週末つれづれ草子:お釈迦様の掌

2003年4月以来週末(日曜日)に、身辺事象・時事などについての観察・感想・見解をつづっているエッセイ。

週末つれづれ草子(2013年2月10日)

2013-02-10 22:15:53 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2013年2月10日)

女子スキージャンプの高梨沙羅選手。
凄いですね。
ワールドカップの女子個人選で、
第9戦と第10戦(2日、3日)の札幌大会は不調で
12位と5位に終わったが、
今日の山形での第11戦と第12戦で優勝。
見事な修正リカバリーです。
これぞ、本物の強さ、と言えましょう。
ワールドカップ12戦中半分を優勝し、総合トップをひた走っていますね。

おそるべしミドルティーン。

<好事、魔多し>
用心してね。


お釈迦様の掌

尖閣を巡る日中関係の悪化が進行していますね。
中国のフリーゲート艦からわが国の自衛艦への射撃レーダーの照射を巡って
応酬がエスカレートしています。
わが国の「使用」抗議に対し中国は「捏造」だ、と否定しましたね。
わが国の公表が5日。
このときは、「知らない」との中国外交部報道官の会見。
中国が公式反論をしたのが8日。
空白3日間。
対応を練った時間でしょう。
<射撃レーダー否定。探知レーダーでの自衛艦を監視した>
結論でした。

わが国政府は、
<探知レーダーと異なる射撃レーダー照射の資料>
を示そうと検討しているとのこと。

探知レーダーはくるくる回して機影や艦影を探るのに対して、
射撃レーダーは目標追いかけて照射するというもので、
今回の事例は後者に当たる、ということのようです。

これで追及しても、中国は言うのではないでしょうか?
「自衛艦がしつっこくまとわりつくので、常時照射し看視したのだ」
結局は埒がつかず、関係悪化が深化する、と推測します。
でも、今回のわが国の措置は適切なことだ、と思います。
「うかつな行動は取れない」
との思いを中国に植えつけたのではないでしょうか。

中国(中国人)は、非は認めないのが一般のようです。
そして、はっきりさせています。
悪は悪。善は善。敵は敵。味方は味方。
日本人は徹底しない寛容と謙虚があります。
悪を善に。敵を味方に。
これらは中国には受け入れられない要素であると思っています。
われわれ日本人が枕詞のように使うことば。
「非力ながら・・・」のような謙遜のことばは使うべきではないでしょう。
中国には、謙遜は通用しないと見ています。
<卑怯><狡猾>
と思われるだけでしょう。

さて、話を戻します。
ということで、中国は自分の非を認めることは絶対にしないでしょう。
これまでも国際舞台において、常に中国の是を押し通していますよね。
<非>であっても屁理屈を捏ねて「是」で通しています。
今回もそうでしょう。

第三国が納得のいく資料を示して、屁理屈の反論は受け流すのが賢明でしょう。
第三国を納得させる資料の提示は欠かせないでしょう。

週末つれづれ草子(2013年2月10日) おわり

週末つれづれ草子(2013年2月3日)・わが介護の記(6)

2013-02-03 20:45:52 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2013年2月3日)

わが介護の記(6)

わが介護の記(5)から4ヶ月経ちました。
この間に、出来事が二つ起きました。

その1
昨年(2012年)11月10日、土砂降りの土曜日の朝食時のことでした。
食事を始めて間もなく、義母が頭を垂れて動いていないのに気づきました。
「スワー、一大事だ」
背を緩くゆすったりさすったりしながら呼びました。
意識は戻りませんでした。
誤嚥と思ったのだが、どうもそうではなさそうでした。
救急車を呼ぼうにも、
意識のなくなっている義母を抱えているのでできない状態でした。
天は助けたまいました。土曜日で娘が休みだったのです。
娘を呼び、言いました。
「救急車。クリニックの先生に連絡」

電話をとおしての先生の応急指示にしたがい手当てしているうちに、
救急車が来ました。
義母の意識は戻りました。
大雨の中での救急車への搬入は大変なことでした。
クリニックにつくと救急車はサッサと引き上げました。
救急車の任務は、医院までの搬入が役目ということです。
その見事な引き上げ振りに、妙に感心したものです。

クリニックの先生の治療を受け一段落しました。
付き添っているようにいわれ、数時間をベッドの脇でじっとしていました。
時間の経過が遅いのには閉口しました。
この頃の通常は、時間の過ぎるのが早くて戸惑っているのですが、
このときばかりは違いました。
昼過ぎになり容態を取り戻したので、介護タクシーを呼び帰宅しました。

