岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

2019  小笠原諸島再訪

 小笠原諸島父島の緯度、27度4分。
 ハワイホノルルの緯度、21度19分。
 波照間島の緯度(有人島の最南端)、24度3分。

  味気ない出出しで始めてしまった。本当は今すぐ君のことを書きたいのだ。でも、君の薔薇色がかっていない顔色と少し閉じ気味の心の窓が、一つの主要なイメージとして僕の真正面に立ちはだかるようにあるだけで、行き場を失った僕の炎は、うっすらと、しかし、完全に霧に蔽われてしまっている。もう消え果てるのは時間の問題だろう。最後に諦めるということを学ぶために、人は恋するのだろうか。もしそうだとしたら、人は何と甘い幻想の世界の果てで人生の厳しい現実の一断面を学ぶことになるのだろう。

  2019年6月6日木曜日、22時45分、多治見駅北口のバス停から中央ライナーに乗車。乗客は10名前後。バスの中ではほとんど眠れなかった。新宿バスタには翌7日午前5時16分頃到着。JR山手線で新宿から浜松町まで行き、そこから竹芝港までは徒歩。開錠時刻を待って、重いザックをコインロッカーに収納すると、午前11時の出港時刻まで周囲を徒歩にて遊覧することにした。築地市場跡から豊洲市場へ回り、市場内の2カ所の寿司店に立て続けに入った。2軒目の所謂ガリの形は棒状でスライスされていなく、噛むと口の中に上品な甘酸っぱさが広がった。ガブガブと食べたいという衝動は小さかったが、それを抑え込むのは簡単なことではなかった。

 寿司屋の外で腕時計を見て出港時刻に間に合わないと感付いた時は泡を食った。何か勘違いをしていた。初め豊洲市場前から「ゆりかもめ」に後先考えずに飛び乗ったが、走行速度が遅く、車内の案内板を見ると、竹芝へ到着するまでの駅数は数駅ではなく幾つもの駅があるということも分かった。君との約束の日に会えなくなる。青ざめた僕は、不案内な土地だったが、直感的にゆりかもめのルートよりもタクシーのルートの方が早いと判断し、東京ビッグサイトで下車し、タクシーを拾うことにした。そのタクシーが、しかし、なかなか拾えない。いざ捕まえてみると、竹芝港を知らない運転手で、客の僕に「道を教えてください」と言った。飛び降りて、また泡を食いつつ、タクシーがいそうな場所へ走って行った。ビッグサイトのタクシー乗り場でタクシーを見つけ、「急いでくれ」と頼んだ時は、小笠原海運の窓口受付終了時刻(10時40分)には間に合わないと感じた。でも、11時の出港時刻には何とかギリギリ間に合いそうだった。運転手は竹芝港の近くまで来ると、「ここで降りてそこを渡って行ったほうが早い」と教えてくれた。釣りは要らないと三千円を投げるように渡すと一目散に走った。走りながら、もし間に合ったら、五千円渡してもいいなと思った。タクシー代は、しかし、使わずに済んだはずの金だった。竹芝港に着いたのは11時少し前だった。僕は焦っていたが、まだ窓口嬢は席にいて、しかも尋常な落ち着いた態度で手続きをしてくれた。間に合った。ロッカーから重いザックを引き出すと、ようやく僕も通常の呼吸を取り戻し、乗船口の方へ進むことができた。

 7日夕方軽い船酔いに襲われてからだったが、酔い止め薬を飲み、ビスケットを少々食べ、横になった。波は荒れていなかったので、多分睡眠不足が主因の船酔い症状だったのではないか。気分の悪さは長くは続かなかった。

 8日土曜日、曇。おがさわら丸(11,000トン)の中で午前6時に起床。同じような海の波、同じような水平線を眺める。デッキで、ビスケットと茶だけの朝食を済ます。6時36分海上に一羽の鳥を見る。あずき色のシャツとチョコレート色のズボンを着用した小女が本格的な撮影機で「そこ」にしかないものを撮ろうとしていた。その「そこ」は簡単には行けない場所だ。自宅の冷蔵庫の写真を撮ろうと毎日躍起になっているような人物はほとんどいない。僕は曇りない衝動で君に向かう。デッキに据え付けられた椅子は全部濡れていた。太陽が雲間から出るたびに、一気に波が白銀に輝きながらその無数の煌めきを楔状にして僕の方へ照射した。そうか、人生の中の一日は、この白銀に煌めく波の巨大な帯のように、メモに残しておかないとすぐ消え果ててしまう膨大な印象の数々によって埋め尽くされているのか。この膨大な無化の堆積を敢えて記録に残すことに、しかし、どんな意味があるのだろうか。一脚の濡れた椅子を薄紙で拭いて腰掛け、僕は海を眺めた。それは、何時間経過しても変わり映えの無い言わば抽象性を帯びた海だった。荒れ狂う気配もなければ、拒絶感を滲ませる表情もなかった。ただ見る者の心までも染めてしまいそうな紺碧の海の色が絶え間なく揺れ動いていた。

