岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

小笠原紀行

孤愁が邂逅の喜びを深くする。その省察すべき実らぬ結末については、侘しさを越えて、人はいつでも旅の新たな出発点としなければならない。
 
 たった一つの事が僕の世界を変える。K夫人はまだ僕らの写真を送付してくれていない。僕の「旅」は、シャボン玉の内側に閉じ込められたまま浮遊している。旅の思い出は、しかし、記憶にある間に書き留めなければ消え失せてしまう。
 旅の動機は、敢えて明文化すれば、見たこともない風景を見たい、これだった。小笠原は、初めての訪問だ。事前に予備知識をなるべく仕入れ込まずに生の感動を直接対象から受けてみたかった。

 2018年6月6日深夜、多治見市から高速バスに乗り、7日早朝新宿バスタに到着。眠れなかった。30余年振りの新宿。右も左も分からない。JRで浜松町駅へ。東京港区竹芝港で午前11時のおがさわら丸出港時刻まで待機。その間、竹芝港客船ターミナルの様子を観察した。出港間近の船についての情報は掲示板に張り出されていた。自分が乗る小笠原海運株式会社のおがさわら丸についての案内はどこにも見当たらなかった。右を見ても左を見ても東海汽船の窓口ばかりで少し心配になった。プルーストを読む気分にはなれない。足の向くまま建物内外を探索したり、小笠原のアンテナショップでパッションフルーツジュースを飲んだりしながら時間潰しをした。ふらふらとターミナル中央付近に舞い戻ると、乗船客の数が増えていた。係員が先程まで東海汽船の案内が張り付けたあった場所に今度は小笠原海運の案内を張り出し始めていた。なるほど。このIT時代に何という原始的な絡繰りを用いているのか。手動式変動掲示板、と言えばいいか。確かに、午前11時おがさわら丸出港、と表示されている。時が来れば、世界は変わる。ああ海よ、潮が満ちれば、世界の果てまでお前の歌は響き渡る。待たねばならぬ時がある。僕は暫時、快い小さな驚きの落とし穴に嵌まり込んでいた。指定された窓口で乗船券を受け取ると、ようやく心の風波も穏やかになった。予めネットで購入済みの2等寝台料金25,510円。小笠原父島二見港到着予定時刻、8日午前11時。もうせかせかと急ぐ必要は何もない。文字通り大船に乗った気分に浸ればいい。24時間1000キロの船旅は、しかし、長いようで短く、タラップを降りる時は、「もう着いたのか」という感じだった。乗組員の話によれば、今回は比較的穏やかな波ということだった。おがさわら丸は11,000トン、旅客定員894名、2016年建造。時速40キロ程度で航行。重い船酔いにならなかったので、のんびりした船旅は僕の気に入った。見渡す限り、水平線しか見えない。揺れる紺色の波。時々、飛び魚を捕まえるために船体の近くにも飛んでくるカツオドリの群れ。何もないのに何も欠けているものがない、何もないからこその十全の世界、僕はじっくりと海の存在を味わった。復路では、デッキから、船と並走するかのように海面に何度も飛び上がるイルカの群れを見ることもできた。
 
 退屈すると、海を見た。海を見るのに飽きると、船内を歩き回りながら乗船客たちの様子を眺めた。7階の展望デッキでは、風雨のない航海日和だったので、気分も広やかに晴れた。ただ直射日光を遮る屋根がない。さて、語ろうか。南海の日射しによる皮膚の焼け付きを避けて6階へ下りて他の船客と同じように茶色の手摺に凭れ掛かっていた時だった。ふとすぐ右側の女性の横顔を見ると、素朴さと優美さとが適度に混ざり合った顔立ちが紺色の帽子の下にあった。幾度か盗み見た。左手の薬指には鈍い金色の指輪が嵌まっていた。しかし、一人旅のように見受けられた。細身の体に纏っていた服装は上下とも紺色系で、知的な雰囲気を醸し出していた。後日、父島の居酒屋での対談では、彼女は評論家の小林秀雄を知らないと僕に言ったが、それは二人の間の世代の違いを表明しているに過ぎないのかもしれない。おがさわら丸は大型船だが、海上では一つの閉じた世界となってしまい、ぶらぶら歩きの好きな乗客たちは同じ人物と二度三度と出くわすことになる。僕も彼女の姿を幾つかの角度から発見することになった。小笠原諸島の母島も父島も船と同じで広いようで狭い世界だった。僕らは屡々邂逅の喜びを互いの表情に読み取り、ある時は、海辺の展望台で長々と、ある時は、亜熱帯林の中の遊歩道で短く、いつしか友だちのように言葉を交わすようになった。
 
 往路の船内には、もう一人の若い小柄な女性が心に留まった。ちょっと可愛い顔立ちということもあったが、その右の二の腕に小さな模様の入れ墨があったからだ。奇しくも彼女とはその後母島の同じ宿泊施設で5泊過ごすことになるのだが、その甘苦い展開についてはもう少し先で語ることになるだろう。
 
 父島の二見港に予定通り8日の午前11時に到着。往路の船内では誰とも親しく語り合うことはなかった。ただ一度驚いたことがある。売店内で見かけた男性の瞼辺りの腫れぼったい印象が、20年程前の職場の同僚のそれと酷似していたからだ。思わず声を掛ける寸前まで行ったが、百分の一程度の微妙な差異感が僕の声を喉の奥に引っ込めさせた。頭髪は明るい茶色だった。大きな財布がクリーム色のズボンの後ろポケットから四分の三程見えていた。当時、その人は、もっと地味で、もっと泥臭い、まったく飾り気やおしゃれとは無縁の人だった。しかし、「O氏ではない」という確証も持ち得ぬまま僕は下船することになった。
 
