした。この宇宙飛行士テストは、鏡像を覗き込みながら鉛筆で線を引くだけの簡単なものだったが、楽しい興奮を覚えさせてくれた。今まで使ったことのない脳の部分を初めて使っているという快感、と言えばいいだろうか。古稀になっても、新たなものに挑戦したり、能力を開発し続けるという努力は怠りたくないものだ。

 退館後、一杯飲みに小樽へ。「日本橋」とかいう名の寿司屋では、飛び回るたった一匹の蠅にイライラさせられ、不満足のまま退出した。その足で、寿司屋「政」へ行ったが、順番待ちだった。癪だったので、食べることを止めた。堺屋通りをぶらつくことにした。路上に描かれた輪を使ってケンケンパをする美しい女性の笑顔を見た。大人っぽいワンピース姿と子供っぽい仕草との魅力的な結合。その愛らしい姿を母親らしい人が撮影していた。僕は一瞬で大人っぽい女性の魅力の虜になってしまった。僥倖と言うべきか、僕らはそこで別れ別れになってしまう運命ではなかった。運河で再会した。人気の撮影スポットである橋の上で、母親が娘の写真を撮っていたのだ。周囲は観光客で袖が触れ合うほどだ。右も左も記念撮影に夢中だ。誰にも怪しまれないと思い、僕は運河を背景に笑う娘の写真をレンズの端の方を使って撮った。母娘は角度を変えては何枚も写真を撮り合っていた。確かに運河の夜景は素晴らしかった。橙や緑の灯影が水面にゆらゆらと反映している。<自由な今>から<自由な今>へ揺れながら、誰もが満喫しているようだった。更に僥倖と言うべきか、帰路の小樽駅構内で、僕らはまた出会った。母娘は札幌方面へ帰る様子だった。プラットホームでもまだ母娘は写真を撮り合っている。娘は、いつもと言ってもいいほど白い歯を見せて微笑んでいる。ひょっとすると、娘は嫁入り前に最後の親子旅を楽しんでいるのかもしれない。そんな想像をしながら、僕は僕で名残惜しさを感じつつ、娘の最後の笑顔を胸の奥に密かに刻み込んだ。

 余市の暗がりを駐車場まで戻る。冷たい余所余所しい看板や建物のコンクリート製の壁。進入禁止のロープ。歯を磨いて寝る。午後9時過ぎだった。〔走行距離1,816.8k〕

 7月6日土曜日。曇。朝方、実在する歌手Kの夢を見る。荒唐無稽なので、割愛。余市川沿いを散歩。小鼠の死骸が3体。左足付け根、歩くと痛む。昨夜の小樽市で発症したもの。ニッカ工場へ再び行く。有料試飲コーナーで竹鶴21年物を飲む。ランチも同工場内のレストランで食べる。ほろ酔いのまま、歩いて余市ワイナリーへ。試飲し、2本購入。途中、道端にはサクランボが実っていた。駐車場に戻り、ワインを車に置き、祭り広場へ行った。拡声装置からはソーラン節が途絶えることなく聞こえていた。警察による交通規制が敷かれた道路を山車と踊り手が通過した。保育園児、高校生、地元企業、郵便局、自衛隊、病院、役場、多くの人々が長い行列を作って踊りを競った。先頭の山車の上で太皷を叩く小学生の女の子の可愛さが一際目に付いた。特設舞台ではソーラン節とラップとの融合を図る試みも披露された。小樽駅裏にイーオンがあった。そこで、おかずを調達。

 7月7日日曜日。晴れ。午前4時26分起床。大雪山系の黒岳登頂。7合目まではロープウエイ利用。午後1時半歩き始め、午後2時20分登頂。頂上では遠くの雪渓をノソノソと歩くヒグマを発見。遠距離とはいえ恐ろしくなりすぐ下山した。大雪山とサロマ湖とを結ぶ線の中間地点にある道の駅まるせっぷ(紋別郡遠軽町)に宿泊。〔走行距離2,169.6k〕