前に介護タクシーを頼んだことがあり、
「予約が必要」といわれ断念したことがありました。
<それでは急な必要の注文に応じられないではないか>と思ったものでした。
この度、予約が必要なわけが分かりました。
介護タクシーの運転手は介護資格者でした。
需要の少ない介護タクシーの介護資格ドライバーを常勤させることはできず、
注文に応じて手当てしていることが窺えました。
これが<介護タクシーは予約が必要だ>の事情でしょう。

それはさておき、義母の症状は「低血糖」でした。
食事前のインシュリン注射と食事までの時間がかかったので、
インシュリンの効果で血糖が減じ、低血糖になった、というわけです。
インシュリン注射の前に血糖値を計り、指数が100以下の場合は、
糖分を与え100以上にしてからインシュリンを注射するのです。
この朝の指数は100以上あったのですが
注射と食事の間が長かったため低血糖を起こしたのです。
低血糖の症状のなんと恐ろしいことか!
以後、注射後すぐ食事ができるように段取りをしております。

その2
1ヶ月ほど前から毎食後ベッドに戻してから、両足を動かしています。
リハビリですね。
仰向けに寝かせてから以下を行っているのです。
この頃では足先の感覚が蘇っています。
ヘルパーさんもそのことを認め、「足先が動くようになった」言いました。

・足裏を持ち、ひざを上に曲げてかかとを尻に近づける。
・股を軸に足を上げ下げする。
・足首を前後に動かした後、左右に回す。
各10回ずつ。
さらに
・脛、股を3~4箇所と股の解け根を指圧する。

今では、上記全項目は朝だけにして、昼夜は上の3項目だけとしています。

週末つれづれ草子(2013年2月3日) おわり

週末つれづれ草子(2013年1月27日)

2013-01-27 21:29:25 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2013年1月27日)

長期休筆。
介護を中心にした生活リズムの調整期間でした。
被介護者の状態も安定しており、
一定の生活リズムを刻めそうなので、
綴り方を再開します。


お釈迦様の掌

休筆の間にいろいろのことが起きました。
政権交代から昨今のアルジェリアの事件まで。
その中から大阪市の桜宮高校における体罰事件にまつわる騒動を取り上げて、
所感を述べます。

事件の内容やその後の諸経緯は省きます。
<論点>
橋下市長がとった同校の体育科とスポーツ健康科学科の入試の中止を
市教委に求めたことに対しての大方の意見。

「入試中止要請は筋違い」
理由
「体育系2科と普通科では入試科目や配点が異なる。
受験生への打撃が大きく、負担を与えてはならない」

確かに指摘には一理あります。
ここを目指して来た受験生を慮ってのことでしょう。
でも、それでよいのでしょうか?
考えてください。

教育とは?

やさしさを教えることでしょうか?
思いやりを教えることでしょうか?

これは大切なことでしょう。
でも、教育とは、

「未知のことや状況の変化に
すばやく的確に対応する能力を植えつけること」
こそがその要諦ではないのでしょうか?
その判断の基礎になるのが知識や経験でしょう。
そのために、学校で真理を学び知識を習得するのですよね。
高等教育を受ければ受けるほどその知識が深く広くなるのです。

この認識からすれば、
今回の橋下市長の措置については、
メディアも大阪の中学校長会も受験生には、
次のように対応すべきだったのではないでしょうか?

<人生、いろいろ。
平穏無事・波乱万丈。
波乱万丈のときこそ、人は磨かれる。
君たち進む前に障害ができた。
負けずに乗り越えよう。
どう打開するか相談にのろう>

これこそが、教育の目的に沿った真の教育ではなかったのでしょうか。
やさしさだけに流れた中学校長会の校長には失望しました。
それよりも、こんな考えの方たちを校長にしているわが国の教育の現状には、
戦慄を覚えました。
日本危し。
橋下大阪市長がこんな趣旨のことを言った、と記憶します。
「こんな校長は要らない。全部公募する」
ヤッター

戦後の教育がアメリカの影響の下で、変なことになってしまったのですね。

民主主義
個人主義
人権
性差を考慮しない男女同権など

これらは、
<移民で構成されたモザイク社会を成り立たせるのに不可欠の考えである>
ことを知るべきでしょう。
アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなど
ルーツの異なる移民によって構成される社会では、
そのモザイク社会を成り立たせる上で欠かせない考えなのですね。
それとは全く異質の社会である日本に、
戦後この考えを植えつけられ、これを金科玉条として、
教育をしてきたことは、わが国の悲劇だと思うのです。
見直す時期に来ていると思います。