 父島に上陸すると、すぐ港近くの生協へ向かい、酔い止め薬を買った。正午発の母島行きの船は小さく、船酔いをすると困ると思ったからだ。ははじま丸の切符は当日ははじま丸船客待合所で購入した。4,820円。予定通り14時に母島沖港に到着。アンナビーチ母島ユースホステルの案内板を持った男性が出迎えに来ていた。その車に乗り込んだ者は4、5人いた。ユースホステルに到着すると、すぐ座卓の前に着座させられ、宿泊者名簿への記入を命ぜられたが、僕の真向かいには見覚えのある入れ墨娘がいた。青少年でない僕がユースホステルに泊まることにしたのは、他のペンションが満室のため予約を取れなかったからだが、その夜の同宿者で若そうな客は彼女一人だけだった。僕と同じ部屋に泊まることになったのは、父島の学校に勤務している校長先生だった。まだ若そうで、40歳台にも見えた。母島ヘは観光目的ではなく、保護者会出席のために来たという話だった。割り当てられた部屋は2階にあり、木製の2段ベッドが2個設置されていた。天井は高く、ロフトもあった。
 
 宿泊手続き終了後、僕は原付バイクを借り、北港、北村小学校跡、東港方面へ行った。北村小学校は僕が生まれた頃廃校になった。その正門付近は巨大なガジュマルが鬱蒼と茂っていて、中への立ち入りを拒んでいた。この場所で流れた67年と自分の中で流れた67年とが一時の間対峙した形になった。この時の漠然たる想念を、漠然と表現すれば、「いずれも仮初のものながら、世界への現われ方は、かくも異なるものなのか」、ということになる。 
 
 8日、母島最初の夜は外食。大漁寿司という古臭い店だった。カウンター席に座った。卓上には英和辞典が開かれたまま放り出してあった。奥に一組の先客が談笑していた。メニューと思って取り上げたカードには、上段から下段まで、細かな字で短い英文が三通りに書いてあった。左端にはREGULAR、中央にはFORMAL、右端にはSLUNG と書いてあった。そして、英単語の所々には手書きの日本語で語意が添えられていた。雑然とした中にも一種独特の雰囲気が至る所に染み込んでいるようだった。板場では歯が抜けているような口元の老夫が包丁を握っていた。きょろついていると、老婦に「お飲み物は?」と聞かれ、もう既に飲んできたので「要らない」と返答すると、「うちは飯屋ではなく、飲み屋ですから・・」と突っ慳貪に切り返された。僕は酒一合と島寿司を注文した。それは、所謂「漬け」と呼ばれる寿司の種類だった。品書きには名物の亀の煮込みもあったが、注文は差し控えた。入店から退店までの間、夫婦と覚しき翁媼の表情には一欠けらの愛想も浮かばず、溝底の朽葉のような印象を僕に与えた。しかし、深く掘り進んで話を聞き出すことが出来れば、何か面白い鉱脈に突き当たりそうな予感がしないでもなかった。一舐めしただけの酒は残したまま、僕は先客よりも先に店を出た。

 YHに戻ると、居間兼食堂で同宿者たちが懇談しているようだった。そこには僕と相部屋になる校長もいるはずなので、ゆっくりと交流を図りたいという気持ちもあったが、なぜか二の足を踏んでしまった。校長が2階の部屋に上がって来たのは午前0時頃だった。僕らは一言だけ言葉を交わした。先生は1分も経たないうちに鼾をかき始めた。宿代が出張手当より安い場所を探し、その差額で一杯飲む、現役時代のそんな遠い記憶を辿りつつ僕は暫く寝付けぬ夜を過ごした。確かに、この身には、巨大なガジュマルが暗くはびこるほどの夥しい時間がもう過ぎてしまったのだ、・・・・・・
 
 YHの管理者夫婦は、互いに「父ちゃん」「母ちゃん」と呼び合っていた。小学校6年の娘がいたが、おっとりとした性格だった。(藪から棒だが、母島の小学校には給食がなく、児童たちは帰宅して昼飯を食べるか、弁当持参か、保護者が昼時に弁当を届けるかだ)。朝夕の食事の時、母ちゃんはいつも一言食材等の説明をした。9日、朝、蕗の味噌汁の時は、北海道から送られてきたという大きな蕗の実物を見せてくれた。母ちゃんは根室出身だった。朝食後、母島南端の小富士へ向かった。バイクで15分ほど走った後、山道を小一時間程登らなければならない。その途中で、帽子から靴まで紺色系で統一した女性が林間を颯爽と通り抜ける姿を垣間見た。おがさわら丸のデッキで僕の右隣にいた女性だった。小富士の頂上(標高86m)には誰もいなかった。そこから見下ろす南崎ビーチの美しさは母島屈指のものだろう。光に包まれた海の青の色調、濃紺に近い青から淡い藤色に近い澄み切った青まで。幾度溜め息をつけばいいのか。目を凝らすと、下のビーチでは黒のウエットスーツを着込んだ女性が一人シュノーケリングをしていた。間違いなく僕がそこに見たのは、堪らなく優雅で幸福な時間のたゆたいだった。母島での滞在期間中、眺望絶佳を心から愛でたのは、しかし、この日この時の一回切りだった。台風5号が接近していた。
 
 小富士からの帰途、下から登ってくる紺色女性と鉢合わせした。帽子の下の顔中に玉のような汗をかいていた。僕が「上は、360度いい眺めですよ」と話しかけると、彼女は「じゃ、頑張ります」と答えた。頂上から見下ろした南崎ビーチへ僕は急いだ。平坦な地に来たら、今度は、入れ墨娘と出会った。彼女はYHから徒歩で来たと言った。見慣れない形の黒い袋を背負っていたので尋ねると、「三線です」と答えた。僕が小富士の頂上で弾けば、風に乗って母島中に響き渡るよと言うと、彼女は亜熱帯林の中で涼しく笑った。
 