 どんなに美しい海でも見続けていると、飽きてくる。僕は当てもなく船内をさまよう。デッキの一角では、海上の無聊を託つ乗船客のためだろうか、小笠原諸島の自然に詳しいガイドが陸海の動植物、島嶼の名などについて説明していた。そのガイドによると、クジラとイルカとは生物学的には同じで、体長が4m以上をクジラ、4m未満をイルカと呼ぶということだった。「定義」に拘るような人生を送っていないので、僕は「ふうん、そうなのか」と聞き流した。

  午前11時10分、父島北部の二見港到着。下船。船内案内通り、後部出口の方が空いていた。父島から母島へ直行。君が東京での仕事を止め、父島のホテルでバイトをしていると知っていたら、僕は母島直行の予定を組まなかっただろう。予定を組んでからのメール交換で僕はそれを知った。驚きの事実だった。去年小笠原で出会った君との話から僕は次回君が小笠原に来るのは3年後だと思っていた。どんな物事でも予想外の方向へ展開せざるを得ないのだと、僕は観念した。ははじま丸(499トン)は12時定刻出港。決まり事で、この船の乗船予約はできず、切符は当日乗船待合所の中の窓口でしか購入できない。往復切符の販売もない。要するに、「当日窓口完結」主義だ。船の両舷側はビュッビュッときつい風が吹いていたが、正面はきつくなかった。他にすることがなかったので僕は舳先に回り、船と同じ速度で飛ぶカツオブシ鳥の群れが急降下して飛び魚を嘴で捕まえようとする様子を飽きずに眺めた。

 母島の沖港に14時頃到着。母島ユースホステルの母ちゃん一人が車で出迎えに来ていた。宿泊客全員は乗れないので、多くの客は徒歩でユースホステルに向かった。歩いて5分ほどで黄色いペンキの塗られた板壁が見えた。後で母ちゃんに聞いたところでは、父ちゃんは研修等で内地に出向いているということだった。広島から来たという二人連れの男女と親しく言葉を交わすようになった。女性の方は70歳を越えていた。彼らの目的はスキューバダイビングだった。夫婦ではなかった。二人とも酒豪だった。男の方(N氏)はパジャマを作る中小企業の元社長で、女の方は「昔は恋に狂うほど燃え上がっていたが、今は男なんかには何の関心もない」という上品な女性だった。二人とも金銭面において困窮している様子は微塵もなかった。他の相客は、横浜からの常連客の、肥満気味の中年女性と職務を帯びて父島から出張してきた公的部門の職員3人組だった。

 夕食前、サンダル履きのまま小剣先山に登った。頂上には錆びた兵器の残骸が放置してあった。多くの国民が注視する高位高官の連なる戦争関連の儀式とは無縁のまま、何の説明文も付与されぬまま、この錆びた鉄の残骸は、母島の集落を見渡せる場所で、ただひたすら黙りこくっていたのか。僕は小さな錆びの一片に指で触れ、耳を澄ました。吉から凶へ、或いは、凶から吉へと交互に展開するのではなく、何事もその吉凶が同時に各々の方面で、各々の速度で展開しているという想念が響き渡ってきた。兵器工場で作製されてからこの小剣先山の天辺で放置されるまでの間に、この兵器は一体誰にどんな吉凶をもたらしたのだろう。

 6月9日日曜日、曇。ダイヴィングショップでレンタバイクを24時間五千円で借りた。その時、同じようにバイクを借りようと来ていた女性がいた。体格はがっしりしていたが、顔立ちは雅子妃に似ていた。借りられるバイクは2台しかなく、そのうち1台は左のバックミラーが破損していた。僕が彼女に選択権を譲ると、彼女はジャンケンで決めましょうと提案した。僕はどちらのバイクでも良かったので、再度譲った。僕は彼女が目の前で申込書を記入していたので、住所と氏名と生年月日を盗み見た。料金を払うと、彼女は店員にNPO法人宛の領収書を要求した。その夜、僕らが同じ宿舎の相客となり、楽しい懇談の時間を持つことができるようになるとは予想だにしなかった。

 バイクに跨るや一路小富士へ。迷うことはない。幹線道路である東京都道241号を南へ4キロ程走るだけだ。終点に「都道最南端」という標示のある駐車場がある。盗難の心配がないためキーを付けたままバイクを駐車。そこから蝮も熊もいない山道を40分程歩くと、眺望絶佳の地に到着した。誰にも出会わなかった。眼下に広がる弓なりの南埼ビーチを見下ろして、誰が美しいと言わずにいられるだろうか。額に汗を滲ませて小富士の頂上に立つと、なぜかまるで自分がこの絶景地の発見者であるかのような錯覚に襲われる。太平洋北緯27度線(エジプト等と同じ緯度)に浮かぶ小さな島の美しい楽園を独占しているという喜びは、僕の心の中に納まりきらなかった。

