1999年8月22日、ブロアでの夜。ホテルメルキュールは、観光案内所で紹介してもらった。観光案内所の窓口では、高校生くらいの女の子二人が、アルバイトで受付業務に携わっていた。僕が、自分一人で泊まるという意味のことを言ったら、なぜか彼女たちは笑い転げた。発音が変だったのか。笑いの波に乗りながら、一人の女の子が、「今夜、ホテルのあなたの部屋の下で、結婚式があるよ。夜遅くまで騒ぎ声が聞こえるかもしれないけど、いい?」と聞いてきた。僕は、一瞬、迷ったけれど、楽しい思い出になるかもしれないと考え直して、同じように軽い調子で「いいよ」と答えた。三ツ星、480フラン。パリのほぼ半値。それでいて、施設や雰囲気は、後で分かったことだが、2倍良かった。僕がホテルの地図をもらって窓口を離れようとした時、バックパッキングの髭面の若者が「やあ」と陽気に受付の女の子たちに挨拶して近づいて行った。彼は、なぜか片手に長い杖を持っていた。
夕刻、散歩するためホテルメルキュールから外に出た。ロワール川に美しい石橋が架かっていた。サン・ジャック・ガブリエル橋。そんな名前だった。1724年築造。石アーチ11連、長さ280m。僕は、隣に恋人もいなかったが、長い間、飽きもせずその橋を眺めていた。と、鴎のような鳥が数十羽、橋の上や、下や、周りを旋回しだした。気付くと、ちょうど川面が鏡のようになっていた。飛び回る鳥もアーチも川面に映っている。要するに、鳥の群れは、空中でも水中でも乱舞を繰り広げ、アーチは、空中にも水中にも美的曲線を描いていたということだ。幻想的だった。「川面が鏡になっているんだ」と気付くまで、どれくらいの時間が経過しただろう。僕は、短くも甘美な錯乱の中で酔っていた。予め探していた風景を遂に探し当てたのではない。偶然出会っただけだった。長年の憧れの風景を目の当たりにする時の感激は、無論大きい。しかし、このようにまったく偶然に見つけた自分好みの風景というものも、忘れがたいものだ。
ガブリエル橋を包んだ幻想美の世界からこの世に戻った僕は、ホテルメルキュールまで戻ることにした。ホテルのすぐ手前の夕闇の中だった。昼間対応してくれた受付係の若い女性が前方から歩いて来るのに出くわした。多分、ホテルでの一日の勤務を終えて帰宅するところなのだろう。小柄で髪は短く、正直そうな端正な顔立ちの持ち主だった。熟した色気とはほど遠かったが、清潔感あふれる女性だった。彼女は、僕を見つけるやいなや「今晩は」ではなく、「ムッシュー」と言った。笑顔を作らずに、どちらかと言えば、硬い表情で。と同時に、(僕の記憶違いかもしれないが)、彼女は、膝を少し曲げて敬意を表するような格好を見せた。彼女にとっては、多分、定型挨拶なのだろう。受け手の僕には、しかし、新鮮で刺激的で甘美だった。一瞬、僕は自分が王侯になったような錯覚を覚えた。僕は、しかし、ただ日本式に会釈をした。僕らは擦れ違った。その時僕が感じた嬉しさとときめきは、ささやかなものだったが、今も褪せることなく心の奥底に残っている。ガブリエル橋の下、ロワール川は流れ去っても、僕の思い出は流れ去らない。7年後、極東の小さな島で、顔の黄色い中年男がこんなことを懐かしく思い出しながら書いているとは、彼女は、夢にも思っていないだろう。
8月23日。僕はパリに戻った。夜、9時頃、偶々見つけたホテルに入り、空室の有無を尋ねると、あるという返答だった。ホテルの名は、「MON FLEURI」。僕がローマ字で自分の氏名をカードに書くと、受付係の男は、カウンター越しに少し首を捻りながらそのカード上の文字を見て、「ヤマギワさん?」と日本語で聞いてきた。僕は、まさかこんなパリの真ん中で、自分の名を日本語で、しかも、フランス人から呼ばれようとは夢にも思っていなかった。僕の驚きが分かってもらえるだろうか。突然、「山際さん?」とフランス人に日本語で言われたのだ。それからが、僕たちの長い対話の始まりだった。
彼は、日本研究家で、生まれは南フランス。大学もそちら。アルバイトでパリのホテルの受付係をしていた。日本人女性と婚約中で、来年(2000年)日本に行き、結婚し、日本人にフランス語を教える仕事をする。室町時代、雪舟、庭、日本民話、そういうものが好きで研究していると言った。僕たちは、カウンター越しに9時から夜中の12時頃まで立ったまま語り合った。その間、他には宿泊客も来なければ、電話も鳴らなかった。僕は、和歌、石庭、禅の精神、川端康成、三島由紀夫などについて喋った。日仏英の三ヶ国語のごちゃ混ぜだった。彼は、かなり日本語を知っていた。喋ることよりも読むほうが得意だった。僕は、小説「雪国」の有名な冒頭をノートの切れ端に書いてやった。主語が省略されることの多い日本語について、色々と例文を作成し、教えた。彼は、日本語には、漢字、カタカナ、ひらがな、外来語があるので、覚えるのが大変だと言った。彼は、カウンターの下に隠し持っていた分厚い日本語学習本を取り出し、見せてくれた。四角く仕切られた桝目の中に、一字ずつ漢字が書いてあり、そこに読み仮名と意味とが添えられていた。彼は、「にょろにょろ」のような日本語の擬態語は、フランス語にはないので、とても面白いと言った。話は尽きそうもなかった。彼は、しかし、三ヶ国語を駆使しての対話に頭脳を使い過ぎてしまったらしい。少し疲れた様子を見せ始めた。僕たちは、日本語でお休みと挨拶を交わして、話を打ち切った。僕がその翌年、南フランス放浪の旅に出掛けたのは、実は、彼の影響だった。彼が、パリより南仏のほうがいいと僕に教えてくれたその夜は、僕の最初のフランス放浪の旅の最後の夜だった。
しかし、帰国の途に着く前に、少しだけ時間を逆戻りさせて、8月23日の昼間の出来事を書いておかねばならない。思い出す度に、なぜか少し愉快な気分になる。特段、おかしい経験をしたわけではない。どちらかと言えば、つまらない話だ。しかし、当事者としては、思い出す度になぜか愉快な気分になる。
パリと聞いて、小説家ヘミングウエイを連想する人は、多分ヘミングウェイファンだろう。僕は彼の愛読者ではないが、俗調かぶれの面が多々ある。その午後、僕は、ある有名なカフェを探して、出向いた。空いた席に座り、カフェを注文した。ギャルソンに、ヘミングウエイの定席を尋ねた。すぐギャルソンは案内してくれた。先客の女性が座っていた。彼女の左後方から覗くと、カウンターの一角に、「ヘミングウエイ」と彫られた金色のネームプレートが嵌め込まれていた。この席に、ヘミングウエイがいつも座っていたのだと思うと、自分が井の中から広い海に出た蛙になったように感じることが出来た。時間的なずれはあるものの、ヘミングウエイとの接点を持つことが出来たのだ。同じ席に座れなかったのは残念だったが、嬉しかった。ヘミングウェイ。僕は、あの有名な「雨に濡れた物語」を思い出しながら、心の中でその名を呼ぶ。僕は、案内してくれたギャルソンに右手を差し出した。僕は、力強く握手した。その時、僕の右手の掌には、10フラン硬貨があった。なぜそんなチップのやり方をしたのか、今となっては、まったく覚えがない。ガイドブックに書いてあったのか。分からない。ギャルソンは、顔色一つ変えずに、「ありがとう、ムッシュウ」と言った。彼は、そのチップを落とさずに、誰にも気付かれずに上手に受け取った。僕にとっては、驚きだった。妙技だった。僕も鮮やかだったと思う。魔術師のように、僕の掌には、いつの間にか、10フラン硬貨が引っ付いていた。慣れているとは言え、受け取る方も鮮やかだった。この場面を思い出す度に、「誰が為に金は移る」と言いたくなる。さっちゃんだったら、笑い声は立てないだろうが、ニヤッとして可愛い笑窪を見せてくれるような気がする。