安倍首相や橋下市長が、
教育改革をうたっているがぜひこういう面での見直しであって欲しいものです。

週末つれづれ草子(2013年1月27日) おわり

週末つれづれ草子(2012年10月7日) わが介護の記(5)

2012-10-07 21:12:44 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2012年10月7日)
わが介護の記(5)

日を重ね、手際よく介護作業ができるようになりつつあります。
ベッドから車椅子への移動
オムツの交換
湿布薬の張替え
着替え
歯磨き
血糖値測定とインシュリン注射
食事づくりとあと片付け
ベッドシーツの交換
など

とくにオムツ替えが上達した、と思っています。
大便をしたオムツを替えるときに、
便のついた臀部や脚の付け根を拭き取るのに、
タオル3枚を要していたのが、2枚で済ませるようになりました。
1枚でほぼ拭き取ってしまうのですが、
念のためもう1枚を使って仕上げをします。

便の話のついでにもうひと話。
毎朝のオシメ替えには大便の処理が欠かせない、と言いました。
その後もこのリズムは保たれています。
3日前の朝、オシメを開けると大便がありません。
これで朝から夕へリズムが移り、
ヘルパーさんに大便処理をしてもらえるようになるだろう、と期待しました。
期待はすぐに吹き飛ばされました。
替えている最中に出てきたのです。
オシメをはずしているので大変でした。
ベッドのシーツをはじめ一式交換しました。
どうも、朝の大便処理に魅入られているようです。

蛇足
わが前立腺がんのチェック(PSE検査)は正常でした。
ただ前立腺肥大に対する投薬は続けています。
一昨日にカメラでの大腸検査を受け、これも問題なしでした。
ただ、結腸が長く軽い痔が見られる、と。
ま、我が身の心配なく自宅介護を続けられます。
いや、あと一箇所あります。
胸のチェック。
幸い、今月の26日に胸の集団検診があるとの通知を受けました。
このチェックで、一通りの検査を終えます。
よい結果を期待しつつ、その日を待っています。

週末つれづれ草子(2012年10月7日) おわり

週末つれづれ草子(2012年9月23日)

2012-09-23 21:11:40 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2012年9月23日)

農機の音が賑やかです。
収穫の音。
この音が響き渡ると、なぜか気分が踊ります。
我が家の刈りいれは隣家の後でやってもらうので、
今週の後半になるでしょう。
できがよければ、我が家の一年分の米がとれるのですが。


お釈迦様の掌
~中国の攻勢~

尖閣を巡る中国の攻勢が凄いですね。

<接続水域や日本領海での艦艇航行>
・10数隻の示威航海
・接続水域での中国漁船の臨検による中国の主権アピール劇
<独自の法的措置と国連への申請>
・尖閣を含む領海図の策定と国連事務総長への提出
・石垣島や宮古島に迫る大陸棚延伸の主張と大陸棚限界委員会への申請
<外交攻勢>
・中国を訪問したパプアニューギニアの首相など外国高官へのアピール
・温家宝首相のヨーロッパ各国でのアピール
<官製デモ>
・国内でのデモ操作
・アメリカ在住華人のデモ誘導
など

あらゆる手段を使っての尖閣の中国領土アピールに
日本はなす術もない状況ですね。
われわれは中国の強かさと凄さを見せ付けられました。
そして、わが国も強かにならねば中国に対抗できないことを下記で言いました。

・・・・
週末つれづれ草子(2005年3月13日)
天安門事件(7)

前回指摘したいくつかのなぞについて語ります。
これらのなぞについて考えをめぐらしいるうちに、
中国指導部の意図が浮かび上がってきました。
「一気に壊滅する」
これを実現するために、綿密に計画を練り、実行に移したのです。

「一気に壊滅する」には。
・ 兵士の広場集結と広場(の学生民衆)包囲を
外部とくに広場の学生民衆に気づかれずに行うこと。
・ 一般市民がかかわりをもたないようにすること。

<そのための計画と行動>
1:広場に集まった学生民衆の中に少しずつ混じりこませていく。
2:広場の両脇にある人民大会堂と歴史博物館に
毎日少人数ずつ平服で忍び込ませ、待機させる。
装備なども毎日少しずつ運び込む。
(人民大会堂=総面積は17.18万㎡で内部には1万人を収容し、
全国人民代表大会が行われる「万人大礼堂」を始め、
広さ3,600㎡の「中央大庁」、北側に位置する「大宴会庁」等の大会議場や、
「人大常務委員会弁公楼」等があり、
その他、全国の各省・市・自治区の名を冠し、
各地の地方色を豊かに取り入れ華やかに装飾された
色とりどりの小会議室もある。)
3:包囲は暗闇のなかでおこなう。
4:一般市民の外出が少ない日時に実行する。

