『God』の歌詞の一部
I don't believe in ~
(私は~を信じない)
これを何度も繰り返す。「~」には占いや宗教に関するものや、人物が入る。
私なりにこれは信じないっていうのがあるから、この歌でよく自分の信じないものを当てはめて、替え歌をします。ここでは私が信じないものをあげて、信じない理由を説明します。
すぐるの信じないもの:
孔子 (Confucius)/武士道/日蓮/石原(慎太郎)/天皇 (Emperors)/ガンジー/阿波根(昌鴻)/(吉田)松陰/細木(数子)
孔子は儒教を開いた人で、儒教では長幼・子弟の列を重んじ、目上の人を敬う教えがあるが、これがどんなときも正しいとは限らないと思う。たまに理不尽なことをする目上の人もいるから、その時は抵抗する権利ぐらいあると思う。
武士道は一言で言えば「男は男らしく」といったもの。私は男は男らしくっていうの嫌いだから信じない。
何回か某日蓮系宗教団体の勧誘にあったけど、その宗教の信者になるつもりはないから、こういう勧誘は断固お断り。
石原慎太郎さんは『スパルタ教育』という本を書いたけど、スパルタ教育を受けた人は決していい人にはならないと思う。むしろそのトラウマから犯罪に走ることが多い。例えば2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件の犯人がそうだ。
また、厳しくしかられることを恐れて試験や面接に落ちたことを隠し続けるため、どこかからお金をだまし取って、もらってない給料をもらったふりをして、刑務所行きという哀れな人生を送るはめになるというのも、ベストハウスかなんかで見たことがある。
象徴天皇制を敷いているから国が安定していて、仮に天皇がいなくなれば国が乱れるという人や、皇室がなくなれば日本人の品格が悪くなるという人もいるけど、私はこういった理論を絶対に信じない。
天皇制は廃止して、今の皇族の方々とその子孫が天皇、皇族の肩書きを持たないで自由に職業や住む所が選べるようになるべきだと私は思う。
ガンジーの非暴力の思想は、暴力を振るわれても暴力で返さず、痛みに耐えることで実現しようというもの。阿波根昌鴻は、怒りをあらわにするのをやめ、大きな声は出さず、静かに語りかけることを主張した。
でもそこまで徹底するなんて私にはできない。非暴力主義は人並みでいい。相手に痛めつけられている状態から逃げるために暴力で抵抗するのはやむを得ないと考えているし、(例えば基地の重圧からの脱却を要求する行動などで)声を大にすることこそ必要だし、怒りたいときは怒ってもいいと思う。
幸福の科学出版の『一喝!吉田松陰の霊言』という本を読んだ。吉田松陰の思想は「男は男らしくしなさい」というものだった。私が信じないのはお約束。
それだけじゃなくて、もとから松陰のことは大っ嫌いだった。
名前につける敬称の「君(くん)」は松陰が開いた松下村塾の弟子達がさかんに使ったことで広まったと言われている。年上には男女ともさん付けなのに、学校でクラスメイトを呼ぶときなどに女子を「~さん」、男子を「~君」と呼び分けるということに私は疑問を感じ、悩んでいる。だから、「君」という言葉を広めるきっかけを作った松陰を恨んでいる。
日本の歴史上の人物の中で吉田松陰が一番嫌い。
細木数子先生は男は男らしく、女は女らしくすべきだと主張し、ジェンダーフリーに批判的である。これも私は信じないお約束。
また細木先生は干支の象徴が動物になっていることを「因習邪教」だと批判している。
細木先生によると干支が動物と関連づけられるようになったのは江戸時代からだといい、干支の「子、丑、寅・・・」と動物の「鼠、牛、虎・・・」の漢字が違うことも根拠にあげているが、干支と動物との関係は日本に限ったことではない。中国語でも「蛇年」(巳年)、「鶏年」(酉年)というふうに言う。
私は干支が動物と関係あるものだと信じているし、動物と関係づけることが悪いこととは思っていない。
「信じないものは信じない」という強い信念を貫くことを、『God』という曲が教えてくれているかのように感じ、私はこの歌に感銘を受け、自分の「これは信じない」という信念を再確認する歌として歌わせてもらっている。
「信じないものは信じない」という信念を貫くことをこの歌が教えてくれているようだ。
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