岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

妙高山から帰る その2

第5章 登攀

 7月17日(日)、朝4時半に湯に行った。と、先客が一人中から出てきた。長湯はせずにすぐ出て、昨晩のうちに作っておいてもらったおにぎりを食べた。5時。もう外の道を登山する人の話し声が聞こえた。5時20分、私も出発。もう一つの無料露天風呂「河原の湯」経由の登山ルートは、通行止めになっていた。大雪のため橋が落ちたそうだ。スキー場経由で登るしかなかった。
 この登山ルートは、ガイドブックには、「中級コース」と書いてあった。自分が初級なのか中級なのかは知らない。行くしかなかった。
 しばらく行くと、「赤倉温泉の源泉」という場所に着いた。硫黄の臭い。ボコボコと湯が湧き出している音。こんな遠い所から湯を引いているのか。一つの小さな発見。
 道は、段々急になっていった。途中、木の枝に板がぶら下がっていた。「胸突き八丁」と書いてあった。文字通り、そこから先は、胸突き八丁だった。何度も立ち止まり、何度も息を整えた。天狗平に午前8時に到着。
 先日の伊吹山登山でもそうだったが、今回もまた、私は後から登ってくる人にどんどん追い抜かれた。その度に、何となく寂しいものを感じた。
 クサリ場を過ぎ、岩壁を攀じ登り、とうとう山頂に到着した。午前10時5分。山頂では雲の切れ間から運よく火打山(百名山の一つ)などが見えた。溶けるように空に消える雲も見た。
 きつい風を避けて、山頂の岩陰で、おにぎりを食べた。おいしかった。山頂で食べるおにぎりの味は、どんな高級レストランの豪華料理よりもおいしい。つくづくそう思った。風景を楽しんでいると、青年一人、若い女性三人の四人グループが登ってきた。女の子たちはいかにも嬉しそうな歓声を上げた。立派なものだ。私は、またしてもそう心の中で思った。この時は、しかし、まさか翌日同じ帰りの電車に乗り合わせることになろうとは夢にも思わなかった。
 10時52分、山頂から黒沢池ヒュッテに向かった。10分程下った所で滑って転んだ。
左大腿筋外側を強打した。あれから10日目の今日も、しゃがむとまだ少し痛む。こけた瞬間、私の心を包んでいた叙情の殻が脆くも破れた。憧れの妙高山登山だ。私が、霧の合間を夢見心地で登っていたとしても、仕方あるまい。強い痛みによって夢路から現実へ放り出された私は、その時、どんな顔をしていただろう。

 人には、行き着かねばならない所が、ある。

 序章で、私はそう歌ったが、そんな所は、どこにもあるはずがない。行けども、行けども、道は続いているのだ。人生の様々な分岐点で、どの方向を選ぼうと、自分が生きている限り、人は、言わば、心の中の山道を登攀し続けねばならない。― 岩陰にひっそりと咲く清楚な花もあれば、胸突き八丁もある山道を。私は思う。「行き着く」所とは、「息尽く」所なのだ。


第6章 山小屋到着
 
 13時5分、黒沢池ヒュッテ到着。
 黒沢池ヒュッテの外観は、南瓜の形だった。色は、群青色。明らかにデザイナーの努力の結晶だ。汗を流しながら、息を切らしながら、辿り着き、緑の木々に囲まれたその外観を目の当たりにすると、しばらくは、新鮮さと異様さとを足して割ったような印象に包まれる。不思議なもので、段々目が慣れてくると、中々いい小屋だと思えてくる。後で二階の寝場所に行って、中心部分の太い柱の動的な交錯や八角形を基本とした力強い構造を見た時は、ちょっとした美的感動を覚えた。
 さて、黒沢池ヒュッテでの幾つかの体験。何から語ろうか。見ず知らずの女性とくっついて一夜を共にしたことか。実際、女房と一緒に寝る時よりもくっついて寝たのだ。しかし、この手の話は、読み手を羨ましがらせるから止めておこう。ただ、この女性との縁は、この一夜だけの縁ではなかった、ということだけは言っておこう。私自身驚いたことだが、実は、翌日、関山駅から偶然にも同じ長野行きの列車の同じ車両に乗り合わせたのだ。この時の私の感情は、どう表現すればいいだろうか。「赤の他人とは思えなかった」と言えば、誇張しすぎだろうか。もしお互いに10年早く、同じ状況下で遭遇していたら、私は寝ぼけた振りをして、手もなく手を伸ばしていたかもしれない。そして、地方新聞を賑わしたことだろう、「手癖の悪い山男、やまない悪癖」、と。
 黒沢池ヒュッテの北側には、残雪がかなり広がっていた。近寄って見ると、ポンプで水を汲み上げていた。小屋に到着して、すぐ、外のテーブルで缶ビールを飲んだ。虫がうるさく顔の回りを飛び回る。無視できない虫の数。何人かのご婦人方は、防虫網付きの帽子をかぶっていた。必需品リストに加えなくちゃ、と思った。
 宿泊の手続きをして、2階の寝場所に行った。夕食は、5時30分。それまで1時間程度、横になることにした。7月14日に電話で予約した時、相手は、「何名様ですか。1名様ですか。大丈夫です。空いていますから」と言った。まるでガラ空きのような口調だった。なのに、来て見ると、ほぼ満員だった。「耐えられないような息苦しさ」は、なかった。どちらかと言えば、まあまあの気分だった。ただ、3人程の子供がチンコとかションベンとか言いながらドタドタと騒ぐのには少々苛立った。寝る前、トイレに行った時、曇り空を見上げた。見えたのは、北斗七星。小屋の外も中も、寒くもなければ暑くもなく、防寒衣なしでも快適だった。セーターは、結局、一度も着なかった。
 忘れないうちに書こう。この小屋の特筆事項は、寝床の角度だ。頭の方が少し高くなっている。足の方は、少し低くなっている。水平ではないのだ。疲労した時は、足の方を少し高くするといいという話は聞いたことがあるが、ここは、その逆だった。気のせいか、私は、新鮮な気分で楽に寝られた。

