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俳句の一句が成立するまでの過程とは…

2022-07-17 21:36:24 | 文芸

                  顕在意識→連想→潜在意識を経て成り立つ

                 児 島 庸 晃

    最近になってのことだが良い句には、作者独自の思考の形があるのではないかと思うことが私には多くなってきた。そのように思うようになった根拠には、人間本来の底に棲みついている、潜在意識としての姿が心にあってその一つ一つが感情をコントロールしているのではないかと私は思う。その感情が、普段は隠され目には見えてはいないのではないかと。その心を呼び起こす行動・動作が顕在意識によって目覚め、それらの具体的な「物」が目視することにより眼前に見えてくるのだろう。その「物」の引き出しは連想を重ねて広がるのではないのか。…私なりの理論である。つまり一句が完成するには顕在意識↓連想↓潜在意識を経ているのではないかと。良い句だと思える俳句に巡り合えた瞬間の感想は顕在意識↓連想↓潜在意識を経ていることだったのではないのかとの検証を得た。何故、そのように思えるのかを私なりに考えてみたいと思う。目視時に作者の目に飛び込んでくるものは、現実にその場に存在する物体なのであるが、その物体は作者には最も興味を引くものでもある。このことそのものは顕在意識に基づく作者の意識より発生している。つまり目の前の見えている現実風景なのである。

 一歩から始まる万歩 初茜   福本淳子

「青群」第56号より。この句は何でもないように思われる光景ではあるが、作者の意識作用の籠った感情が見事に定着されている。このような句を私は見たことがない。それほどに顕在意識が強くはっきりと克明に読者の心を擽る。このような句はそんなにも表現出来るものではないのだろう。…そのように思えるのには理由がある。そこには俳句言葉の表現に人の心を深く追求している言葉があるからである。「一歩から…」と言う俳句言葉、これはまさしく人の心の中に何時も顕在していて日常の生活の中で作者自身が保持している感情を伴った生活言葉なのである。だが、この言葉は目には見えてはいないのである。では何故この言葉が句の発想で思いついたかと言えば、日日の行動の中に、ずーと作者自身が保持し心の奥深く眠っていたもの。だが何かのきっかけがなければ表面には出てこない。…これを潜在意識と言う。ここより連想が始まり「万歩」の俳句言葉が生じることになるのである。作者の目視は「初茜」なのだが、ふと「初茜」に向かって歩こうとする動作。ここより「一歩から始まる万歩」との意識が働く。作者の意識操作が自然に働き顕在意識↓連想↓潜在意識と心が動く。素晴らしい俳句にはまことがある。この句のまことが俳句の緊張感を強めるのである。これらの心中の一連の連動は観念ではない。まことの心なのである。まことの心は顕在意識↓連想↓潜在意識と心が動く。つまり目視より得られた見えている物体から連想により、作者の心に眠っている感情意識を引き出すのである。

    実感の重みと言えば、そこには必ずと言っていいほど潜在意識を内包している作者の意志が色濃くある。その潜在意識を顕在意識に変革させたのが次の句である。

 あやとりのエッフエル塔も冬に入る   有馬朗人

    俳句総合誌「俳壇」2005年8月号より。作者は「天為」主宰者。元東京大学総長、元文部大臣。ここにある作者の抒情は句の発想においての思考の中に顕在意識↓連想↓潜在意識の心の流れがとても強くある。作者の見えている光景を、ただ単に見ているだけなれば、何の感情などは発生しないのだが、作者が興味をもつに至った見えている光景には感情が生まれる。このとき作者の心には潜在意識があっての興味が生まれる。この句の場合には「あやとり」の目視より「エッフエル塔」の発想がなされている。「あやとり」の動作により出来上がるまでの過程の中に、幼い頃お母さんに作ってもらった「エッフエル塔」の形のイメージがあるのだろうと思う。この部分が作者の心に残り、今も持ち続けている潜在意識があるのだろうと私は思った。その季節は冬。まさしく句の始まりは「冬に入る」の俳句言葉なのである。「冬に入る」の俳句言葉の顕在意識より連想が始まり、「あやとり」の今へと繋がる。所謂一連の感情の流れの中に顕在意識↓連想↓潜在意識と言う作者の思い出を引き出しているのである。この句の素晴らしいのは素直な作者の気持ちが読者に素直に伝わってくること。即ち顕在意識↓連想↓潜在意識と言う心の流れが素直に行われたからであろうと私には思われた。