もう一つ、別のパリの思い出を。同じくその日の昼間に経験したことだ。ぶらぶら放浪をしていたら、偶然、ピエール・カルダンの店の前に出た。冷やかしてみようか、と一瞬靴先を入り口の方に向けた。中には、しかし、入って行けなかった。店内を覗くと、背の高い、がっしりした体格の大男が3人、黒のスーツを着て、入り口の方を監視していた。用心棒にしては、シックだった。強さと美しさとを兼ね備えた映画俳優並の男たちだった。スーパーマーケットの頑強そうな監視員も見た。しかし、このカルダンの店の男たちは、何かが違っていた。肉体の頑丈さは、多分、両者とも同じようなものだっただろう。思うに、着ている物、身のこなし、眼差しが違っていた。自尊心など微塵もない僕とは無縁の世界だった。泥、染み、弱さ、愚劣さ、怠惰、悔恨、こういったものの固まりである僕にとっては、まぶしい世界だった。僕には、やはり、外部世界が晴れようと降ろうと、薄汚い服をまとって墓場をうろつくのが似合っている。日本人お得意のグループ行動だったら、僕も入っていただろう。一人旅では一人旅の軌跡を描くしかない。
「MON FLEURI」の受付係は、毎晩、仕事の合間に、日本語学習本を開くだろう。ヘミングウエイは、カフェで、いつも同じ席に座った。僕は、明けても暮れても墓場から墓場へとさすらう。誰でも日常性の中で、反復しながら考える。同じことの味気ない繰り返しの中で、人は、ふと未来の自分に繋がるひらめきを垣間見るのか。運悪く、惨めな成れの果てを見るだけに終わるとしたら、現在の生き方を変えなければならない。癖になった仕種や思考パターンを、工夫のない時間の使い方を変え、身近な人間と支え合う態度を、より意識的に取捨選択せねばならない。結婚も、創作も、放浪も、ある人々にとっては、ある一つの解決方法だ。みんな自分の頭の上の蠅だけを追っ払っていればいい。それだけで上等だ。犠牲的精神も追従も忍耐も、ある人々にとっては、ある一つのあり方だ。みんな自分の甲羅に合わせて穴を掘ればいい。なるようにしかならない。ただ、行き詰まりが、どんな道にも必ずある。この世では、いつだって、あるいは、いつかは、逆風か、良くて凪だ。ある日、突然真っ逆さまに、あるいは、徐々に、破綻する。それまでは、誰でも自分自身に辿り着く道を選ぶ自由がある。染みや皺だらけの普段着の中に潜んでいるものは、自己嫌悪や劣等感だけではない。生きるか死ぬかの運命は無論のこと、小さな幸せも潜んでいる。割れたガラスや汚れたカルダンには、価値がない。新たに作る過程、進む過程、未来を目指す過程にしか価値はない。僕の今回の放浪の旅は、あまりに受身だった。いや、2回目も3回目もそうだった。誰かが言った。旅の仕方を見れば、その人物が分かる、と。まだまだ黄色い顔の恥掻きの旅は続く。
1999年8月24日、帰国の旅。シャルルドゴール空港までRERの電車で行くことにした。ホテルから北駅までは歩いた。道に迷ったため、着いた時は、足が棒の状態だった。北駅から電車に乗った。CDR2で下車すべきところCDRで下車してしまった。駅員に訳を話し、また、すぐにホームに戻り、次の電車でCDR2まで行った。一瞬、冷や汗をかいた。
CDRターミナル2、AF276、13時20分発。飛行機の確認をした後、出発までぶらぶらした。空港待合室では、日本人女性の優雅な一人旅の姿が目に付いた。
8月25日、無事に成田到着。僕は、亀の甲のような背中のバッグしか荷物がなか
ったので、誰よりも早く空港から出ることができた。この時の快感は、何とも言えない。大きな荷物がぐるぐると回っているところで自分の荷物が出てくるのを待たなくていいのだ。生きて帰れないかもしれないとの思いで出発した者だ。手ぶらで帰るのが似合っていただろう。ついでに言えば、自分の棺桶の中には何も入れてほしくないものだ。あの世であろうと、この世であろうと、どこへ行く場合でも、副葬品としては闇さえあれば十分だ。ダイヤモンドも薔薇の花も、ワインも即席ラーメンも、要らない。
成田から東京へ向かった。それは、記憶している。東京からどうやって名古屋まで戻ったかは記憶がない。新幹線に乗ったのか。鈍行列車を乗り継いだのか。(というのも、僕は、たとえば根府川駅のような小さな駅で途中下車するのが好きだから。根府川駅の待合室の壁には、茨木のり子さんの根府川駅を歌った詩が飾ってある)。ともかく、僕は、多治見の自宅に帰ることができた。すぐ風呂に入り、缶ビールを飲んだ。出発する時と比べると、ジャガイモ2個分くらいは心の重さが軽くなっていた。この世には、体の減量が必要な人もいれば、心の減量が必要な人もいる。こんなところで、第一回目の放浪の話は、幕としよう。
今まで、3回試みたフランス放浪の旅の、幾つかの場面を書いたが、書き残したことがあるとの思いが強い。今となっては、しかし、もう日記風に書き留める意味を見出せない。思いつくままに、心に浮かぶ印象を粗描するだけだ。
NICEからSAINT-JEAN-CAP-FERRATまでの海岸線が僕の中の煌きの散歩道だった。たった一人だったけど、確かに一つの楽園の中にいたと思う。コートダジュールの夜は、知らない。僕はあふれる陽光の下、穏やかな波の銀色の輝きしか見なかったのではないか。湾内に停泊していた巨大な船。スキューバダイビングをしていた人々。僕は海岸沿いの細い道を一日中歩いていた。西から東へ、東から西へ歩いた。紺碧の海を右に見たり、左に見たりした。白い岩の群れを見たり、岸に寄せる白い波を見たり、木陰から裸の女を見たりした。どこを見ても、絵葉書だった。さて、未だに僕の中の映写幕に幾度も映し出されるのは、一人の女性の姿だ。僕が海岸沿いの細い道を歩いていたら、向こうから白一色のワンピースを着た金髪の女性がゆらゆらと歩いてきた。スカートには襞が細かく織り込まれていたが、その襞がまばゆい光にまみれながら揺れていた。彼女が歩くたびに襞が揺れ、光が煌き、細い体がなよなよと揺れた。それでも、話しかけられるまで、僕は言わば自失状態の中に閉じこもっていた。白い輝きが僕の目の前に止まった。目を開けると、彼女がいた。
「タバコ、ある?」
彼女は、「こんにちは」も言わずに、突然、僕にそう言った。見ると、彼女は右手の人差し指と中指とで見えないタバコを挟んで吸う真似をした。彼女は手ぶらだった。バッグも持っていなかった。僕は残念ながらタバコを持っていなかった。
「持っていない」僕もぶっきらぼうに答えた。彼女はするりと横をすり抜けて細い道を下って行った。僕は振り向いて彼女の後姿を見送った。彼女は陽炎のようにゆらゆらと揺らめきながら消えて行った。映画スターの雰囲気だった。辺りはプール付きの別荘地帯だった。馬鹿な話だが、このことがあってからだ、僕がフランス旅行にタバコを持っていくことにしたのは。
コートダジュールの砂浜。広げた敷物の上に座って僕の方に顔を向けながら微笑んでいる水着姿の若い女性。この一枚の写真について語るならば、・・・。