第七章 夜明け
 
 7月18日月曜日。
 階下から響くスタッフの朝食作りの音によって目が覚めたのは、午前3時半。朝食は午前4時半開始だったが、私は、午前4時に起床し、外に出た。いつだって人には見なければならないものがある。と、意外にも、既に薄暗がりの外のテーブルでもう何組かがバーナーをボウボウと燃やし、朝飯やコーヒーなどを作っていた。かなり強い風が吹いていた。バーナーの炎は、その強い風にも消えない。テーブルの真中に燃えるバーナーを置いて、向かい合って見詰め合っていた若いカップル。二人の愛の炎もずっと消えずに燃え続けるだろうか。もう若くはない私は、空を見上げた。星が一つ二つまだ瞬いていた。薄着だったが、少しも寒くはなかった。今までの経験では、山頂で黎明を見る時は、たいてい寒く、毛布に身を包んでも、「寒い寒い」と震えていた。なのに、ここ黒沢ヒュッテの夜明けは、山頂ではなかったせいか、シャツ一枚でもまったく寒さを感じなかった。
 4時25分、外はもう明るい。近くの茂みで鶯が鳴いていた。
 深呼吸をしてから、小屋の中の寝床に戻り、蒲団と毛布と枕を片付けた。自分のザックの中も整理した。朝食のために再び1階に下りた。
 既に6人程が卓を囲み、朝食を食べていた。クレープが大皿に盛られていた。各人が一枚ずつクレープをめくり取り、そこに苺ジャムやブルーベリージャムやサラダを詰め込み食べる。そういう朝食だった。一番上の薄いクレープ一枚だけをすぐ下のクレープに触らずに剥ぎ取ることは難しく、人々は皆、かなり大胆に次の人が食べるクレープに触って剥がしていた。
 多分分かってもらえないだろう。テーブルに座るなり、私の受けたショックを。他人の手が触ったクレープを自分が食べねばならない。逆に、自分の手が触ったクレープを他人が食べることになる。これは、自分には出来ないこと、許しがたいことだった。山小屋では石鹸一つ見たことがない。誰も汚い手をしている。確かに紙の手拭は置いてあった。しかし、私の潔癖症は、その払拭効果を認めなかった。私は、各人にあてがわれたものだけ、即ち、スープとコーヒーと桃だけを食べて食卓から離れた。山小屋に泊まる時、今後私は、朝食にクレープが出るかどうかをきっと事前に確認するだろう。私は、クレープを出す山小屋には泊まらない、泊まったとしても、朝食の注文はしない。
 満たされなかった朝食の後、外に出た。いよいよ下山だ。「ツァーズ」という名の40名程の団体客がガイドを中心にして準備体操をし始めた。私もその一員のような顔をして同じように準備体操をした。体操後、ガイドが日程等の説明をした。ガイドが「きょう泊まる高谷池ヒュッテのトイレは、バイオシステムです。自分が使用したトイレットペーパーは、ビニール袋に入れて持ち帰って下さい。ビニール袋は、トイレの中に備え付けてあります」と言った。
 いつだって人は、糞から逃れられない。毎度尾篭な話で恐縮だが、書かずにはいられない。糞をした後、尻がまったく汚れない場合がある。多分、健康な証拠だろう。そういう場合は、確かに、使用した紙をビニール袋に入れて自宅まで持ち帰ることにあまり抵抗は無い。しかし、10回拭き取っても、綺麗に拭き取れない場合もある。こういう場合は、山のような汚れ紙をザックに詰め込んで持ち帰らなければならない。女性の場合は、生理用品を使う場合もある。ザックに空間的余裕があればいい。もしなければ、糞で汚れた紙をザックに詰め込みながら、文字通り「糞ッタレ」とわめくことになる。私は、予言するが、そのうち、持ち帰らなくてもいいバイオシステム専用のトイレットペーパーが開発されるだろう。
 いつか自分のテントを持って行って、山の中でゆっくりと暮らしてみたい。混雑した山小屋から出て、朝露に靴を濡らしながら、私は、そんなことを思った。

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