 7月8日月曜日。晴。2004年に87年の歴史を閉じた丸瀬布町立武利小学校跡地を訪ねる。何かを掬い採ろうとするが、所詮余所者だ。何の詩情も湧き起らない。瀬古瀬温泉に行く。前に来た覚えはある。行き交う車も疎らな田舎道の行き止まりにある老朽化の進んだ施設、瓢箪型の湯船、暗くむさくるしい受付。ここが、かつてはスキーに来た皇族が利用した温泉だとはねえ。壁に張られた高松宮様の写真を見ながら、今回も僕は心の中で呟く。湯煙や栄枯盛衰世の習い。湯代500円。他に客はいず、ここでも僕は湯船を独占し、しみじみと鄙びた温泉の有り難さに浸った。
 
 天気が良いので、透き通った青い水で有名な神の子池に出掛け、ここも二度目の来訪なので写真だけ撮って、道の駅パパスランドさっつる(道東の清里町)でその日の日程を終了した。この道の駅は宿泊施設やレストランもあり、車中泊派にとっては誠に有り難い施設だった。車の中でパンを齧り、ビールを飲み、翌日の斜里岳登山の準備をした。午後9時過ぎ、闘病中の兄より闘病中の母の100歳祝いは延期するとの電話があった。僕なりに闘争中だった僕は、危うい不均衡に揺れて泣きながらも、「僕は僕で倒れる所までは吉のルートを驀進するしかない」と思い定め電話を切った。〔走行距離2,442.8k〕

 7月9日火曜日。晴。コンビニで買ったお握りで朝食。斜里岳(1,547m)へ。午前5時17分頃出発し、午後12時20分頃下山。往復7時間。沢筋を右岸に渡ったり、左岸に渡ったりして登る野趣あふれるルートなので、夏の登山としては打って付けの山ではないか。水の中や濡れた岩の上を歩くが、スパッツと登山靴さえあれば濡れずに登れる。念願の山を征服した時の僕の幸福感は、正に雲にも昇るようなものだった。復路については、沢を下ることは困難と判断し、距離的には遠くなるがより安全な尾根筋を選択した。行きも帰りも僕と離れないように歩く一人の男がいた。連れがいるのは心強いものだが、ここだけの話、こっそりと立小便をしたかった時だけは困った。彼のおかげで、しかし、登頂記念の写真を撮ってもらうことができたので有り難かった。下山後、パパスランドで入浴し、近くのコインランドリーで洗濯し、午後7時過ぎ横になった。

 7月10日水曜日。朝、清里町の美しい畑の風景を見に行く。「美しい」というより「落ち着く」風景。道の駅しゃり(斜里郡斜里町)経由で、有名な「天空に続く道」へ。ウトロへ。某食堂でうに丼を食べるが深く失望。スーパーで売っているパック入りうにをそのまま皿に載せて出して来た。斜里町岩尾別温泉の「ホテル地の涯」へ。湯代千円。露天風呂が混浴になっていたが、誰もいないので独占。瀬古瀬温泉とは正反対の明るい清潔感あふれる温泉だった。心底からゆったりと寛いで湯と戯れた。ホテル前の水車や古木には確かに見覚えがあった。しかし、入浴した記憶は最後まで蘇って来なかった。ここがラウス岳登山の登山口になっていたとは知らなかった。羅臼に向かう国道334号の知床峠展望台では、そのラウス岳がはっきり見えた。羅臼の南、根室海峡に面した道の駅おだいとう(野付郡別海町)で宿泊。〔走行距離2,780.7k〕

 7月11日木曜日。曇後晴。別海町の中春別、摩周湖近辺、弟子屈町、釧路市と走る。午前8時9分、川上郡弟子屈町の双岳台(阿寒湖の東)駐車場で雌阿寒岳(1,499m)の雄姿を眺める。天辺には雲。登るべき山は多い。糠平温泉へ。創業100年の糠平館グランドホテルへ。源泉掛け流し。然別湖経由で道の駅うりまく(河東郡鹿追町)へ。同駅で宿泊。風邪のような症状が強まる。思えば、9日の斜里岳登山中に喉に違和感があった。Aコープ鹿追のレジ係に「この辺に食堂ないですか」と尋ねると、娘っ子はまるで「食堂」という言葉を生まれて初めて耳にしたかのような顔で、不明瞭な発声で「ないです」と答えた。〔走行距離3,063.4k〕