    俳句は一句の中に唐突な言葉は使えない。句を成し得る過程には一連の心の流れがあり、それが顕在意識↓連想↓潜在意識の心の流れを作っているからなのである。

 一点として立つ冬晴れの真中   岡崎淳子

    句集「蝶のみち」より。普通のように思われるかもしれないが、この句の目視に際し作者がどの位置に立ち何を視ようとしているのかを私は考えた。その思考の程を私へ受け渡して貰った俳句言葉がある。…「一点として」に凝縮された目視。ここには作者自身の今まさにいるその位置であり、作者そのものの存在感なのだろうとも思った。「一点として立つ」の顕在意識は多くの読者の共感を得て心に流れ込む。ここからこの句の物語は始まる。それは連想を伴って次のステージへと開ける。このように作者の心を強く広げているのは、何よりもそこにある作者の「冬晴れの真中」と言う理想の潜在意識があってこそのものだろうと私には思えた。顕在意識↓連想↓潜在意識の流れを確実にし目視によっての作者の主張を定着させているからなのだろう。俳句には唐突な言葉は使えないのである。それには顕在意識↓連想↓潜在意識と言う人間の内面で起こり得る意識の変革がなされるからなのである。その一句には、必ずと言ってもいいほど作者にとっての潜在意識がこめられている。その潜在意識はその句の主張でもある。その主張は作者の存在感の主張でもある。この時点で顕在意識↓連想↓潜在意識の流れを作る。ここには思いつきより起こる唐突な俳句言葉は生まれない。そしてそれを立証しているのが「一点として立つ」の俳句言葉であろう。作者にとって大切なのは潜在意識を呼び起こす心であり、そのための連想は是非とも意識してなさねばならない心の準備と言える。

    心の準備と言えば、目視に際し潜在意識を発見することかもしれないと思うことが私にはある。目視とは作者の目に最初に飛び込んでくる事柄でもあるが、作者にとっては一番に興味をひくことでもある。何故興味を引くのか。その事柄は作者の体験したことや出会ったことである。ふとしたことでそれらを思い出す。新しい体験ではなく作者の思い出の中にあるもの…それを潜在意識と言う。

 炎天を槍のごとくに涼気すぐ   飯田蛇笏

    第八句集「家郷の霧」より。この句は昭和29年69歳の時の句である。蛇笏は飯田龍太のお父さん。「雲母」の初代主宰者。私がこの句を知ったのは高校時代でまだ伝統俳句の全盛期であった。何が私の心に飛び込んできたのかと言えば、「槍のごとくに涼気」の比喩であった。この比喩は作者の体験に基づくもので、そこに住みつき日々体に染みついたもの。作者だけに、強烈に感じとることの出来たもの。これらの作者自身の自己体験より発せられる実感である。「炎天」の地面に作者は立っていて、一瞬の「涼気」と出会ったのであろう。そしてこのことは何回もあったのだろうと思う。この体験が潜在意識を目覚めさせたのではないか。潜在意識とは何回もの体験によって作者の脳内に蓄積されたものの意識である。目視していたのは「炎天」、ここより作者の連想が始まり、「涼気すぐ」を思い出す。その結果、顕在意識が作者の眼前で起こる。その俳句言葉が「槍のごとくに」の比喩言語。だが、突然この比喩言葉が発生したのではない。作者の心の準備が出来ていたからである。この句の所作の中に顕在意識↓連想↓潜在意識の流れの一連の行動が準備されていたからなのだろうと私には思える。この句は形式こそ新しくはないが、俳句の基本としての準備が顕在意識↓連想↓潜在意識の過程を経て出来上がっていた。この一連の基本を心理面より深めたのが次の句である。作者の心層に潜在意識が存在。このことが句の心の在りようを深めている。

 葉ざくらの夕べかならず風さわぐ  桂 信子 

    第一句集「月光抄」より。昭和22年33歳の作品。目視の段階において現実の把握が心理の変化を操作していて、その基本が潜在意識より引き出されているのだ。その俳句言葉が「風さわぐ」なのである。満開の桜花のころの賑やかに輝く靡くころとは違う楽しさが作者の心に根強く残っていて、その心理が潜在意識なのである。「葉ざくら」の目視時に作者の、かって体験した頃へと心が飛ぶのである。そして「葉ざくら」の眼前の今の光景の顕在意識が作者の脳中にあって、連想が動き出す。この時、満開の桜花と葉ざくらとの対比に心理面の動揺が起こる。これらの作者の心の揺れが顕在意識↓連想↓潜在意識の一連の流れの中で起きていることが私には理解出来た。それは「葉ざくら」になっても沢山の青葉の揺れる葉音を「風さわぐ」と言う把握を心理面より潜在意識として呼びおこしているのである。この俳句言葉は凄く個性的であり、作者だけの体験の潜在意識なのである。この句は「風さわぐ」の言語を生み出したことにより俳句に成りえたのである。

    俳句が俳句としての良さを発揮するのには、それなりの思考があるのだと知り得たのが、今回の私の調査立証で分かった。それには工夫があり、それは作者の意識操作ではなく理論としてのものがあったのだと知ることが出来た。顕在意識↓連想↓潜在意識の理論を知ることが出来たのは私の発見であった。


俳句言葉の基本は言葉のモンタージュである

2022-07-17 20:49:39 | 文芸

 

                             俳句言葉…に関するメモリアル

                   児 島 庸 晃  

 私の心の奥深くに未だに消えないで残っている言葉がある。昭和四十年代の次のことばであった。

…斉藤正二氏は“俳句不毛の時代”だと叫び、兜太氏は“精進の時代”だという。この二者の間にある思考の相違は現代俳句に於ける一つの危機を示し続けている。

    この言葉は今日に至るも、私の心に残っていてすこしも進展してはいない。それは何ゆえにそう思うのか。私としては長い未解決連続の時代であった。つまるところ未思考に等しかった。考えてみれば俳句を作るという事は自分を語るという実に単純な思考。私の心を詩的言語に託し表現すること。それそのものが私性の文体であったのだ。

