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第一章 太子時代

2010-11-15 23:37:40 | 日記
第一章 太子時代


1. 釈迦族

その昔、インドには十六の国々があり、互いに争っていました。なかでも強大だったのが、コーサラ国とマガダ国でした。

さてコーサラ国のはずれに、カピラヴァッツという街があり、釈迦族という人々が住んでいました。ヒマラヤのふもとに暮らし、武術に優れ、誇り高い人々だったと伝えられています。王の名はシュドーダナ、王妃の名はマーヤといいました。

2. ルンビニー園

ある日、王妃マーヤは、六つの牙のある白い象が体の中に入ってくる夢を見ました。こうしてマーヤは身ごもったと伝えられています。

やがてマーヤは、出産のため実家へ向かうことになりました。その一行が、ルンビニーという村に立ち寄ったときのことです。産気づいたマーヤが、木の枝に右手をかけたとき、太子が生まれました。

3. アシタ仙人の予言

そのころ、山の上で昼寝をしていたアシタという名の仙人は、神々が喜び舞っている不思議な夢を見ました。ルンビニーに素晴らしい人が生まれたというお告げでした。

急いで山をおりてきた仙人は、太子の相を占いました。「この子が出家すれば、やがて最上の悟りに達するでしょう。しかし年老いた私は、それを見ることができません」と言って、仙人は涙を流したのです。

4. 母マーヤの死

太子を授かった喜びとともに、一行はカピラヴァッツに帰ってきました。しかし母マーヤは、太子が生まれて七日後に亡くなってしまいました。

父王は一族を集め、太子をゴータマ・シッダッタと名づけることに決めました。また、マーヤの妹であるパジャーパティーが、新しい妃として迎えられ、太子を育てることになりました。

5. 少年の頃

太子は、優れた学者のもとで立派な教育を受けたと伝えられています。また一説によれば、壮麗な行列を作って学校に通ったとも言われています。

のちの王となるため、学問だけでなく武術や兵法も学びました。特に、少年たちが武術を競い合う競技会では、目を見張るばかりの活躍をしたと伝えられています。

6. 物思いする太子

太子が十二歳の頃のことです。ある日、父王に連れられて農耕の儀式に行きました。そのとき、掘り返された土から出てきた虫が、鳥にさらわれる様子を見てしまいました。

太子はこの世の残酷さを深く憂い、ひとり静かに木陰に座って、物思いにふけるようになりました。それを見た父王は、やがてアシタ仙人の予言どおり、太子が出家してしまうのではないかと心配になりました。

7. 城の暮らし

カピラヴァッツの城は裕福で、雇い人にさえ肉入りの食事を出すほどでした。太子のために夏・冬・雨季の三つの住まいがありました。また父王は、太子を楽しませるために華やかな楽団もつけました。

いつでも蓮華がほころび、香がたかれ、日傘をさしてくれる召使いがおりました。しかし太子は、次第にこの贅沢な暮らしが空しいと感じるようになりました。

8. 四つの門

ある日、太子は城の外へ遊びに行くことになりました。東の門から出かけたところ、老人に出会いました。また南の門では、病人に出会いました。西の門では死人に出会ってしまいました。やがて自分もこのように、老いて病んで死ぬのだと知り、太子は恐ろしくなりました。

最後に北の門から出かけたところ、出家者に出会いました。清らかなその姿を見て、太子は出家にあこがれるようになりました。

9. 妻子を捨てて

太子には三人の妻がありました。一人目はゴーパー妃、二人目はヤショーダラー妃、三人目はマノーダラー妃と申しましたが、長らく子ができませんでした。

しかしついに、ヤショーダラー妃との間に男の子をもうけました。名はラーフラといいます。この後継ぎの誕生により、太子は出家の決意を固めました。二十九歳のときでした。

10. カンタカに乗って

寝静まった城をそっと抜け出した太子は、愛馬カンタカにまたがり、従者チャンナを連れて旅立ちました。出家した太子は、菩薩と呼ばれるようになります。

国ざかいに着くと、髪をそり落とし、ぼろに着替え、チャンナとカンタカを城へ帰しました。一人になった菩薩は、出家者としての自由な身をとても楽しく思いました。


解説

お釈迦さまが生まれたのはいつなのか、紀元前六世紀ごろという説もありますし、紀元前五世紀ごろという説もあります。

インドには、古くから出家の修行者がたくさんおりました。お釈迦さまもその一人となったわけですが、彼ら修行者は何を求めていたのでしょうか。ごく簡単に言うならば、「真理の探究」であったと思われます。つまり、この世の仕組みを解き明かそうとしていたのです。

お釈迦さまの場合、老・病・死を克服するために出家しました。人が老い、病み、死ぬのはなぜなのか、そのメカニズムを解明しようとしたのでしょう。また、老いの苦しみや死の恐怖を、修行によって克服しようとしたのでしょう。

今も昔も、不老不死は人類にとって永遠の課題であります。では、死なないためにはどうすればよいのでしょうか。それには、果てしなき生と死の繰り返しから脱出する方法を、見つけなければなりません。つまり「二度と生まれないようにすればよい」のであります。これを「輪廻からの解脱」と申します。

当時のインドの思想の根底には、「因果応報」という考え方がありました。良い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が生じるという、実に明快で合理的な考え方でした。すべての物ごとには原因がある、したがって生にも死にも、原因があるはずだと考えていたようです。その原因を突きとめ、滅ぼしてしまえば、二度と生まれることも死ぬこともないでしょう。

たとえば修行者たちは、原因となる「悪い行い」をしないように、注意して暮らしていたといいます。農耕や狩猟をすれば、必ず生き物を殺さなければならなくなるので、食べ物は托鉢によって得ていました。また雨季になると、小さい生き物が道に出てきて踏みつぶしてしまうことが多いので、なるべく出歩かないようにしていたのだそうです。


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