週末つれづれ草子:お釈迦様の掌

2003年4月以来週末(日曜日)に、身辺事象・時事などについての観察・感想・見解をつづっているエッセイ。

週末つれづれ草子(2010年11月28日)

2010-11-28 21:19:50 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2010年11月28日)

(写真略・・・貼り付け方法を知りませんので)
 
 
文教太鼓を聞きました。
文教学園の女子高校生の和太鼓です。
しとやかな日頃の女子高校生の姿と
演奏で見せる力強いパフォーマンスとの落差に
ただ驚嘆するのみでした。
とにかく圧巻でした。

まさに<和>を見せてくれました。
お互い見えないところで太鼓を敲くのです。
離れた複数の太鼓を同じタイミングで敲くには心の<和>しかありません。
この文教太鼓は国内で賞を受け、海外へも披露しているとか。
肯けます。

演奏の始まる前に校長が鑑賞の小学生に言いました。
「眼をつぶって。一、で手をたたきましょう。
一、二と心で数え、五、で手をたたきましょう」
それではみな眼をつぶりましょう。
一(いち)」
おのおのが、心で数えた五の後に手をたたきました。
バチバチと不揃いでした。
「なんだ、このバラバラは。
太鼓をたたくお姉さんたちは、ばらばらには敲かないのですよ。
心をひとつにしてみなが同時に敲くのです。
見事な<和>です。
<和>の極地です。
お姉さんたちのパフォーマンスをじっくり味わいましょう」

この校長は「文教太鼓」を学校の文化祭に来てもらうのに3年をかけました。
引っ張りだこなので、3年目にやっと願いがかなったのです。
<石の上にも三年>ですか。
とにかく、すばらしかった。


お釈迦様の掌

23日、北朝鮮が韓国延坪島(ヨンビョンド)を砲撃したニュースが
世界を走りました。
民間人2人が死亡したことで、韓国の人たちが衝撃を受けています。
黄海上には国連軍(アメリカ軍)が引いた北方限界線(NLL)と
その南に北朝鮮が引いた海上軍事境界線があります。
二つの境界線の間で過去何回も軍事摩擦が起きています。
いわば領土(領海)紛争です。
近くは、3月の韓国哨戒艦の北朝鮮魚雷によるといわれる沈没事件があります。
延坪島はこの2境界線の中にあります。
ゆえに、事件が起っても不思議でない、と言えるかも知れません。
しかし、今回の事件は、一般人の住んでいる島への砲撃であり、
その住民に死者が出たことが、これまでのこの海域での衝突事件と違う点です。
北朝鮮がなぜこのような挙に出たのかには、諸説出ています。
つれづれほうしは、朝鮮労働党中央軍事委員会副委員長・大将になった
27歳の金正恩(キムジョンウン:金正日総書記の三男)の地位を
確固たるものにするための儀式ではなかったか、と思います。
理由
・砲撃数日前に金親子が砲撃基地を訪れているとのこと。
・金正恩大将は軍学校で砲撃を学んだ。
・延坪島は境界線を回る紛争海域内にあり、
砲撃の距離内にあり、紛争解域内のこととの釈明もできる。

それはさておき、中国はこれまでどおり北朝鮮擁護の態度を示しました。
北朝鮮とは切ろうにも切れない絆があるからです。
2006年10月15日の「お釈迦様の掌」で次の趣旨のことを述べました。

・朝鮮戦争で、中国は北朝鮮に加勢してアメリカ(国連)軍・韓国軍と戦った。
中国と北朝鮮の血の結束である。
・一方が攻撃を受けた場合、馳せ参じるということを意味している。
・ということは、北朝鮮が本格的ドンパチはじめたら、
中国は北朝鮮に加勢する立場にある。
・中国は、その前段階でも徹底的に北朝鮮を庇っている。
たとえば安保理での北朝鮮制裁反対など。
・アメリカもそこを承知で、朝鮮問題について中国と渡り合っている。

中国にとって北朝鮮は緩衝地域として重要な地域なのです。
自分の掌の中に置いておくことが最善策である、としていると思えます。
中国が仕切っている限り、
北朝鮮の核をめぐる6カ国協議は到達点に行き着かないでしょう。
中国・北朝鮮の結束の中身は日中韓の連携のそれとは相容れないものだから。