<Xデーの与件>
1:土曜日から日曜日にかけて。
2:兵士集結が十分な人数に達するまでの期間をとる。
3:真っ暗闇=月明かりのない夜=新月の夜。

かくてXデーが決まったのでしょう。
6月3日(土曜日)から6月4日(日曜日)。

<Xデーの行動>
6月3日(土曜日)。
<陽動作戦行動=学生が感づき広場から逃げだすことにならいようにする>
「軍の市街侵入の動きを一般民衆が阻止した」ことを演出して、
広場の学生民衆には、行動を開始した軍は一般市民に押し返された
と思わせた。
広場の学生民衆に気づかせないようにするため、
情報操作(変化なしの噂流布)を行った。
<広場包囲と掃討>
広場の照明を全開にした(効果的な闇を作り出すため)。
全照明を一斉に消灯した=漆黒の闇にする(新月の夜で月明かりもなし)。
包囲網を張った(兵士は待機していた建物から出て、広場を包囲する。
真っ暗闇で広場の学生民衆には覚られなかった)。
全照明を一斉に点灯した(兵士に包囲されていることに気づき、
学生民衆はパニックに)。
掃討を開始した。

かくして、作戦通り短期間での掃討を果たした。

敵の目の前にある人民大会堂への兵力の蓄積。
Xデーの決め方。
陽動作戦など。
なにやらすごさを感じますね。

中国の言動には緻密に練られた意図があるのですね。
日本は、中国の言動をよく読んで付き合っていくことが肝要でしょう。
原潜の領海侵犯という行動の意味するものは?とか。
・・・・

上は、国内の意に沿わなかった人たちを殲滅した事件ですが、
その殲滅に際しての用意周到と徹底振りが分かりましょう。
今回はそれが外国・・わが国に向けられたのです。
褌を締めてかからねばやられることは疑いないでしょう。

わが国の対応にまどろっこしさを感じている人は多いでしょう。
「お釈迦様の掌(2005年5月29日)」でいいました。
・日本の主張・立場をはっきりと世界に向けて発表すること
・他の多くの国やメディアの意見や見解を引き出すこと

週末つれづれ草子(2012年9月23日) おわり

週末つれづれ草子(2012年9月12日)・わが介護の記(4)

2012-09-16 17:32:22 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2012年9月16日)
わが介護の記(4)

2009年7月22日に話をしました。
妻の看護についての話をして欲しい、とのことでした。
依頼者は、「在宅介護の会」でした。
妻の介護の話ではちょっと的外れだな、と思いました。
そこで、妹が母の在宅介護をしたことを話すことにしました。
以下が、そのときのレジメです。
どういう話をしたかはレジメから想像してください。
大きい反響をいただきました。

わが介護の指針・要諦がこのレジメに凝縮されています。


<自宅介護について>・・・レジメ(2009年7月22日)

「妹とその家族による母の自宅介護の話」

<情況>
・母、2004年死亡 84歳
・介護認定5・・認知症(アルツハイマー)とパーキンソン病
・妹家族の自宅介護・・1994年~2004年10年間 
・掛かりつけ医師と看護士・・近くの診療所

<話の要諦>
・妹の話
10年間自宅介護したが
日常の生活の一部としていたので苦に思ったことはなかった。
・妹とその家族の自宅介護を見てきて感じた介護要諦(大切なこと)
その1:要介護者の気持ちや思いを汲み取って介護すること
      (自宅介護・施設介護を問わず)
その2:要介護者に疎外感を抱かせないこと
家族などがいる場に一緒におくようにすること
その3:介護者が介護作業を日常作業の一部とすること
その4:周囲のものは要介護者と介護者に特別な気を遣わないこと
      (普通の付き合いをすること)
その5:介護が終了したときには、周りの者は介護者家族をねぎらうこと

<病状の進展>
(初期)
同じことの繰言  しまい忘れ
(第2段階)
  時間が分からなくなる
  何でも片付けてしまう(身にしみた主婦の習性?)
  判断判別に支障をきたす
  ・・・この時点では近所の人は認知症と気づかなかった
(第3段階)
  方向が分からなくなる
  ・・・この段階で近所の人も認知症と気がつく
  ものの区別が付かなくなる
  (第4段階)
  家族関係が分からなくなる
  子どものときの記憶に戻る