 そこで思いあたるのが、飯田龍太の文体である。この句体とも言える基本になっているのが、モンタージュ理論のようにも私には思える。モンタージュ理論とは何なのか。簡単な言葉で言えば、言葉と言葉の繫がりにおける意味の深みを、より緊密にして、言葉の緊張感を強く求めること。俳句言葉に可能な限りの変化や変革をもたらすように意識操作することなのである。私達の日常にあっていろいろ体験しているのだが、目視において緊張感を抱いては見てはいない。例えば次の句などは。

  一月の川一月の谷の中     飯田龍太

 句集「春の道」1971年飯田龍太第5句集より。この句のモンタージュの対象になる俳句言葉は「一月」なのだが、この句の場合は上下の二段構えの構成で出来上がっている。その上下に同じ俳句言葉「一月」が施されている。そしてその両方に跨るように意味のある配置がなされている。このような意識ある構成の操作がされている。同じ俳句言葉「一月」を意味の違いを二つに比較してアレンジする言葉の使用をモンタージュと言う。もとを正せば、このモンタージュ理論なるものは無声映画の時代にロシアで起こった映画表現理論だった。「戦艦ポチョムキン」の中で使用された編集理論なのである。(1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインに代表されるヨーロッパ型のモンタージュの中での理論。その映画シーンとは。乳母車が石段を下る場面で、その表現において、乳母車・石段・乳児と交互にスクリーン一杯にカットバックでだぶらせてゆく手法。これをモンタージュ編集とも言うのである。このそれぞれの大写しの表情が重なって緊張感の重みを目いっぱいだすものだった。ずーと後になって日仏合作映画、アラン・レネ監督「ひろしまわが恋」にも使われていた。原爆投下の広島の街の景色に、愛し合うふたりの身体がオーバーラップで重なってゆくモンタージュ編集だった。モンタージュ理論俳句とはこのように意味のあるイメージの重なりを言葉と言葉の重ね合わせることにより、アレンジでの深みを出して緊張感を盛り上げる俳句手法なのである。

  花びらは春一番の配達人   小嶋良之

 「青群」弟44号より。この句のモンタージュ俳句言葉は、「花びら」で、もう一方のモンタージュ俳句言葉は「春一番」である。このように常にモンタージュの対象となる言葉は一句の中に二つある。そしてこの二つには相関の繫がりがあり、この繫がりがイメージとなって一つの言葉と、もうひとつある別の言葉が重なりダブって意味を深くする。この繫がりが浅ければ俳句にはならない。それぞれ遠くに在るものを、作者の意識操作でくっつけることが大切で、ここで失敗すると何のことだかわからない俳句になる。このとき重要なのが作者の感覚が読者に読み取れるようにしなければならない。この句の場合だが言葉そのものの使い方に工夫がされていて、「花びら」と「春一番」の双方の言葉には違和感はない。それは双方の言葉に課せられた役目が実行されているからである。つまりこの双方の言葉の間には、指示される言葉「花びら」と指示する言葉「春一番」がそれぞれの機能していて、このことがモンタージュされているのである。句の緊張感・臨場感は指示する俳句言葉と指示される俳句言葉が快く読者に伝達出来ているのである。

 同じように指示する言葉と指示される言葉の句だが、ここでは、より鮮明に作者の言いたい目的言葉となり得た句がある。

  落葉踏む三本足の音未来へ    福島靖子

 「歯車」387号より。この句のモンタージュ言葉だが「落葉踏む」の導入部にある。 そして受け言葉としてのモンタージュ言葉は「三本足の音」である。指示する言葉が「落葉踏む」であり、指示される言葉が「三本足の音」なのである。この二つの俳句言葉より、作者の主張したい「未来へ」の言葉が生まれているのである。この句の展開に言葉のモンタージュが使われている。「落葉踏む」の何気ない動作より物事が始まり「三本足」のクローズアップが作者の眼前に現れる。この部分がモンタージュなのである。ここに指示する言葉と指示される言葉とのせめぎあいがある。これらのイメージの交互に繰り返される状況に緊張感が出るのである。「落葉踏む」は第一イメージ、「三本足の音」は第二イメージである。「三本足の音」とは杖をついて歩いているのである。本来の二本の足と杖をつく音もふくめての音なのだろうと私は思った。この第一イメージと第二イメージの重なりだぶりがモンタージュ編集がなさている俳句なのである。さらに作者はこのままでこの句を終了しようとはしなかった。「未来へ」と句を結ぶ。これは赤尾兜子が打ち出した第三イメージ論なのである。兜子は昭和40年頃だったと思うが、句の本質論として現代俳句はイメージの積み重ねであると、その趣旨を語っている。ソシュールの言語論を俳句に取り入れ、第一イメージは目視、第二イメージは展開、この二つのイメージより、第三イメージが出現。この第三イメージは作者の主張したい意味が発生するとの見解を述べている。これが兜子の第三イメージ論であった。この兜子の思考は俳句のモンタージュ理論なのである。この「落葉踏む」の句は主張したい言葉が何気なく強調されて見事なモンタージュ言葉の句となっている。