 シュノーケリングに適した初心者向けのビーチを探すこともその日の目的だった。小富士から下り、まず、南崎ビーチへ回る。眺めは文句なしだが、日蔭がなく、何もせずのんびりと心地よく憩う時間を見出すことは出来なかった。駐車場へ戻る道を辿りつつ、順次、ビーチを見て回った。Yビーチ、波高シ。蓬莱根ビーチ(干潮時にのみ行ける波食崖)は波静か。その右側の岩陰、透明度高く、すぐ足元にかなり大きな魚の群れ。良い。ただ、水冷たく耐えられず、2回覗いただけで引き上げた。バイクで一旦中心地に戻り、脇浜なぎさ公園でシャワーを水着の上から浴び、今度は一路北部の大沢ビーチへ。北港の駐車場にバイクを止め、1.3キロ程の山道を歩き、辿り着くが、良い所ではなかった。正面に遥かに見えたのは、50キロ先の父島の島影だった。北港の駐車場に戻ると、東屋で深く帽子を被った一人の男が海に向かって座り、机上にパソコンを置き、足元にはスピーカーを設置し、ダンサブルな曲を大音響で鳴らしていた。僕のバイクの横には農機具のようなものを積んだ軽トラが駐車してあった。多分彼の軽トラだ。観光客ではない。誰にも邪魔されずにたった一人で入江の青い水平線に向かって好きな音楽を聴きながら時を過ごす、ある意味でこんな贅沢極まりない優雅な暇潰しは他にない。孤独の中の幸福、凶の中の吉、と言うべきか。吉凶が同時に存在し、展開していると表現すべきか。
 
 15時過ぎ、宿舎のユースホステルに戻り、シャワーを浴び、洗濯した後、テラスの木製の椅子に陣取り、缶ビールで喉を潤し、豊洲市場の寿司屋で買い込んだ棒状のガリを齧った。誰でも遊びの時間は楽しい。しかし、その時間の小暗い襞の奥には、海中の藻のように吉凶が微かに揺らめいているのだ。椅子にもたれながら、僕は去年同じ椅子に並んで座り語り合った同宿者を思い出したりしていた。人は、過去の出来事を思い出す。懐かしさで心が満ち溢れたり、自責の念に襲われたりする。過ぎていないことは、これから起きることは、本当にどうにか出来るのだろうか。どうにも出来ない過去の吉凶にすぐ戻るのはなぜだろう。大音響の中で、或いは、酒の酔いの中で、一時的に自分から離脱するのもたまには良いかもしれない。「どうにもならない」という追い詰められた状況から一時的に自分の緩やかな呼吸や束縛感のないリズムを取り戻し休息することは、誰にも咎められることではないだろう。

 雅子妃似の40代の女性は、東京の特殊な経済関係のフリーペーパーの編集員で、小笠原には観光ではなく取材で来ていた。仕事仲間と思しき長髪の青年の連れがいたが、男の方は別の宿舎に寝泊まりしているようだった。彼女(М嬢)は9日の夕食の食卓には座らなかったが、夕食後の団欒には加わった。能弁家のМ嬢は自分の仕事について僕らに分かりやすく語ってくれた。一言で言うと、М嬢が所属するNPO法人の目的は、日本全国にある離島の経済を活性化させるというものだった。フリーペーパーの実物や彼女が書いた本を見せてもらうという場面もあった。旅の情報誌「るるぶ」が読者側の興味・関心をそそる軟派系とするなら、こちらは島民側の発展を支えようとする硬派系だった。少し記憶は薄れているが、М嬢と僕と広島のダイヴィング女性しかいない時だった。何かの拍子に、М嬢がわざわざ自分の部屋まで取りに戻り、母島特産のラム酒とパッションフルーツとを僕らにくれた。半分に切ったパッションフルーツにラム酒を注ぎ、「こうして飲むと香りがいいですよ」と勧めてくれた。その次の夜(10日夜)だったか、彼女は仕事関連の仲間と居酒屋「漁徳」へ行き飲み明かした。11日の朝その顔を観察したが、二日酔いのような表情は微塵も漂っていなかった。いつもの雅子妃だった。また一人酒豪が出現した。僕は彼女の怒り肩や眉の濃さや頬から顎への明確な線に意志の強さを感じた。

