岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

北岳紀行

 2018年8月1日水曜日、慌しさを感じながら自宅を出発。山梨県周辺は高気圧に広く覆われて晴天が続くという天気予報と8月4日土曜日から6日月曜日まで北杜市でテニスオフを主催するという予定、この二つの前提条件が僕に決心させた。数年前から何となく南アルプス最高峰に対する淡い憧憬もあった。十分かつ確実な山行計画・装備点検もせずに、(実際、二泊三日の間、着た切り雀だった。)、僕はハイゼットに乗り込み、芦安の市営無料駐車場へ向かった。中央自動車道の韮崎ICから芦安へ向かう途中で早めの給油を行い、高台の郵便局で現金を引き出し、迷いながらも無料駐車場に到着したのは広河原行き最終バス(15時発)の発車時刻数十分前だった。一先ず安堵した。
 
 同じバスに乗る登山客は5人だったが、甲府発広河原行きバスは、始発駅で既に兵庫県の高校の山岳部員で満員状態だった。芦安広河原間片道1300円。約1時間、曲がりくねった狭小な林道を走るバスの吊革につかまりながら、僕は深い谷底に目を奪われたり、眠りこけて頭を右隣の友人の顔にぶつけて謝っている女子高生を観察したりしていた。どの世界も自分自身の目で捉えた、言わば瞬間瞬間に新たに突き破りながら発見する世界だ。飽きはこなかった。「こういうふうに世界は広がっていくんだ」、そう自分に言い聞かせつつ、僕は一瞬ごとに、一度きりの息を吐き、一度きりの息を吸い込んだ。
 
 終点広河原に到着し、広河原山荘へ向かう。清流野呂川に架かる吊り橋を揺れながら渡るとすぐだった。宿泊予約は出発間際に入れておいた。当日の宿泊者数は定員未満だったので、自分の寝床の両隣には誰もいなかった。混雑時には一つの布団に二人寝るのが山小屋だ。我慢できる込み具合だった。しかし、早い夕食、早い消灯、ズボンをはいたままの就寝、これらがどうも僕から快眠を奪ったようだった。広河原山荘の特徴を一つだけ挙げると、個室トイレの狭小さ、これだ。便座に座ると、前面の扉が膝小僧に当たる。トイレ全体の空間は広いのに、なぜ何もない空間は広く取り、個室トイレの中の空間だけ狭苦しくしたのか。僕は不便さの中で便を捻り出しながら、首を捻った。

 8月2日木曜日、午前4時半、朝食。飯と味噌汁のお代わりは無料だった。それよりも前に、キャンプサイトでは、山岳部の高校生たちが暁闇の中でヘッドライトを灯しながら朝食の準備をしているのが目に付いた。僕が山荘脇の登山口から登り始めたのは午前5時半、北岳山頂に到着したのは午後1時07分。所要時間7時間37分。標準登頂時間よりも1時間30分以上遅れた。大樺沢沿いに登るルートを辿ったのだが、二俣地点で既に息切れ状態だった。よろよろの足を止め、左手に残雪を見ながら何度大きく息を吐いたことか。天気が良すぎた。帰路に辿った樹林帯ルートとは違って木陰が少なく常に後頭部に日照りを感じながら登らねばならなかった。残雪の厚さは優に1mはあった。登山道にはまったく雪はなかった。スパッツも不要だった。短パン、Tシャツの姿で登っている人もいた。道も標識も読み取りやすく、時々、汗の滲んだ腕等に蠅がたかりに来るくらいで、普通の体力と天気にさえ恵まれれば、極端に難しい山ではない。その日の僕にとっては、しかし、手強い山であり、侮れない山であり、気力体力の全部を消耗し尽くしてしまったと言っても良かった。登頂後、夕方から夜にかけて、軽い頭痛に悩まされた。多分、高山病になったのだろう。登山口から一気に登頂を目指すのではなく、山小屋で1泊ないし2泊してゆっくりと登頂を目指すほうが賢明かもしれない。 

 あれが北岳のbuttressか。人間の営みとは無縁の巍峨たる懸崖。黒茶色の、有無を言わせぬ拒絶の象徴。僕は黙って見上げた、途轍もなく巨大な魔力を秘めているような気配に曝されつつ。登るしかない。息切れがするようになってから、そう何度も自分に言い聞かせて登ってきた。草や樹木、可憐な野花と人間との関係は、包み込んだり、包み込まれたりの優しい関係だ。buttressとの関係は、非情なる黙殺の関係だ。木製の梯子が連続する手前付近で、休憩していた若いカップルを追い越した。その女性は、僕の目には、その日北岳に登った女性の中で一番可愛い、一番甘い香りを漂わせた女性に映った。僕は耐えながら一段一段梯子から梯子へと渡って行った。体力の限界の近くにいるという意識とこのレベルで何とか踏み止まって登頂できるのではないかという意識、この二つの意識を交互に掴んだり離したりしながら、また、外形的には、数歩進んでは息を整えるという形を取りながら、僕は登って行った。
 