 小富士からYHに帰還したのは正午前だった。YHの壁面は周囲にはない明るい黄色の塗料で塗られていて一際目立つ。その玄関横には広いベランダがあり、床も手摺も机も椅子も全部木製で、頑丈そうで、一見父ちゃんの手作りのように見えた。毎日シャワーを浴びた後、その椅子に腰を下ろして缶ビールを飲むのが、島での僕の細やかながら欠かせぬ楽しみとなった。僕より先に泊まり込んでいたM氏もその場所がお気に入りで、僕らは長々と四方山話を楽しんだ。午後のベランダでの対談は実際は2日間しか行っていないが、思い出の中ではなぜか3、4日毎日延々と歓談していたような錯誤が生じる。M氏は山形県在住で僕より少し若く、島の食料品店で購入したサントリー角瓶をいつも愛飲していた。一人では飲みきれそうもないと言って僕のグラスにも注いでくれた。よく飲み、よく喋る男だった。昭和天皇の人柄、南方熊楠の巨人振り、日本の組織の特徴、山一證券社長への同情、落語(笠碁など)の面白さ、野鳥や写真、アスパラガスや信長関連の話など、実に多岐にわたる話題を酒肴にして、僕らは愉快に飲んだ。酒よりも語り合うことに僕はほろ酔い気分を味わった。10日、台風5号接近のため予定日より二日早くははじま丸が出港することになると、M氏は僕に「ごゆっくり」と最後の挨拶をして去っていった。
 
 9日、母島2日目の夜は、居酒屋へ行った。前日母島観光案内所で「他に、ガイドブックには載っていませんが、島っ娘という居酒屋があります」と聞いていたからだ。また、9日ベランダで初めて顔を合わせた、仕事で来ているという東京RANGER所属の女性からも「島っ娘に飲みに行った」という話を聞いていたからだ。ついでに言えば、この時の同宿者は観光目的の人よりも仕事で来ている人(固有種保護のための外来種駆除に携わる人)が多かった。午後6時過ぎ、島っ娘のドアを開けると、色香漂う女性がカウンター席に案内してくれた。ビール、枝豆、鶏のから揚げを注文した。看板娘は僕の前でカクテルを一杯飲み込むと、始業ベルが鳴ったかのように頬を薄桃色に染めて急に接待業を始めた。一瞬、この娘はまだ水商売には不慣れな純真派かも、と感じた。初対面でも口説くのが自分の流儀なので、40分程経過した頃、「島っ娘には魅力的な女性がいると聞いてやって来たが、本当に間違いなかった。顔を見ていると、一切の世の苦悩を忘れる」と僕は言った。看板娘は「誰に聞いたんですか?津田さん?津田さんしか思い当たらない」と意外な反応をした。津田という男に若干の嫉妬を覚えつつ、僕は、しかし、奥へは進めないので、出鱈目なアドリブを入口付近で振り回すことしか出来なかった。望み薄を感じ取った僕は、敢え無く1時間程度で退散した。料理の量が多く、腹は満ち足りた。
 
 沖港の船客待合所の建物まで戻ると、そこの壁際の椅子に一人で座っている女性の短い束髪を見て、「昼間南崎ビーチで黒のウエットスーツを着てシュノーケリングをしていた女性だ」と思い、本人に確認すると、「泳いでいたけど、他にもう一人いらっしゃったけど・・」と答えた。細面の、大きな黒い目に引き付けられて、暮色蒼然たる港を前にしばらく閑談に興じた。切りのいい段落で、明日のランチに誘ったが、敢え無く断られた。僕の心の中のリズムは、それでも順調に何の支障もなく前へ前へと軽やかに展開していった。壁際の暗闇や黒っぽい衣装が似合う笑顔の明るい女性だった。
 
 10日は雨。入館無料のロース館へ行く。明治時代の島の写真や捕鯨用の古い錆びた道具などが展示してあった。3、40代の大柄な女性が受付にいた。他に見学者はいなかった。お互いに暇だったので、世間話をした。彼女は母島生まれの母島育ちで、男の同級生の多くは島に戻ってきているが、女の同級生は内地へ移り住んだ人のほうが多いと言った。亀の肉についても尋ねたが、彼女は、煮込みは少し臭みがあるが、刺身はうまいと勧めてくれた。
 
 雨が上がると、脇浜海岸方面へ散歩に出掛けた。東屋でスマホをいじっていると、入れ墨娘が三線を持って通過して行った。島の行政放送が、台風のため11日のははじま丸全便欠航を告げた。雨不足のための節水協力についても呼び掛けた。午後3時までのらりくらりと過ごし、YHに戻り、シャワーを浴びた後、洗濯(1回200円)し、居間兼食堂で新顔の二人と雑談をした。一人は青年(U氏)で、一人は年配者、二人はアカギ等の外来種駆除の仕事のために来ていた。彼らは期限付きの非正規職員だった。他にもう一人正規職員の青年(仮にN氏と呼ぶ)もYHに出入りしていて、僕はN氏とは9日の午後に既に言葉を交わしていた。彼ら3人の仕事上の関係を知ったのは10日の雑談の折だった。N氏は外来種と固有種との関係についての僕の質問に対して的確な説明をしてくれた。僕が、「では、逆に、日本の動植物が外国へ入り込んでその地の固有種を駆逐することはないのか」と尋ねると、N氏は即座に葛と鯉を例示した。女の尻も追えば、見聞も広める、これが僕の旅のいつもの流儀だった。無論、物には言い様がある。殊更に自分を卑下するつもりはない。しかし、聖と俗との境界線上にこそ人生の醍醐味はあるのではないか。
 