それはある名もない小さな砂浜だった。僕はいつものように海岸沿いの道を歩いていた。ある日のこと、偶然砂浜に降りて行く細い道を見出した。誰もいないと思っていたのに、降りてみると、砂浜には水着姿の若い金髪の女性が一人いた。僕はフランス語で「こんにちは」と言った。彼女も同じように「こんにちは」と言った。彼女は、しかし、フランス人ではなく、イタリアの大学生だった。フランス語も英語も少ししか話せなかった。会ってからどれだけの時間が経った頃だろう。彼女はタバコを取り出し吸い始めた。僕の頭の中には、白いワンピース姿の女性との出会いの思い出が刻まれていた。僕は、この時は、逆に、「タバコくれる?」と聞いた。彼女は一本恵んでくれた。二人きりの海岸だった。彼女は泳いだり、砂浜の上で読書したりしていた。分厚い、紙質の良い本を読んでいた。見せてもらうと、なんと「十二支」の本だった。僕は十二支のことやそれによって年齢も分かるということを話した。彼女は頷いた。僕は彼女の干支を尋ねた。僕は彼女の豊満な肉体をまばゆく感じながら、何とか食事に誘おうとした。僕は彼女の本をあちこち捲った。と、彼女は、「折り曲げないで」と言った。僕はすぐ、「ごめん」と詫びた。彼女にとって、それは大事な本だったのだ。僕は、知っている限りのイタリアの政治家、思想家、映画俳優の名を挙げた。彼女は、イタリア共産党の少し猫背気味の元書記長の名を知っていた。グラムシについても知っていた。僕は彼女を素敵だと思った。僕は彼女に写真を撮っていいかと尋ねた。彼女は微笑んで、「いいわよ」と許してくれた。僕は彼女の写真を撮った。彼女に自分の写真を撮ってもらった。女性を誘う時の、イタリア語の殺し文句は、残念ながら予習していなかった。僕は、それでも、つかの間の幸せを味わうことが出来た。波が打ち寄せる合間の短い時間だけだったけど、僕は彼女を独り占めにした。彼女は僕の食事の誘いを断った。僕はそれでも満ち足りた気分で彼女にさよならを言えた。僕らは他人だった。ただ、偶然、同じ砂浜で同じ時間を過ごした。足りないものもなければ、有り余るものもなかった。
翌朝。目覚めると、僕はすぐ頭の中で、自分がどこにいるか、今日は何月何日何曜日かを確認した。日本から遠く離れて一人でニースにいるんだ。毎朝、そんなことを自分に言い聞かせた。そういうことをしないと、自分がどこにいるのか分からなくなるような気がした。いや、そういう居場所の確認をしても、なお浮遊感のようなものは付き纏って離れなかった。テレビを見ながら、バゲット、ジュース、果物等で朝食を済ませた。カーテンを少し開け、下の方の庭を見下ろした。庭に設置されたテーブルを囲み、朝食を取っているカップルがいた。静かで平和で、幸福そうな眺めだった。
ニースの小高い丘にあるホテルから出発した。僕は再び昨日と同じ海沿いの細い遊歩道を歩いた。心の平穏を感じながら、「何もしない」という贅沢を味わうために。憧れのコートダジュールだ。何度でも歩きたかった。僕の足は地に着いていただろうか。半島の周囲の曲がりくねった細道をただ歩いた。漂っている気分だった。漂いながら、右側の海の煌く無数の波の瞬きを飽くことなく眺めた。ほとんど人とは擦れ違わなかった。昨日と同じ小道の入り口に差し掛かった。下の海岸を見下ろした。誰かが一人で泳いでいる。よく見ると、きのうのイタリア娘だ。また会える。嬉しい気持ちが少し顔を覗かせた。僕は、しかし、少し逡巡した。出遅れた。彼女より先に到着していなければならなかった。僕が先に泳いでいたら、後から来た彼女は、僕を見つけて「こんにちは」と言っただろうか。想像するだけでもワクワクする。しかし、現実は、逆風だった。機先を制することが出来なかった。逡巡の後、僕は結局降りて行かなかった。眼をつぶったままで断崖から飛び降りる、そこまでする蛮勇はなかった。僕の眼に彼女の優雅さは空間的な隔たりよりも遥か遠くに見えていたから。乞食のような放浪者が出る幕ではないと思った。
今いる所、死んだように生きている場所にはいたくはない。こんな思いがいつもあったし、いつもある。新しい世界への脱出を図るにしろ、俗界回帰を受け入れるにしろ、跳ばなければならない。跳ぶためには助走が必要だ。心理的冒険の話だ。どこへ着地するかは分からない気分のままでも、僕の場合、跳ぶことはある。軽佻浮薄か。そうだろう。見通しなどなければないほうが気楽だ。予め芳しくない結果が見通せる場合は、意欲が萎える。跳ぶ時のときめきが湧かない。僕は小道を降りずに、軽くはない心を引きずって、遊歩道に沿って先へと向かった。どんなに歩いても、心に沁みるものは波の煌きだけだった。
これを書いている今は、違う扉を開けて、時間も空間も自分の能力も超えて未知の世界へ跳んでみたい気分だ。こんな風に僕は時々、他の線路を走る誘惑に駆られる。すべきか。すべきだろう。すべきでないか。すべきでないだろう。選択の余地がある。運命を選び取るとは、何と心の躍ることだろう。これも彼岸行きか。越えて、行かねばならない。故に、ここで、旅の思い出を書きながらもう一つ別の旅を始めるという試みを始めよう。旅とは脱け出したい連続性から脱け出すことだ。
モーパッサンの『女の一生』を読む。2回目だ。女の美しい青春が短く、はかないということを知る。知ったところで、何になる。もうあの本は読まない。駅のゴミ箱に捨てた。少女期からその死まで、物語は時間軸に沿って展開する。修道院から海辺へ。読者は通常ページ順に素直に読む。そのように読まなくては、物語の筋を追いにくい。海辺から森へ。では、その物語の筋に意味があるのか。多分そうだろう。その筋を何とか良くしたくて、すなわち、自分なりにより幸せに生きたくて、誰も彼も齷齪しているのだ。その筋の展開から意味を読み取ることが出来ない者にとっては、しかし、読後に何の意味が残るのか。誰でも立ち尽くすことがあるだろう。僕は捨てられないものだけを持っていたい、そんなものがあるとするのならば。コートダジュールの光と風は、一瞬も留まることなく、僕の中を通り抜け、去っていった。手を伸ばしても掴み取ることは出来なかった。実人生においては、物語と呼べるような、起承転結のはっきりした事件が秩序正しく生起するとは限らない。いつも事件は同時進行的に幾つか起きる。病気と急用。東での遊びと西での危篤。しかも、事件相互の間には関係性があるとは限らない。水泡のように生じては消え果てる事件の数々。身内の交通事故、自らの病気と仕事上の失敗、知人の死、友人の晴れ姿。駅の受付女の微笑、スーパーのレジ係から怪しまれた行動、貸し自転車屋の優しい対応、警察官からの職務質問。脈絡のあるような、ないような。どうせ水の泡なのだ。紀行を思い出すままに気儘に書いてもいいのではないか。僕は誰に向かって呟いているのだろう。毎日電車は走り、乗降客は行き交う。美しい女は、街角で、魅力的な横顔を誰に見せるともなく見せて立ち去る。都会では、何もかもが慌ただしく動いている。生起しては消滅しているのだ、命も希望も思い出さえも。時には、それらに別れを告げる暇もないほどだ。仕方なく、僕は思い出すだけだ、とぎれとぎれに。心の中で日本海の白い波が騒いでいても、プラットフォームでうどんの立ち食いをしている僕の後姿には、そんな風景は映ってはいない。誰も読み取れない。人の心を人が知ることはできない。夢を語り合えば、しかし、心と心とは通い合うかもしれない。どんな夢を。葡萄畑から葡萄畑へ、小道から小道へ、海岸から海岸へ放浪を重ねても、僕は言わば正体のない影だった。僕はフランス人やフランスで出会った人々の眼にはどう映っていたのだろう。そうだ、こうしていても何度となく思い出してしまう、静かな街角を、小雨が降ってくるまでのあの数十分を、自転車に跨ったままの少年を。その美しい少年に名を問うと、「ニルス」と答えた。僕は心の中で「ニルス」とすぐ復唱した。彼は当然のことながら気付かなかっただろう。耳に聞こえる言葉だけが言葉ではない、この世では。
何も考えずに、その時、僕はある町の歩道を歩いていた。広大な葡萄畑の海の中を漂ってきた後だった。何と言う名の町だったろう。