 7月12日金曜日。曇。朝暖房、日中クーラー。早朝大便し、出発。喉不調。富良野へ。色豊富な畑の絨毯を求めて、「富田ファーム」へ。前に来た時の記憶が蘇る。圧倒的に中国系の観光客が多い。冷えたメロン二切れで千円。特にどうってことなし。ラベンダーなどの花々よりも娘たちの容姿を見て回った。歩き疲れて、日蔭のベンチに腰を下ろし、目の前を行き交う観光客をぼんやりと眺めながら、「斜里岳登頂でどうも燃え尽きてしまったようだ」と心の中で呟いた。心が弾まない。達成感には浸れるのだが、次の目標を打ち立てる意欲が湧いて来ない。帰途に就くしかないと函館を目指すが、途中、三笠高校生レストランでランチ(ハヤシライス)を食べ、急遽、札幌のビール工場見学に心が動いた。道の駅花ロードえにわ(恵庭市。苫小牧の北)で宿泊。午後7時20分頃、伊吹町のI氏から「畑の管理、7月末日で終わりにさせてもらいたい」との連絡があった。軽い気持ちで相続した畑、年を取るにつれ厄介な物を相続してしまったという後悔の念が強くなる。吉のルートのはずだったが、段々と凶のルートに変わりつつある。寄付も売買も贈与もできないならば、後は放置しかない。さて、どういうケリをつけるべきか。この凶のルートは捨て、なるがままにならしめて、僕としては飽くまでも残された吉のルートにのみしがみつき驀進するしかないか。ところで、その「残された吉のルート」の一つが、この気儘な放浪の旅なのか。〔走行距離3,331.2k〕

 7月13日土曜日。雨。午前5時18分、セブンイレブンで朝食。札幌の南、支笏湖(千歳市)に午前7時26分到着。羊蹄山は支笏湖の西方面にある。従って、札幌、支笏湖、羊蹄山を結ぶと三角形になる。支笏湖の湖心から斜め上にある丸駒温泉(大正4年創業)、ここは気に入りの場所なので、立ち寄らずに帰ることは出来ない。ここの露天風呂の深さは、支笏湖の水面と同じ高さなので、支笏湖の水位が低くなると、足湯のような形でしか利用できない。この日は、生憎水位が低い日だったので、内風呂にだけ入った。咳が止まらない。車中泊を止め、支笏湖ユースホステルに泊まることにした。客が少ないので、8人部屋を一人で使用。熱、夕方37,3度。症状は、咳、熱、頭痛、喉痛。辛かった。午後3時過ぎから翌日の午前5時までベッドで寝ていた。〔走行距離3,472.7k〕

 7月14日日曜日。曇時々晴。支笏湖ユースから国道453号を西へ。壮瞥町でランチ。風邪のため何を食べても美味しくない。蟠渓温泉の湯人家へ。室蘭本線そして函館本線に沿う形で、内浦湾を反時計回りで約180度走り、道の駅YOU遊もり(茅部郡森町)へ。喉痛、咳、症状緩和せず。夜は、近くのスーパーで買った豆腐一丁のみ。その日の反省、「他人のマナー違反、ルール違反は許せないが、自分のそれは大目に見てしまう」。まったく人間やってるのが嫌になるねえ。〔走行距離3,705.2k〕

 7月15日月曜日。雲多いが、陽が射す。五稜郭見学。12日の記述、「この凶のルートは捨て、なるがままにならしめて、僕としては飽くまでも残された吉のルートにのみしがみつき驀進するしかないか」、これを踏まえて、紫式部の「わりなしや人こそ人といはざらめみづから身をや思ひ捨つべき」を歌えば、いや、今こそ歌うべきだとは思うが、歌えば、この日の五稜郭でのそぞろ歩きで心に染み込んだ「すべての負になるもの」が、「みづから身をや思ひ捨つべき」の一念に結晶するだろうし、何としても飽くまでも結晶させねばならない。グリーンピア大沼(函館の北北西。茅部郡森町)で宿泊。チエックイン時、鳥肌が立つほどの悪寒に襲われ、満足にペンも握れない有様だった。部屋で測定すると、体温は38度を超えていた。