 10日の夕食はYHで食べた。食卓は長方形になるよう並べてあった。僕の前に新顔の二人組、左隣に入れ墨娘(O嬢と呼ぶ)、右隣に父ちゃん、母ちゃん、右斜めの短辺に小学6年の娘。僕は「三線演奏のギャラだ」と冗談ぽく言って、O嬢にエビスビールを奢った。僕らはカチンとグラスをぶつけて乾杯した。食事の間中、僕は、O嬢と二人だけで話し込んでしまう事態にならないよう意識的に父ちゃん母ちゃんが話題の中心になるように方向付けた。この僕の全体に対する優しいが不特定の配慮は、しかし、結果としては、待ち受けていたであろうO嬢への優しい配慮とはならず、僕の個人的な隠れた意図を押し潰してしまう破目になった。色恋に常時成り立つ公式などない。下手な鉄砲は数多く撃つしかない。その夕食の席でつかんだ事実は、北海道を旅していた青森出身の父ちゃんと学生だった釧路出身の母ちゃんとは汽車の先頭車両の最前列の席で偶然知り合ったということだった。僕が目の前の青年U氏に、「やっぱ、車じゃいけないんだ。電車の先頭車両の最前列に座らんといかんのだ」と言うと、まだ20代のように見えるU氏がニヤニヤしながら「そうですね。電車じゃないと・・」と応じた。「電車じゃなくて、汽車です」と口数の多いほうでない父ちゃんもすかさず点竄した。父ちゃんの細部に拘る癖については、山形のM氏も兼ねて指摘していた。僕も父ちゃんには「乱してはならない秩序、収まり」があると感じ取っていた。6人で食事していた時だが、醤油の入った容器は2個しかなかった。誰かが醤油を使って、元の位置からずれた場所に置くと、父ちゃんは必ず自分で手を伸ばして元の定位置に置き直した。一番最初の宿泊手続きの際にも、理由は教えてもらわなかったが、食堂兼居間の引き戸は片方の戸しか開閉してはいけないと言われた。一度うっかり開けてはいけないほうの戸を開けたことがあるが、すぐ注意を受けた。どっちの戸も円滑に開け閉めできたので、僕には何も支障はないように感じ取れた。他人の心の波を荒立てる恐れのあることに対して年々淡泊になっていくことと自身の老齢化とは関係あるのだろうか。気も体も衰える。だからこそ、唐突だが、僕はここで范曄に倣って「老いては益々壮んなるべし」と言わねばならない。

 10日の夕食後、O嬢は僕の頼みを聞き入れて、部屋から三線を持って来ると、「涙そうそう」を演奏し始めた。所々躓いていたが、楽器を買って2週間とは思えないほど上手に弾いた。小柄で、肩までかかる茶色の髪と整った顔立ちを持った可愛い子だった。素顔になると、何度も見たが、30歳とは思えないほど幼く見えた。軟体動物のようにぐったりとすぐ座卓に凭れ掛かる姿勢が少し気になったが、時々まぶしいほど輝かす笑顔は素敵だった。下関出身で、今は看護関係の仕事から離職中で、今年度一杯は台湾やフィリピンへも行って英語の勉強をしたい、夢はアルゼンチンの氷河を見に行くことだ、とスマホでその氷河の画像を僕に見せながら語った。人懐こい面と熱しにくい面、この両面を彼女は持ち合わせていた。
 
 6月11日月曜日、風雨強し。島のガソリンスタンドは、佐藤燃料店の1軒のみ。「燃料店」という名が気に入った。雨が上がるまで観光案内所で過ごし、雨が上がると船見台方面へ散歩に出掛け、駆除対象である野猫を発見。痩せ細っていたが、茂みに逃げ隠れる動きは敏捷だった。その帰途、島っ娘の看板娘と出会った。鍔の広い大きな帽子を被っていた。相手のほうから挨拶されなかったら、気付かなかっただろう。薄紫色の朝顔を連想させるような声で、擦れ違いざま僕に「掃除に行くんです。また来て下さいね」と言った。道路脇の草木には、バナナ、レモンが、スーパーで売られている時の黄色とは違って濃い緑色のままぶら下がっているのが目に付いた。
 
 沖港の船客待合所の中に観光案内所はあるのだが、出入りが自由でベンチもあるので、「冷やかし」というよりは「賑やかし」のために、僕はよく出向いた。「妊娠8か月程になると妊婦は内地の病院に強制的に移されるという話は聞いたが、死んだ時はどうなるのか、この島に火葬場はありますか?」と僕は案内所の窓口の女性係員に尋ねた。「あります」と答えたきり彼女は地図上でその所在地を明示しようとはしなかった。追究すると、体を捻って、向こうの方ですと曖昧に答えた。所謂観光名所だけを巡って観光するのが観光客ではない。客から案内を請われたら、せめて地図上においてだけでも間違いなく目的地まで到着できるように案内するのが案内所の役目だ。母島で内心「けしからぬ」と思ったのはこの係員の態度だけだった。YHの父ちゃんには妙な癖があったが、ひょっとしたら、こういう僕の窓口での反応も、人から見れば妙な癖の表れだったかもしれない。確かに、京都駅内の観光案内所で、「火葬場へ行きたいのですが、どのバスに乗ればいいですか?」と尋ねるような観光客は稀だろう。しかし、たとえ頓珍漢な質問であっても、自分が知っていることならば、案内人としては誠実に教えるべきだろう。くどいようだが、観光の目的地を決定するのは観光客の側だ。
 
 午後4時前、シャワーを浴び、ベランダで缶ビールを飲んでいると、三線を背中に担ぎ、手には買い物袋をぶら下げて O嬢が帰って来た。僕の顔を見るや否や「明日船欠航するそうですよ」と声を掛けて来た。僕は、実は、昼前に、彼女がまだ部屋で寝ているものと思い込んで、「寝ていますか?ご都合が良かったら、今夜軽く飲みに行きませんか?」とメールで誘っておいたのだが、彼女の表情を見る限り果たしてそのメールを読んでくれているのかどうかさへ僕には分からなかった。彼女は二階の部屋へ上がって行った。僕は木製の頑丈な椅子の中で、「まあ、しかし、ベストを尽くした。自分の踊りは舞い終えた」と自らを支えた。
 