<経緯>
・1978年、母に認知症症状起こる。
・1986年、父死亡。症状促進、妹家族同居。
・1993年、特別介護施設にあずけた。
この施設は大変なところであった。
・6ヶ月ほど後、市内の病院に転院。
病院に<付添い人制度>というのがあった。
一人が3人の患者を24時間世話(看護ではない)をしてくれるもの。
費用は公費(後から還付された)。
付添い人の世話は行き届いていた。
顔も穏やかさが戻り、表情も出てきた。
・1994年付添い人制度廃止。看護師の看護になった。
看護は付き添い人の世話と違い心がこもらないマニュアルどおりの行為となった。
  状態が悪化。
・自宅介護に(1994年)。
公的援助あった・・ベッド・車椅子などの支給
  居間にベッドを置き、常に家族などと一緒に過ごさせた。
  精神状態も安定しいきいきとした表情を回復した。
・2000年介護保険制度開始。
  要介護5 
  入浴利用週1~2回
  ショートステー利用年1~2回
  主治医往診 月2回
    顔をじっと見て、食事と便の状態を聞くだけ。
    「病院に入っていたらとっくに亡くなっているよ」
ショートステーの時は、必ず高熱を出すので
ショートステーを避けることにした。
   妹が出かけるときは夫や子どもが世話をした。
   家族みなが外出するときには叔母に世話を頼んだ。
   長時間のときも叔母に頼んだ
(夫が長時間見たときにオシメを換えようとしたら、
「女だから」と拒否されたから)。
・最後の半年、飲み込みが困難、鼻から栄養剤注入に。
痰がよく出るようになり、吸引をした。
・2004年4月、栄養剤注入拒絶。死去。

<妹の回顧>
・10年余りの在宅介護は自然の流れでやれたと思う。
・食事や下の世話は自分のペースに取り込んだので苦にはならなかった。
・最後の半年は、痰を取ったり栄養剤を鼻から入れたりするときに
気を遣ったので介護をしたという意識はあった。
しかし、このときも特に気構えることもなく
自分の生活を主体にした流れの中でやってきたと思う。
・苦に思うか否かは、要は気持ちの持ちようと思う。
・朝起き夜寝るまでの日々の生活の一環とすれば、
介護という行為ではなくなる。
生活の一部になると思う。

<私の感じたこと>
・自宅介護に越したことはない。
・介護を掃除洗濯と同じように生活の一部と思ってやることが極意のようだ。
・要介護者の気持ちを十分汲んでやることが大切だ。
要介護者は感覚が鋭くなっているので
 介護が心からの介護かそうでないかを敏感に感じ取るのだ、
ということを知らされた。
(介護施設での状態・付添い人から看護士への変更時の状態から)
・要介護者には疎外感を抱かせないこと、
そのためには家族や客などが居る場におらすようにすることがよいようだ。
 (家族や訪問者が居る居間に一緒に居るときのいきいきとした変化)
・身内は介護者や要介護者に特別の気持ちを抱かないことが肝要だ。
 (兄妹の家族は介護をしている妹家族に特にねぎらいなどを表さなかった)
・母の葬儀が済んでから、兄妹家族が全員集まった席で私から介護した妹家族一人ひとりにねぎらいとお礼を言った。
以上

週末つれづれ草子(2012年9月16日) おわり

週末つれづれ草子(2012年9月9日)・わが介護の記(3)

2012-09-09 22:05:39 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2012年9月9日)
わが介護の記(3)

今週は事件が起きました。

火曜日(9月4日)に胃がんの集団検診がありました。
受付締め切り時間は10時30分。
介護・家事などを済ませたのが10時過ぎでした。
間に合うので受けることにしました。
最後の受検者になりました。
8人が順番を待っていました。

係りの女性が「家は近いですか」と聞きました。
「自転車で5分ぐらいかな」
「では、家に帰ってから水を飲んでいただけませんか」
撮影後は受付場所にしている集会所の炊事場で下剤を飲ませているが、
最後のわたしが家で飲めば、
集会所で下剤を飲む時間を割くことができるという計算なのです。
「いいよ」
エックス線撮影が済んで自転車で帰宅し、水を飲むだんになって、
下剤を渡されなかったことに気づきました。
マーいいか、と水をガブガブ飲みました。
大変でした。15~20分ごとに小用を足すことになりました。
大腸検査のとき飲む液体は、吸収されにくくなっているのでしょう、
ほとんどが肛門から排出されますが、水は吸収されて小用として出てしまい、
全く便として排出されませんでした。
午後5時過ぎても全く出る様子がなかったので、
手持ちの下剤を飲みました。
夕食をとっていると、チャイムが鳴りました。
出てみると、例の係りの女性でした。
下剤を渡しそこねたのに気づいて、もって来てくれたのでした。
「でましたか」
「全く。水をガブガブ飲んだが、前から出るだけ」
「この下剤を飲んでください。出なければ明日も。ただし2錠まで」