 10日月曜日の朝食の席だった。広島の二人連れと横浜の肥満気味の常連女性(東京芸大の美術科出身の彼女も酒豪だった)と僕と母ちゃんとМ嬢の6人が朝ご飯を食べながら雑談していた。テレビが、金融庁審議会の試算問題、即ち、老後の資産として年金以外に夫婦で2,000万円必要という問題について報じた時だった。間髪を容れず「資産なんてねえよ」とМ嬢が吐き捨てるように言った。僕は驚愕し、思わず彼女の顔を見た。唇が、その左端が下に曲り、への字になっていた。茶碗の中の飯を見つめながら、僕は心の奥で、彼女の科白を数回再生した。今までの上品で丁寧な話し方とは打って変わって野卑でぞんざいな口調だった。しばらく誰も何も言わなかった。

 曇り空の下、午前8時過ぎ、母島の最高峰乳房山(標高462m)へ出かけた。時計回りのコースを歩いたが、上り1時間40分、一周3時間半ほどかかった。宿舎を出発する時、テラスの木製の机でパソコンを操作していたМ嬢が、僕の登山姿を見つけて、「行ってらっしゃあい」と挨拶をしてくれた。いつもの雅子妃の優しい笑窪のある笑顔だった。乳房山の中腹辺りから濃い霧が立ち込めてきて、視界不良になってしまった。海の方から吹き上がってくるような霧の流れに包まれて、去年と同じく全く眺望のきかない頂上で一人落胆した。山から下りると、宿舎の食堂兼居間で、М嬢が、パソコンを操る見かけぬ青年の傍で甲斐甲斐しく対応していた。最初に出会ったМ嬢の連れの長髪の青年とは別の男だった。仕事仲間か上司か、泊り客なのか。よく分からなかった。僕が挨拶すると、男は「こんにちは」と返答した。目に鋭さのある賢そうな顔付きだった。時間差はあったもののこの場面については母ちゃんも目撃していて不快感を抱いていた。宿泊客のМ嬢を相手にしているとはいえ、全く知らない男が自分の管理するユースホステルの部屋に何の挨拶も説明もなく上がり込んでパソコンを操作したり仕事関連の話をしたりしているのだ。この図々しい男とМ嬢が去り、まるで交代するかのようにМ嬢の最初の連れの長髪の青年が部屋に入って来た時、母ちゃんは憤懣をぶつけるように、いつもの物言いよりは少々強めに、「この部屋は宿泊客のための部屋ですので、宿泊客以外の方が無断で使用されるのは困ります」と言った。僕はこのもっともな苦情をМ嬢か無断占拠した当人に向かって言って欲しかったと思った。

 周辺をぶらついた後、沖港の船舶待合所の外のベンチにいると、横浜の常連女性が、年配の男性と言葉を交わしつつ、段ボール箱や紙袋等をぶら下げて左の方へ歩いて行った。母ちゃんの話によると、彼女は毎年5月頃長期滞在するということだった。観光のためというよりは、島に飲み友達がいるので、主として交際目的で来ているようだった。引き続き、М嬢がバイクで左の方へ走って行った。母島では、殊更に世間は狭い。

 同じベンチに腰掛けたまま、午後2時発の父島行「ははじま丸」の出港風景を見た。岸壁広場に水絵を描く男が現れた。船上のデッキに立ち並ぶ乗船客には何を描いているのか一目瞭然だろうが、僕の位置からは全く見当がつかなかった。深く抉った丸太を棒で叩くだけの楽器でリズムを刻むおじさん、おばさん、少年。大小の幟を振る人々。これらの人々は皆観光案内所の関係者だろうか。後日僕が母島を去る時は誰も見送り人がいなかったので言うのだが、見送り人にさよならと手を振って別れられる人はたとえ涙がこぼれても幸せだと思わねばならない。

 午後3時、宿舎でシャワーを浴び、テラスで缶ビールを飲む。

 6月11日火曜日、午前9時過ぎ、本降りの雨。小笠原支庁出張所玄関の重いドアを開けながら、傍にいた二人の現業職員風の男に図書室の場所を尋ねた。村民会館2階にあるということだった。行くと、1階は幼稚園のような施設になっていた。2階に小さな図書室があり、そこには去年ロース記念館(島の昔の暮らしが分かる資料がある)で出会った女性係員がいた。室内の掃除をしていた。残念ながら彼女は僕のことを覚えていなかった。冷房設備はなく、大型扇風機がダイヤル「強」で回っていた。午後3時過ぎまでそこで過ごした。途中、7、8名の園児が先生に引率されて入って来た。畳敷のコーナーで、子供達はしばらく絵本を漁ったりめくったりしていた。一時、土砂降りの雨になり、正面の山林も見えなくなった。小止みになったのを見計らって、脇浜なぎさ公園へ行き、アオウミガメの産卵の様子を観察した。後ろ足で直径25センチほどの穴を掘っていた。一掻き小さじ1杯分ほどの砂しか掘れていない。左右の足で交互に忍耐強く繰り返していた。じっと見ている方がイライラするような、気が遠くなるような作業だった。