 第三イメージ論を述べていたころの赤尾兜子の句に私は、たびたび涙を流すことがあった。前衛俳句の最前線にいたようにも思われていた俳人だが私はそのようには思ってはいなかった。いま思えば兜子はモンタージュ俳句の基本を忠実に実践していたのであろうと私は思う昨今である。ここに私の記憶に残る思いを述べた記述がありいまも思い出す。。

  壮年の暁(あけ)白梅の白を験(ため)す 赤尾兜子

 昭和46年「歳華集」の中に収録されたこの句。兜子の存在そのものを問いかける姿のなんと純粋で悲しく痛々しいことか。壮年期の始まりに汚れきったこれまでの人生を白い梅花に問いかける仕草こそ素直であり、より必死に生きてゆこうとする姿でもある。人間の一生を考えていてふと思うことがある。幼年期、少年期、青年期、壮年期、晩年期と経てゆく過程で生まれたままの素直な心はその社会経験を得てどれ程変化してゆくものなのか。とてつもない過去に帰り私自身のことを考えてみる。純朴な精神は多くの競争社会の中でずたずたにされ、打ちのめされ、放り出されて最後には自分自身を見失っているのではないか。私はその中をくねくねと曲がりぶっつからずに避けては通り過ぎて来た。だがいまどれ程の純粋さを保って生きているのか。眼前の咲き始めた梅の白花を見ながらずーっと思っていた。自然はその寒暖の厳しさとも闘いながら毎年開花の季節を迎える。咲き誇る自信に溢れその純朴は人の目を吸い寄せる。真っ白な純粋はひたすらにひたすらに美しい。私は茫然とするだけであった。この句においても「壮年の暁」と「白梅」がモンタージュ言葉である。目視の言葉が「白梅」であり、作者の受けとった言葉が「壮年の暁(あけ)」なのである。ここにも第一イメージ、第二イメージへと変革の証がある。そして第三イメージとしての作者の主張「白を験(ため)す」の言葉を生み出しているのである。だが赤尾兜子は白梅の汚れを寄せ付けぬ白に自分自身の汚れを重ね、自分の汚れちまった傷だらけの白の方がもっと美しいのではないか…そう思った俳人だったのではと考えていた。この句の基本はモンタージュ理論にあったのであろうと私は思う。

  盲母いま盲児を生めり春の暮   赤尾兜子

    昭和48年作。当時私は兜子主宰の「渦」の同人であったが、眼前の兜子は句会などにおいてもこの句のような暗さは感じなかった。熱心で真剣であった。第三イメージ論を打ち出し青年作家を刺激していた。いまで言う取り合わせ俳句の基本ではなかったかと思う。第一イメージと第二イメージは非常に異質の物であり、両者のぶつかりによって第三の強烈なエネルギーを得るというものであった。それには俳句は二つの構成からなり、指示する部分と指示される部分があるという考えであった。この句は「盲母」と「盲児」がモンタージュ言葉であり、指示する言葉と指示される言葉になっっている。やがて数々の悩みを内に秘め鬱病になってゆく。毎日新聞の記者であったが、その定年の頃より重くなりその「渦」にも一句と記載が減ってゆく。そのころの作品である。そのころの西川徹郎氏は言う。「戦後の傷みに耐えきって赤尾兜子が生まれ、戦後俳句は方法とともに死に得る作家赤尾兜子を得て終るかもしれぬといえるかも」このせっぱつまった徹郎発言を私も真剣に考えていた。この数年後兜子は阪急電車御影駅近くの踏み切りより電車に飛び込み自殺する。妻の恵以さんに煙草を買いにゆくと言って家を出ていったまま帰らぬ人となる。この句における言葉の発想にも目視時のモンタージュがあった。

  俳句思えば泪わき出づ朝の李花   赤尾兜子

    昭和50年作。この素直さ、純粋さを見よ。俳句を思って泪を出せる俳人がいたか。詩人の足立巻一氏は言った。「兜子はたしかに句を思って涙を流すことの出来る詩人だ。わたしはその涙の質をひそかに知っているつもりである」。美しくきれいになろうとすればそれだけ鬱がすすむ。生命感だけの世界。それは生まれたままの姿だ。この句は「朝の李花」の目視より始まり「泪わき出づ」のイメージへと続く。ここで言葉がモンタージュされている。この時作者の心の中にはとてつもない緊張感が発生しているのである。そして作者の主張でもある「俳句思えば」の言葉に辿りついている。指示する言葉「朝の李花」と指示される言葉「泪わき出づ」がオーバーラップされて言葉の重ね合わせがある。これが言葉のモンタージュなのである。兜子は余りにも真面目で純粋すぎたようにも私には思える。最後の最後まで作者の主張がモンタージュの思考の中より生まれているのである。  いま私的な句に対する思いを書き綴ったが、このような思いを私へ発信するその基本は、やはりここにはモンタージュの基本理念が確実に実行されてきていたようにも私には思える。