翌朝、微かに出ました。
そして、件の女性が電話で「出ましたか」と聞いてきました。
余程気になっていたのでしょう。
「出たよ」
「よかった」

その2日後の木曜日。
分厚い封筒が届きました。
検査結果の通知です。
分厚さと、検査後わずか2日での通知にいやな予感が走りました。
はたして、医療機関で精密検査を受けるようにとの通知でした。
分厚いのは精密検査を受ける医療機関宛の紹介状でした。
<くるものが来たか>、
<最悪、義母は施設に預けざるを得ないな>
いろいろの思いが駆け巡りました。

翌日、すぐに検査を受けられるよう朝食を抜きました。
義母の往診に来てもらっている近所のクリニックに電話して、
事情を話して至急の検査をお願いしたが、
予約がありどうしても19日になるとのこと。
他の医療機関を探し当てました。
検査の結果
胃にねじれが生じていて、
その部分の胃壁がアコーデオンの蛇腹のようにひだになっているのです。
そのひだがエックス線に投影されたようです。
その部分が炎症を起こしているとのことでした。
「ひねくれた胃だな。人間はどうか知れないが」と医師。
「人間がひねくれているから胃もひねくれたのでしょう」と私。
ついでにエコーで他の臓器の検査もしてもらいました。
「すべてよし」を聞きたかった、がそうはいきませんでした。
前立腺に肥大が見て取れるということでした。
念のため血液検査にまわしてもらいました。

妙なことです。
集団検診の翌日水曜日に義母の往診に来られたクリニックの先生に
胃カメラの話をしたのです。
下剤の話をし、
「今後はバリウムを飲む検査を敬遠し、カメラにすることにしたので、
先生のところでカメラ検査を受けることにしようと思います」
などといっていたのが、その翌日に胃カメラ検査を受ける破目になろうとは・・・。
もっとも、
この度はその先生のとこでは予約が多くて検査を受けませんでしたが。

通知を受けたときはいろいろと今後の対応に思いを巡らしましたが、
義母の自宅介護は続けられることで収まりました。
カッチーン(拍子木の音)

週末つれづれ草子(2012年9月9日) おわり

週末つれづれ草子・わが介護の記(2)

2012-09-02 22:00:57 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2012年9月2日)
わが介護の記(2)

当面の介護の方針(体力的にいつまでつづけられるか)
・起きる(車椅子に坐る)時間をなるべく長くさせる
・食事はテーブルでとらせる
・歯磨きをさせる(仕上げの歯磨きはしてやる)
・簡単な日記を書かせる(闘病日記をつけていたので続かせている)
・新聞に目を通させる

<一日の介護パターン>

6時始動
部屋の窓開け
ラジオ体操・読経
オムツ換えと体拭き
起こして車椅子に乗せテーブルに移動
手洗いをさせる
血糖値の測定とインシュリン注射
朝食作り(米飯・味噌汁・野菜・果物・煮卵か卵豆腐・乳酸菌飲料など)
食後、投薬(血小板関係と糖尿病関係の6種類・・現代医学の薬漬け?)
歯磨きをさせてから仕上げの歯磨き
新聞に目を通させる
ベッドへ移動
ベッドのシーツ換えなどベッドつくり
車いすよりベッドに移す
両足首にできたタダレ(体液が滲み出ている)の処理
目覚まし時計など小物を枕元におく
クーラーと扇風機の強弱を調節
オムツの処理と尻を拭いたタオルの洗濯(手で落としてから洗濯機へ)
ベッドシーツやパジャマなどの洗濯(2台の洗濯機を使い分けている)
一般の洗濯の物干しやゴミ出し
10時ごろ一段落

  12時始動
  オムツ換え
  車椅子に乗せテーブルへ移動
  血糖値測定とインシュリン注射
  昼食つくり(パン・ヨーグルトか牛乳・野菜・朝の残りの味噌汁など)
  食後投薬(3種類)
  歯磨きの仕上げ
ベッドへ移動
ベッドのシーツ換えなどベッドつくり
車いすよりベッドに移す
両足首にできたタダレ(体液が滲み出ている)の処理
目覚まし時計など小物を枕元におく
クーラーと扇風機の強弱を調節
  2時ごろおわり