 一つの飛び石から次の飛び石へ「エイッ」と気合を入れて飛び移る、この「エイッ」という気合の瞬間にこそ生きるということの神髄があるのではないのか。一段一段登って行く山登りが屡々人生に譬えられるが、人生は山登りそのものだ。現瞬間から次の瞬間への渡りを保障するものなどない。「エイッ」と渡る主体が一瞬一瞬にすべてを賭けて飛び移って行くしかない。人生において一見あるように見える安穏な連続性、そんなものは幻以外の何物でもない。
 
 山頂まであと一息とは分かっているのだが、気力も枯れ、足にも息遣いにもラストスパートをかける余裕が残っていなかった。よろよろと登頂したのは、午後1時07分。すぐに登頂記念写真を数枚撮り、小笠原で知り合ったK夫人に送信した。僕の味わった深い達成感を誰よりも先に伝えたかった。誰が何と言おうと、それがその時の僕の正直な思いだった。頂上で食べるために残しておいたお握りを食べている時、近くにいた若者たちがスマホで気象データを見ながら、「2時頃積乱雲が発生する予報だから早めに下山しよう」と話し合っている声が聞こえた。確かに、目の前では、巨大な雲がモクモクと勢いを増してこちらに蔽いかぶさってくるような動きを見せていた。心配性の僕は、頂上でゆっくりと過ごしたかったが、諦めて、せかせかと四方の景色を見ると、肩の小屋方面へ下りて行った。山頂にいたのは15分程度だった。
 
 肩の小屋(標高3000m)で宿泊受付を済ませ、生ビールを注文し、一口飲み込んだ時、僕の緊張は一気に緩んだ。名古屋方面に向かって立つと、M夫人宛に言外の言を潜めてメールを送信した。古女房には何も送信しなかった。なぜなら、迂闊に自分が浩然の気を養っている姿を見せようものなら、すぐさまパンダの絵姿と「笹食ってる場合じゃねえ」というメッセージを送り返してくることが分かっているからだ。空気の薄い山巓でも俗気が抜けない軽薄爺、この自己像を嫌悪しきれず、修行を等閑にしている点が、多分、僕の欠点の一つなのだろう。一段下のキャンプサイトでは、兵庫県の高校生たちがテント周辺で遊び興じていた。彼らとは山道で数度擦れ違いをしたが、この山岳部の指導者は、どこにいるのか気付かないほど静かな人で、大声で指導したり威張ったりはしていなかった。僕にはなぜか頼もしい指導者に見えた。
 
 標高3000mで見る夕焼け。そんなもの見たって仕方ねえ。僕は見損なった。高山病か、頭痛が夜になっても治らなかった。午前2時頃か、小屋の外のトイレへ行く時、満点の星空に気付いた。地球との距離が近くなっている火星の酸漿色も見えた。夜空を見上げているといつもなぜか不安に襲われる僕は、「生きている実感」を味わいつつも足早に小屋の中に取って返した。小屋の中で寝ながら意外に思ったことは、鼾をかく人がほとんどいなかったことだ。前夜の広河原山荘でもそうだった。自分の鼾は聞こえないが、人の鼾は大抵気が付く。なのに、みんなすやすやと静かに寝ていた。その夜も僕はなぜかほとんど眠れなかった。毛布は一人当たり4枚程あてがわれていたが、僕は2枚しか使わなかった。朝夕は、外では冬装束が必要だったが、中では真夜中でも寒さで震えるほどのことはなかった。朝から缶ビールを飲んでいた山小屋の爺さんは、夕食時には、古ぼけた薪ストーブに捩じった雑紙のようなものをくべていた。ああいう爺さんとはゆっくりと話をしたいものだ。

 8月3日金曜日。日の出は見た。やや右手に霞んだ富士山。暗いうちにヘッドライトをつけて北岳山頂へ向かった人もいた。往復1時間半くらいかかるだろう。僕にはその気力がなかった。午前6時に下山開始。小太郎山分岐点、御池山荘を通る樹林帯ルートだ。心の中は充実感で一杯だった。そして、その心の中に積み重なるようにして存在していた幾つかのものは、出発の決意であり、幾つかの準備であり、左右の足の一歩一歩の足取りであり、じっとりとした体中の汗であり、息切れの苦であり、掴み取った自然美であり、忍耐と期待であり、自分の人生に対する自分なりの創造力の表出だった。