 

 


俳句におけるパーパスとは…

2022-07-16 19:59:47 | 文芸

                      その俳句は…何故そこに存在するのか

                             児 島 庸 晃

   最近になって世の中を賑やかにする言葉がある。その言葉に私は緊張した。パーパス(存在意義)と呼ばれる言葉である。もともとは企業の人々によって生み出された言葉なのだが、大変重要なことである。その企業の存在理由を明示して社員の存在する理由を問うものであった。その社員の価値感として働く意欲を盛りあげるものでもあった。「何のために、我社は存在するのか」という問いの答えが、パーパスなのである。それでは私達文芸人は、このパーパスをどのようにとらえればいいのか、と思考する私の存在があった。何のために俳句を作っているのだろうかであると私は考える。

     それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』

がある。

 上記の言葉は「青玄」主宰、伊丹三樹彦が私に語った言葉である。この言葉は私が社会へ飛び出した20代前期の頃である。現実社会の中で、その現実についてゆけず悩んでいた趣旨の句に対しての時の文言であった。私の悩みを悟っていたのであろう。…その苦しみと闘っている心を大切にしなさい。その心を一番に表現しなさい。と。…一つの俳句には『何故』がいると言うものだった。作ろうと思う本心の必死さが緊張感を生むのだと教わったのである。俳句開眼の一歩であった。その時の私の句は次のようなものである。

 

       しびれだす正座 生きるを思案してる刻   児島庸晃

      枯木に対面 考えていて歩いていて     児島庸晃

      つめたい鍵穴 都会の目つきはよしたのに  児島庸晃

      作ってはつぶす 机上の小さな革命旗    児島庸晃

正に私の主張ということであろうか。このことが自己主張の大切さだとわかったのはこのときであった。

    事実、三樹彦も俳壇と闘っていた。現代語導入、旧かなから新かなへ、無季容認、口語容認、分かち書き、と俳句のタブーとされてきた限界へ挑戦していたのである。このとき伝統俳句人へ向かっての必死な根性を示したのであった。それが俳句を作るに際しては『何故』がいると言うものだった。 

        正視され しかも赤シャツで老いてやる  伊丹三樹彦 

    痛烈な根性でもって挑んだ句であった。だが、私には,この句に含まれている心には、もっと大切にしなければならない三樹彦の文言が込めれているようにも思える。三樹彦が亡くなったいまだから言える遺言のようなものを感じる。それは「それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある」である。俳句にはその句を作ろうと思った動機があり、その心の「何故」が『何故』を生んでゆく面白さとその必然があるのである。

    それぞれの俳句に含まれる『何故』とは何なのか。どうして「何故」が『何故』を生むのか。三樹彦が白寿を前にして亡くなり、三樹彦が残してくれた文言に改めて深い重さを受け取っているのである。そこで、今回は俳句における『何故』を考察検証しようと思った。本来の「何故」は物事に対して疑問を感じたときに思う謎ときの言葉なのである。そしてもうひとつの『何故』はその疑問が解けたとき、納得できたときの回答のことばなのである。17音律の一句の中には常に「何故」と『何故』を表現する二つの俳句言葉が存在する。この「何故」にはパーパス(存在意義)があるのだ。ここには作者の存在する理由があった。この理由そのものの存在にこそ俳人としての価値観がある。

       杭打って 一存在の谺呼ぶ   伊丹三樹彦 

 この句は青玄合同句集12(2005年11刊)に収録されているのだが、この句「一存在」はパーパス(存在意義)である。このパーパス(存在意義)を問題意識にして一句を成していた俳人は当時何人いたのであろうか。三樹彦を批判した多くの、かっての著名な俳人たちは、今も信頼されているのだろうか。そこにあるのは作ることの自由を奪われていた若者ばかりの存在ではなかったのかと、私は思う。当時の若者に句を作る意義を「何故」と問い詰め、その答えを『何故』と求める俳人は、三樹彦のほかはいなかったのではないかと、言うのが私の結論で


午前五時四十七分   児 島 照 夫(庸晃)

2022-07-16 15:29:05 | 文芸

この小説は神戸新聞文芸 掲載作品(入選作品)小説部門

      2003年2月17日朝刊に掲載されたものです

     

 一九九五年一月十七日午前五時四十七分、時計の針はここで停止する。まるで宿命づけられているかのように時計は止まっていた。夜の明けきらぬ街を、その時と同じように時の止まった時計塔を私は探していた。二〇〇二年二月十七日、国道43号線を私は歩いていた。歩きながらも緊張していた。