 6月12日曇。午前8時27分出発。乳房山登山。標高463m。往路と復路と同じルートを辿ったわけではないが、往復2時間40分掛かった。途中ほとんど休憩しなかった。ガスに包まれ、まったく眺望きかず。固有種のメグロを間近に見たことだけが収穫だった。おがさわら丸の乗組員から聞き知っていたことだが、小笠原諸島の山には熊や蛇などの危険な動物はいない。蚊に刺されるくらいで、飲み水さえ携行すればよい。僕は安心して山歩きをした。登山口には外来種対策のため泥落としマット、ブラシ、酢スプレーなどが置いてあった。ついでに言えば、おがさわら丸やははじま丸に乗る時も、乗客は全員消毒液入りのマットに靴底を擦り付けてから乗船した。
 
 正午頃、乳房山から戻り、着替え、ベランダでビールを飲んだ。O嬢は寝ているか。後でまた会えるかもと思い、脇浜公園へ行った。展望台まで進んで行くと、小富士からの帰り道に出会った紺色女性が腰掛けて、ノートに何かを書いていた。海用のタイツのようなものを履いていた。そこで午後3時頃まで、喉が渇き切るほど、話のネタが尽きたと思うほど旅の話をした。彼女は15日に父島で夫と合流することになっていた。鈍い金色の指輪はやはり結婚指輪だった。彼女はIT関連の会社員で、3年に1度与えられるリフレッシュ休暇を使って来た、小笠原は2度目の訪問だが、ここは女一人の旅でも怖くないから良い、と語った。「亀の刺身はやはり山葵で食べるの?」と聞くと、彼女は「辛子醤油で」と答えながら生唾を飲み込んだ。彼女は小笠原の観光情報を豊富に持っていた。「山道を徒歩で2時間ほど歩かないとジョンビーチへは行けないから観光客はほとんどいない」父島の地図を見せながら、彼女は僕に言った。僕は父島へ行ったら、ジョンビーチへ行くことにした。
 
 夕食の後、2階の部屋で休んでいると、居間兼食堂から三線の音が響いて来た。下に降りると、0嬢が父ちゃんの前で楽譜を見ずに演奏していた、楽譜と言っても、スマホの画面上に出るものだったが。「うまくなったね」「本当ですか。ずっと練習していた」彼女はベランダへ出た。僕も出た。「星が見えますよ」「ほんとだ」空を見上げながら彼女の傍に寄り、囁き声で「軽く飲みに行こう」と誘った。星の光よりも自分だけに対する女の目の瞬きを見たいのだ。O嬢は「ナハー」と妙な息を吐いてその場にしゃがみこんだ。「きょうは風呂行きたいんで、10時半には戻らないと」「じゃ、風呂行ってから行こう」と重ねて誘うと、O嬢は「いやあ、面倒臭いなあ」と言った。僕の矢は尽きた。「まあ、ゆっくり風呂へ行ってください」と切り上げた。午後7時50分頃の幕切れだった。南海の離れ島の夜のベランダという狭い舞台で繰り広げられた二人芝居だったが、心に暖かさがいつまでも残る交流とは成り得なかった。聖俗間の境界線上の激しい揺らぎから俗の領域に入り込み過ぎたかもしれない。何度でも言わねばならない、ベストは尽くした、と。
 
 6月13日曇。母島を立つ日。昼過ぎまでは時間があったので、朝、食器洗いをしていた父ちゃんや居間兼食堂にいたO嬢に挨拶をした後、重いザックを担いで、石次郎海岸、御幸之浜海岸、南京ビーチへ行った。オカヤドカリやカニ類は、探さなくても目に入るほど沢山いる。戻ると、9日の夜に船客待合所の前で出会った黒の似合う女性が、商店街入り口の大きなガジュマルの下にいた。船客待合所の外の木陰のベンチで時間潰しをしていると、O嬢が前方の路上を手ぶらで歩いて来た。僕は遠くから彼女の姿を写真に撮った。出航間近になると、展望台で喉が渇くまで対談した紺色の女性も待合所に来た。僕は二人の女性がうねらす潮目を静観していた。消毒液入りマットに靴底を擦り付けて乗船すると、彼女たちは二人とも右側の椅子席、それも互いに近い場所に荷物を置いた。僕は左側の椅子席に陣取るしかなかった。船酔い止めの薬を飲んでいると、O嬢が傍に寄って来て、父ちゃん母ちゃんが見送りに来るということを告げた。僕が慌てて席を立とうとすると、「まだ来てない」と言った。構わずデッキに向かうと、彼女も着いて来た。二人並んで船着き場を見下ろしていると、父ちゃん母ちゃんが車でやって来た。お互いに会釈したり、手を振ったりした。O嬢が「いい人たちだね」と言った。船が動き出す。ふと彼女の方を見ると、小さな笑顔がまぶしいほど輝いていた。見送り人の姿が段々と小さくなっていった。デッキから離れる際に、僕はもう一度「今夜食事をしよう」と誘ったが断られた。父島再上陸、午後4時。ゲストハウス島じかんという名の宿の主人が迎えに来ていた。その一際大きないがぐり頭の形は、僕におにぎりを連想させた。
 