 10日の夜はカツオ、11日夜は尾長ダイ、夕飯に赤味の刺身が連続で出た。母ちゃんが、醤油かハラペーニョ(唐辛子の1種)をつけて食べてみてくださいと言った。11日、新しい宿泊客がユースホステルに来た。同じ食卓を囲んで懇談した。硫黄島で勤務したことのある元自衛隊員の元気なおじさんだった。彼は、11ヶ月かけて世界一周した、飛行機のチケット代だけで50万円かかったという話をした。ハラペーニョの話が出た際、彼は硫黄島のイオウトウガラシのことを持ち出し、「この激辛を食べたら、どんな人間でもその後2時間は何も飲み食い出来ない」と断言した。(注。一般人は硫黄島に上陸することは出来ない)。

 6月12日水曜日。小雨。朝5時半ゴミ出しの母ちゃんと宿舎の前で出会った。島の電力について尋ねると、「東電はディーゼル発電です」と答えた。午前中、宿舎で齊藤茂吉(1953年没)の万葉集解説を読む。非情なほど簡潔なものの言い方だ。文は人なりとは、こういうことか。昼はパンを齧り、午後は小雨の中、ぼちぼちと墓地の方へ散歩に出掛けた。「義勇隊10人の墓」というのがあった。その足で、村民会館2階の図書室へ行き、北斎の春画を念入りに見たり、万葉集を読んだりした。帰路、前田商店に立ち寄り、評判の良い「前田さんちのレモン酒」を購入。安くはなかったが、飲みやすかった。終日降ったり小止みになったり、昨日とほぼ同じ空模様だった。
 
 母島最後の夜。ユースホステル入会手続きをした後、夕食の席に着いた。11日と同じ尾長ダイの刺身が出た。母ちゃんは「昨日の魚は小さかったが、今日のは大型の尾長ダイを刺身にしました」と説明した。仕入れ先は、前田商店ではない。一部の島の住民しか出入りしない、真剣勝負の争奪戦が繰り広げられる場所だった。どんな物事にもヴェールのこちら側と向こう側とがあるものだ。連夜食べても飽きの来ない刺身で、ヴェールの向こう側での争奪戦から凱旋した母ちゃんに感謝しつつ味わった。

 6月13日木曜日、霧雨。アオウミガメを見に行くと、頭部も甲羅も砂まみれの亀がいた。産卵段階にいると思われた。所謂産みの苦しみの表情が見て取れた。朝食後、精算。歩いて石次郎海岸、御幸之浜ビーチ、南京ビーチを回った。御幸之浜では夥しい貨幣石(ヌンムライト)を観察することが出来た。11時過ぎ、村民会館2階へ。北斎の春画の細部を紙に穴が開くほど見詰めていると、何人か来たうちの一人の坊や(6歳)が「又来たの?」と話し掛けて来た。僕の顔を覚えていたということだ。幼児の認知能力を軽んずることはできない。「又来たよ」と返答したが、坊やは特に反応せずに絵本の中に入り込んで行った。

 14時、沖港出港。誰にも見送られず、ははじま丸に乗船。父島で君に会えることだけが心の炎だった。16時二見港到着。誰も出迎えに来ていなかった。ザックを担ぎ、徒歩で父島ユースホステルへ向かった。玄関で名乗って挨拶すると、ユースの管理者は「お出迎えに行けば良かったですね」と言った。母島ユースと違って、こちらのユースは靴脱ぎ場も居間も雑然としていた。落ち着いて、「ただ時が過ぎ去るのを楽しむ」という場所がどこにもなかった。僕は君に、「二見港のクジラ像の所で待っている」とメールを送った。

 後方から「お待たせしました」という声が聞こえた。1年振りの再会だった。今から思うと、君はその時少々青ざめた緊張した表情をしていた。居酒屋「チャラ」へ行く前に僕は、「明るいうちに写真を撮っていい?」と言うと、君は「誰に撮ってもらうんですか?」と答えた。僕は君と並び、手を前方に伸ばして撮った。僕はその写真を見て、「本当はもっと素敵な顔なんだけど・・・」と心の中で思った。僕らは去年と同じ居酒屋へ入り、同じ席に座った。店内は、自衛隊員と思われる団体客でほぼ満員で、大いに盛り上がっていた。しかし、店の隅での座興とはいえ、ちょんまげの鬘を被り、相撲を取り出したのには面食らった。ロマンスには不向きな夜だったが、活気のない店にいるよりは良かった。僕らは乾杯し、亀の刺身を始め色々な料理を食べた。君は東京での仕事を辞めたこと、父島のホテルで8月末まで住み込みで働くこと、偶然小学校時代の図工の先生に出会ったことなどについて話してくれた。「私を扶養してくれている夫に申し訳ないので、こちらでは節約して生活している」という意味のことを聞いた時、僕は夫婦間の絆の強さを感じ取った。午後8時半頃店を出て、僕は君を「村はずれ」まで送って行った。南の海の青さに憧れている海鳥のように、君に憧れていた僕は、一緒にいるだけで幸せだった。その幸福感は最大限のものではなかったが、他のどこを探してもない宝石のように僕の中の地底の奥で輝いていた。