 阪神・淡路大震災が起こったその時、私は神戸の百貨店に勤務し、警備の仕事をしていた。突然の音響に身体が浮き上がった。ゴーンと音が出て私の身体は一メートルほど宙に舞い上がっていた。不意を突かれて何がなんだかわからなくなっていた。気がつくとコンクリートの壁の下に私の身体はあった。勤務の最中で、交替制の仮眠の時でもあって、本来は気分的にリラックスしている筈の私であったのだが、腰のあたりから痛みが込み上げて来て眼前が真っ暗になった。痛む部分に手を当てて私は暫くじっと耐えて我慢していた。やがて背骨が痛みだし脳天を貫く。急に仕事の事を考え、頭の中は混乱していた。ゆっくりと立ち上がり痛む背骨を抑えた。「まだ生きている、生きているのだ」と自分に私は言い聞かせた。ビルの四階で仮眠していた私は階下の警備本部へ下り、座り込む。防災機器の全ては、あっちやこっちに飛び散り、倒れ傾き、その姿は形をとどめてはいなかった。それどころか自動火災報知器からは容赦なく警報音が鳴り響き耳を劈く。先程まで勤務していた警備員は倒れ、ある者は這いつくばって地面を抑えていた。地震の揺れはまだ続いていて、スプリンクラーの水を降らし続ける。私は全身にその水を被り身動き出来ない状態になっていた。またしても私は「まだ生きている。息をしている。ちゃんと呼吸をしているよ」と胸を叩いた。我に返って元気を取りもどそうとするが背骨の痛みは、ますます強くなるばかりである。誰ひととりとして立ち上がろうとする者はいない。私は痛む部分を手で押さえ立った。そして早朝出勤務の人たちのいる地下一階へと歩きだしていた。それはじっとしていられない私自身の気持ちでもあった。地下一階の出入り口のドアの鍵を開ける。パンの職人さんたちは悲鳴を上げていた。私は大声で「出口はこちらです。こちらへ来てください」と必死で叫んでいた。すでに自家発電用の電源は能力を使い果たし、真っ暗な中に人の声だけが響き渡っていた。「助けられるべきは私ではなくてこの人たちなのだ」と「ここで出られるべきドアが閉まっていたのなら」と私は思い、十数人の人たちの命を考え、鍵を開けている手は震えていた。そう思うと私の身体の痛みは何処かへ消えていた。この時、私自身「まだ生きていると」思った気持ちが恥ずかしくてならなかった。自分だけが生きていると考えたこと。そして多くの生きようとしている人たちがいることを、すぐに思い至らなった私を恥ずかしいと思う。地下一階の内部はスプリンクラーの降水音だけが、やたら大きな音を出し私を集中攻撃してくる。暗闇の中で水だけが不気味に響くだけである。その悲鳴は暗闇の中で一際だって耳に届く。右からも左からも絶え間なく響き続いていた。真っ暗な中で声だけしかない。声のする方へ歩き出していた。私は咄嗟に身を乗り出し、両手に震えを感じた。「この人もあの人もみんな生きているんだ」と思い、両手を出し倒れている人を抱え上げた。腕の中でその人は泣いていた。その人は泣きながらもコンクリート片の下に埋もれていた。だがその人は「私を助けて、助けて下さい」とは言わなかった。必死に痛みに耐えながらも泣いていたのだ。それよりも私に向かって「怪我はなかったですか、大丈夫ですか」と「まだ揺れているので気をつけて下さい」、その人は私への気配りをしていた。人間とはいったい何なんだろう。この切羽つまった瞬間にお互いがいたわりあえる心を持つこと。持ち続けることが出来る、この心の大切さを切実に思うのであった。何かの事が起こった時、人間は優しくなれる。心が優しくなれる時、人間は本当の心を受けたり渡したり出来る。限られた極限の中で何が出来るかを考えると、それも人間の仕草なのかもしれないのだ。人は心細いもの、か弱いものなのだと思う。この時、人はお互いを助け合う。私は必死でその人を両手で引き寄せた。顔と顔があったその時、どちらからともなく笑いが出た。微笑というような生半可なものではなかった。信頼というお互いの心のやり取りを私は素直に感じていた。信じ切ることの大切さを、その人も知っていた。

 地震発生直後から私は館内を走り回った。地上九階、地下二階を上へ下へと足を滑らせつつも必死であった。まだ揺れている館内を身体ごと揺すりながら走っていた。天井からはスプリンクラー水が容赦なく降る。扉は壊れていて開くことはできず、床はずれ落ち全くない所もある。私は生存者を探して走った。真っ暗な館内を声のする方へ、それも声だけを頼りに動くのだ。声は時々掠れて聞こえにくくなってしまうのだ。私は耳にだけ全神経を集中させていた。「あの声はまだ生きている筈だよな」「この声は力尽きたのかな」「ああやっぱり駄目だったのかな」と思いつつも耳だけは冴えていた。私の側から人の声が消え、物音がなくなり、静まる。私は瞬間に蹲った。まるで何事もなかったようになっていた。「みんな息絶えたか、呼吸も絶えたのか、死に絶えたのか」と「生きていてくれ、何処かで生きている筈だ、きっと生きている」