 7月16日火曜日。曇。前日から咳をすると、右脇腹付近が釣るように痛む。朝、量的にはまあまあ食べる。40分程ホテルの周囲を散歩。昼、ザル蕎麦半分食べる。部屋に備え付けのT字パズルを1日掛かりで解く。同ホテル宿泊。

 7月17日水曜日。曇。右脇腹痛、苦になる。咳をすると、味のある痰が出る。息を吸う時、右脇痛む。函館山近辺を見物。ランチ、回転寿司。何を食べても美味しくない。山からの夜景は霧のためわずかしか見えなかった。同ホテル宿泊。〔走行距離3,879.7k〕

 7月18日木曜日。小糠雨。チエックアウト。自分より格下の者の幸福に対しては妬みを抱くが、格上の者の幸福に対しては讃嘆の念を抱く。そういう傾向が自分にはあるということが、この朝、食堂を利用していた養護施設入所者のグループの様子を見ながら自覚できた。午前9時30分、函館フェリー出航。この時点の走行距離3,910.3キロ。午前11時下北半島の大間港到着。寿司屋を探しながら細い道を走っていたら、突然警官に制止され、一方通行違反(罰金7千円点数2点)を指摘されびっくりしたが、なぜか大目に見てくれた。お礼に寿司を奢りたかったが、断られるのは火を見るよりも明らかなので、拝むようにして礼を述べた。大間の寿司を食べたが、味覚はまだ本来の状態に戻っていなかった。大間町から時計回りで国道279号を走り、本州最北端の村、風間浦村の下風呂温泉へ。貴重品入れなし。他に湯客はいない。熱い湯だった。湯船の水色の木枠。浴室の木の床。鄙びた雰囲気。ここは井上靖縁の地で、小説「海峡」の舞台になっている。また、新島襄が函館から米国へ脱出する2か月前に立ち寄った所でもある。そう説明する看板があった。

 有名な恐山(活火山)菩提寺を参拝。昔と比べると、亜硫酸ガスの湧出量は減っているという。境内に無料の温泉がある。その内の一つは混浴。この方面については悟りを開いているので、僕は迷うことなく混浴温泉の方を選んだ。中には誰もいなかった。道の駅みさわ(青森県三沢市。下北半島の東側の付け根)で宿泊。〔走行距離4,064.4k〕

 7月19日金曜日。小雨。朝、車中でカップラーメン。バナナ2本、カロリーメイト1個。右脇の張り、痛み、緩和せず。三沢市から青森市の酸ヶ湯温泉へ行くのは、南下しようとしている僕にとっては逆戻りに等しいことではあったが、「日本の混浴を守る会」に賛同している僕としては、是が非でも行きたい場所だった。無駄話は省こう。浴場に入ると、「日本の混浴を守る会会長三浦雄一郎」という掛札があった。前に来た時の会長名は「森繁久彌」だった。いや、先を急ごう。男女の入り口は別々だが、中に入ると、まさに混浴の浴槽がある。婆さんしかいないだろう。いるわけがない。そんな生温い予断を鋭利な斧で打ち砕いたのは、韓国系の若いカップルだった。二十歳前後の健全な精神と健康な肉体を持った青年男女だった。男は、どうでもいいが、眼鏡をかけ、頭髪を短く刈り込み、引き締まった肉体を誇らしげに見せていた。女は清潔感あふれるショートヘアで、容姿端麗、まさに花も恥じらう佳人だった。男が仕切りの向こう側にいる女をこっちへおいでと呼んでいるのが僕には分かった。言葉は理解できないが、状況は手に取るように読めた。女が娘らしい羞恥心を見せると、男はなおも熱を込めて呼ばった。とうとう女が文字通りの全裸で男の方へ床の上を歩いてやって来た。まさに刹那の衝撃が僕のすべてを粉砕した。まばゆいばかりに白い肌。均整の取れた身体。そして、豊かな黒々とした陰毛の房。ああ、何という甘美な煌めきだ。僕は呼吸をしていただろうか。無論、見るつもりなど毛頭なかったのだが、あまりの美しさにどうしても見ずにはいられなかった。近づいてきた女を見て、湯の中で男は満面の笑みを浮かべていた。僕は素知らぬ顔で瞑目し、何度も心のスクリーンに流れる再生動画を鑑賞していた。煩悩則菩提。