何も考えずに、その時(多分、2001年8月6日の夕刻)、僕はある町の歩道を歩いていた。広大な葡萄畑の海の中を漂ってきた後だった。何と言う名の町だったろう。ボーヌか。手帳には、RIQUEWIHRと書いてあるが、今となってはどこでも良い。その日、昼間は、どこを彷徨っていたのか。多分、ZELLENBERG と言う名の名もない村だろう。一人旅の僕には、有名な観光地よりも地図にもないような小さな地味な村が似合っていた。見渡す限り、葡萄畑が広がっていた。まるで緑の海だった。緩やかな丘の斜面は、すべて葡萄畑だった。その他のものは何も見えない。人間もいない。僕は広大な葡萄畑の中をたった一人で、絵本の中をさまようようにさまよった。小さな村から村へ歩いた。花盛りの花々で周りを飾られた家があった。思わず写真を撮った。茶系の色相で統一された小さな村が、葡萄畑に取り巻かれるようにひっそりと佇んでいた。悲しくなるほど美しく穏やかな風景。これがこの世なのか。目覚めながら夢見るような時間の中を、僕は時には、貸し自転車で走った。と、ある時、突然、葡萄畑の真ん中に一軒のレストランを見出した。僕は道路沿いのその店の看板の柱に自転車を立てかけ、チエーン錠を掛け、店内に入った。客は少なかった。僕は迷わずに食事の前にエスカルゴとワインとを注文した。窓ガラスの向こうに広がる葡萄畑を見ながらのランチは、僕をとても幸福にした。食事が終わると、店員は、チーズを持ってきた。木製の皿にはチーズが山のように盛られていた。パリ市内の店ではありえない量だった。どれだけ食べても良かった。わざわざ極東からやって来た甲斐があった。命と引き換えても掴みたかった幸福は、あまりにも平凡な褻のものだった。僕は揺れる赤ワインの入ったグラスを持ち上げ、そのグラス越しに外の葡萄畑を透かすように見た。薔薇色に揺れて輝く時間は尽きることなく続くように思われた。僕は落ち着いた気分の中で窓外の葡萄畑を飲み干した。
その帰りだった。手帳を信じれば、RIQUEWIHRという名の町に戻り、ぶらついていると、薬局の前の自動販売機のようなものの前で、自転車にまたがった一人の少年が、硬貨返却レバーをガチャガチャと動かしていた。彼は返却口に手を突っ込んで硬貨が落ちてこなかったか確かめていた。一瞬注意をしようかと思ったが、顔を見ると可愛かったので止めた。僕は「こんにちは」と言って話しかけた。僕は彼に10フラン硬貨を渡した。買収だ。どういう展開からそうなったのか今ではもう記憶にないが、僕は、彼にフランス語の発音を教えてもらうことにした。lieu「場所」という単語の発音について。しかし、何度教えてもらっても、僕の発音は合格点をもらえなかった。彼は、首を横に振るばかりだった。小雨が降ってきた。いつまでも引き留めておいてはいけないかな。そんな思いが一瞬心の片隅に芽生える。僕らは、それでも、頭を雨に濡らしながらも、レッスンを続けた。僕はフランス語で、「雨が降ってきた」と言った。彼はその発音を聞いて、少し僕に見込みがあると感じたらしく、いよいよ熱心に、口を大きく開けて舌の形を見せたりしながら、模範発音をしてくれた。それでも、僕の発音は、結局、彼から合格点をもらえなかった。彼も僕も満たされない思いが残ったまま「さよなら」を言って別れた。それだけの交流だった。でも、なぜかいつまでも忘れられない。甘い思い出の一齣だ。8歳から10歳くらいの、いつまでも離れずに傍にいたいような少年だった。フランスのテレビが、日本の話題を取り上げる時くらいは、顔の黄色い発音の下手なおじさんを思い出してくれているだろうか。
2001年8月7日(火)、COLMARの空は曇りだった。これは確か僕の2回目の放浪の前半だ。そう自分に言い聞かせながら、錯雑した記憶の森の中に分け入り、一本一本目印の杭を打つ。今頃になってなぜこんな試みをしているのか。自分でも分からない。紀行を書こうとすると、やはり、どうしても時間軸の流れに沿いながら書きたくなってしまう。なぜだろう。僕の頭の中では、時間も空間も無視した記憶の断片の数々が、言わば乱雑に放り込まれた「印象画」の作品群のように積み重なっている。今夜はどの絵を取り上げようか。そういう軽い気持ちで無作為に掲出していけば、どんな「心の展覧会」になるのだろう。
多分、8月4日(土)に、パリの東駅から列車に乗り、ドイツ国境に近いSTRASBOURGに行ったのだ。甘いお菓子と綺麗な花々を組み合わせて作ったような御伽の国だった。黒い柱の斜めの線で切り取られた白い壁が、川辺で、光を浴びて輝いていた。建物の窓という窓には花が華やかな彩りを撒き散らせていた。泊まった宿は、HOTEL MAISON ROUGE と言う名だった。受付係の青年は、きちんと髪を分け、眼鏡をかけ、申し分のない美男子だった。ドイツ語もフランス語も英語も使いこなしていた。そうだ、段々と記憶が蘇る。空室の有無を問い、料金を尋ねると、1泊620フランだった。8月4日のパリのホテルでは、720フラン支払った。高級感は、このHOTEL MAISON ROUGE の方が上だった。何のためにこのドイツ国境近くの町まで来たのか。アルザスのワイン街道が目当てだったのか。そうだろう。しかし、何でも良い。どうせ放浪なのだ。手帳を見ると、8月5日のページの欄外に、「へそ出し、へそピアス、刺青目立つ」と書いてある。ワインよりも擦れ違う女の臍に気を取られていた証拠か。その時のお前は辞書なしでは「臍」という漢字も書けなかったようだな。へぇそうです。
8月7日、曇天のCOLMARからパリに戻った。パリは雨だった。東駅に13時40分頃到着。ハードロックカフェに直行した。149フランのTシャツ。高かったので、買うのは止めた。行き当たりばったりにHOTEL EXCELSIOR OPERA に入った。部屋は空いていた。いつものようにホテルでは一番先に洗濯をした。シャワー室の床に靴下と下着を置き、洗剤を振り掛け、足で踏み付けるだけの簡便な方法だ。大抵翌朝には乾いていた。一段落し、手帳に洗濯終了時刻15時42分と記入。このように「事実」を細かく鏤めると、多少は紀行らしさが出てくるか。しかし、こんな些事は、他人は誰も知りたくはないだろう。僕が小さな公園で、手帳に街路灯のスケッチをしていた時間なんてものは、僕だけの知っているポケットの中の塵の一片のようなものだ。エズ村の石垣と石垣とに囲まれた細い道の傍に立っていた細い1本の木。僕はその緑の葉を一枚指で裂いた。と、白い液が裂け目からこんもりと出てきた。誰が何に心を動かされるか。そんな事は、分からない。
パリの、このホテルの男の受付係は、僕の勘では、アルバイト学生だった。若い日のアラン・ドロンの恋人役のような雰囲気を持った女が傍の机の上に座っていた。多分、受付男の女友達だ。男の仕事の終わる時刻を、彼女は脚をぶらぶらさせながら待っていたのだろう。僕の頭の中には、6日のニルス少年との小さな交流があった。一通りの受付事務を終えた後、僕は、和仏辞典を取り出し、受付係の男に、「これはどう発音するのか、教えてくれ」と言った。僕の人差し指の爪の先には、例のlieu「場所」という単語があった。男は、発音し、意味を英語で教えてくれた。僕は彼の発音を真似た。彼は2回ほど発音をした。僕も2回ほど真似た。彼は首を縦に振った。次に、僕はheureux 「幸福な」というフランス語を指差した。男は発音した。僕は真似た。と、隣の女も机の上に座ったまま発音した。僕は女の顔を見ながら真似た。また、女が発音した。僕はまた真似た。そして、「とても難しい」と言った後、もう2回ほど繰り返し発音した。男は首を縦に振った。いとも簡単に合格点をくれた。多分ニルス少年は少なくとも彼らよりは正直者だったに違いない。あるいは、彼らは少なくともニルス少年よりは寛容だったに違いない。僕が礼を述べて、彼らに10フラン硬貨を差し出すと、ブロンドの机女は、意外にも首を横に振って、真顔で要らないと言った。首を振った時、彼女の顔の周りで美しい髪と甘い風が少し動いたような気がした。彼女は一度も笑顔を見せなかった。でも、僕は彼女の知的な眼差しと雰囲気とが気に入った。僕は硬貨を引っ込めた。彼らは「幸福な場所」にいたに違いない。僕は羨ましかった。僕はheureuxもlieuも自分の口では正確に告げることが出来なかった。他人に告げ得ないものをどうして自分の手中に収めることが出来ようか。僕が手中に収めたのは、乳液のような涙を零した緑の葉っぱと眩暈のような酔いだけだった。僕以外の他人は誰一人として受け取りもしなければ見向きもしないものだ。その夜も、僕は影として寝た。