 時が経て、ビルの外から少し明りが入ってくる。ビルの床は二つに割れ、大きく亀裂が出来ていた。床は傾斜し、六十度ほどの勾配で傾いていた。明けかけた朝の光はビルの館内をくっきりと写しだし、私は吃驚の声を上げた。あっちにもこっちにも壊れたコンクリートの塊が散乱していて、その下から人の足や手が出ていた。私はじっと目を凝らして、その光景を受け入れた。咄嗟に私は「動いていると」と足を踏み出していた。「今そこに行きます。すぐ行きます」。駆け出したが足元に瓦礫が散らばっていて思うようには動けない。「生きているのだ、生きていたのだ」と 心躍らせ私は両手を差し出した。その両手の指先は震えていた。指先の震えは感動した時の心の喜びであり、生きていてくれた喜びでもあった。私はその人に「生きていてくれてありがとう」言葉を発した。その人は私の顔を見ながら微笑む。「本当にありがとう」と。「助けてもらったのに、僕こそお礼を…」と。「私の心は生きていてくれたことで浄化され、嬉しいのですよ」。あの人、この人と床面に投げ出された人たちは、ぱたりと動きが止まった。朝の光はよりくっきりと周辺を照らし出しその悲惨さを写す。手や足からは血が流れ、腕や肩の一部には皮膚がはがれ落ち、肉片は花びらのように咲きかけていた。私の目の中に赤い血の色だけが焼き付いていた。この時、私の腰の痛みは頂点に達していた。この血の色は私の痛みを触発してしまったのだ。私はその場に倒れた。

 気づくと十数分が経っていた。私はゆっくりと立ち上がり周辺を見た。瓦礫の中に、瓦礫の下に人々は埋もれていた。外の方では救急車のサイレンが鳴り響き、周辺一帯を走り回っていた。やがて救急車が着く。先程まで静かだった場所は騒音に変わった。「助けて、こっちよ」一斉に声が広がる。私はこの光景に愕然とした。肩から足から力が抜け、その場に座った。「何ということなんだ、これは一体何なんだ」。私は独り言のように呟いた。このわが先に先にと競う心を思う時、私は愕然としたのだ。そして担架に乗せられていった人たちの事を考えた。必死に生きたい気持ちは解るにしても、あまりにも我儘過ぎはしまいか!誰だって同じ気持ちの筈ではないか。一月二十日、私は勤務を解かれた。これより甲子園までの道を、国道43号線に沿って自転車で走った。走ったと言っても自転車を押して歩いたと言った方がふさわしいのかもしれない。途中、阪神高速道路の高架はその下の国道へ落下、ひん曲がった形で全容をさらけだしていた。元町から三宮へ大石へ、そして御影へ芦屋へ西宮、甲子園と五時間かかって我が家へ着く。やっとの思いで瓦礫を超えた時だった。眼前に大きな塔があり、そこに時計があるのを知ることになる。短針は五時、長針は四十七分、扇形のまま止まっていた。

 阪神電車の大石駅で降り、私は今43号線に沿って歩いている。この時計塔を探して歩いていた。レストランの前の道を浜側へ少し入った西側にあった筈である。私はいろんなことを思い出していた。当時この道路は高架のコンクリート塊でいっぱい、高架の崩れには乗用車がひっかかり、今まさに落ちようとしていた。車の窓からは人の身体がはみ出ていて、すでに死んでいた。この国道を人々は難民のように東へ向かっていた。肩から毛布をたらしその列は500メートルはある。ゆっくりと時々は倒れそうになりながら、とにかく前進していた。だが、突然、この人たちは急に足を止めた。私は唖然とした。振り向くと人々は急に元気を出し一気に走りだしていた。すでに死んでいる人に向かってだった。「あっ、泥棒だ」と大きい声を出し叫んだ。崩れた高架から落下寸前の乗用車へ向かって走る。人々は死体へ群がり衣類のポケットから財布を抜き取っては歓声を上げていた。一人が抜き取ると瞬く間に十数人の人だかりになった。人々の手によって死体は落下した。やがて競い合った人たちに静寂が戻る。何事もなかったように難民の列は続く。とにかく私は東へ向かって歩いた。途中、難民は血だらけの皮膚を冬の日に照らし、病院へと向かう。だが、病院の前には多くの人たちによって溢れ、そこにも傷だらけの人が地に寝そべっていた。私は痛む腰を抑え、ただ前へ向かって歩いて行く。生き残り、歩き続ける人の光景を心に刻む。私は少しばかりの安心と生きれる勇気をもらい続けていた。死体へ群がる人々の姿を思い出したくはない。手で押したり、走ったりの自転車を側にして甲子園までの国道を東へ向かっていた。ただ歩くことだけ。とても行くあてなどなかった。そんな中から一人二人と倒れていく。咄嗟に近付き、私は声を掛けた。だが、もう返事はなかった。その人の肩に胸に手を当て呼吸をさぐるが息はなかった。私はその場に座り、手を合わせた。抱きかかえようとする私だったが重くてどうしようもなかった。必死だった。

「手を貸して下さい」

近くの人に声を掛けるが誰ひとりとして声は返ってこなかった。

「ほっておけばいいのに!」

やがて遠くの方から人声がした。私はその場にしゃがみ込んでしまった。もう一度、合掌しその場に座った。

 私は今、嫌な思い出ばかりが蘇ってくる。思い出したくはないが、しっかりと胸中に刻むために、この時計のあった場所に来たのであった。午前五時四十七分。忘れてはならない記憶を胸のなかにくっきりと受け止めたかった。時の止まった時計塔は取り壊され、なくなっていた。歩き続けている私の遠く東の空から夜が明け始めていた。  