 6月14日木曜、朝、おにぎりを作り、水着で原付バイクに跨り、校長から勧められた南西部のコペペビーチへ行った。誰もいない。前方に大きな岬がある。浅瀬を左から右へ岸に平行に泳ぐが、魚影なし。透明度も高くない。寒さも感じた。外来種駆除業の青年U氏が勧めてくれた北部の宮之浜ビーチへ移動することにした。正面に黄色ブイが2個浮かんでいた。湾の右側には人工の遊歩道が設置されていた。そこを通り、岩穴を潜り抜けて、逃げ去る蟹には目もくれず、岩端に左手を掛けて足元の深みを覗き込むと、中型の魚がすぐ下にいた。小さな魚の群れもいる、と思った瞬間、突然、サメの一種ネムリブカ(体長約1メートル)が右手から左手へ泳いで行った。母島YHでのU氏(外来種問題に詳しい正規職員の青年)との対談で「サメでもおとなしい性格だけど、血の匂いを嗅ぐと興奮する。だから、ダイバーの中には生理中の女性と一緒に潜ることを避ける人もいる」と教えてもらったことを思い出した。おとなしいと言ったって、目の前に、大きさ1mの、背ビレが三角に尖っているサメがいる。恐ろしくなり、水からすぐ離れた。宿に帰る前に、釣浜ビーチに立ち寄ることにした。バイクを止め、坂を下って行くと、下から3、40歳台の女性が一人上って来た。何も言わずに擦れ違った。
 
 宿でシャワーを浴び、着替えをし、バイクに跨り、長崎展望台へ行った。そこには、先程擦れ違った女性がいた。眼下に海を眺めながら、立ち話をした。僕が母島に渡っていた間も彼女はずっと父島観光をしていた。愛媛県出身で、仕事を止めたと言った。画面の割れたスマホを取り出して、父島一番の見所、南島の画像を見せてくれた。あれこれ喋った後、僕は「こんな美しい海を見ながら楽しいお話ができてよかったです。10年後も忘れないと思います」と言った。愛媛嬢は胸の前で合掌して、「10年持ちますように」と祈願した。僕は笑った。しかし、ここだけの話、彼女の顔立ちについては、まだ2週間しか経過していないのにもう忘れてしまった。Pに戻り、バイクに跨り、旭山(267m)、初寝浦展望台、中央山(319m)と主な見晴らしの良い地点を順番に回った。その後、賑やかな湾岸通りに戻り、佐藤商店で食料品を購入し、大根山公園方面へ行き、墓地巡りをし、ウエザーステーション展望台に行き、宿に帰った。宿では、乏しい材料で自炊し、缶ビールを飲んだ。周囲に飲食店はなく、夜空を見上げても、見えるのはオオコウモリの円舞だけだった。
 
 6月15日金曜、嬉しい晴れ。トレッキングシューズを履いて、ジョンビーチへ。宿を午前7時7分バイクで出発。南部の小港海岸駐車場からは2リットルの水を背負って歩いた。ジョンビーチには午前9時5分頃到着。ビーチへ行くのに山道を1時間48分も歩いたことになる。朝早いビーチには誰もいず、水の色は湧き水のように透明だった。全部自分のものだった。潮の流れが強いため遊泳には不向きだった。岸辺の岩陰で水中を覗き込むと、大きな魚がいた。一度も海に入らずに帰るのも癪なので、用心しながら海に入った。波の力は巨大だった。危うく傍の岩礁に叩き付けられるところだった。フィンを手にぶら下げてリュックのある場所へ引き上げようとしたら、ふらりと一人緑色の服を着た女性がやって来た。一言だけ挨拶を交わした。様子を伺っていると、海の方には一顧だにせず、専らハマゴウの花の方ばかりを観察していた。(後で知ったことだが、彼女は行政の関係者で、仕事で来ていた。)
 
 午前11時20分頃手製のおにぎりを頬張り、帰途に就いた。少し斜面を登ったところで、紺色女性とまた巡り会った。母島の小富士で出会った時と同じように顔中に玉のような汗をかいていた。名を聞くと、Kと名乗った。「Kさんに教えてもらわなかったら、ここには来なかったと思います。今までで一番気に入りました。感謝します」と言うと、「良かった」と弾むような声で応えてくれた。ここでの立ち話でも僕らは色々と情報交換をしたが、彼女と一緒に居酒屋に行った場面に早く行き着きたいので、端折って二人の間でまとまったことだけを書くことにする。彼女は言った、「夕日を見る最高のスポットなんです。体力が残っていたら、夕方6時にウエザーステーションで落ち合いましょう」と。僕は幸福な気分で中山峠まで一気に戻り、風景絶佳のその峠のベンチでゆっくり休憩し、何度も彼女の言葉を反芻した。涼しい風が心と体の毒素を吹き払ってくれるように感じた。俗悪な心でも甦る。トレッキングシューズを脱いで、海の青に染まるまで僕は長い間そこにいた。小港海岸駐車場に戻ったのは午後2時17分頃。宿に帰り、シャワーを浴び、洗濯(無料)をし、一息ついたのは午後4時9分だった。
 
 午後6時、バイクで約束の展望台まで行くと、既にK夫人が待っていた。あいにくの曇り空だったが、何とかオレンジ色の光が西の海に沈むさまを写真に撮ることに成功して彼女は嬉しそうだった。彼女は遊ぶことに対しても手抜きをせず一生懸命取り組むタイプだった。触れ合いを深めるたびに僕は彼女との間の心理的距離が狭まっていくのを感じた。
 