朝鮮問題は、詰まるところアメリカと中国の問題といえるのですね。
朝鮮戦争は休戦しています。
休みを止めれば、戦いに再突入するのです。
南北の戦いは、アメリカと中国の戦いだったのです。
そういう意味では、南北休戦はアメリカと中国との休戦と言えるのです。
南と北の戦いにそれぞれ国連軍(実態はアメリカ軍)と中国人民解放軍が付き、
朝鮮半島を舞台に休戦協定を結ぶまで激しく戦ったのが朝鮮戦争です。
中国人民解放軍の助太刀で北が南を海岸線まで追い詰めました。
アメリカ軍の援軍増強でこれを押し返し北緯38度線で膠着しました。
局面打開にマッカサー元帥が原爆投下を含む中国本土爆撃を主張したが、
トルーマン大統領は拒否しました。
1953年7月、休戦協定を結ぶことにしました。
38度線をもとに境界線が敷かれました。
このとき海上に境界線を敷かなかったのが、
その後の黄海上での南北の衝突に繋がっているわけです。
このように、朝鮮戦争は朝鮮半島を戦場としたアメリカと中国の戦いだった、
いや休戦中の戦いだ、と言えるのです。
したがい、アメリカと中国はどちらも過激に動き辛い立場にあるのです。

今日から4日間にわたりアメリカと韓国が
黄海で原子力空母ジョージ・ワシントンを加えた軍事演習を始めました。
アメリカは中国にこの演習を通達したとのこと。
中国はこれに反対を表明するしか手がないのです。

朝鮮戦争時、日本はアメリカ軍の補給地となりました。
そのお陰で経済を急速に発展させることができました。
各地の米軍基地からは、いろいろの仕事が周辺の工場にもたらされました。
子供だったつれづれほうしにも
近くの工場が基地からの注文に忙しく回転しているのを見ていたものです。
各基地には戦場に赴くアメリカ兵が運ばれ、何日か後に戦場に送られました。
やがて、それら基地にはアメリカ兵の遺体が運ばれてきました。
そこで遺体の確認作業が行われました。
その数は次第に多くなっていった、と言うことです。
それほど激しい戦闘だったということでしょう。

中国人民解放軍の犠牲者も大変な数に上ったと思えます。
こんな話が、小学の国語教科書に載っています。

<・・・再見了、親人!再見了、親愛的土地!
列車呀、請開得慢一点児、譲我們再看一眼朝鮮的親人、譲我們在這曾経洒過鮮血的土地上再停留片刻。
再見了、親人!我們的心永遠跟你們在一起。>
(・・・さようなら、いとしき人たちよ!
さらば、慣れ親しんだ地よ!
列車よ、ゆっくり進んでくれ、
心をかよわした人たちとの別れはつらい、
仲間が血を流したこの地に少しでも長く留まりたい。
さよなら、朝鮮のいとしき人たちよ!
我らが心、とこしえにいとしき皆とあり)

中国と北朝鮮との血の結束を物語っているのではないでしょうか。

週末つれづれ草子(2010年11月28日) おわり

週末つれづれ草子(2010年11月21日)

2010-11-21 21:42:26 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2010年11月21日)


山の稜線の上に13夜でしょうか、見事な月が浮かんでいました。
実は、しし座流星群を見ようと20日の夜に外に出たのです。
でもお目当ての流星群は目に入りませんでした。
代わりにこの月が目に飛び込んできました。
今日か明日が15夜でしょう。
(写真略・・・貼り付け方法を知りませんので)

お釈迦様の掌

原則

中国は、原則を立ててことに当たることを常とします。
外交問題・領土問題など。
どこの国でもそうでしょうが、中国はことさら徹底して原則を貫きます。
取引上の交渉でもこのことがいえました。

1986年~1987年、中国で日本車へのクレームが続発しました。
日本のほとんどのブランドの車に対してクレームが起こされました。
M車のトラックに対するクレームは、
数百億円という巨額に上ったことを記憶されている方もおられましょう。
このような日本車に対する強い逆風が吹く最中に、
つれづれほうしは中国駐在事務所への赴任を命ぜられました。
赴任後、クレーム対応が主業務でした。
このために北京赴任を命ぜられたのではないか、と思ったほどです。

中国の日本車狙い撃ちのクレームには背景がありました。
年間27万台もの完成車を日本から輸入したことです。
その金額は「年間20万台規模の工場を複数建てられる」
と中国政府は踏んで、これを問題視したのに違いないのです。
輸入者は支払った代金の一部を取り返すことを余儀なくされました。
その手段は?
<クレーム>
かくして日本車狙い撃ちのクレーム旋風が吹き荒れました。
輸入者は必死です。
ご意向に沿い、何がしかを取り戻さねばお仕置きにつながりましょうから。

中国は完成車を規制していたのに、
この時期、なぜにこんなに多くの日本車が輸入されたのでしょうか。

<海南島>
鍵はここにありました。
いまでこそ、リゾート地として賑わいを呈しています。
いや、それ以上に南端の海軍基地として重要性を強めています。
この海南島も、当時は広東省の管轄下にあり、未開発の島でした。