 


俳句の現代化とは何なのか

2022-07-16 11:34:44 | 文芸

 

       俳句表現における話し言葉と書き言葉

                     児 島 庸 晃

 俳句には決まりごとがあって、それを破ることは俳壇から疎外されると言う時期があったことを、いま私は思い出していた。昭和三五年頃のことである。俳句の散文化現象である。この頃は俳句の勃興期であり、また乱立の時期でもあった。有季・無季。超季・自由律・多行形式(三行書き)とその表現においても乱立の時期である。この頃俳句を日常の感覚、感情で受け取り、その緊張感をそのまま俳句の中へ導入しようと立ち上がる俳人がいた。俳句を日常の話し言葉として捉えその緊張感の重さをもって一句としたのである。当時この俳句手法は散文の一部のように思われ歓迎されなかった。だが当時の若者には、この感情の緊張感は受け入れられる。若者には俳句の良さが浸透されてゆく。このように俳句が現代化されてゆく。自らを俳句現代派と称した。この現象は関西俳壇からであった。その存在を強烈にアピールする俳人がいた。伊丹三樹彦である。

 

  ひとりぼっちの泊灯ね 寒いわ お父さん 伊丹三樹彦

 

この句は昭和三五年頃の作品である。そして日常語を使っての句である。まさしく日常そのものである。話し言葉を使っての句である。この当時は俳句の散文的表現と言う最も嫌われた時期。当時私は高校卒業後一年ほど経た時期である。正岡子規の伝統俳句の全盛期であった。この頃は私的な感情は、そのもの全てが散文と思われての当時、私性の文体(句体)は頑として許されていなかった。何故なのか。全て私性の文体は説明言葉と思われていた。所謂、文章の一部分と思われていた。この時の俳句は書き言葉でなければとの一般通念があった。話し言葉は、感情のままの発語と思われていて、話し言葉は認められてはいなかったのである。

因みに書き言葉と話し言葉はどのような相違があるのだろうか。思いつくままに書くと、次のような違いがある。

「から」は話し言葉。

「より」は書き言葉。

「します」は話し言葉。

「する」は書き言葉。

このように明らかに情緒の相違はある。このように話し言葉の方が書き言葉の方よりも情緒の緊張感はある。客観的な表現の情緒は鎮静する。客観写生と言う伝統俳句の基本は現代社会人には好まれてはいなかったのかもしれない。この頃、当時の若者が話し言葉の表現に魅かれていったのかもしれない。この若者の気持ちはよく解る。

 ただ、話し言葉には問題点もあった。一行縦の棒書きの形では感情が流されてしまう。言葉一つ一つの区切りが、切れなくて解りにくい。そのための工夫があったのだ。これを見事に解消して分かり易くしたのであった。これが分かち書きであった。このことを俳壇に向かって発表したのが伊丹三樹彦である。分かち書きがあるから出来る表現であった。その一字空けはただ単に区切られるのではなく、意味の区切りと言う、5・7・5と言う単純な区切りではなかった。例えば上句の5・7と跨りのリズムのとき、意味での区別と言う、一字空きとしての分ち書き。そして感情や情緒の句切りによっても、その句の散文化を防ぐものであったのだ。

 その句とは…

  摩滅した空抽斗に夕焼け溜め  河谷章夫

昭和三五年のことである。この句の解釈を巡って、この句の為にだけ実に一時間以上も要した句会になった。「青玄」発行所句会だった。「空抽斗」はそのまま「空」を「そら」と読み上から読み「摩滅した空」と解釈するか、「空」を「から」と読み「からひきだし」として読みとるか、である。上句相当する部分をを五・七とリズムで区切ると「空」は中句の「抽斗」と結合。「空抽斗」になる。作者の意志は「摩滅した空」であった。言葉は二つ以上重なると複合語を作る。この時、三樹彦の発言があり一字空けが生まれてそれを分ち書きとして定着したのである。この時に添削された句が次のようになった。

  摩滅した空 抽斗に夕焼け溜め 河谷章夫     

添削された句は、空 抽斗 と一字空けとなっている。こ  れを分ち書きと言う。意味が正しく解釈されている。

 

  子へ出す絵葉書 雲海とび歩いたよ こんな  伊丹三樹彦 

 

この句は昭和四十七年の作品。口語で、しかも話し言葉で一句を表現すると言う事を成したもの。このことはこの当時、誰もしなかった。誰も出来なかった。それを実行すると俳壇から疎外されてしまうと言う現実があった。その頃、俳誌「青玄」はこれらの攻撃にもびくともしない態度であった。その主宰俳人が伊丹三樹彦であったのだ。

 この思考は三樹彦の「青玄前記」

現代の感情は現代の文体を欲する俳句も 亦

…によるものであった。

 いま改めてこの俳句現代派としてのその後の発展を思うにあたり大変な苦難の道を経て、いまがある事の系譜の重さを思う。もう一度この心を再考したくこの稿を書いた。