 6月14日金曜日、曇。午前8時過ぎ、バイクを借り、コペペビーチへ。寒かった。水中は水の外よりはましだったが、長くは潜っていられなかった。数匹の魚を見たが、その日の透明度はあまり良くなかった。12時頃、ユースに戻り、シャワーを浴び、水着をすすぎ、脱水機にかけ、部屋に干した。地域福祉センターの中にある図書館へ行き、母島で知り合った広島のN氏推薦の宮本常一を齧った。同じく母島で知り合ったМ嬢編集のR新聞が、同センター内のパッフレット置き場にあるのを発見した。参考資料として君に進呈するために、R新聞と父島の月別行事予定表を一部ずつもらって帰った。

 夕方、午後5時頃、クジラ像の前で君と落ち合い、居酒屋「茶里亭」へ行った。カウンターの角席に座った。君はシングルマザーの友人に僕の写真を見せて話したことがあると言った。その友人は、僕のことを「ブイブイやってる人」と評価した。「浮気したことありますか」と君は尋ねた。結婚して間もない頃、女房は「浮気していい」と言った。君は「奥さんの方も浮気しても許せますか」と尋ねた。それは許せないと断言した。今から思えば、その夜君は僕の身勝手さに対して決定的な否定的な感情を持ったのかもしれない。雑談なのであれこれと話し合ったが、何かの拍子に僕がスイスへ行きたい、一緒に行こうかと誘ったら、君は、今年エベレスト山麓へ行く予定だと言った。「じゃ、今年はエベレストで、来年スイスに行こうよ」と言うと、君は「初めてビジネスクラスに乗れるか、旦那をどう説得するか」と呟くように言った。今から思えば、あの君の科白は、僕に対する決定的な嫌悪感を反語的に漏らしたのかもしれない。君はまた、東京の仕事を辞め、父島に来たのは、実は、父島と関わりながらタコノ葉細工で生計を立てたいからだと言った。スマホの画像で君の作品を見せてもらったが、確かに素晴らしい作品だった。君の計画には、しかし、障害があった。教えを受けている先生から、「島民でない人にはタコノ葉の材料を回してやれない」と言われたのだ。島民になれれば、何も問題はない。しかし、それが大きな問題だった。東京での結婚生活はどうなるのか。君は、人生の岐路に立っていた。吉凶がどう展開するのかは誰にも分からない。こんな場面もあった。君はおごられる理由はないと断言した。去年もそうだったが、君は必ず支払った。理由などない。僕もその夜は黙ってはいられなかった。僕は「ずっと憧れていたんだ。それだけでもう十分ではないの」と言った。僕の幻聴だったのなら許してほしい。君は「もっと早く知り合っていたら、きっと一緒になっていたと思う」と言った。少なくとも僕の耳にはそう聞こえた。「村はずれ」まで送ることを君は拒んだ。君は多分、段々と強くなっていく僕の卑しい恋情を忌避したのだろう。午後7時過ぎに別れた。

 この夜だったろうか。父島ユースの居間でいつもゴロゴロしているスタッフ(横浜の大学生で植物の研究をしている)と雑談する機会があった。彼はその日の仕事を終えて缶ビールを飲んでいた。「ちょっと自慢していいですか」と僕が言った。目が大きい、そして包容力も大きい人物だった。僕はプルーストの小説「失われた時を求めて」を3回読んだ。今4回目の途中だと話し出した。「プルーストを知っていますか?」彼は知らなかった。「本当に大学生ですか?」彼は少々はにかんだ。1回最後まで読み通したら、自分の名刺に「私は『失われた時を求めて』を読みました」と書き込んで威張る人がいるくらい長い小説だ。大抵の人は途中で放り投げる。何遍読んでも、しかし、解らない。『パリの女の唇はみな違う』、覚えているのはこれだけで、僕は女を見る時、胸ではなく、意識的に唇を観察することにしている。・・・と、僕はかなり長い間語った。彼は聞き上手だった。

 6月15日土曜日、曇。朝、君から今夜は都合が悪い、明晩ならいいと連絡が来た。シュノーケリングをするために、僕はバイクで宮之浜ビーチへ出掛けた。雨になった。ユースに戻ると、午後2時頃、晴れてきた。僕は又宮之浜へ出掛けた。干潮だったか、光の差し込む浅瀬でキイロハギ、ブダイ、ツノダシ等々の魚が見られた。潜っていると、温かい水の層と冷たい水の層とが混じり合っているのがはっきりと感じられた。
 