(1987年末にこの島を訪れたときは、
中心都市の海口でも、車はオートバイをベースにしたような、
3輪車の小さなタクシーが眼に入るぐらいでした。
そして、道路信号は、中心の十字路の一機しかなかったように記憶しています。
夜中の2時ごろに電話のベルに熟睡を覚まされたことを思い出しました。
国際電話が通じた、とのこと。
夕方5時ごろに申し込んだのが通じたのでした。
申し込んだことを忘れてしまったほどの時間が過ぎていました。
もちろん夜中ゆえ日本側では電話に出るものはおりませんでした)

話は戻ります。
海南島は数年後には省になることが予定されていました。
海南島の開発は急務でした。
政府は開発の予算などないので、例のことをやりました。
輸入統制品の完成車の輸入許可を海南島に付与して、
その利益を開発に充てさせることでした。
これに目を付けた各省が海南島に事務所を設け、
我勝ちに完成車の輸入に走りました。
結果、日本車だけで年間27万台以上の完成車を輸入したのでした。
そして、2~3年間のこの利益で海南島の開発は急ピッチで進みました。
27万台を超える完成車の代金で年間20万台規模の工場が複数できると、
問題視した当局だが、
自らの落ち度=完成車の輸入許可付与が招いた結果、
ということはそっちのけにして、
支払った輸入代金の一部を回収するよう輸入者を指導したのに違いないのです。
なにやら日本の現政権を見る思いです。

かくして、日本車クレームの嵐が吹き荒れました。
そんな中で係争中の1000余台を対象にしたクレームの交渉に
本社の関係部門から2名が派遣され、事務所に立ち寄りました。
同道を要請されたので受けました。
2名とこのロットを扱った輸出者(商社)の1名と一緒に交渉に臨みました。
交渉の主役は派遣者2名であり、
つれづれほうしは事務所長として2名のバックアップに徹することでした。
交渉の朝、朝食時3名にメモを見せて告げました。
「交渉の冒頭で中国側にこの交渉の原則を示し、
交渉はこの原則に沿ったものとすることを交渉の入り口とすることにしよう」
メモには次の原則を記していました。

・この交渉は、クレーム交渉ではないこと
・この交渉は、部品が入手できずに困っているユーザーに
部品を届ける方法を協議する場とすること
・クレームを成立させなかったことを理由に
輸出者(日本側商社)をマイナス評価しないこと

「こんなこと、相手は絶対飲まない。そのときはどうします?」
「<交渉はできないから帰る>と言えばよいのでは・・・」
「そんな・・・」

かくして、交渉が始まりました。
中国側が原則を出さぬ前に機先を制して日本側の原則を提示しました。
相手は硬化しました。当然です。
日本方交渉者が動揺したのが分かりました。
横から押しました。
「この原則を前提にしなければ交渉はしない。帰る」
中国側は拒否しました。想定内のことでした。
帰ろう、と3名を促しました。
「本当に北京に帰るのですか」
商社の人が慌てました。
「ホテル。待っていれば反応があるだろう」
小声で言いました。
相手も狼狽したのが分かりました。
電話でどこかと話しだしました。
上部にどうするかの指示を仰いでいるのが分かりました。
しばらくして、切り出しました。
「提示した原則を前提に話をする。テーブルに戻るように」
交渉は次のような内容で終わりました。

・顧客が必要とするであろう部品と員数をリストにし、
その内容に双方が同意する。
・日本側はその部品を中国の港渡しで供与する。
・港以降の費用=輸入税や中国側運送費など=は中国側が負担する。

当局の意向に沿った1億数千万円のクレームは、
補修部品の入手困難で困っているユーザーへ補修部品を届けるという、
ユーザー視点の対応ということで決着しました。
相手も結果がゼロではなく、
まったくその筋のご意向に沿えなかったわけではなかったので、
立場は保てるということだったでしょう。

交渉における原則の提示は次のことがヒントになったのです。
・M車にたいする数百億円のクレームの交渉では、
中国側は原則を持ち出して、その原則に終始縛られた、ときいた。
・日本車への一斉クレームは当局よりの何らかの圧力によってなされた、
という以外に合理的説明がつかない、と帰結していた。

このことから次の手を考えました。
・先手を打ってこちらから原則を提示する。
・相手が当局よりの指示にいささかでも沿えた形にする。

かくして、上述のような交渉内容になったのです。

公的私的に関わらず、交渉においては原則を立てることが肝要でしょう。
打ち立てても腰砕けになっては、惨めな結果になること請け合いです。
先の尖閣問題の対中対応は、日本の早々の腰砕けでしたね。

週末つれづれ草子(2010年11月21日) おわり

週末つれづれ草子(2010年11月14日)

2010-11-14 21:24:11 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2010年11月14日)


