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俳句における発想とは

2023-05-03 11:06:04 | 日記
 発想とは?。発想力の有り無しにその多くを期待する時、俳人はそのどの部分に注目するのだろう。発想とも思える、思いつきは俳人と呼べる人は、どなたでも持っているのだが、一句を纏めるのに、新しさが含まれているのかいないのかの違いは何に由来するのだろう。ふと私は思う。次の句を見ていただきたい。

  如月や耳貸していて疲れる   福島靖子

「歯車」333号より。この句の特色は表現が従順ではないのである。「耳貸していて」なのである。身近にいるであろう人の話を聞いているのであるが、そのようには受け取らず「耳貸していて」なのである。多くの俳人は発想はしっかり出来ているのであるが、何かが足りないために新しくないのである。その足りていないものはと問い詰めてゆくとき、私はそのヒントらしきものがわかってきた。想像力なのである。想像力と発想力との違いなのである。想像力とは作者の感性によるところのアイデアなのである。作者の発想をしかりと読者に理解させるには、そのことに相応しいアイデアがなければならないのである。この句の場合は「耳貸していて」の俳句言葉を生み出すアイデアが作者の感性のなかに目覚めていることだった。この「耳貸していて」の言葉の表現が新しい俳句を生みだしたのである。つまり、他人の話を聞いているのだが、ただ聞いているのではなく「耳貸していて」なのである。よくあることだが、発想つまり思いつきをそのまま俳句にしている句が多いのである。そのような中にありこの句は発想のままにはしないで想像力といえるアイデアで表現された言葉を施したことであった。
 だが、発想に想像力を施さなければどうなるのだろうと思う。発想とは、思いつき…。しかし最近の俳句には広告のキャッチコピーのような発想が多くなった。広告は物品を販売すれば良いので、思いつき、と思える発想で良い。俳句は詩である。心への呼びかけが大切。思いつきは発想より発展したものだが、思いつきのままでは一過性の刺激である。心には何も残らないのである。正述心緒になってしまう。発想は、ここより始まる俳句の入り口に過ぎないので一句にはならないのである。その作者ならでこその感性がいる。その感性は一句の出来具合を決めることにもなる。…それが想像力なのである。それにはアイデアの施しがいる。


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