 午後6時前、去年の、君との思い出の場所、ウエザーステーション展望台へ行った。美しい海に沈む日没を高台から眺めるためだ。観光客が段々と集まってくる。長い間、待った。雲が厚い。風も出てきて寒くなった。手持無沙汰なので、観光客の中にいた外国人らしき二人の美しい少女を眺めていた。乳房が少々はみ出るような薄着をしていた妹風の少女の足は鳥肌になっていた。

  君と会えない寂しさを味わっているのは僕だけだっただろうか。東京の旦那には旦那の寂しさがあっただろう。僕は居酒屋巡りを試みた。初め「ふくちゃん」、次に「あなな」へ行った。ふくちゃんの鮪カマ糀焼、がっくり。高いのにまずい。あななは飯類なしの飲み屋で、綺麗どころが3人いた。どちらも長居はせずにさっと飲んでさっと帰った。幹線道路に面した「小祝荘」近くのベンチで午後10時頃まで月を眺めた。忙しなく雲が飛び去る。人生には三種の時間がある。こういう思い付きの分類に何の意味があるのか分からないが、この夜、ベンチで考えたことだ。忍苦の時間、行事の時間、祭りの時間。月の下で一人過ごした時間は忍苦の時間だった。身体的にも、心的にも一人だと、人は町を彷徨い歩きたくなる。幾つになっても「囚われの心」から自由になることは難しかった。
 
 6月16日日曜日、雨。一時激雨。ユースの玄関は踏み場もないほどの履物だらけ。乱れたサンダルの上にサンダルが裏返っていた。父島ユースは素泊まりだったので、この日の朝は、生協で買った弁当を食べた。午前8時半開館のビジターセンターへ時間潰しに行った。昼前に君から、夜も仕事が入り、明日も明後日も都合が悪い、お礼を言いたいので昼過ぎにお茶でもしませんかというメールが入った。これで僕の旅は終わった。そう感じた。我慢せず自己表現したが、何もせずに傷つかぬよりはましだ、と自らを慰めた。昼過ぎ、シャワー。午後1時頃雨が上がった。僕らはビジターセンターで落ち合い、「パーティ」とかいう喫茶店へ行った。道案内しながら「一度入ってみたかった店なんです」と君が言った。二人とも同じホットチャイとケーキを注文した。代金は君が全額支払った。君は「どこかの山で会うかも」と言った、「一緒に行こう」ではなくて。「ネパールで何かいいものあれば送ります。ウーン、無いかも知れないな」と君が言った。君はいつも優しい拒絶の仕方をする。一度は気を持たせるが、最後は正当な理由を付けてすべてを無にするというやり方だ。顔に化粧気はなし。素顔の方が、しかし、秀でた整った顔立ちを僕により印象付けた。いつものようにちょっと洒落ているTシャツを着ていた。君を嫌いになる人間などこの世には一人もいないと感じられた。二人の間の金銭上の貸し借りがなしになって、心理上の紐帯が切れて、仮に君が今までの感情交流のすべてを灰塵と見做すとしても、思い出だけは僕の心の中に残る。この甘苦い、他のどこにもない青い輝きに満ちた思い出に僕が一人浸る時間は、「忍苦、行事、祭り」の三種の時間の中のどれに分類すればいいのだろうか。「思い出」という項目を一つ増やして四種の時間にすべきだろうか。

 ユースのバイク置き場で知り合った浜松市の漁師の娘(自分も漁師)が、無料の水族館へ案内してくれることになった。かなり太った娘だった。僕は心の中では、やや自暴自棄になっていた。君と一緒に歩む道などどこにも見い出せなかったからだ。漁師の娘はまるで僕の心の痛手を見抜いていたかのように優しく振る舞ってくれた。先生が小学生を引率するように一つ一つの水槽の前で僕に説明をしてくれた。一通り見学した後で、僕は彼女に心を寄せて少々雑談した。波照間島の話をしたら、意外にも彼女も波照間島が好きで7月に又潜りに行くと言った。

 夕方、ウエザーステーションへ再び出掛けた。美しい夕日を見ることは出来なかった。漁師の娘もいたが、僕の方に寄っては来なかった。仲良くなりかけていたので、一抹の寂しさを覚えた。夜、6時か7時、居酒屋「丸丈」へ出掛けた。日本酒の「八海山」と「丸丈」を注文した。丸丈の30代の娘はグラスの縁のギリギリまで注いだ。表面張力で盛り上がっている。見事だった。隣には横浜男、その向こうには般若面のような年増女、右隣には新婚夫婦と店主からフクちゃんと呼ばれていた70代の爺さん。横浜男がアカバの唐揚げを食べていたので、僕も同じものと島寿司を注文した。フクちゃんは40年前の、若い頃の話を聞かせてくれた。荒っぽい船員同士の居酒屋内での喧嘩の話などだ。「丸丈」は明治からの居酒屋で、大将の女将が島出身だということも判明した。フクちゃんは2軒目に行くと言って出て行った。