 日が沈んだ。僕らは湾岸通りに向かった。僕はバイクで坂を下りたが、彼女は歩いて下りた。魔女のように空を飛んで来たかと訝るほど彼女は早く降りてきた。彼女が坂下のバス停に止めておいた自転車に乗ると、僕はその後をバイクで着いて行った。数軒の飲食店をチエックした後、僕らは、入口の戸に「新亀あります」という張り紙のある居酒屋の前で停止し、そこに決めた。カウンター席に並んで座り、ビールで乾杯をし、亀の刺身やこんがりと焼かれたホッケを分け合って食べた。彼女は酒には強くないらしく、水を飲みつつビールを飲んでいた。ほとんど脈絡のない雑多な話をして過ごしたが、僕にとっては今回の旅のハイライトシーンだった。そのたわいない雑談の中で僕が今もはっきり覚えていることは、彼女の会社は3年に1度は2週間のリフレッシュ休暇と現金3万円をくれるということと彼女の苦手な食べ物は茸類や知らない魚ということだった。何かの引っ掛かりで彼女が僕の年齢を聞く場面となった。僕の年齢を知ると、彼女は驚きを隠さなかった。多分自分とさほど差がないと思っていたのだろう。失礼しました、若く見えますね、父は昭和22年生まれだけど、賭け事ばかりして運動はほとんどしていない、と言った。70歳過ぎると誰でも衰えるよと慰めのような言葉を僕は言った。彼女は多分僕のことを念頭に置いて自分の父親に対して「もっと運動すれば」と助言するに違いない。彼女の中では今まで僕は彼女の友だちだったのかもしれない。一瞬、僕はそう思った。次の瞬間には、しかし、もうこの子は遠くへ去ってしまった、と感じた。「明日は何をする予定ですか?」と彼女が聞いた。「コペペビーチでシュノーケリングでもするよ」と僕は答えた。
 
 6月16日土曜。きょうのコペペビーチも透明度は低く、波も高かった。北部の宮之浜ビーチへ移動した。宮之浜の波は穏やかだった。岸から10m程泳ぐだけで魚のいる珊瑚礁がある。初心者でも十分シュノーケリングを楽しめる。ゆらゆらと目の前を泳いで行く魚を僕はゆっくりと追い掛けた。見たものは、青緑色の、顔面に紐状模様のあるヤマブキベラ、菱形の、黄と黒の色彩が鮮やかなツノダシ、岩陰に潜む黒くて長いトゲが危険なガンガゼ(ウニの一種)。一時的な事ではあったが、僕は、耳元で波音を聞きながら、すべての憂鬱な気分にさせるものから完全に逃げおおせている自分を味わった。海の中には、そこはかと僕がいつも求めているもの、「息を飲む瞬間」が確かにあった。
 
 夕方6時半頃、部屋の外の踊り場で、宿(ゲストハウス島じかん)の奥さんと初めて会った。南崎へのツアーに参加するかどうかの確認だった。天気予報が晴れではなかったので断った。裏山を塒にしているオオコウモリ(天然記念物)が「飛んでいる」と教えられた。奥さんの肩越しに見上げると、林の上を飛び回る10羽ほどの黒い鳥が見えた。教えてもらわなければ、カラスと思い込む人が多いのではないか。夜間にバナナやマンゴーを食べるという話だった。島には移住者が多いが、奥さんは埼玉、ご主人は神奈川出身だった。
 
 6月17日日曜。雨。カッパ着て、バイクで出発。近くの公衆電話ボックスから古女房に携帯電話水没の件について連絡する。雨の中、小笠原神社へ。東京都神社庁発行の参詣者向けの小紙片が置いてあった。「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて可畏(かしこき)物を迦微(かみ)とは云(いふ)なり」と本居宣長の「古事記伝」の一節が紹介されていた。宮之浜の珊瑚礁を縄張りとする熱帯魚を追い掛けていた時に心に感じた振動と同じような振動を、僕は感じた。紙に神を神と書かずに「迦微」と書いたところに、僕の心は揺れた。徳をとくと読ませずに「こと」と読ませるところに、僕の心は痺れた。ここに来て良かった。雨天で良かった。雨でなければ、神社巡りが好きな僕でも多分ここには立ち寄らなかっただろう。天と地の間にある「すぐれたる徳」、確かに、無いことは無い、としか言いようがない。
 
 雨なので、屋根のあるビジターセンター訪問。小笠原の歴史を概観する。下手な小説よりも面白い。ここでは、しかし、長くなるので割愛し、ペリー提督、ジョン万次郎、そして詐欺師小笠原貞任、彼らを抜きにしては小笠原の歴史は語れない、また、昭和初期の産業は、冬野菜とマグロ漁で繁栄し、農家の年収は当時の首相と同程度にまでなったが、戦争末期の強制疎開で衰微した、とだけ言っておこう。
 
 父島の湾岸通り沿いにある観光案内所の前にある樹木は夢の中の木のように美しかった。どうしても名を知りたくなって調べた。鳳凰木、名も絢爛。この木を見上げながら、僕の心はまた揺れた。
 
 雨が上がった。父島北部の釣浜のPにバイクを止めて、長崎展望台まで歩いた。あれが兄島、あれが潮の流れの強い兄島瀬戸、あの出っ張りが兄島の家内見岬と、地図と実際の風景とを見比べながら歩くと地名や位置関係が頭に入りやすかった。
 
 無味乾燥だが、父島での自炊について、ここで簡単に書いておく。初め、1キロの米を買ったが、滞在中にちょうど払底した。13日、玉葱と椎茸、油で炒める。14日、南瓜とジャガイモの煮物。15日、K夫人と居酒屋へ行ったため、自炊なし。16日、ウインナーと玉葱を炒める。17日、インスタントカレーに玉葱を混入。18日、最後の夜だったが、何を食べたか思い出せない。食材として南瓜とジャガイモと玉葱を買った理由は、他には何も売っていなかったからだ。教訓。色恋でも買い出しでも、離島では特に、タイミングとコツ、これが肝要だ。JAの店頭に、「野菜は、段ボールを開封するまで、何が送られて来るのか分かりません」という張り紙があった。事実は小説よりも面白い。
 
 6月18日月曜、曇。朝、情報センターへ出向き、10年前の小笠原返還40周年記念時のCDが残っていないかを尋ねた。村役場の総務課で聞いてほしい、という答えだった。総務課で現物1枚を見せてもらったが、譲ってはもらえなかった。
 
 雨が強くなった。世界遺産センターへ行った。パネルには、世界遺産登録区域が誰にでも分かるように線引きされて示されていた。それは、僕が母島YHの父ちゃんにぶつけた質問に対する明確な答えだった。
 