鼻水がツツーと垂れます。
仕方なくマスクをしています。
黄砂過敏症です。
数年前に花粉症を発症しました。
それ以来、黄砂症も発症するようになりました。

黄砂。
今日で3日目になります。
もう春だけの訪問ではなくなりました。
数年前から秋にも訪問をうけています。
UNINVITED GUEST
自然のお仕置きには、あがらえないですか。


お釈迦様の掌

<戦略的互恵関係>と「日中友好」

昨日、菅首相が胡錦濤主席と22分間会談した、とのこと。
日本側の度重なるアプローチに確答を避けてきたが、
ぎりぎりになって短時間の会見に応じました。
対日貸借対照表の借り方勘定に資産として計上したということでしょう。
それとも、日本側が何らかの貢物をしたのでしょうか。

中国外交部の洪磊報道官の11月2日の記者会見。
「日本側が的確な努力をして、
両国関係の改善と発展のための適切な条件と雰囲気をつくることを希望する」
<胡錦濤主席はアジア太平洋経済協力会議(APEC)に出席するか、
菅首相と会談するか>との質問への答えでした。

「適切な条件と雰囲気つくり」=<貢物>とは?
これに<なんらかの答え>を出したから、
胡主席が来日し菅首相と会談を持ったのでしょうか。

それはさておき、
会談は「戦略的互恵関係を発展させる」ことで一致した、とか。
<戦略的互恵関係>
最近ことあるごとに唱えられてきているお題目ですね。
どういうことか、分かりますか?
つれづれほうしには模糊として分かりません。
戦略的互恵関係と言っても、
しょせん経済面での互恵でしかありえないでしょう。
国民主権(選挙)と一党独裁。
民主主義と社会主義。
国体・政治面では、相容れません。
したがいこの面での互恵関係などありえないでしょう。

経済面の互恵といっても個々の事業でしか実現できないのではないでしょうか。
なにせ、自由資本主義と国家資本(社会)主義なのですから。
行き着くところは、個々の事業での互恵関係となりましょう。
とても<戦略>といえるものは打ち立てられないでしょう。
「戦略的互恵関係」とは<蜃気楼>としか言いようがありません。

このお題目で思い起こす言葉があります。
<日中友好>
日中が国交を回復してから20余年間ことあるごとに唱えられたお題目です。
個々の事業の交渉においてもしばしば発しられました。
つれづれほうしもよくこの言葉を聞かされました。
そして、この言葉が出されたときは、
必ず日本側への要請・要求・譲歩の内容が続きます。
「<日中友好>のため、・・・・をお願いする」
当時は、あらゆる面で日本が中国の上を走っていたから、
これは自然のことでしたでしょう。
ただ、対等であるべきことにもこれを使ったことが
ちょいちょい見受けられました。
「日中友好のためと言っては、
なんでも日本側に負担を求めることはやめるべきだ。これは折半でやろう」
ある交渉で要求を拒否しました。
中国側に一瞬シーンとした空気が流れました。
「友好とは互恵双方向のものだ。
だが貴方はこの言葉をいつも都合の言いように一方方向で使っている」
といいました。
しばらくの沈黙の後
「交渉の続きを明日にしよう」
と中国側が交渉を打ち切りました。
もちろん交渉後の一席はもたれませんでした。
ホテルに帰ってから、同席した商社員がいいました。
「大変ですよ。明日はどんなしっぺ返しを受けるか・・・」
「そうとは思わない」
コケコッコーで翌日となりました。
交渉の席に着きました。
「あなたの提案に同意する」
開口一番のことばでした。
かくしてその後の交渉ごとも話が進み、その晩は宴会となりました。
50度以上のパイチュー(白酒=焼酎)でのカンペイのやり取りでした。
その席で一人が言いました。
「日本の方がこんなに毅然と主張したのはあなたが初めてだ」

ホテルに帰ってから、商社員がいいました。
「かぶとを脱ぎます」
「何でも相手の言いなりになってきているわれわれ(日本側)が
相手をスポイルしているのだ。とくに商社の人は、
相手の言いなりになるようにメーカーの人をミスリードしていると思う」

<戦略的互恵関係>
この言葉、前述したように模糊しております。
役目を終えた
「日中友好」
に置き換わって登場したわけで、一方方向に使われるとの懸念大です。
それを受けていては、際限なく求めてきましょう。
政府も民間も、曖昧模糊の言葉に酔わず、
毅然として是々非々を語ったり対処したりするべきです。
そうすれば、相手はこちらに一目おき真摯に話しあい、
お互いの理解を深めることに通じます。
でも、相手は「一党独裁」を堅持することが命題です。
「一党独裁」に寄与する互恵でしかない、
ということをわきまえておくべきでしょう。
それなのに、何かというと「戦略的互恵関係」を枕詞にことに当たる政府には、
危うさを感じてなりません。
多くの方がそう感じているのではないのでしょうか。

週末つれづれ草子(2010年11月14日) おわり