さて、2001年のDIJONでの思い出(危ういものや不愉快なもの)を語る時が来た。手帳を見た。考えが変わった。その前にまだ他に書くべきパリの思い出が残っていた。
2001年8月7日(火)、朝、僕はチエックアウトのためにHOTEL EXCELSIOR OPERAの受付台に行った。昨夜の男がいた。隣の机の上を見る。昨日の女はいなかった。支払いを済ませた後、僕は彼に日本から持ってきた3色ボールペンを見せ、紙に黒、赤、鉛筆の線を書いた。プレゼントすると、彼は受け取った。
2001年8月8日(水)の正午、僕はパリの凱旋門(ARC DE TRIOMPHE)の天辺に上った、Mと会う約束を果たすために。凱旋門の天辺に上ったのは、1999年以来、2度目だった。少し遅刻していた。焦って入場券を買い、階段を昇った。上からの景色は見ずに、ひたすらMの顔を探した。いなかった。一瞬の胸騒ぎ。人混みの中を僕はもう一度天辺を一周した。と、確かにMの顔があった。安心した。Mは、日本から韓国経由でイタリアへ、そして僕より一足先にフランスに来ていた。僕らは8月8日の正午に凱旋門の天辺で落ち合う約束をしていた。Mの表情は日本にいる時と同じ表情だった。僕は一息ついた。その日は、その後ルーヴル美術館へ一緒に行った。僕は長蛇の列に並ばなくても入れる入り口を知っていたので、少々得意な気分で案内した。僕はMの妹のためにルーブルの地下売店でアクセサリーを買い、僕より先に帰国するMに手渡した。夜は宿舎近くの中華料理店で食卓を囲み、ロゼワインを飲んだ。309フラン。翌日は、朝から一緒にオルセー美術館へ行った。僕らの宿舎はエッフェル塔の近くの安いホテルだった。日本語に訳せば、「安らぎホテル」という名のホテルだった。ここの老マダムは今ではもうこの世にいないだろうか。ホテルを去る時、この老マダムが僕に「Come back! Come back!」と力強く言ったのを今でも鮮明に思い出す。まさか実際に戻れるとは思ってもいなかった。翌2002年の夏、僕は一人で同じ「安らぎホテル」に戻った。戻ったが、老マダムはいなかった。経営者は代わっていた。ホテルの内部も小奇麗に改装されていた。これが人生なのだろう。2001年の話の続きに戻ろう。オルセー美術館を出てから、僕とMとはブローニュの森へ行った。「BISTORO ROMAIN」という名の店に入り、ランチを食べ、赤ワインを飲んだ。299.50フラン。(当時のレートは、1フラン16.78円だった。) ブローニュの森は広大だった。二人で歩いていると、前方からサックスの響きが聞こえてきた。中年男がおんぼろの青っぽい車の中でジャズの練習していた。僕が大声で「Fantastique!」と叫ぶと、男はサックスを口から離し、僕らに笑顔を見せ、手を振った。眼鏡をかけていた。頭髪は薄かったが、まだ若そうだった。そして、すぐまた練習を始めた。ほんの少しだけど、心が通い合ったような気がした。僕は楽しい気分の中にいた。
段々とブローニュの森の中の細い道に入って行った。すると、突然草むらの中から濃い化粧をしたゲイが現れた。肩までの長い金髪(鬘か)、黒のツーピース、赤い唇。ガイドブックに書いてあったからその存在自体は予想外ではなかったが、まさか昼間から出現するとは夢にも思っていなかった。驚いた。彼は、(あるいは、「彼女は」と言うべきか。) 僕らに向かって「ニーハオ」と挨拶した。中国人と日本人との区別が出来なかったのか。僕らは応えずに気持ち悪さを乗り越えるために足早に移動した。愛憎にしろ、遊戯にしろ、生死のあり方にしろ、都会では異型が異型を連鎖的に産むのだろう。アパルトマンの一室で、ブローニュの森の木陰で、男と女(あるいは、男と男)は、甘い吐息を吐きながら、何を囁くのか。何を囁いてきたのか。未来についてだろう。それ以外には何もない。とろけるような快感の中で描く未来の夢は、自ずと曖昧にならざるを得ない。なぜなら、誰も空間の任意の点に無防備に投げ出されているのだし、誰も時間の人工的な網の中に捕われて虜囚となっているのだから。
僕らは旅行者として広大なブローニュの森のほんの一角だけを横切った。境界を越えてどんなに激しく移動しても、逆に、立ち止まって観想しても、旅行者は旅行者である限り寂しいものだ。
場所はDIJONの公園のベンチだった。僕は歩き疲れた足を休めるために座り、ペットボトルの水をごくごく飲んでいた。むやみに明るい葡萄畑を横切り、暗い教会内部を遊泳したためだろう。いつものことながら、僕の放浪は停滞感のない、言わば流動性の高い放浪だった。喉を潤しながら一息ついていると、斜め後方のベンチで新聞を読んでいた一人の紳士が英語で話しかけてきた。「喉が渇いたのか。たくさん飲むね」青系統のスーツにネクタイを着用していた。眼鏡をかけた顔といい頭髪の禿げ具合といい、外見はロシアのゴルバチョフに似ていた。僕らは世間話をした。彼は退職者だった。仕事で日本に行ったことがあると言った。芸者と一緒に飲んだこともある、とても魅力的だったと言った。僕らは最近のフランス映画界のこと、日本の溝口健二監督のことなどについて語り合った。ジャンポール-ベルモンドのことを持ち出した時、ゴルバチョフは「彼はもう終わった」と言った。僕の耳には印象的な言い方だった。今でも時々僕の耳にその時のフランス語が蘇る。僕は「家に遊びに来いよ。一緒にランチを食べに行こう」と誘われた。僕はフランス語の勉強がただで出来ると思った。正午に訪問する約束をして別れた。彼は、「じゃ、また明日」とフランス語で言った。まさにフランス語講座で学んだ通りの典型的な挨拶だった。