 肩の小屋から30分程下ったところだったか、前方に30代くらいの女性が一人で下っていた。挨拶をすると、右掌を上に向けて「お先にどうぞ」という仕草を見せた。僕は追い越した。登りでは人に追い越されてばかりいたが、下りではこんなふうに人を追い越すことが間間あった。曲がり角の最初の木陰で喉を潤していると、左上方に彼女の姿が現れた。間を取って、「結構暑いですね」と声を掛けると、柔らかく応答してくれて、僕の左横に来るとそのまま休憩した。少し話し合った後、また下りだす。振り向くと、彼女が少し上にいる。「何時に肩の小屋を出たんですか?」などと問い掛けると、愛想よく返答してくれた。鼻の頭付近に小さな黒子のある、端正な顔立ちで、よく見ると、小柄で胸の盛り上がりこそなかったが、知性美が漂っていた。化粧気はなかった。僕らはその後ずっと御池山荘、広河原山荘、乗り合いタクシー、芦安温泉、そして、ランチまでの約4時間を一緒に行動した。素敵な女性と話し合っていると、時間の経つのは早く、終盤膝痛こそ感じたが、浮き浮きした気分で下山することができた。

 下山しながらの彼女との対話やそこから知り得たことを、思い出すままに幾つか拾い上げてみよう。彼女は東京都の周辺部に住む。出身は徳島県、小学生時代しか住んでいなかったので阿波踊りは踊れない。東京の前は飯田市に住んでいた。僕が多治見在住と言うと、「瑞浪へ、好きなのでよく土佐文旦を買いに行きました」と意外な事実を語った。彼女の旅程は、8月1日に東京から芦安温泉へ、2日は北岳登山、肩の小屋で泊まり、3日下山、甲府市に泊まり、4日東京へ戻るというもので、仕事は6日の月曜からだった。「だったら、北岳から間ノ岳へ回れたんじゃない?」と僕が言うと、彼女は北岳から北岳山荘へ行くルート上の難所(池山吊尾根)を念頭において、「私には無理なので行けない」と答えた。彼女は念入りにルートの下調べをしていた。言葉の端々に確かな自己認識と知性の煌めきを僕は感じ取った。僕のような軽佻浮薄とは雲泥の差だ。登山の魅力について尋ねると、「頂上では達成感。途中では美しい景色に対する期待感」と答えた。「頂上で、もう一歩も登らなくてもいいんだと思う時の、あの達成感。あれが、やっぱりいいよね」と僕も心から同意した。下山道で息を整えながら交わした他愛もない四方山話が、今も心の中に木霊のように響き渡る。
 
 御池山荘前のベンチで僕がソフトクリームを差し出すと、彼女は受け取り舐めた。僕は傍で甘美な時間を味わっていた。どこにいても世界の果てだが、その果てにおいても、世界は展開する可能性がある、望ましいものになるかどうかは見通せないけれども。僕は彼女が首を横に振るまでは一緒にいたいと思った。

 登山口の広川山荘に無事戻り、 野呂川の吊り橋を渡ったところで、北岳を振り返り、彼女が「あそこまで登ったんですね」と言った。僕が「うん、よく登ったもんだ。記念に一枚撮ろうかな」と答えると、「私、先に行ってます」と言って、彼女は僕を置き去りにした。この決定的シーンを、僕は密かに自分の心の保管箱に赤印を付けて収めた。彼女が僕に対してどういう感情を持っているのか、僕はピンと感受した。バス停まで行くと、彼女が僕の方に向かって来て、バスではなく乗り合いタクシーで行かないかと誘う目で言った。バス停を見ると、午前11時発甲府行のバスを待つ人々が列を作っていた。バス代より乗り合いタクシー代のほうが若干安かった。僕らは乗り合いタクシーに並んで座った。全部で7人ほどの登山客が乗り込んだ。芦安のバス停まで1200円だった。
 
 芦安の温泉へ入る前に、「何時間くらい入る?」と尋ねると、彼女は「1時間もあればいい」と答えた。僕らは待ち合わせ場所を決めて温泉に入った。僕は髭を剃った。待ち合わせ場所に行くと、彼女は肩よりも長い髪を垂らして、紺の縦縞のワンピースを着ていた。まるで別人だった。素敵なお嬢さんが僕の目の前にいた。彼女と一緒にいる幸せを感じた。しかし、それは、「彼女と一緒にいない場合の不幸せ」によって裏打ちされているものだ。恋の苦しさを微かに予知しながら、僕は、しかし、未知の山道を登らざるを得なかった。温泉所併設の食堂に入り、蕎麦を食べ、四方山話を続けた。彼女は、今夜は甲府市に泊まり、夕食の予約はしていないと言った。僕が夕食を一緒に食べないかと誘うと、彼女は「今夜はすぐ眠ってしまいそうで、・・・」と首を縦に振らなかった。僕は重ねて誘うことはしなかった。彼女に対する敬意のほうが恋慕の情よりも優っていた。僕は彼女に僕のメルアドだけを告げた。彼女はそれをメモした。僕らは芦安の無料駐車場で別れた。
 
 僕はその後北杜市へ向かい、8月4日土曜日から始まるテニスオフに備えた。北杜市の宿いずみ荘の駐車場で荷を下ろしていると、偶然にも名古屋市千種区の、負債のないM夫妻に出くわした。僕の淡い慕情は真夏の雪のように一瞬にして跡形もなく消え失せてしまった。  

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