  5時半にヘルパーさんに上記のテーブルまでの移動をしてもらう
  夕食つくり以降は昼とほぼ同じ

その他
月・水・金の夕にシャワー(ヘルパーさんがシャワー用車椅子に坐らせて)
水曜夕には近所のクリニックの医師の往診を受ける

毎日、朝昼晩の介護はさすがにきつく、
月曜から土曜の夕方の介護にヘルパーさんを頼みました。
びろうな話ですが・・・。
夕方のヘルパーさんの介護時に便をしていることを期待するのですが、
いまだ期待に沿ってくれず、
規則正しく朝の換えオムツの中にふんだにしております。
はじめのころは変えるときにあっちこっちに着けて困りましたが、
この頃は結構要領よくできるようになりました。

今週は午後の介護作業を終えてから、大根・蕪・春菊・人参の種を蒔きました。
さらにポットに白菜とキャベツ・レタスの種を植えました。
炎天下、正直バテました。
長いこと雨が降らず畑はパサパサの砂漠のようです。
せっせと水遣りをしていますがすぐにパサパサになります。
芽が出るかどうか。
周りの田んぼの稲は穂を出しました。
早場米は刈りいれが始まる時期です。
イノシシと鹿が稲を荒らしに出没。
個々が田んぼを柵やネットで覆って防御しています。
町内会で防御柵を築こうとの談合を9日(日曜)に開きます。

28日午後わが診療で広大病院へ。
31日(金曜)2時から3時半まで寺の行事に顔をだしました。

今日、夕方短時間だったが、恐ろしいくらいの雷鳴と豪雨がありました。
畑には慈雨でした。
芽よ出でよ!

週末つれづれ草子(2012年9月2日) おわり

わが介護の記

2012-08-26 22:10:48 | わが介護の記
週末つれづれ草子(2012年8月26日)
わが介護の記(1)

昨日(8月25日)、区役所から市長名義の義母宛書留便を受けました。

<介護保険 要介護認定・要支援認定等結果通知書>
「要介護3」

7月11日に申請が受理されてから1ヵ月半後の結果通知です。

申請時には当人はまだ壁に手を当てて足をひきずりながらも歩けるが、
自力で起き上がることはできない状態でした。
介護認定を受けたらよいという助言もあり、申請に踏み切りました。
並行してケアーマネジャーに相談をしました。
状態からとりあえず次の介助器具を備えました。
電動ベッド
ポータブルトイレ
歩行器

申請後10日ほどして区役所の担当者が状態を見に来ました。
数十にもおよぶ項目をチェックしました。
このときには当人は上述のような状態だったので、
<要支援>
かな、と思っていました。
ところが、その後の一週間に歩行器での歩行ができなくなりました。
当然、ポータブルトイレでの用便もかなわなくなりました。
歩行器から車椅子に変えました。
ポータブルトイレもお蔵入りにせざるを得ず、オムツに変えました。

急激な進み具合にケアーマネジャーも驚き、
区役所にも状態の変化をインプットしてくれたようです。
そんなこんなで冒頭の結果と認定されました。
周りの方たちからは<要支援>認定なら、
再申請をするように、との助言をいただいていたのですが・・・。

13日(月曜日)に近所のクリニックの先生に事情を説明し、
往診をお願いしました。
盆開けということで20日(月曜日)来ていただきました。
「自宅がいいかい?楽しみは何ですか?」
などと聴きながら診ていました。
13日に相談に伺ったときに、
「大変だよ、施設に頼んでは」との話がありました。
「自宅で介護してあげたい」
「ショートステイを活用したりして思い切った息抜きをしないと、
あなたが参ってしまうよ」
などといくつかのありがたいサジェスチョンをいただきました。
また、世話になっている先輩や奥さんからも上述のような助言を受けました。
ありがたいことです。

正直言って、大変です。
夜の眠りも浅く、3~4回目を覚まします。
野良仕事もできず、畑が草茫々になったので、
今週老体に鞭打って草刈をし、耕しました。
熱中症にはならずに済みました。

自宅介護を始めて1ヵ月半。
さて、どういう成り行きになるのか分かりません。
おいおいこれまでの経緯を語ります。
また、今後の展開を綴ろうと思います。
少なからぬ方の参考になればと思います。

週末つれづれ草子(2012年8月26日) おわり

週末つれづれ草子(2012年7月22日)

2012-07-22 21:15:21 | 感想・見解
週末つれづれ草子(2012年7月22日)