翌日、教えられた住所に出掛けたのは午後1時頃だった。なぜ遅刻したのか。今ではもう記憶にない。門の前に立って、僕は呼び鈴を鳴らした。と、「こっちだ」と手招きしているゴルバチョフが前方に見えた。見ると、パンツ一枚の姿だった。前日との落差に驚く。彼の部屋に入ると、フライパンを片付けていた。遅かったので、今、昼飯を食べたところだ。彼はそう言った。僕は謝った。彼は自分のベッドを見せながら、「これは18世紀のベッドだ」と言った。フランス人は古い物を愛好する。予習済みのことだった。僕は彼が服を着る間、丸いテーブルの前に座って、彼から見せられた写真をめくっていた。アフリカで撮った写真があった。彼は仕事で行っていたのだと説明した。僕がそこに写っていた人々の顔を眺めていると、彼が僕の背後から僕の肩を抱くようにした。僕は状況を飲み込んだ。身体が強張った。彼は僕の拒絶を察知したのか、肩から手を離した。僕はほっとしながら、なるべく冷静に、早くチーズを食べに行こうと促した。僕は彼の案内に従って近くの店に歩いて行った。僕らはチーズとワインを注文した。僕は青黴チーズを選んだ。そんなものが好きなのか。彼が言った。好きではなかった。ただ好奇心から注文しただけだった。僕が勘定を払った。彼は他の店に行こうと言った。ぶらぶら歩いて、再び彼の案内に従って近くの店に入った。通りに面したテーブルに座り、カフェを注文した。彼は目の前を通行する女たちを眺めては、あれはアメリカ人だ、あれはイタリア人だと小声で僕に教えた。僕にはまったく区別が付かなかった。僕は自分の黄色い手帳やフランスで買ったノートを広げながら、彼から色々フランス語を聞き出そうとした。彼は親切に教えてくれた。僕はどこから見ても無骨な風来坊だった。卑しい乞食だった。そんな僕の肩をゴルバチョフがなぜ抱きしめようとしたのか。彼の世界の果てと僕の世界の果てとは次元が違っていた。飢餓感や不安感は同じように深かっただろう。同じ寓話を共有できただろう。今度は彼が勘定を払った。僕らは店の前で、「さよなら。いつかまた」という挨拶を交わして別れた。死者に対して言うように「Adieu」とは言わなかった。人生を省みる。誰かが歌ったように、この世は別ればかりだ。形式的な「さよなら」さえも言わずに別れ別れになってしまった人々の何と多いことか。黄色い表紙の手帳を開く。ゴルバチョフの書いた即興詩と署名とがある。日付は2001年8月26日。そろそろ読解してもいい時期かもしれない。
筆記体で書かれたゴルバチョフの即興詩は、解読しづらい。
「・・・夜の芳しさの中で、
我々は・・・の芸術について談笑した。」
確かに、僕は、シャガール美術館で、自分の小さな黄色い手帳にShagallの絵を模写した。そして、カフェで、それを彼に見せ、「誰の絵か分かるか?」と聞いた。下手な絵だった。彼に見当がつくはずもなかった。
僕らが話し合っていると、目の前の通りで、1台の高級車が道路の真ん中で急転回した。運転者が故意にしていた。ゴルバチョフは、突然、「フリョウだ」と日本語で言った。僕は驚いた。挨拶なら片言の日本語を話す外国人は幾らでもいる。しかし、咄嗟に「不良」などという言葉は出ないだろう。僕は、ひょっとして彼は日本語が話せるのではないかと思った。僕は思い起こす。昨日、公園で水を飲んでいる時、僕は彼から「君のグループはどうしたのかい?」と英語で尋ねられた。彼は日本人に特徴的なグループ行動について知っていた。僕は長い間日本人ではなかった。言い過ぎか。僕の決定的に憧れた人間が、偶々日本人ではなく、フランスの放浪詩人だったと言えばいいか。誰でも、しかし、自分の目的に向かってまっすぐ邁進しているのだろうか。誰でも「不良」のように空しく痙攣的に「急転回」に「急転回」を重ねているのではないか。
僕の模写した、黄色い手帳の中のShagallには「愛」も「夢」も「聖」も匂わなかった。なぞれば謎が解けるわけではない。僕はいつになったら自分の世界を創出することができるのだろう。いつになったら真似事の放浪を終え、いつになったら模写した殻から抜け出せるのだろう。
隠喩が隠喩と直結し出す。荒唐無稽が何を生み出すのか。分からない。言説のモザイクか。仮に光と風に満ちた装飾画を作れたとしても、それが誰かにどんな意味を持ち得るのか。創作方法に関しても、作ったモザイクに関しても、説明する気は起こらない。語法の正否を飛び越えて、僕の紀行も急転回の軋り音を響かせるか。窓外に走り去る風景は、いつだって少なくとも僕の気を紛らせる。どこに辿り着くかは風次第だ。万華鏡を覗く。一瞬の慰めを得る。いつまでも続く保証がないからこそ美しい、何事も。永遠に変わらない愛を誓うロミオとジュリエットは気違いだ。
そうだ、今ここでMarc Shagall (1887~1985) について殊更付記する理由も必然性もない。なければなしで付記してもよい。そもそも人間の自由な行為にそういう四角四面なものはない。あってもよい。一回転すれば、楼閣は砂上で砂の堆積に戻るのだ。自由恋愛を見よ。束の間の偶然だ。Shagallがロシア生まれの画家だとは知らなかった。知ったところで彼が描いた星は同じ輝きのままだ。僕は、しかし、「ロシア生まれ」に漂着したい。パリの例の「安らぎホテル」で僕が世話になったのは、毎朝バタ付きパンとポット一杯のカフェとを用意してくれた例の老マダムだけではない。ほっそりとした背の高い、いつも茶系の服を着ていた女性がいた。受付嬢だ。どちらかと言えば、年齢より老けて見えた。彼女はロシア生まれだと言った。老マダムが僕に「彼女は七ヶ国語を話すのよ。日本語も少し」と感嘆詞付きで話したことがある。僕と受付嬢は或る午後、二人きりのロビーでロシア文学について話し合った。僕が例により知っている限りのロシアの小説家の名前を挙げた。そして、ドストエフスキーが好きだと言った。「私も好きよ」と彼女が答えた。目の前に彼女の右手が伸びていた。僕は何のことか咄嗟には飲み込めなった。僕には握手の習慣がなかった。彼女はすぐ手を引っ込めた。この一瞬に感じた僕の悔恨は何と表現すればいいのだろうか。僕は彼女を包み込む涼しい風になれなかった。今更右手を伸ばすわけにはいかない。気付いた時には二度と這い上がれないクレヴァスに落ち込んでいた。微小だけれども鋭い絶望感の針が心の奥の隅を刺激した。ほんの短い時間に感じた長い悔恨だった。
帰国する朝だった。偶然、ホテルの近くの路上で彼女と出会った。多分その時だったと思う。僕は彼女にautographを求めた。彼女は僕の例の黄色い手帳に「Mlle ZOKO」と署名した。今でも時々、ふと彼女を思い出す。ZOKO嬢はホテルの狭い中庭で、一人、立ったままよく煙草を吸っていた。彼女の真上には小さな四角い空があった。飛び立って行くにせよ、行かないにせよ、寂しそうな空だった。僕の記憶の中では、彼女は一度も笑顔を見せたことがなかった。多分、僕の顔が笑顔を映したいような鏡ではなかったのだろう。翌年、訪れた時、「安らぎホテル」は改築されていた。老マダムもZOKO嬢もいなかった。狭い中庭も小さな空もなかった。
キルケゴールの「反復」が蘇る。僕は僕の作ったモザイクを投げ捨てる。思い出の破片が散らばる。僕は一人で電車に乗る。珍しく行き先は決まっていた。ベルサイユ宮殿だ。ここで憧れの放浪詩人に出会えるとは出会いの瞬間まで思っていなかった。
キルケゴールの「反復」が蘇る。僕は僕の作ったモザイクを投げ捨てる。思い出の破片が散らばる。今度はどんな煌きか。僕は一人で電車に乗る。珍しく行き先は決まっていた。ヴェルサイユ宮殿だ。ここで憧れの放浪詩人に出会えるとは出会いの瞬間まで思っていなかった。
2001年8月14日(火)、ヴェルサイユ宮殿内に入る。或る部屋の壁面一面にアルチュール・ランボーが左端に描かれた有名な絵があった。少年詩人が頬杖を突いて、汚れない表情を輝かしている。髭を生やしたベルレーヌが難しい顔を見せている。ここにあったのか。僕は絵の写真を撮った、抱きしめたいような気持ちに包まれながら。帰国して分かったことだが、残念なことに、その絵は写っていなかった。
ヴェルサイユ宮殿の庭園を歩く。広大な公園の一部を歩いただけだけど、それでも50分かかった。マリー・アントワネットも歩いのだ。僕は少々興奮しながら、そんなことも考えた。フランスの歴史が身近に感じられた。
ZOKO嬢はホテルの狭い中庭で、一人、立ったままよく煙草を吸っていた。彼女の真上には小さな空が四角く区切られていた。ヴェルサイユ宮殿の庭園で空を見上げた。歩いても歩いても、空はどこまでも続いていた。これが権力か。空と大地は権力にひれ伏す。鳥類は、しかし、支配されない。渡り鳥には国境もない。