 ユースに戻り、ミーテイングルームに入った。隅で化粧している娘、眠っている青年スタッフ。宿泊客たちが円陣を組み、四方山話をしていた。あっちこっち旅している青年たちがダイヴィングするなら「波照間島がいい」と強調して言っていた。僕の好きな島なので何か言いたかったが、初対面同様の関係だったから黙っていた。2階に引き上がると、ベッドルームにはクーラーがかかっていた。

 6月17日月曜日、晴れ。バイク返却。徒歩でしか通れない小道を通って宮之浜へ。草履で30分程だった。15日の宮之浜ほどは澄んでいなかった。浅瀬の珊瑚で左の内股を少々切った。
 
 二見港に面した海上自衛隊基地の周辺で釣り糸を垂れていたら、上下白い制服を着た胸板の厚い青年隊員が近寄って来た。予想通り、注意を受けた。「ここは自衛隊の敷地内なので、釣りをするなら、あの岸壁付近に魚がいるから、あっちで釣ってください」その口調は優しかった。映画俳優にしたいような美男子だった。一言二言言葉を交わし、僕が「後で丸丈へ飲みに行きますので、良かったら来て下さい。奢りますよ」と言うと、「丸丈さんには私もお世話になっています」と返答した。移動して岸壁から釣り糸を垂れるとすぐに5匹ほど釣れた。

 夜6時居酒屋「丸丈」へ。一夜の飲み友達は、いずみ、智美・隼弥の新婚夫婦。皆そこそこ人当たりの良い若者だった。元島民というおじさんもいたが、おがさわら丸乗船時には「元島民パス」というものが使えると話していた。丸丈の大将は、天皇来島の際、弁当を調理した、その依頼は半年前からあった、代金はどれだけ請求してもよかったが材料費程度しか請求しなかった。「あちらの方では、『弁当』という言葉は使わない。『お食事』の用意をお願いします、と頼まれた」と語った。大将の趣味は釣りだった。小柄な丸丈の30代の娘は、「昔は魚も10キロ、20キロの大型の魚がよく釣れた」と話してくれた。「昔」とは彼女が中学生の頃の話だ。大きな魚を胸に抱いた彼女の写真が店内には飾ってあった。

 6月18日火曜日、晴れ。父島を去る日。母島ユースで知り合った広島の二人連れも僕より後に父島に来ていたのだが、朝5時頃、そのN氏と散歩の途中出会った。彼はとび魚桟橋の橋の下に大きなサメがいると教えてくれた。見に行くと、確かに2m以上のサメがいた。シロワニという名ではないか。又岸壁へ釣りに行った。1匹釣り上げたが、重りを失くしてしまった。ランチは、「オーベルジュサトウ」という店で食べた。午後3時の出航時刻まで二見港近くの公園の木の下で寝そべったりして時間を潰した。おがさわら丸の出港風景については多くの人が既に書いていることだから書かずにおこう。船内で父島ユースのスタッフ、例の横浜の大学生と出会った。彼は2週間だけという約束でバイトをしていたのだ。リュウと呼んで欲しいと言っていたので、リュウ君と呼ぼう。リュウ君は「早速、プルーストをネットで注文しました、一つの縁だと思いまして」と言った。一挙に親近感を覚えた僕は、「買わなくても、図書館で借りればいいのに」と答え、またプルーストの話を始めた。話しながらも、もし船上で出会わなかったら、彼がプルーストを買うことにしたことを僕は知らずに終わるところだったのだ、と気付いた。この彼の「ひっそりと自分の中で縁を大事にする」という考え方に、僕は少なからぬ感銘を受けた。「人に奢られることを嫌がる人がいるけど、もし良かったらビール飲まない?奢るから」と誘ったら、リュウ君は大様な態度で首を縦に振った。僕らはビールを飲みながら四方山話に耽った。「地球上で一番多い花の色は何か知ってる?」と尋ねると、彼は首を捻りつつ、「黄色ですか?」と答えた。黄色や赤は目につきやすいが、答えは白だ。理由がある。彼はこの日も聞き上手だったので、僕は下手なギャグを交えながら、自分が海上にいることさえ忘れるほどあれこれ喋った。

 6月19日水曜日、曇。午前5時半頃起床。床上で靴下を履く姿勢を取ったら、腰周りの筋肉が硬くなっていて曲がらなかった。軽いぎっくり腰だろうか。無理しない方がいい。椅子のある右舷デッキで時を過ごした。午後3時東京竹芝港に到着。混雑のない後方出口から下船した。新宿バスタにザックを預けた後、僕は君が教えてくれた神楽坂へ直行した。僕が神楽坂でどれだけ感激したかは君に送ったメールの通りだ。僕は素直に君に「ありがとう」を言いたい。平凡な終わり方だが、今の気持ちはその一言でしか言い表せない。今度小笠原に行く時は、君のアドヴァイスに従って、僕は7月初旬に行くだろう。

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