 秋田県鹿角市の道の駅おおゆでチーズバーガーを食べる。大湯共同温泉の梯子をする。川原ノ湯と荒瀬。どちらも管理人は不在だった。料金箱に金を入れて入った。道の駅にしね(岩手県八幡平市。盛岡市の北)で宿泊。岩手山の裾野が少し見えた。〔走行距離、4,305.9k〕
 
 7月20日土曜日。朝、岩手山見えた。咳がまだ出るので、予定を変更。もう登山は断念する。乳頭温泉へ行き、茨城の兄の病気見舞いをし、帰宅するというものだ。午前10時、乳頭温泉(秋田県仙北市。田沢湖の北東、盛岡市の北西)に到着。途中、乳頭山(1,478m)の天辺の乳首の形を確認。鶴の湯を訪れる。何遍来てもいい温泉だ。ここにも混浴露天風呂があったが、柳の下にそうそう泥鰌はいない。落胆気味の男どもの顔があちこちに浮かんでいた。別館の囲炉裏端で芋鍋とヤマベの塩焼きを食べる。味覚はほぼ正常に戻ってきていた。
  
 乳頭温泉から宮城県中山平温泉(山形県鶴岡市と宮城県南三陸町を真横に結ぶ線の中間辺り)を目指すが、日帰り入浴タイム(午前11時から午後1時半)に間に合わず、中止。途中の秋の宮温泉(秋田県湯沢市)に入るが、風情なし。山深い鬼頭峠を越えて、秋田から宮城県へ。あら伊達な道の駅(宮城県大崎市)で宿泊。〔走行距離4,590.7k〕

 7月21日日曜日。福島県の新甲子温泉みやま荘(猪苗代湖の南)へ。山間の湯屋ではなく、近代的な建築だった。二本松市経由で国道4号線を一気に南下、茨城県大子町へ。道の駅奥久慈で宿泊。〔走行距離4,829.5k〕

 7月22日月曜日。朝9時に病院へ行くという兄の家へ8時40分頃到着。病気見舞いと言っても、身内だから四角張らずに世間話をする程度のことで、土産の羅臼昆布と酒類を渡すとすぐ退去した。玄関には収穫したジャガイモが広げて干してあった。その足ですぐ軽井沢へ向かった。小諸ユースホステルで宿泊。物腰の柔らかいオーナーで、夜8時から10時まで、もう一人の宿泊客と3人で語り合い、最後には開設40周年記念のボールペンを頂いた。

 7月23日火曜日。晴。朝ユース付近を散歩。高台で佐久平を見下ろすことが出来た。朝食後、軽井沢へ行く。国道18号線ではなく、林道を走って行った。いい裏道を発見した。軽井沢では、有料駐車場に車を止めて、6時間程歩いた。気は紛れたが、こんな所を当てもなく徘徊して何になるのかという虚脱感と焦慮感の混じったものに襲われることもあった。やはり、自分はあの念願の斜里岳征服で燃え尽きてしまったのか。昼飯を食べにレストラン「longing house」に入った。接客係の可愛い女性に「シュワシュワと泡の出るシャンペンでないと駄目だよ」と念を押して注文すると、「これでよろしいですか」と桃色の笑顔で運んで来た。多数の細かい泡が頻りに底から上部へ競うように立ち昇っている。「明嵐」という名札が目に付いた。気分よく、暫くこの接客係の極めて珍しい苗字を巡って歓談した。その時の僕は、さぞかし鼻の下が伸びていたことだろう。出身は茨城だと教えてくれた。受け答えに素直さが滲み出ていた彼女の笑顔に僕は少し酔ってしまった。旅の間には、冷たい建物の壁を見ながら歩く時間もあれば、このような小さな幸せに気分が軽くなる時間もある。そこから駐車場までは、しかし、遠かった。
  
 その夜、清里のユースホステルに宿泊した。他に誰も客はいなかったようだ。オーナーの車で、その奥さんと3人で近くの温泉に行った。寝るだけだった。特筆すべき事項のない、大きな空っぽに包まれたような場面で旅の最後の夜が終わった。

 7月24日水曜日。一直線に帰宅。総走行距離5,543.7k。総経費238,066円。

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