2001年8月16日(木)、曇り時々雨。多分、場所はボーヌだろう。僕は貸し自転車でCAVEへ行った。昼、葡萄畑を見つつランチを食べた。ワインを2杯飲んだ。CAVEにおけるワインの値段は、スーパーの安いワイン(5フランから26フラン)の5倍から20倍だった。
2001年8月17日(金)、貸し自転車でPommardへ行く。その前に、Hameau de Mandelot、Nantouxの小さな村へ行った。村人の爺さんに道を尋ねた。日に焼けた赤ら顔は、まさに絵に描いたような好々爺そのものだった。本当の人生がどんなものか、言外に教えられているような気がした。あの爺さんの善意に満ちた、表裏のない顔を思い出すたびに、僕はうなだれてしまう。自分の歪んだ心的態度がどこか間違っているような気がしてならない。爺さんは、親切に道順を教えてくれた。「僕は日本人です。ありがとうございます」僕らは強く握手をして別れた。爺さんの手は、厚くがっしりしていた。
2001年8月18日(土)曇り後晴れ。ボーヌからBouillandへ徒歩で行く。曇っていると涼しく、歩いても汗が出なかった。晴れると暑かった。途中、山中で、滝の音を聞きつつ、野糞をした。原っぱでは牛馬が放牧されていた。9時過ぎ、腕時計を落として壊した。景色の良い所を探して歩いた。Bouillandは田舎だった。レストランを探した。一軒だけあった。木造の古いレストランだった。二階に案内された。他に客はいない。マダムがどの席がよいかと尋ねてきた。僕はバルコニーの一つしかないテーブルを選んだ。田舎の、静かなレストランを自分一人が借り切っている気分だった。主菜に何を食べたのかは忘れたが、エスカルゴとワインを飲み食いしたのは覚えている。思えば、フランス放浪中は、毎日毎日、昼間からワインを飲んでいた。僕は旅をしていたのではない。ワインからワインへ、酩酊から酩酊へ、眩暈から眩暈へ、さすらっていたのだ、埋められない空虚感を埋める真似事をしながら。名もない村の街道を歩いても、名もない森の中の細道に迷い込んでも、名もない海岸の渚で体を波に任せても、僕の心の中はいつも何もない砂漠だった。否、ままならぬ人生の諸断片があった。矢のように過ぎ去った光陰があった。凡愚の悔恨があふれていた。そういうものすべてに対しては、自分としては、南無阿弥陀仏と言うしかない。誰が安らかに死ねるか。自然のままでは安らかに往生できないから、人は酒や睡眠薬を飲んで自殺するのだろう。食後、ささやかな幸福感の中でカフェをすする。ようやく地元の一組の家族連れが二階に上がって来た。彼らも多分ささやかな幸福感を味わうだろう。同じ幸福感だ。ただ彼らが味わうものは、僕が味わったものと違って欠けたものがない幸福感だろう。欠けたものがない幸福感も、しかし、いつかは欠ける。僕はバルコニーから彼らを眺めながら、心の中で、そういう移り変わりがなるべくゆっくりと彼らに訪れることを祈った。勘定を済ませた後、僕は再び、景色の良い所を探して歩いた。歩いても歩いてもどこにも辿り着かなかった。帰りがちょっと心配になってきた頃、たまたま一台の車が僕の傍に止まり、年配の男が「どこへ行くのか」と尋ねてきた。「ボーヌです」と答えたら、「乗せてやるよ」と言った。断る理由も見当たらなかった。その日の僕の気儘な遠足はこうして尻切れとんぼに終わった。
2001年8月19日。その日がその日だった日、僕は何をしていたのだろう。正確に思い出したとしても、何の意味もないかもしれない。多分、ボーヌかその周辺をさまよっていた、ガイドブックによる下調べなしに。風任せの、出たとこ勝負だった。天気は、手帳によれば、「曇り後晴れ後雨」と移り変わった。多分、その天気の移り変わりに応じて、僕の気儘な心の中の鏡も曇ったり、霧の合間に薄日が射したり、涙に濡れたことだろう。当時、酩酊から酩酊へさまよいながら性格分析したかどうかは覚えがない。どちらかと言えば、僕は変わらぬ心ではなく、応じる心の持ち主の方に分類できる。その時々の外界の光や風に動かされやすい。そして、他人や自分自身の言葉にも。
素面の時も、現実離れの白昼夢の中にいることが多い。何に応じているのか。一つは脳の表面に泡のように生じる白昼夢にだ。手探りで恐る恐る触手を伸ばしている盲目状態の芋虫だ。我ながら嘆かわしい話だ。もう一つは何かの拍子に受ける詩神からの啓示だ。僕は少年時代から、例えば、柊の実物を見る前に柊の歌を作るような傾向があった。ヒイラギという言葉の響きに魅せられてしまうのだ。覚めるまで、夢や幻想は七色の七倍の光で僕の鏡面を華麗に彩る。意識的にかどうかは分からないけど、日常的に現実感覚から抜け出してしまっていた者にとっては、この世は一場の夢だった。
・・・・僕は朝だった。
出発であり、期待であり、希望であった。
何かが始まりそうな予感があった。
この世にあるのは<始まり>だけだ。・・・・
いつだったか、多分このボーヌ滞在の後だった。ニースの丘の上のホテルを拠点に放浪をしていたある日、僕は列車とバスとを乗り継いでイタリア国境に近いフランスの小さな山村へ出掛けた。村に一軒しかないパン屋でパンを買った後(店員は残念ながら娘ではなかった)、僕は例によって一人で墓場巡りをした。そこで珍しいものを見た。ほとんどの墓石に故人の楕円形の写真が嵌め込まれていた。陶器写真というものだろうか。石に刻まれた四桁の数字から四桁の数字を引く。20代前半だ。佳人薄命か。夭折した女性の写真の前では、何とも言えぬ感情を味わった。彼女の誕生した日の両親の喜び、少女時代のあどけなさ、娘時代の夢、そして死の床の周りの悲嘆を想像する。墓場は山の上にあった。見上げると、風の通る空しかない。何ともすることが出来ない時間的なずれ。こんなふうにしか巡り会えなかった僕らは悲しかった。君は土になっている。どこまでも甘い感傷に浸る。これが僕の旅の形の一つだった。藻の陰に隠れるメダカのように、僕はいつだって白昼夢の中に逃げ込むことができた。ぐるりと見回すと、周囲は茶系の荒涼たる山々、見下ろすと、茶系の屋根の全部歩いて渡れそうな重なり、可憐な花などどこにもなかった。こんな茶色い単調な風景の中で、彼女は短い生涯を送ったのか。僕は墓と墓との間を歩き回った。墓地の外縁に来た。恐ろしい風景が目の前に広がっていた。深くて巨大な谷底だ。僕は延々と遠くまで続いている垂直に切り立った絶壁を眺めた。確かに人生に<終わり>はあった。・・・・
僕はいつだって白昼夢の中にいるのと同じだった。白昼夢にも確かに終わりがある。それでも、僕は宣言する、この世にあるのは<始まり>だけだと。死さえ終わりではなく、二度と戻れない旅の始まりだ。僕は自分にそう言い聞かせる。戻れない。どこにも戻れない。どこへ行くかも分からない。しかし、どんな旅でも、たとえ隣町への旅でも、元には戻れない。戻れるわけがない。同じ狂愚には戻れる。この世には、ただ<始まり>だけがあればいい。瞬間瞬間に人は死に、瞬間瞬間に人は蘇る。瞬間瞬間に人は、<始まり>を生きている。言い切れないことでも、こんなふうにたまには言い切ってみることだ。理に合わなくても、誰にも迷惑はかからない。ランボーは歌った、「ほら、見つかったよ、永遠が。」と。この隠喩は僕の中でどう発展するのか。泣きたいほど美しい空の青を人はどこで見上げるのか。墓場で見た陶器写真の娘は、死ぬまでに何かを見つけたのか。僕はしばしば心の鏡に単純な二分割の絵を描く。純粋な時間の殻の内部と猥雑な日常生活の内側との間を行き来するという繰り返しをする。その反復の中で、いつ歌いたいような自分だけの永遠が見つかるのか。既に見つけていながら、ただ歌おうとしていないだけなのか。