今回も猫の話を。
前に掲げたこの辺を仕切った「シロチャトラン」との別れの件です。

週末つれづれ草子(2007年4月22日)

さようなら、白チャトラン。
4月18日、あの白チャトランが不帰の旅にでました。
時節はずれの寒い雨の降る日でした。
この朝もここ2~3日と変わりなく、
我が家の前の田んぼの端に姿を見せました。
ただ、この日は義母が差し出した餌を食べようとしませんでした。
「この子は、死ぬ」と義母の悲しげな声が伝わりました。
そういえば、
今まで近づいたことがなかったカラスが一羽周りを徘徊していました。
白チャトランの死期を嗅ぎつけたのでしょうか。
妻がカラスを追いました。
近づいて観ました。
チャトランを追い回した往年の白チャトランよ、どこへ行った!
しょんぼりと丸まってうずくまる姿を見て、
「これまでだ」とうなずかざるを得ませんでした。

雨が降り出しました。
白チャトランはうずくまったまま雨に打たれていました(写真=略 以後同じ)。
身を動かさずに残り少ない命を少しでも長引かせようとしているのでしょう。
「傘をかけてやってね」
妻は気をそこに残しつつ出かけました。
1メートル半ほどの長さの垂木のきれっぱしに傘を括りつけて
白チャトランの上にかざしてやりました(写真)。
雨がしのげるよう傘の角度を調整していると、
義母が傍らに来て座り、
なにやら白チャトランに差し出しました。
ヨーグルトの蓋に満たした水でした。
白チャトランは味わうようにゆっくりと飲みました(写真)。
飲み終わると「みゃー(ありがとう)」と母を見上げ、か細く鳴きました。

末期の水

その後、白チャトランは一時間ほど傘の下にうずくまっていました(写真)。
11時過ぎにゆっくり立ち上がりました。
雨の中を田んぼの上のほうに歩んで行き消えました。

翌朝10時。
昨日とうって変わった上天気。気温もぐんぐん上がりました。
傘のみが陽光を撥ね返して立っていました(写真)。
昨日の雨を凌いだ宿主はついに帰ってきませんでした。
安らかに、白チャトラン。
   
   
白チャトランとはにっくき出会いでした。
当時、我が家の雌猫・チャトランをよく追い掛け回しました。
チャトランを追う白チャトランをわれら夫婦が追い払う、
ということをほぼ毎日繰り返しました。
夜中のことが多く、寝不足の状態が続いたものです。
そのことは「週末つれづれ草子(2003年7月27日)」で綴りました。
いつだったか、この草子を再掲しましたが、この際末尾にもう一度載せます。

そんなにっくき白チャトランが我が家の周辺でうずくまりだしたのは、
20日ほど前でした。
目がしょぼしょぼして鼻汁を垂らしていました。
病気になったのでしょう。餌をとることもできそうにありませんでした。
かわいそうに思った義母が
我が家のチャトランとミーの餌を持っていってやりました。
それは喜んで食べました。
母の足にすりよっては食べ、擦り寄っては食べました。
帰りだすと、ついてこようとします。
「だめ」というと、そこにしゃがんで見送っていました。
我が家には、シロチャトランに追われたチャトランとミーがいるので、
つれて帰るわけには行きません。
餌をやりだした2日間は我が家のチャトランとミーも母についていき、
白チャトランを見ていました。
ミーはすぐ近くまで行き、なにやら言って(鳴いて)いました。
チャトランは追い回されていたこともあり、
かなり距離を置いて不安げに見ていました。

こんなことを2週間ほど繰り返していました。
そして、その日の2~3日前の午後から翌朝にかけ姿を消しました。
義母も妻も直接口には出さないが、
あることを思っていることが感じ取れました。
そのことは、昼前に姿を見せたときに上げた声が弾んでいたので分かりました。
それからは、うずくまる場所を、
それまでのところから我が家の前の田んぼの端に変えました。
姿を消した丸一日は、そのときの場所を探し当てていたのに違いありません。
我が家の前の田んぼの端にうずくまる場所を変えたのは、
そのときの場所に近いところだったからでしょう。
移動にそれほど時間と余力を使わずに済むので、
命のぎりぎりまでみなの中にいよう、とのまさに懸命の努力なのでしょう。
この間の行動は、そうとしか解釈ができません。
そして、冒頭のその日となりました。

にくき、いや、にくかった白チャトランの最期の面倒を見たわれら。
追われたわれらに残り少ない命を預けた白チャトラン。
「ご縁」
週末つれづれ草子(2007年4月22日) おわり。

週末つれづれ草子(2012年7月22日) おわり