 雨が上がった。再度僕は釣浜ビーチへ、次に、宮之浜ビーチへ行った。砂浜を縁取るグンバイヒルガオ、ハマゴウとはもう馴染みの仲になっていた。ノヤシ、モンパノキも覚えた。寄せ来る波は、盥の中の水のように穏やかだった。水は澄んでいた。やっぱり、このビーチはいい。少し泳ぎ出ると、多くの魚がいた。来て、シュノーケリングをやって、良かった。ビーチの真ん中辺りには、幼女とその母親とビキニ姿の若い女性の3人連れが遊んでいた。若い女性の右足首と腰の部分には小さな入れ墨が彫ってあった。豊満な体、腰や尻の辺りの明確で、大胆な湾曲線。圧倒的な迫力に溜め息さえも出ない。熱帯魚よりも熱帯女のほうが断然いい。僕の正直な感想だった。長い間、僕は飽きもせず眺めていた。その後、ライフジャケットを身に着けるのを忘れたま泳いでいるのに気付き、慌てて岸に戻ろうとして溺れそうになった。宿に帰ると、テレビが大阪6弱の地震を報じていた。
 
 チエックアウト前日に精算することになっていたので、管理棟へ行くと、一畳ほどの事務所に太めの、おにぎり頭のご主人が窮屈そうに待機していた。69,800円。カードでの支払いを希望すると、ご主人はスマホに僕のカードを差し込んで処理を始めた。驚いた。「へええ、スマホで処理できるんですか。ビーチでも出来るんですか?」と頓狂な声で尋ねると、「電波さえ届けば、どこでも出来ます」という返事だった。「小笠原は進んでいますね」と言うと、若主人は笑った。辺境の地と先進技術の粋。若主人の言う通り、いずれはオスプレイが島内に常駐し、島民が命に関わるような急病等になった場合の緊急搬送を担うようになるかもしれない。(現状の緊急搬送は、①硫黄島から自衛隊のヘリを父島に呼び、急患を硫黄島へ運ぶ。②硫黄島から自衛隊のジェット機で東京都立広尾病院へ運ぶ。その費用は無論公的負担になるが、島民の話では、500万とも700万とも聞いた。)  
 
 6月19日火曜午後3時30分、父島二見港を出港。僕はジョンビーチや宮之浜で拾った石を詰め込んだザックを担いでおがさわら丸に乗り込んだ。僕は7階デッキから大きなおにぎり頭を探した。すぐに発見。奥さんと子どもさんの姿も見える。ご主人には、船客待合所で、「もし返還40周年記念CDが見つかったら、連絡して下さい」と頼んでおいた。おがさわら丸の後を見送りの船が数隻かなり遠くまで追って来る。そして、その船縁から、青年男女が、あっちでドボン、こっちでドボンと飛び込んで、波の合間から「ありがとう、行ってらっしゃーい」と叫びながら手を振っている。これが、音に聞く小笠原独特の別れの儀式か。もし飛び込んだ者の頭が、あの大きなおにぎりだったなら、僕も声の限りにありがとうと叫んだことだろう。涙こそ落ちなかったが、やはり心が揺れたシーンだった。
 
 そこそこの充実感に浸りながら、誰もいないデッキで長い間、僕は、紺色の海を眺めていた。微かな予感通りに、K夫妻が僕の姿を見付けて傍に来た。K夫人のパートナーは、横側の髪を特徴的に垂らしたちょっと驚くほどのハンサムな青年だった。彼は終始静かに控えめな態度を取っていた。若く見えた。聞くと、夫人が「同級生です。私より若く見えますか?」と言った。僕らは、うっかりポケットに携帯を入れたまま海に入ったら壊れてしまったという話から次は3人で父島の居酒屋へ行きたいねという話まで色々と話をした。夫人がK氏に僕に勧める東京の居酒屋を尋ねる場面もあった。K氏は新宿の「思い出横丁」の名を挙げた。デジカメをK氏に渡すと、夫人は僕の右隣にくっつくように並んで「写して」と言った。ほんの一瞬、僕は夫人が僕の右腕をつかむような気配を感じた。裏表のない、優しい、爽やかさを感じさせる、好感のもてる女性だった。今回の小笠原の旅で何が一番良かったかと尋ねられたら、僕は迷うことなく、K夫人と偶然出会ったことと答えるだろう。ガイドブックには決して掲載されることのない、人との邂逅、飽くまでも個人的な領域における嬉しい偶然の積み重ね、これこそが旅の醍醐味かもしれない。僕は夫人に連絡先を書いたメモを手渡した。僕らはそれを最後にもう会うことはなかった。僕はずっと名付けようのない幸福を感じていた、竹芝港へ着くまでの船の中でも、新宿の思い出横丁の居酒屋の中でも、帰りの高速バスの中でも。そして、その後何の連絡もない今でも、一つの完結した、閉じた世界の幸福になってしまった今でも、僕は、小笠原への旅の思い出全体をそのまま素直に受容している。そして、一人でいる時の気分は、いつもどこかに向かっている船の中にいるようだ、揺れるbonin blueの波を押し分けながら。
 
 蛇足。小林秀雄の「小笠原紀行」に金平糖が出てくる。僕は父島のスーパーで金平糖を探した。小笠原と金平糖との間に何か関係があるのか。品薄のスーパーなのに、あることはあった。興味津々で菓子袋の裏を見ると、製造会社欄に「名古屋市西区」と表示してあった。長年名古屋で勤務していた僕が、1,000キロも離れた日本の南の果てまでやって来て、どうして名古屋の駄菓子を買わねばならないのか。一体全体、あの「小笠原紀行」の中の金平糖は何なのか。僕は菓子袋を持ったまま、深い失望感に襲われたまま呆然と立ち尽くした。

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