8月19日の朝、ボーヌ。僕は行列に並び、若い姉妹が焼くパン屋でクロワッサンを2個買った。希望という名の膨らし粉が、彼女たちの手によって挟み込まれていた。焼き立てのパンはよく売れていた。僕は一体何を買ったのか。青い眼の娘たちが白い粉と一緒に撒き散らす幻想の破片か。いずれパン屋の娘たちもすぐ売れてしまうだろう。支払いを済ませた後、パン屋の娘たちに「さよなら」と言った。彼女たちも「さよなら」と言った。確かに、そこはフランスだった。日本のレジ係は決して「さよなら」とは言わない。鼻唄で「薔薇色の人生」を歌いながら、僕は丘の方へ歩いて行った。ガイドブックに載っていた眺望絶佳地点を探し回った。見つからない。徒労の憂き目を見た。人生にハズレは付き物だ。人は毎朝、香ばしい希望の匂いに満ちたクロワッサンを買い求めなければならない。
8月19日。黄色い手帳によると、この日、僕は町のワイン市場へ行き、試飲をしたことになっている。覚えがあるようでない。「18本程のワインの試飲をした。判別できぬ」と手帳には書いてある。広場で、ほろ酔いの体をベンチに埋め、老人たちのジャズ演奏を3曲程聴いた。ドラムのオヤジがスティックで時々傍の鉄の柵を叩いていた。痺れるような、新鮮な音楽になっていた。この鉄柵を叩く場面は、今でも覚えている。テレビの劣悪番組を見て過ごす日本の夜の虚しさに気付く。僕は放浪中、こういう無料の街頭演奏を何度聴いたことだろう。パリでニースでボーヌで、その他行く先々で。そう、ニースでは、ピアニストの街頭演奏を聴いたこともある。何と贅沢な夏の夕刻の過ごし方か。何と贅沢な日常の時間の停止だったことか。日常性の割れ目に打ち込まれた快い楔。鮮やかな隙間。そこだけ火花を散らす不連続の時間。ワインを片手に心の疲れがゼロになる。一日の労働の後に広場のテーブルで薔薇色の讃歌を飲み、薔薇色に波打つ一刻を味わう人々。心の外で、そして心の中で、僕はまた一つ新しいドアを開けたような気がした。こういう生活の楽しみ方があったのか。飛び立たなければ見えない世界があることは確かだ。夢の蕾を抱えていても、飛び立たねばならない場所にいながら佇んでいるだけでは何も始まらない。
この日、僕は昼も夜も、店では一度も食事をしなかった。経費節約だったのか。夜、ホテルの部屋で、ブルゴーニュワインを飲みながら、スーパーで買ったLee thons marines sanpiquetという缶詰を食べた。うまかった。レモンの森を旅している気分だった。その後、何度この缶詰を食べたことか。手帳によると、この日、僕は放浪中に、小犬を散歩させていた少女と出会い、挨拶を交わしたことになっている。まったく記憶に残っていない。「天使も一瞬に過ぎ去る」と汚い字で付け足してある。可愛い女の子は皆天使か。メモとは言え月並みな表現に我ながら嫌気がさす。逆だ。一瞬に過ぎ去ったから彼女は天使になったのだ。いずれにせよ、天使に出会えた幸運な日だった。同じ日に、ハズレと幸運とが舞い込んできたわけだ。ありがたいことだと思わねばならない。
手帳には、「二度と訪れぬ道や景色を見ることの哀愁」とも書いてある。つまらない事を書いたものだ。旅の間、確かに時間はたっぷりあった。歩いて、飲んで、仏和辞典を引くことだけが毎日の仕事だった。時間がたっぷりあると、凡人はつまらない事を書くものだ。書くばかりではない。二度と生きることのない貴重な時間を生きていると分かっていても、凡人は反省することなく無駄に過ごす。ボードレールが歌ったように、人生は航海だ。漂流を<避ける>ためではなく、<続ける>ためには、よく働いた後は無論のこと、よく働く前も、よく遊んだ後でさえも、羅針盤での位置確認は必要だろう。正しい航路など、しかし、あるはずがない。誰でも人は皆五里霧中だ。どこに灯台があるのか。どのように進んで来たのか。進んで来なかったのか。それさえ知る手掛かりを見失わないようにすれば良い。澪標を打ち立てろ。迷い込みを意識しだすと哀愁が始まる。
確かに、結局は、どんな日も同じような一日の繰り返しになってしまう。特別な一日にすべきなのに出来ずに終わってしまう。自分が見つけた「永遠」も短い。短いから、せめて歌にして、繰り返し掴みたくなるのだろう。反省する限り、すべては一瞬に過ぎ去る。過ぎ去るものは儚い。儚いものは、しかし、儚いなりに楽しめる。問題は、毎日通う道や慣れた景色を見ることの空虚だ。うんざりするほど見慣れた風景は、見ている限り、過ぎ去らないのだ。皮肉なものだ。見慣れた風景にまとわりついている空虚感が過ぎ去らないのだ。この空虚感はどこから来るのか。それは多分、自分の手による遠近画法で描いた展望を見ないことから来る空虚だ。旅を続けながら気づいたことだが、僕には、この展望、見通し、計画がなかった。風に遊ばれるタンポポの綿毛だった。二度と訪れぬ道や新しい景色を見ていても、この振り払えない空虚が僕を振り回した。右を見ても左を見ても、過ぎ去る印象群の乱舞や絶叫ばかりの中で、命の砂時計は静かに落下し続ける。18本も試飲すれば、舌の味わう印象は濁り、個々の境界は曖昧にぼやけ、「これだ!」と叫びたい感激の爆発出口は見つからなくなる。僕の手帳をその日、下地として染めていたのは、堂々巡りの低徊から出たいのに出られない哀愁だった。
・・僕は朝だった。
それにもかかわらず、目に見えるものは消え行く光ばかりで、
輝き出す光は眩し過ぎて見えなかった。
僕は目覚めの遅い朝だった。・・・・
手帳によれば、僕はその後列車に乗ってコートダジュールに向かった。何が欠けているのかも分からぬまま、僕は空虚から空虚へとさまよう旅を続けた。自分が撒き散らしたモザイクに足を滑らして、時々は宙に舞いながら。
2001年8月23日。NICEVILLEからANTIBES へ。 ピカソ美術館を訪問。入場料30F。アンチーブは、素敵な町だった。プルーストの小説「失われた時を求めて」に出てきた場面と同じ風景を発見した。僕は、その日、ランチの後で、12時26分、海辺の風景を黄色い手帳にスケッチした。その下手なスケッチの余白には、「水平線が人の頭より高い」と書いてある。プルーストを読んでいなかったら、多分見つけることのできなかった風景だ。海が自分の目より高い位置にある。海が空にあったと言えばいいか。
*****
3回に亘ったフランス放浪について、書きたいことは、大体書いたような気がする。誰のためでもなく、自分のために。今は、一段落した気分だ。いつかまた書きたい気分になれば、続きを書くだろう。それまでは一応ここで一区切りとしたい。
・・・・・ある時、僕は紺碧の地中海を見ながら、細い道を歩いていた。ふと見下ろすと、波打つ岩場にカップルがいた。女は全裸だった。男は水着を着けていた。彼らは岩の上で日光浴をしたり、紺碧の海で泳いだりしていた。引き締まった美しい男女の肉体が夏を謳歌していた。女の陰毛は、一部、剃られていた。手入れされていたと言うべきか。整えられていたと言うべきか。僕は眼が眩んだ。太陽の光と女の大胆さに打ちのめされながら、僕はしばらくの間、その場に釘付けにされてしまった。痺れるような恍惚感が僕をぐるぐる巻きにした。・・・・
コートダジュール。そこは僕にとってこの世のパラダイスだった。さようなら、いつかまた。僕は君を忘れないだろう。
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